第三章 情理の調律⑧
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第八節 静寂の教会とディコード
夜の帳が下りたセラミア教国。
街灯の灯りがまばらに揺れ、通りを歩く人影もほとんど見えない。
アトラたちは、教会の裏手にある通用門の前に立っていた。普段は使われていない搬入用の裏口で、周囲には監視の目もなく、立ち入りを気にする者もいない。
ゼクトがしゃがみ込み、鍵の状態を確認する。錠は古く、表面に錆が浮いていたが、内部の構造はまだ機能している。
「鍵は古いが……まだ開くな」
低く呟いた彼は、道具を取り出し、音を立てないように慎重に差し込んでいく。ピックが内部のピンに触れ、わずかな感触で位置を探っていく。
数秒の静寂。カチリ――と小さな音がして、錠が外れた。
ゼクトが扉に手をかけ、ゆっくりと押し開く。蝶番がきしむのを避けるため、力を分散させながら、わずかな隙間だけ開けて中を確認する。
「……通れる。急げ」
アトラとトワがうなずき、3人は無言のまま教会内部へと滑り込んだ。
音もなく中へ入り、使われていない通路を進む。
壁の装飾は剥がれ、所々に埃が積もっていたが、構造そのものはまだしっかりと残っている。
誰の足音も聞こえず、照明も落ちたままの静かな空間。
教会の奥、かつて“祈りの祭壇”と呼ばれた神聖区域へと、3人は慎重に足を運んだ。
扉を抜けると、広間が開ける。そこは長らく人の手が入っていないはずなのに、不思議と空気が澄んでいた。
中心には石造りの祭壇があり、光源もないのに、淡く周囲が照らされているように感じられる。
そして――そこに、人影のようなものがいくつも見えた。
膝をつき、祈り続ける老婆。
幼子を抱えたまま、涙を浮かべる母親。
誰にも触れられず、何も語らず、ただそこにある幻影たち。
静かなはずの空間に、明らかに“生の気配”とは違う何かが、息づいていた。
アトラは、祭壇の上に視線を向けると、中央には、掌ほどの白い石が静かに置かれていた。
半透明の表面には、うっすらと複雑な紋様――コードのような刻印が浮かんでいる。
「……これ、グリフピース?」
トワが隣で小さく呟いた。
アトラはゆっくり頷く。かつて“きおく”のグリフを見つけたときと、似た反応が周囲の空間から感じ取れた。
祭壇の周囲では、なおも幻影たちが佇んでいる。
祈り続ける老婆。幼子を抱いた母親。失った誰かを探すようにきょろきょろと周囲を見渡す青年。
「……“まどい”のグリフが処理しきれずに、停滞したんだな」
ゼクトが眉をひそめる。「これ、誰かの記憶ってわけじゃねぇ。もっと……感情に近い」
「うん。たぶん、惑いとか後悔――強すぎた想いが、コードの処理に引っかかって、形になってる」
アトラの目は幻影の足元を見つめていた。そこから立ち上る光の粒――コードの断片が、絡まり合って留まり続けている。
「記録じゃなくて、“継続してる感情”なのね……」とトワが小さく呟いた。
アトラはそっと祭壇に近づく。
呼応するように、彼の周囲に淡い光の線が浮かび上がる。それはまるで、コードの断片が再構築されていくような流れだった。
「……ディコード」
ゆっくりと、手を前に掲げてその一言を紡ぐと、空気が震えた。
張り詰めたような沈黙が走り、幻影たちの姿が微かに揺らいだ。
次の瞬間、祭壇の上に漂っていた幻影が、静かに霧のように溶けていく。
祈り続ける老婆。幼子を抱いた母親。失った誰かを探すようにきょろきょろと周囲を見渡す青年全ての影が――穏やかに、確かに消えていった。
まどいのコードが正常に戻り、空間の歪みが鎮まっていくのを、全員が感じた。
その中心。
祭壇の上に、小さな光がぽつりと残る。
アトラが静かに手を差し伸べると、
光はふわりと宙に浮かび、彼の手の中へと吸い込まれるように収まった。
コードが淡く脈動する。
まどいのグリフピース――それは、アトラの中へと確かに統合された。
「……やったな」
ゼクトが小さく呟き、トワが無言で頷く。その目は、祭壇の先に残る余韻を見つめていた。
そのとき、わずかな気配が背後をかすめる。
アトラたちは同時に振り返った。
教会の入り口に立っていたのは、銀の瞳を持つ少女――エリシア。
そのすぐ後ろには、品のある身なりの女性と、威厳を纏った国王。そして、護衛の兵が二名。
数秒の静寂。
エリシアは、ゆっくりと歩みを進めながら口を開いた。
「……これは、いったい……?」
その声には、驚きと困惑、そしてわずかな恐れが混ざっていた。
アトラは一瞬だけトワと視線を交わすと、自然を装って祭壇の前から後ろに下がった。
「……少しだけ、祈ってたんだ」
そう言って、アトラはごく穏やかな声で応じる。
「こんな場所で?」と王妃が小さく首をかしげた。
「誰も使っていない場所だと聞いて……静かで、気配が残っていたから。手を合わせて、少しだけ」
ゼクトが脇から続けるように言う。
「不敬なつもりはねぇ。騒がず、静かにしてたつもりだったが……迷惑だったらすまねぇ」
王はアトラたちをじっと見つめたまま、何も言わない。
エリシアが数歩前に出て、視線を祭壇に向ける。
そこにはもう、光の粒も、幻影も残っていなかった。
「……不思議ですね。さっきまで、確かに……」
彼女の声はそこで止まり、言葉を選ぶように沈黙した。
代わりに、王妃が柔らかな声で続ける。
「この聖域は、誰も近づかないと聞いていましたのに。まさか、こんな夜更けに……」
アトラは微笑んで小さく頭を下げた。
「祈りに、時刻の定めはないと聞いています。――間違っていたなら、謝ります」
沈黙。
けれど、誰も“嘘だ”とは言わなかった。
やがて王が静かに息をつき、短く言った。
「……いいだろう。続きは明日、話を聞かせてもらおう」
それだけ言い残すと、王は護衛を従えて踵を返した。
王妃も一礼し、エリシアだけが少しだけ残る。
「アトラ様……また、あとで」
小さくそう囁いて、彼女もその場を後にした。
扉が閉まる音が響き、再び、静寂が落ちた。
ゼクトがぽつりと呟く。
「……バレてねぇ……よな?」
「わかんない。でも……少なくとも、今は」
アトラが息をつき、トワも小さく肩をすくめた。
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