唐突な〇〇〇さま
「痛ぇなこら」
何が起きたのかとアインは目だけを動かして周囲を探るが、疑問に対する答えは見つからない。
天井も床も壁もなく、ただ灰色の空間が広がるだけのそこに、一人の女性がアインと対峙する形で立っている。
褐色の素肌の上に男性物のスーツを羽織り、全く癖のないストレートな黒髪を床につくほどに伸ばし、整ってはいるものの凶悪な雰囲気を漂わせた顔立ちの中、燃えるように紅い瞳と額に描かれた同じく紅い縦長の瞳の模様が妙に目をひく。
「珍しくこっちにちょっかいをかけてくる奴がいるなと思って見に来てみりゃ、出会い頭に一発入れてくるたぁどういう了見だおい? てめぇ、自分が何をしたか分かってんのか?」
そう言い放って女性は、アインの目の前へ右の人差し指を突きつけてくる。
その指の腹にほんの少しだけ。
たとえるならば、新品の本のページに指を走らせていたら、ちょっとした間違いで指を切ってしまったというくらいの切り傷が生じているのが見えた。
深さもせいぜい皮一枚と言った程度で、血も滲んでいないそれを見せられたところでどう反応すればいいのやらと思うアインへ、女性は喚く。
「オレ様の珠の肌に傷つけやがって! その罪は万死に値すんぞ!」
無茶なことを言うと言い返したいアインなのだが、体が全く動かない。
当然、口も動かなければ言葉を発することもできなかった。
そもそもアインは強大な力を持つ魔王であり、女性の細い指先にさらにそれよりも小さい傷を作ることは逆に難しい。
指を切り落とせとか、腕ごと切り落とせと言われた方がずっと楽なのだ。
「おい、聞こえてんのか? 何とか言えやこら。まさかしゃべれねぇ程度の雑魚かよおい」
雑魚呼ばわりされるのは、何年ぶりだろうかとアインは考える。
魔王をやる前にはよく言われていたような気もするが、魔王になってからはとんと聞いていない呼ばれ方だ。
もっとも自分が指一本動かせない状況で軽々と動き、悪態までつく目の前の女性からすると、確かに自分は雑魚なのかもしれないと思うことは、アインにとっては新鮮な体験であった。
しかしそうなると、その女性の指先に自分はどうやって傷をつけたというのか。
それを考えたアインはふと気が付く。
自分が何かの気配を感じ、とっさに放った「断界」の魔術はどうなったのかと。
まさかそんなはずはと思いながら目を向けてくるアインへ、女性は険しい目を向けながら鋭く舌打ちする。
「ちっとは面白いことが起きたのかと思いきや、全くつまんねぇ話だ。それでもまぁオレ様の眷属を一匹ヤってくれやがった落とし前はつけてもらわねぇとな」
その言葉を聞いて、アインは即座に目の前の女性を敵だと認識する。
アインが一匹やったものと言えば、直近ではドラゴンモドキくらいしかいない。
つまりこの女性はあのドラゴンモドキの関係者。
おそらくは飼い主か何かだ。
ならば女性の言う、アインに取らせる落とし前とは、アインにとっては確実にろくでもないことに違いない。
そう考えたアインは即座に魔術の術式を構築。
呪文を唱えることはできないし、魔力も二発もの断界を放った直後でまるで足りない状態ではあったのだが、何もしないままに女性の言う落とし前とやらをつけられるわけにもいかない。
無駄かもしれないが、せめて一撃くらいは食らわしてやると力を溜めるアインを女性は鼻で笑った。
「悪あがきなんぞ無駄だ。てめぇとオレ様とじゃ天地程の力の差がある。そんなことも理解できねぇ頭なら……特にはいらねぇな?」
するりと間合いを詰められて、女性の両手がアインの頬に添えられる。
首を引き抜くつもりかと、アインは相変わらず動けないままに近づいてくる三つの瞳めがけて自分の人生で最後の一撃になるであろう魔術を放とうとした。
「あれ?」
そんなアインの一撃は、放たれる前に理由も分からないままに霧散してしまう。
まさかそこまで力の差があるのかと、呆然としかけたアインの目の前では両手でアインの頬を包み込んだ女性が、驚いた顔をしながらアインの頬をこねくりつつ近距離から見つめてきている。
「え? あれ? ちょっとお前……いやいやまてまて。だってあれは確か……今から数えると三千年前? いや五千年前だっけな?」
「何を言って……」
不思議と声が出た。
そのことに驚くアインはさらに言葉を続けようとしたのだが、女性が早口にそれをさえぎる。
「黙れ。何も聞くんじゃね……じゃなくて、何も聞かないで……」
言葉遣いと共に女性の印象ががらりと変わった。
それまではただ乱暴でガサツでいい加減な感じだったというのに、少し丁寧なしゃべり方になっただけで、しっとりとした雰囲気に加えて清楚な感じまで何故か滲み出てきている。
自分は一体何を相手にしているのだろうかと困惑するアインだったが、困惑しているのは相手方もそのようであった。
「何故今ここで? 誰が窓を開けやが……開けたというの? こいつ……じゃなくてこの子の現在地って……え? ここどこ?」
「えーと?」
「何も聞かないでと申し上げました。眷属のことも指の傷のことも不問とします。ですから質問は無しの方向で」
「急に出てきてそれはないんじゃないか?」
「それはこちらの台詞です。あの辺りだと……あ、あれか! あれを見つけた奴がいやがんのか! そいつは気の毒になぁ……でもこいつは?」
一人で勝手に納得しないで欲しいと口を開きかけたアインに、女性は正面からアインの目を見据えて告げる。
「忠告します。貴方が追いかけようとしているものについては、諦めなさい」
「何だと?」
「追っても無駄です。はっきり言いましょう。全て徒労に終わります。何の意味も生みません。止めておきなさい」
そこまではっきりと断言した女性が忌々し気に顔をゆがめる。
「これだけ言っても変化なし? 誰に似たんだか……もう時間切れです。次に貴方と会うのは……おや?」
「なんだよ」
「貴方の結婚式でのブーケトスの時のようですが、近々ご予定がおありで?」
知るかと答えるつもりで口を開きかけたアインだったが、言葉が形になる前に唐突に意識が暗転する。
完全に意識を失う前にアインが耳にしたのは、忌々し気でありながらどこか楽し気な女性の笑い声であった。




