第1章 録音できない声
午前五時。空はまだ深く曇っている。窓の外には、濡れたアスファルトが青白く鈍く光っているだけで、人の気配はない。
目覚ましが鳴る前に、私は目を覚ましてしまっていた。
というより、眠れなかったのだ。例の“声”が、また昨夜も囁いていたから。
《……ひらけ……ここにいる……》
言葉の意味は不明だった。ただ、前より少しだけ、はっきり聞こえた気がする。それが、怖かった。
私はソファから立ち上がり、台所でインスタントの紅茶を淹れる。アパートのキッチンは狭く、背を向けるだけで電子レンジと冷蔵庫に手が届く。
引っ越してきて、三ヶ月。この街は静かで、空気もいい。コンビニと駅が近くにあるだけで、ほかに目立ったものはない。でも、今の私にはそれがちょうど良かった。
疲れていたのかもしれない。あの頃は何もかもを手放して、ここでようやく一息つけたと思っていた。
——なのに、また“それ”が来た。
「……録ってみるか」
私は再び、あのカセットレコーダーを取り出す。埃を軽く払い、昨日買ってきた新しいテープを差し込んだ。古びた赤い「REC」ボタンを押す。
雨はまだ残っている。トタン屋根に細かい粒が絶え間なく落ちていた。
耳を澄ます。テレビも、スマホも、すべての音を消して、じっと“声”を待つ。
《……もうすぐ、ここが、ひらく……》
声は確かに、すぐ近くにいた。
——誰? ここって、どこ? ひらくって何が?
私は録音を止め、深呼吸をして、ゆっくりと再生ボタンを押す。
……無音。
何度再生しても、聞こえるのは私の吐息と、雨音だけ。
「……やっぱり録れない……」
レコーダーを見つめながら、頭の中にいくつかの疑問が渦を巻いていた。
この声は、本当に私だけに聞こえているのか?
それとも、私の頭の中だけのもの?
でも、私は「精神的な病気」とは無縁の人間だった。会社での健康診断も問題なかった。ストレスは……あるけど、誰にだってある程度のものだ。
そう、これは“異常”なんかじゃない。
ただ——異質、なだけだ。
気を紛らわそうと、私はスマホを手に取り、録音アプリを開いてもう一度試してみる。部屋の片隅にスマホを置き、静かに目を閉じる。
《……こたえろ……こたえて……君は、どこ……》
——録れてるかも。
わずかに期待して、再生ボタンをタップする。
しかしそこにも、声はなかった。雨音と、私の静かな呼吸だけが淡々と流れてくる。
落胆してスマホを伏せた時、私はふと違和感に気づいた。
今、録音を再生していたのは、スマホではない。
机の上に置いてあったはずのレコーダーが、勝手に再生を始めていた。
そんな操作はしていない。テープはさっき巻き戻したままのはずだった。
——なのに。
そこから流れてきたのは、私の声だった。
《……見つけた……ようやく、君を……ずっと待ってたの……》
それは、昨夜録音していないはずの声だった。しかも、言っている内容は私の知るどの言葉でもない。
言い回しが私らしくない。声のトーンも、微妙に低く、抑揚がない。それでも、それは“私の声”だった。
「……私、こんなの……言ったっけ?」
私はテープを取り出し、改めて確認する。
このテープは新品だった。傷も汚れもない。しかも、その声が録音されている部分だけ、時間の記録が狂っていた。
午前3時13分。
その時間、私は眠っていた。夢の中で、何か話していただろうか?
震えが指先にまで広がる。
まるで、誰かに録られたような感覚。けれど、部屋には私しかいない。録音機器を操作した記憶もない。
そして私は、レコーダーの裏側に貼られた古いラベルに、ようやく気がついた。
ラベルには、殴り書きのような細い文字で、こう記されていた。
『2号室 3/26 夜』
「……それ、私の部屋番号……」
不意に背中がひやりとした。心臓が一拍、遅れて脈打つ。
そして、記されていたその日付は、引っ越してくる“前”の日だった。