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雨音の記録  作者:
2/6

第1章 録音できない声

 午前五時。空はまだ深く曇っている。窓の外には、濡れたアスファルトが青白く鈍く光っているだけで、人の気配はない。


 目覚ましが鳴る前に、私は目を覚ましてしまっていた。

 というより、眠れなかったのだ。例の“声”が、また昨夜も囁いていたから。


 《……ひらけ……ここにいる……》


 言葉の意味は不明だった。ただ、前より少しだけ、はっきり聞こえた気がする。それが、怖かった。


 私はソファから立ち上がり、台所でインスタントの紅茶を淹れる。アパートのキッチンは狭く、背を向けるだけで電子レンジと冷蔵庫に手が届く。


 引っ越してきて、三ヶ月。この街は静かで、空気もいい。コンビニと駅が近くにあるだけで、ほかに目立ったものはない。でも、今の私にはそれがちょうど良かった。


 疲れていたのかもしれない。あの頃は何もかもを手放して、ここでようやく一息つけたと思っていた。


 ——なのに、また“それ”が来た。


 「……録ってみるか」


 私は再び、あのカセットレコーダーを取り出す。埃を軽く払い、昨日買ってきた新しいテープを差し込んだ。古びた赤い「REC」ボタンを押す。


 雨はまだ残っている。トタン屋根に細かい粒が絶え間なく落ちていた。


 耳を澄ます。テレビも、スマホも、すべての音を消して、じっと“声”を待つ。


 《……もうすぐ、ここが、ひらく……》


 声は確かに、すぐ近くにいた。


 ——誰? ここって、どこ? ひらくって何が?


 私は録音を止め、深呼吸をして、ゆっくりと再生ボタンを押す。


 ……無音。

 何度再生しても、聞こえるのは私の吐息と、雨音だけ。


 「……やっぱり録れない……」


 レコーダーを見つめながら、頭の中にいくつかの疑問が渦を巻いていた。


 この声は、本当に私だけに聞こえているのか?

 それとも、私の頭の中だけのもの?

 でも、私は「精神的な病気」とは無縁の人間だった。会社での健康診断も問題なかった。ストレスは……あるけど、誰にだってある程度のものだ。


 そう、これは“異常”なんかじゃない。


 ただ——異質、なだけだ。


 気を紛らわそうと、私はスマホを手に取り、録音アプリを開いてもう一度試してみる。部屋の片隅にスマホを置き、静かに目を閉じる。


 《……こたえろ……こたえて……君は、どこ……》


 ——録れてるかも。


 わずかに期待して、再生ボタンをタップする。

 しかしそこにも、声はなかった。雨音と、私の静かな呼吸だけが淡々と流れてくる。


 落胆してスマホを伏せた時、私はふと違和感に気づいた。


 今、録音を再生していたのは、スマホではない。

 机の上に置いてあったはずのレコーダーが、勝手に再生を始めていた。


 そんな操作はしていない。テープはさっき巻き戻したままのはずだった。


 ——なのに。


 そこから流れてきたのは、私の声だった。


 《……見つけた……ようやく、君を……ずっと待ってたの……》


 それは、昨夜録音していないはずの声だった。しかも、言っている内容は私の知るどの言葉でもない。


 言い回しが私らしくない。声のトーンも、微妙に低く、抑揚がない。それでも、それは“私の声”だった。


 「……私、こんなの……言ったっけ?」


 私はテープを取り出し、改めて確認する。

 このテープは新品だった。傷も汚れもない。しかも、その声が録音されている部分だけ、時間の記録が狂っていた。


 午前3時13分。

 その時間、私は眠っていた。夢の中で、何か話していただろうか?


 震えが指先にまで広がる。

 まるで、誰かに録られたような感覚。けれど、部屋には私しかいない。録音機器を操作した記憶もない。


 そして私は、レコーダーの裏側に貼られた古いラベルに、ようやく気がついた。


 ラベルには、殴り書きのような細い文字で、こう記されていた。


 『2号室 3/26 夜』


 「……それ、私の部屋番号……」


 不意に背中がひやりとした。心臓が一拍、遅れて脈打つ。


 そして、記されていたその日付は、引っ越してくる“前”の日だった。

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