第2章 見えない記録
それからというもの、私は眠れなくなった。
夜が近づくにつれ、体が強張っていく。部屋の隅に置かれたカセットレコーダーを横目で見ながら、心のどこかで“また来る”と確信している。
声は、雨の日だけやってくる。
だが今夜は、まだ雨は降っていない。
——それでも、耳の奥がかすかに疼く。
昼間のうちに何度もラベルを見返した。間違いない。
あのテープには、私がまだこの部屋に住んでいない頃の日付が書かれていた。
誰がそんなものを、なぜ残していったのか。しかも私の声で。
答えが出るはずもない問いを頭の中で繰り返しながら、私は思い出していた。
この部屋に越してきた初日、壁に釘穴がいくつか残っていたこと。クローゼットの中に古い香水のにおいが残っていたこと。そして、最初の夜、天井のどこかで小さく“きいっ”と軋むような音がしていたこと。
誰かがここにいた。
そして、その誰かは今も完全には——いなくなっていない気がした。
翌日、私は午後の休憩を使って、近くの図書館に向かった。
端末で“2号室”“事故”“事件”といったキーワードを打ち込むが、何も出てこない。
地元新聞の縮刷版をめくっても、それらしい記事はなかった。
ふと、図書館の掲示板に目が止まる。
「地域史料室:旧市街地の地図・入居記録・年報など取扱」
小さな案内だった。私は半ば衝動的に、そちらへ向かった。
地域史料室は、別館の地下にあった。
職員の人に話すと、やや驚いた顔をしながらも入室許可をくれた。
木のにおいのする棚に囲まれた小さな部屋。私一人だけの空間だった。
——変な気配がした。
部屋に誰もいないのに、背後から見られているような感覚。
私はそれを振り払うように、資料をめくる手を早めた。
10年前の“入居記録”を見つけた時、私は息を呑んだ。
2号室に、一人の女性の名前が記されている。
記録はたった3ヶ月。契約終了の欄には、赤いインクで「解消」の文字が走っていた。
それだけではよくある話だ。けれど、解消の理由の欄には、誰かが書いた走り書きのような記録が残っていた。
「本人行方不明、連絡つかず、残置物多数」
行方不明——。
私はその名を、記憶の中で繰り返す。どこかで聞いたような気もするが、思い出せない。
そして胸の奥が、じくじくと痛んだ。
その夜、雨が降った。
——最初の一滴が屋根に当たった瞬間、頭の中でスイッチが入ったようだった。
レコーダーが、何もしていないのに「カチ」と音を立てる。
電源は入っていなかったはずだ。私は慌てて近づき、止めようと手を伸ばした。
しかしレコーダーは、もう“再生”を始めていた。
《……戻ってきたね……でも、ここはまだ……ひらいていない……》
あの声。けれど、前よりも、明瞭になっている。
それは、耳の中ではなく、確かにこの部屋の「中」から聞こえてきた。
私は録音テープを確認する。
再生されているテープには——また、私の声が記録されていた。
しかも今回は、何を話しているのか、明瞭に言葉が聞き取れる。
《だいじょうぶ。私が案内する……この部屋の裏側まで……》
「……は?」
私は震える指でテープを巻き戻し、もう一度再生する。
やはり同じだった。これは夢でも幻聴でもない。本当に再生されている。
だが、私はこんな言葉を録音した覚えは一度もない。
何度も、何度も繰り返して確かめても、それは確かに**“私の知らない私の声”**だった。
私は、ラベルの裏にもうひとつ文字が書かれているのを見つけた。
それは鉛筆で、薄くなっていたが、こう読めた。
「聞いたら、戻れない」
私はその夜、眠れなかった。
なぜか、クローゼットの扉の隙間が、いつもより“広く見える”気がして、目を逸らせなかったからだ。