第三章 情理の調律⑦
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第七節 影に潜むもの
夜の広場には、人影もほとんどなかった。
噴水の水音だけが、静かに耳に届く。まるで、街そのものが沈黙しているようだった。
アトラ、トワ、ゼクトの三人は、教会の外縁部にある石造りのベンチに腰を下ろしていた。
先ほど助けた女性の姿が、まだそれぞれの胸に残っている。言葉がなくとも、互いに感じ取っていた。
「……まだ、信じられないわ」
トワが小さな声で呟く。「あの人、あんなに必死で、手を伸ばして……」
「見えたんだろうな、本当に。死んだ夫の姿が」
ゼクトが腕を組みながら唸る。「普通じゃねぇよ」
アトラは答えず、噴水の水面を見つめていた。
揺れる光の向こうに、何かを探すような目で。
「ねぇ……」
トワが教会の尖塔に視線を向けながら言う。
「この国、どこか変よ。華やかで整ってるけど……その奥に、何か違和感がある」
アトラはしばらく黙ってから、静かに言った。
「“誰にも気づかれない人”や“祈ってばかりの男”――噂に出てくる存在が、本当に見えていたのなら……あの女性だけの話じゃないのかもしれない」
「今日の件も、感情や記憶が、実体化してるように見えた」
ゼクトが続ける。「そりゃ、まともじゃねぇ」
「……“まどい”のグリフ」
アトラが小さく呟いた。
「感情の乱れがコードに干渉して、幻影を現実に上書きしてる……そんなグリフが、この街で暴走してるとしたら」
「でも、どうして誰も止めようとしないの……?」
トワの声に、わずかな震えが混じっていた。
「わからない。でも、コードに異常が起きてるなら、必ず痕跡はある。それを探せば、原因も見えてくるはずだよ」
噴水の音が、静かな広場に沁み渡る。
その音は、妙に遠く、そして冷たく感じられた。
やがてトワがぽつりと漏らす。目の前の夜景を見つめながら。
「……昼間に見かけたの。道端の老婆や、じっと座ってる猫、祈る人影……誰も触れないし、誰も気に留めてなかった。たぶん、あれは現実じゃなかった」
アトラは頷いた。
「まどいのグリフの影響だと思う。幽霊なんかじゃない。――コードの歪みだ」
「市民は……気づいていないのか、それとも、気づかないふりか」
ゼクトが腕を組み、夜の街を睨むように見渡した。
その時だった。
「――おっしゃる通りです。あなた方は、気づいてしまったのですね」
背後から静かに届いた声に、三人は一斉に振り返った。
そこにはエリシアが立っていた。神官服を着たまま、銀の瞳が静かに彼らを見つめている。
「教団でも……“視えるもの”について話すことはあります。けれど皆、それを神の試練や心の弱さとして処理してきました。問題だと認めると、信仰が揺らぐから」
ゼクトが周囲に鋭い視線を走らせながら、低く呟いた。
「それが“まどい”のグリフなら、もはや放置できない。誰かの未練や迷いが、都市そのものを歪ませてる」
空気がひやりと揺れた気がした。風もないのに、何かがすぐ近くを通り過ぎたような錯覚。
エリシアが静かに口を開く。声は低く、どこか祈るようだった。
「……教会の奥。今は使われていない“聖域”があります。かつて“祈りの祭壇”が置かれていた場所。人々が救いと再会を願って、祈りを捧げていたといいます」
彼女は少し間を置き、言葉を選ぶように続けた。
「けれど、ある時から立ち入りは禁止され、記録も残されていません。誰も語らないまま、ただ閉ざされている空間……それが、あの場所です」
アトラは何気ないふりをしながら、トワとゼクトにちらりと目をやる。トワもわずかに頷き、ゼクトは腕を組んで視線をそらす。誰も言葉にはしないが、その沈黙の中で、ひとつの決意が交わされた。
「へえ……そんな場所があるんですね」とアトラが何でもないように応じる。
「ええ。お気をつけて。もし何か――気づいたことがあれば、知らせてください」
「……うん、大丈夫。宿で大人しくしてるよ。」と微笑むアトラに、エリシアは安心したように頷く。
彼女が立ち去った後、三人は視線を交わし、静かにうなずき合った。
夜になったら、こっそり教会の奥へ――
“まどい”の正体を、確かめに行くため。
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