第三章 情理の調律③
第三節 銀の瞳
白と金の装飾が施された建物が、通りの両側に整然と並ぶ。整えられた石畳には一輪の花も落ちていない。清潔で穏やかな空気が街を満たし、人々は静かに談笑しながら歩いていた。衛兵の姿もあちこちに見えるが、その表情には張り詰めた緊張ではなく、どこか人の温かみを残した落ち着きがあった。
街路の角を曲がれば、露店から香辛料の香りが漂い、子どもたちの笑い声が路地裏に響く。
咲き誇る花々が風に揺れ、その彩りはこの街の平和と繁栄を静かに物語っていた。
そんな活気に満ちた風景の中、アトラたちは都市の北門を抜け、静かに足を踏み入れていた。
アトラは目を細め、街をゆっくりと見渡した。
「とりあえず、宿を確保しようか」
トワとゼクトが頷き、三人は街の奥へと歩を進めた。
その道すがら、ゼクトがふと口を開く。
「そういえば、資金のことは心配いらねえぞ。ちょっとした準備はしてある」
アトラが小さく首を傾げると、彼はにやりと笑いながら、腰のポーチから小さな帳面を取り出して見せた。
「ノルディアで“頂いて”きた貴族どもの装飾品な。セラミアに入る前に、信用できる商人経由で換金しておいた。ここに取引の証文もある」
帳面に記されていたのは、複数の装飾品と引き換えに受け取った金額と、換金先の名。ゼクトはそのあたりも抜かりなく、足がつかないようなルートをきちんと選んでいた。
「こういうのは、まとめて売ると目立つからな。少しずつ、場所も変えて処理した。手間はかかったが、見返りは悪くない」
その手際の良さに、アトラは思わず苦笑を漏らす。
「……本当に、抜け目がないね」
「戦場を渡り歩くには、知恵も要るのさ。真っ当にばかり生きてたら、食えなくなることもある」
結果、彼らの手元には、しばらく資金に困らないだけの金が残った。ここセラミアでも、十分に通用する額だった。
宿は街の西端、木造と白石の三階建ての建物だった。受付の女性はにこやかで、案内も丁寧だった。
「三部屋ですね。こちらの鍵をどうぞ。朝食は広間でお出ししております」
鍵を受け取ったアトラが礼を言うと、ゼクトは小さく肩をすくめた。
「ノルディアとは大違いだな……あんな地獄が、すぐ隣にあったなんて」
「でも……この国にも、何かあるかもしれないよ」
アトラの言葉に、ゼクトはふと目を細める。言葉にはせずとも、彼もまたそれを感じていた。
部屋はどれも清潔で、備品も整っていた。窓からは街の中心にある聖堂が見える。
そして――一匹の猫がいた。
白と灰色のまだら模様。すでに何匹もの客と過ごしてきたのだろうか、人を恐れる様子もなく、静かにアトラたちを見上げていた。
「……猫だ」
トワがそう呟くと、ゼクトはくすりと笑った。
「勝手に住み着いてるらしい。宿の主が言ってた。気まぐれで出ていくこともあるが、いざという時は部屋の前に座ってるんだとさ。まるで、誰かを待ってるみたいにな」
アトラは膝を折り、猫と目線を合わせた。
猫は返事をするように、目を細めて一度だけ瞬きを返した。
猫にそっと手を伸ばすこともなく、アトラは静かに立ち上がった。
その視線の先で、猫はしばらく彼を見上げていたが、やがて小さく喉を鳴らし、窓際へと歩いていった。
──その夜。
宿の広間は、柔らかな灯りに包まれていた。
揺れるランプの光が木の柱を照らし、暖かい空気とともに、食事の香りが広がっている。
アトラたちは一つのテーブルを囲んでいた。並べられたのは焼きたてのパンに濃厚なスープ、香草を添えた鶏肉のロースト。旅の疲れを癒すには、十分すぎる献立だった。
「……このスープ、うまいな。やっぱり、ちゃんとした街は違う」
ゼクトが椀を傾けながら、満足げに吐息を漏らす。その手元には焼き立てのパンと、たっぷりと具の詰まった温かなスープ。
トワが笑いながら相槌を打った。「ノルディアじゃ塩すら贅沢だったものね。……こういう普通のご飯が、一番ありがたく感じるわ」
アトラもパンを手に取り、ほっと息をついた。口に運ぶと、小麦のやさしい甘みとスープの香草が混ざり合い、思わず目を細める。
「うん……本当に、ありがたいね」
その言葉には、満腹以上の意味が込められていた。
食事とは、ただ空腹を満たすためだけのものではない。安心と、平和と、命が続いていくという感覚を、ささやかに教えてくれるもの。
久しぶりに“普通”でいられる時間が、静かに胸を満たしていく。
そんな中、トワが少しだけ声のトーンを落とし、アトラの方に身を寄せた。
「そういえば、昼間……巨石のそばで、ふらっとしてたわよね。……本当に大丈夫だった?」
その声には、からかいよりも心からの心配がにじんでいた。
アトラは少し驚いたように瞬きをしてから、微笑みを返す。
「うん、大丈夫。ちょっと集中してたら、足元が見えなくなっちゃって」
「……ああもう、そういうところよ」
トワは呆れたように言いながらも、その目はどこかやさしくて。アトラの顔に何か異変がないか、そっと視線で確かめるようだった。
その空気を感じ取ったゼクトが、小さく笑ってフォークを置いた。
「気を張りすぎて倒れでもしたら、こっちが困るからな」
アトラは「気をつけるよ」と笑って応えた。
こうして食卓を囲み、誰かと他愛のないやりとりを交わす時間が、どれほど貴重で、どれほど愛おしいものか。今になってようやく、少しずつ実感としてわかる気がする。
談笑の余韻が残る中、アトラがふと視線を巡らせたとき――
少し離れた席に、ひときわ目を引く人物がいた。
テーブルの向こう側。神官服に身を包んだ若い女性がひとり、静かに祈りを捧げてから、スプーンを手にしていた。
金色の髪を後ろで結い、銀の瞳を湛えたその姿は、どこか神秘的な気配をまとっている。
「……あれって」
アトラがそっと目線を向けると、ゼクトも同じ方向を見て、低く頷いた。
「ああ。セラミア教団の神官……たぶん、上層の人間だろうな」
ゼクトの言葉に、アトラは小さく頷いた。
そのときだった。
ふと視線が交わる。
神官の女性――エリシアの銀の瞳が、まっすぐにアトラを捉えていた。
その視線には戸惑いも迷いもなく、むしろ、確信のような静けさが宿っている。
アトラがわずかに身じろぎした瞬間、
彼女は椅子から立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩を進めてきた。
礼儀正しい所作のまま、誰にも気圧されることなく、静かに、だが迷いなく。
「……失礼いたします」
その声は穏やかで、澄んだ鈴の音のようだった。
「あなたたち、北門からいらした旅の方ですよね?」
その口調は丁寧だが、声には芯があった。アトラが立ち上がり、軽く会釈を返す。
「ええ、そうですが……なにか?」
「少しだけ、お話をしても?」
エリシアの視線は穏やかだが、どこか探るようでもあった。トワとゼクトが黙ってアトラを見た。アトラは一度頷くと、椅子を引いて彼女に座るよう促す。
「……実は、先ほど話を耳にしたんです。“北の巨石”を見たと」
「……ああ。ええ、偶然ですけど」
「驚きました。あの場所は……幽霊が出る、と地元では有名でして。誰も近寄らないんです。近づいたという話を聞いたのは、久しぶりで……」
「幽霊、ですか?」
ゼクトが眉をひそめると、エリシアは小さく笑った。
「ええ。“誰かの声が聞こえる”“姿が見える”という噂もあります。教団では、聖域の名残だと考えられていて……ですが実際のところ、はっきりした記録は残っていないんです」
アトラはその言葉にふと、グリフピースを通じて見た記憶と、漂っていた数々の“記憶の断片”を思い返す。
アトラはスプーンを置き、小さく息を吐いて言葉を継いだ。
「やっぱり……あそこは、ただの巨石じゃないと思います」
その声音には、迷いと確信が混じっていた。
エリシアがそっと目を向ける。その銀の瞳が、わずかに揺れる。
「……理由を、聞いても?」
アトラは少しだけ視線を伏せる。
「説明は難しいんですが……近くに立ったとき、空気が変わったような感覚があって。まるで、何かに“触れられた”ような……そんな、不思議な感覚でした」
――けれど、本当はそれだけじゃなかった。
あの瞬間、頭に流れ込んできた幾つもの記憶の断片。誰かの人生、誰かの涙、そして――あの深淵から響くような意志の声。
アトラはそれを、まだ誰にも話していなかった。
言葉にすれば、何かが変わってしまう気がした。
今はただ、自分の中に留めておくべきだと、そう思えた。
彼の沈黙の裏側を知ることなく、エリシアは手元の器を見つめたまま、小さく呟いた。
「……やはり、何か感じたのですね」
そして静かに、視線を戻す。
銀の瞳が、すっと見開かれる。
「今夜の祈りの後、教団に報告してみます。あの場所が何なのか……私たちも、本当の意味で知るべき時なのかもしれませんね」
アトラは軽く頷いた。
けれどその胸の奥には、言葉にできない記憶の波が、静かに揺れ続けていた。
(まだ……話すべきじゃない)
そう思いながらも、エリシアの真摯な眼差しに、少しだけ目を伏せる。
その沈黙を、柔らかな声がそっと破った。
「……教団の方なんですよね?」
トワだった。問いかけは穏やかで、どこか礼を尽くすような響きを帯びていた。
エリシアは微笑みながら頷く。
「はい。わたくしはセラミア教団に仕える神官、エリシアと申します」
その名乗りに、アトラも自然と口元を綻ばせた。
「僕はアトラ。こちらはゼクト、そして……トワ」
二人の方へと手を向けると、ゼクトが軽く会釈し、トワも控えめに微笑む。
「ご縁に、感謝いたします」
エリシアは丁寧に一礼し、銀の瞳を穏やかに細めた。
「きっと……また、どこかでお会いできるような気がいたします。もしその時が来たら、今夜のように、穏やかな場所であれば良いのですが」
場の空気を乱さぬように、静かに言葉を紡ぐと、彼女は手元の器を整え、席を立った。
「本日は、ご一緒できて嬉しかったです。失礼いたしますね」
椅子の音を立てぬよう配慮しながら、エリシアは背筋を伸ばしてその場を後にする。
その後ろ姿を、三人はしばし無言で見送っていた。
どこか、忘れがたい余韻を残して。
銀の瞳が揺れていた。確かに、あの巨石に宿る何かが、彼女の中にも“波紋”を生んでいたのだ。




