第3章 鏡の中の他人
次の朝、私は鏡を直視できなかった。
顔を洗い、タオルで水気を拭いながら、目の端で洗面所の鏡を見たとき、何かがおかしいと感じた。
私が見ている“私”が、ほんの一瞬だけ、瞬きをしなかったのだ。
——いや、それは気のせいだったのかもしれない。寝不足で、脳がうまく働いていなかっただけかもしれない。
けれどその日から、鏡が苦手になった。
雨はやんでいた。
けれど、不思議と“声”が耳の奥から抜けていかない。
微かに残る、ぬめるような囁きが、私の思考の後ろで静かに息をしている。
《——もうすこし。すぐ、そこまで——》
まるで、身体の内側にもうひとつ誰かが住み始めているような、そんな気味の悪さ。
その週、私はふたつのことに気づいた。
一つ目。部屋の中で、時計が少しずつずれていく。
スマホや電子レンジの時刻が、なぜかそれぞれ微妙に違っている。秒単位ではなく、分単位で。
最初は気づかないレベルだった。けれどある日、目覚ましの音が鳴る10分前に、玄関のチャイムが鳴った。
覗き穴を見たが、誰もいなかった。
二つ目。クローゼットの奥の壁に、新しい傷ができていた。
まるで内側から爪で引っかいたような、薄く長い引っかき傷が数本、クロスを破って露出していた。
私はクローゼットに入る物を取り出すたび、その傷を見て、背中に冷たいものが流れるのを感じていた。
夜。再び、雨が降る。
鏡の前で髪を乾かしていたとき、私はあることに気づいた。
——鏡の中の私は、私を見ていなかった。
ドライヤーの音が耳を打つなか、私は鏡の中の“自分”が、鏡の奥を見ていることに気づいた。
視線が、私の目とまっすぐ合っていない。
その“私は”、洗面所の奥の、暗がりの壁の先をじっと見つめていた。
私はドライヤーを落とした。乾いた音と同時に、バチ、と火花が弾ける。
部屋の電気が一瞬、チカッと明滅した。
その瞬間、鏡の中の“私は”——微笑んでいた。
私は、笑ってなどいなかった。確実に。
でも、鏡の中のその顔は、うっすらと、皮膚の奥から浮かび上がるような笑みを湛えていたのだ。
「……だれ……?」
呟いた瞬間、部屋のどこかで「カチ」とレコーダーのスイッチが入る音がした。
寝室に戻ると、レコーダーが再生を始めていた。
——また、私の声だった。
《鏡のなかのわたし、そっちのほうが落ち着くよね。わかるよ》
《外側のわたしは借りもの。ほんとうのわたしは……ここにいるの》
私はテープを引き抜いた。けれど、止まらない。
録音はされていないはずのカセットから、なおも声は流れ続けていた。
その晩、私は洗面所の鏡に布をかけた。
見えないようにするだけで、何かから守られている気がした。
でも、鏡の裏には、誰かが書き残したような古い文字が浮き出ていた。
「わたしは、おまえじゃない」
私は、自分の姿を見失いはじめていた。