第三章 情理の調律⑤
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第五節 記憶と涙
朝の陽が、セラミアの石畳を柔らかく照らしていた。
空は高く澄みわたり、白と金の装飾が施された建物の屋根が光を反射して、どこか幻想的な雰囲気を醸している。
アトラとトワは並んで街の商店街を歩いていた。小さな荷籠を提げながら、露店に並ぶ品々を一つずつ見て回っている。日用品の補充と、保存の利く食糧の買い出しが目的だった。
「乾燥肉、これだけあれば足りるかしら?……アトラ、あとは薬草系よね」
「うん。あと包帯も。ゼクトが『切り傷より先に捻挫するタイプ』って言ってたし」
「ふふ、言いそうね」
トワが微笑むと、アトラも小さく笑って頷く。二人の距離が、少しずつ自然に縮まっていた。
店先では、店主が声を張り上げて客を呼び込み、香辛料の香りが風に乗って漂ってくる。通りには小さな子どもたちの笑い声も混ざり、穏やかな朝の空気が広がっていた。
「ゼクトは……たしか“リーネに手紙を出してくる”って言ってたよね?」
「ええ。朝ごはんも食べずに飛び出していったわ」
「あの感じ……きっと、書くこといっぱいあったんだろうな。嬉しそうだったし」
「ふふっ。……可愛いところあるわよね、ゼクトって」
そう言いながらトワは、袋を持つアトラの手元にそっと手を伸ばして、荷物の一部を受け取った。
「……ありがと。もうちょっと重いの、持てるようにならなきゃな」
「無理しなくていいの。分担って、大事だから」
やわらかな笑みが自然にこぼれる。
旅が始まって、まだほんの数日。けれど確かに、三人の距離には少しずつ“温度”が生まれていた。
アトラは小さく息を吸って、空を見上げた。
澄んだ青空に、雲がひとつ流れていく。陽の光はあたたかく、どこまでも平和そのものだった。
(……静かだな)
そんな空気に包まれながら、ふと視線を前へ戻すと、石畳の先に何かが目についた。
「ずいぶん、きれいに掃除されてるね……」
隣でトワがつぶやく。視線の先にいたのは、通りの端に腰を下ろし、ゆっくりと箒を動かしている老婆だった。
その姿は、どこか印象的だった。
年季の入った服。布の端はすり切れ、靴底も削れている。持っている箒もかなり古く、柄の部分は艶が出るほどに手に馴染んでいた。
「……あんなに一生懸命なのに、道はまだ全然きれいじゃない」
トワが静かに言う。
たしかに、道にはまだ細かい砂や落ち葉が散っていて、清掃が終わっているようには見えなかった。
それでも、老婆の動きは止まらない。何度も何度も、丁寧に、箒の筋を引いていく。
アトラは言葉を返さず、ただ老婆の背中を目で追い続けていた。
その背に漂うもの——何かを刻むように、何かを祈るように——彼の胸に、静かに何かが残った。
(理由が……あるのかな)
胸の奥に、小さなひっかかりが生まれていた。
***
買い物を終えて、ふたりは静かに宿への帰路を歩いていた。
白い石畳を踏みしめながら、街の中心部を抜けるように、公園のような広場を横切っていく。
あたたかい風が、木々の葉を優しく揺らしていた。
そのとき――
「……」
トワがふと足を止めた。アトラも思わず歩を緩める。
彼女の視線の先には、ベンチに腰かける親子の姿があった。
小さな男の子が笑顔で手を振り、母親が優しくその手を振り返している。
声は聞こえないのに、幸せそうな雰囲気がこちらまで伝わってくる、何気ないやり取りだった。
「……あんなふうに、笑ってたな……昔の私も」
ぽつりと漏らしたその声は、風に溶けるようにか細かった。
アトラが隣に目を向けると、トワの表情が、ゆっくりと、静かに崩れていくのが見えた。
まるで、そこに自分がいるかのように。
重なるのは、かつての自分と育ての親の記憶。
「どうしたの?」と問いかけるより早く、トワの瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「……わかんないの……でも……涙が、止まらないの……」
声が震えていた。
泣き声ではなく、抑えようとしても溢れ出るような、深い感情の滲んだ言葉。
アトラは一瞬、戸惑った。
けれど、ためらいのあとで、アトラはそっと彼女の肩に手を置いた。
そして、何も言わずに、静かにその頭を撫でる。
その仕草は、慰めというよりも、ただ“ここにいる”ということを伝える、ささやかで確かな温もりだった。
その瞬間――
アトラの手元で、かすかに光が揺れた。
ごく微弱なコードの脈動。
意識したわけではない。ただの自然な動作に反応するように、腰にある“きおく”のグリフが呼応していた。
アトラの中に宿る“思いやり”の記憶――
誰かを大切に思い、手を差し伸べる気持ち。
そして今、この瞬間にあるのは、目の前のトワを心から大切に思う気持ちだった。
その柔らかな記憶が、コードとして形を持ち、トワの胸の奥へと静かに流れ込んでいく。
ほんの一瞬の出来事だった。けれどそれは、彼女の心に静かな灯をともすには十分だった。
「……アトラ……」
トワは、震える指先で目元を拭い、そっと彼を見上げる。
その瞳には、涙だけではない、別の光が宿っていた。
胸の奥が、じんわりと温かい。
どこか懐かしくて、けれど初めて感じるような――優しさに包まれる感覚。
(……この人は、私のことを……)
ただ守ってくれる人じゃない。
ただ優しい人じゃない。
その存在が、彼女にとって“特別”なものへと変わっていくのを、トワは確かに感じていた。
「ありがとう……」
そう呟いた声は、ごく小さくて――でも、深くて真っ直ぐだった。
アトラはというと、トワの反応に少し驚いたように瞬きをしたあと、照れくさそうに小さく笑った。
「……あれ、今……光ったような……」
腰のグリフピースに手を添えながら、アトラは不思議そうに呟く。
グリフの脈動には気づいている。けれど、それが“自分の思いやりが記憶として伝わった”とは、まだ本人も気づいていない。ただの反応だと思っているようだった。
そんな彼の無邪気な仕草が、トワにはむしろ、たまらなく愛おしく映った。
胸の奥にじんわりと広がっていくあたたかさを感じながら、彼女はそっと顔を上げる。
涙を拭いながら、トワは彼を見つめた。
その目は、すでにただの仲間を見るものではなかった。
(……ああ、もう……)
アトラは気づいていない。けれど、トワは確信していた。
この人に触れられると、自分の中の何かが優しくほどけていく――そんな気がした。
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