7.私には私の未来があるから
夢のような婚礼から、一か月ほど経ったある日。私はワルターと共に、のんびりとくつろいでいた。二人並んで長椅子に座って、肩を寄せ合って。
「ああ……幸せです、ケイトリン。こうして、貴女と心ゆくまで一緒にいられるなんて」
うっとりした声でささやくワルターに、苦笑で答える。
「ワルターったら、ずっとそればかりね」
「七年間、この時をずっと夢見ていましたから。いや、八年間、かな」
彼は私の手を引き寄せて、しっかりと握りしめた。
「百通目の手紙を送るまでに貴女が結婚してしまったらどうしようって、それが何よりも恐ろしかったんです。いっそ、もっと早くに求婚してしまおうかと、何度もそう思いました」
「そうだったの……あなたはたくさん手紙をくれたけれど、そんなことを考えているなんて気づかなかったわ」
「ええ、僕は注意深く、この恋心を隠していましたから。自分に課した約束すら守れない子供では、貴女を幸せにはできないと……そう考えて、ずっと我慢していたんです」
「本当に、あなたは昔から真面目ね。でも……私に求婚を断られるとは、考えなかったの?」
ためらいながらそう言うと、ワルターは小さく息を吐いた。
「もちろん、考えました。けれどそうなったら、僕は貴女の幸せを願って引き下がるつもりでした。思いを告げることができた、それだけでもよかったと、そう考えることにしようと」
私の手を握る彼の手は、かすかに震えているようだった。力づけるようにそっと握り返すと、彼は微笑んでこちらを向く。
「初恋を告げることすらできないのは、想像しただけで辛く悲しかったですから。貴女は、こんなにも激しい苦しみの中を生き抜いてきたのですね」
八年前、私たちを近づけてくれたあの打ち明け話。その内容を思い出しながら、そっと彼にもたれかかる。目を閉じて、静かにつぶやいた。
「……あなたに同じような苦しみを教えずに済んで、元家庭教師としてはほっとしているわ。でも元家庭教師として、これで良かったのかしらと思わなくもないけれど」
「良いんです。貴女は僕を立ち直らせてくれた。そうして僕を幸せにしてくれているのですから。最高の家庭教師で、最高の奥さんです。僕も貴女を幸せにできるよう、頑張りますね」
ワルターの声が明るくなっていく。彼が今本当に幸せなのだと容易にうかがい知れる、そんな声だ。けれどふと何かに気づいたように、彼の言葉が尻すぼみになっていく。
「……それで、その……ジョーディ様とのことは、もう……大丈夫なのですよね?」
「ええ。婚礼の時に彼を見て、感じたわ。彼は私の初恋の人だったけれど、今の私にとって一番大切なのは、隣にいてくれるワルターなんだって」
「ああ、よかった……実は僕、少しだけ心配していたんです。婚礼に彼を呼んで、貴女の恋心がよみがえってしまったらどうしようって」
輝くような美貌と品性に満ちた物腰の、妖精の王子様のような私の夫は、意外にも自分に自信がないようだった。
「あら、おかしなことを心配していたのね。こんなに立派で一途で、とても大切な人と婚礼を挙げている最中に、よその男に気を取られると思われたなんて。ひどいわ」
冗談めかした、そしてほんのちょっぴり非難するような口調で笑いながら言う。ワルターは私の手を握ったままこちらに向き直り、私の手の甲にそっと唇を落とした。
「ごめんなさい、僕の素敵な奥さん。そうですよね、貴女は僕を選んでくれたのですから。よそ見なんてしたくならないように、僕に夢中になってくれるよう、努力します」
「ふふ、あなたは昔から頑張り屋ね」
そうして二人で見つめあい、くすくすと笑った。とても平和な、穏やかな時間だった。
しかしその時、部屋の扉がゆったりと叩かれる。礼儀正しく部屋に入った執事は、手紙を一通差し出して戻っていった。その差出人を見て、首をかしげる。
「セシリアからの……手紙?」
八年前のあの一件以来、彼女との交流は絶えていた。当然、手紙のやり取りもない。
セシリアとジョーディ様の婚礼の招待状が私の家に来ていたらしいのだけれど、それは両親が代わって断りの返事を入れてくれた。それに私たちの婚礼の招待状だって、ワルターとの連名で出したのだし。
不思議に思いながらも、手紙を開封する。そこには前置きも何もなく、ただこれだけが書かれていた。
『お願い、うちの子の家庭教師になってちょうだい!』
少し乱れた字は、彼女が明らかにせっぱつまっていることを表していた。さらに訳が分からなくなってしまって、ぐっと眉間にしわを寄せて手紙を見つめる。
そんな私の耳元に、ワルターが声をひそめて、ささやきかけてきた。
「セシリアさんとジョーディ殿との間には、六歳になる一人息子がいます。しかし誰に似たのか、彼は恐ろしくわがままで暴力的、親の言うことも家庭教師の言うことも何一つ聞かず、好き放題しているのだとか」
「まあ、そうだったの。知らなかったわ」
「貴女はずっと家庭教師として暮らしていましたし、社交の場での噂話についてうといのは当然ですよ」
子供のワルターを立ち直らせてからというもの、家庭教師の仕事は自然と舞い込んできた。むしろ舞い込み過ぎて、どの案件から手をつけたものか悩んでしまうほどだった。
だから私は他の家の子供たちについて、自分から進んで情報を集めることはなかったのだ。
もし私が家庭教師になることなく普通の令嬢として過ごしていたなら、お茶会なんかでセシリアの息子の話を小耳にはさんでいたかもしれなかったけれど。
「つまりセシリアさんは、貴女に一人息子を立ち直らせてほしいと、そう言いたいのでしょう」
考え込んでいた私を、ワルターの穏やかな声が現実に引き戻す。
「……僕としては、少々複雑ですね。セシリアさんが過去にしたことを思えば、貴女に助けを求めること自体図々しいと思えてしまいます。駄目ですね、どうやら僕は自分で思っている以上に心が狭いみたいです」
「でも、息子さんに罪はないわ。できることなら力になってあげたいけれど……」
ジョーディ様については、もうふっきれたと断言できる。けれどセシリアについては、まだ思うところはある。彼女と正面から向き合うだけの覚悟はない。
結論を出せずに手紙を見つめ続けていると、いきなり後ろから抱きしめられた。ワルターが猫のように頬ずりしてくる。
「駄目ですよ。今の貴女は、僕の妻なのですから。数か月も放っておかれたら、僕は寂しくて落ち込んでしまいます。それに」
彼の吐息が髪にかかってくすぐったい。思わず身じろぎしたら、さらにしっかりと抱きしめられてしまった。
「貴女が次に教える子供は、僕と貴女の子供でしょう?」
やけになまめかしく告げられた言葉に、頬がかっと熱くなる。どう返事していいのか分からなくなって立ち尽くしていると、耳元で愉快そうな笑い声がした。
「貴女には、どうやらとっても可愛いところがあったみたいですね。真っ赤ですよ?」
「と、とにかく!」
ものすごく恥ずかしくなって、声を張り上げる。私を抱きしめているワルターの腕に手をかけて、きっぱりと言い切った。
「私は、この話は受けないわ。けれど、手紙で相談に乗ろうと思うの。今までたくさんの子供たちを見てきたから、力になることくらいはできるもの。あなたも、それでいい?」
さっきまで漂わせていた色気を引っ込めて、ワルターが小さくうなずく。
「ええ、もちろんです。でも、やり取りする手紙はぜひ僕にも見せてくださいね? ……僕の知らないところで、あなたがセシリアさんやジョーディ殿とやり取りしているなんて、嫌ですから」
「心配しなくても大丈夫よ? 私は彼女たちから息子さんの状況を聞いて、それに助言していく。それだけの関わりにとどめるつもりだから」
「僕の気持ちの問題なんです。これは、やきもちなのかな。それとも、貴女を守りたいと思っているのかな。……本当に、貴女といると知らない自分を次々発見できます」
「……私もよ。ただ憧れるだけの恋しか知らなかった私が、こうして愛を知って、支え合うことを知った。全部、あなたのおかげよ」
ワルターはすっぽりと包み込むようにして、私を抱きしめている。じんわりと伝わってくる体温に身を任せ、目を閉じた。
きっと、窓の外には今日も素敵な青空が広がっているのだろう。そう思った。
ここで完結です。読んでいただいて、ありがとうございました。
良ければ下の星など入れていただけると、今後の励みになります。
新連載を始めました。下のリンクからどうぞ。