6.新しく手に入れた幸せ
ワルターの求婚から半年後。私は、彼の屋敷で暮らしていた。正式に婚礼を挙げるのはもう少し先だけれど、一足先にこちらに移り住むことになったのだ。
格の違う家へ嫁ぐ場合など、嫁ぎ先の家になじむために、婚約した後、婚礼よりも前に未来の夫の家に移ることもままある。
それは知っていたけれど、まさか自分がそんな立場になるなんて。
だいたい、嫁ぎ先の家ではかつて一年も暮らしていたのだ。未来の夫もその両親も、そして使用人の多くも、みなよく知った相手だった。今さらなじむも何もないのだ。
それなのに私が婚礼よりも前に侯爵家に来ていたのは、ワルターの意向によるものだった。
僕は七年待ちました。貴女をここにお迎えできる日を、ずっと心待ちにしていたんです。あなたが僕の求婚にうなずいてくれた今、もう一日たりとも待ちたくはありません。
そんなことを一生懸命主張していたワルターは、子供の頃と変わらない、ひたむきで微笑ましい表情をしていた。
けれどさすがに、侯爵夫妻にあいさつする時は緊張した。ワルターは私を思ってくれている、それは確かだし、私も彼の思いにこたえたいと思っている。
でも客観的に見れば、私は元教え子をたぶらかしたことになる。ワルターは気にしていないようだけれど、私は気にする。
「お二人は私のことを信頼して、子供のワルターを預けてくださったのに……このようなことになって、申し訳ありません……」
この上なく恐縮して縮こまる私に、夫妻は穏やかに答えた。
「それでも、私たちは君をここに呼んだことを後悔していない。君の存在がワルターを立ち直らせてくれたのだ。君がいなければ、きっとあの子は今でも悩みの沼の中にいただろう」
「それに、ワルターがあなたに思いを寄せていることには、ずっと前から気づいていたの。あの子は強情だからいつかこんなことを言い出すんじゃないかって、そんな気がしていたわ」
「……確かに、君をワルターの伴侶として迎えることに、思うところもある。だが君がきちんとした人物であることを私たちは知っている。いずれ周囲の者たちも、分かってくれるだろう」
「とにかく、ようこそケイトリン。これからまた、よろしくね。今度は、家族の一員として」
こんなやり取りを経て、私は侯爵家に迎え入れられた。以前、家庭教師として過ごしたあの部屋で、また暮らしている。
「ケイトリンさん、今いいですか」
窓辺に立って外を眺めていると、部屋の入り口で声がした。どうぞ、と返事をすると、ワルターが書類のようなものを手に入ってくる。
彼はありふれた普段着を着ているというのに、相変わらずまばゆいほどに輝かしい。
大きくなったらものすごい美青年になるだろうなとは思っていたけれど、これほどまでとは。一緒に暮らすようになってそれなりに経つけれど、いまだに彼の美しさには慣れない。
「婚礼の招待客の返事が、全て出そろいました。みな参列してくれるそうです。……でも、本当にいいのですか?」
ワルターはちょっと浮かない表情だ。彼が渡してくれた書類には、婚礼の参列者が名を連ねている。その中に、ジョーディ様とセシリア夫妻の名もあった。
「いいのよ。この二人に、私が幸せになるところを見届けてもらう……それでようやっと、本当に過去から自由になれると思うの」
「貴女がそう思うのなら、僕は止めません。貴女が過去を断ち切る手伝いができることを、嬉しく思います」
そう言って、ワルターはそっと私の肩を抱く。とても丁重で、とても愛情のこもった仕草だ。けれど気のせいだろうか、彼がどことなくそわそわしているように思えるのは。
ひとまず、手渡された参列者の一覧に目を通す。ふと、不思議なことに気がついた。
侯爵家の跡取りの婚礼だけあって、参列するのも貴族たちばかりだ。名前と家名、それに爵位がずらずらと書き連ねられている。
しかしその最後には、ただこれだけが書かれていた。
『ナイジェル、王立大学在籍』
「……ねえワルター、このナイジェルという方は? 家名も爵位も、書かれていないけれど」
隣のワルターを見上げると、彼はふわりと笑った。まるで花がほころぶような、そんな見事な笑顔に思わず見とれる。
「彼は、僕の親友です」
「もしかして、かつて引き離されたっていう……」
「ええ。子供の僕には何もできませんでした。でも成長した僕は父を説得し、彼の居場所を探す許しを得たのです。彼はその後さらに引っ越していたので見つけるのが大変でしたが、王立大学に通っているということをやっと突き止められました」
「でも、王立大学って……この国唯一の高等教育機関で、無事に卒業すれば官吏としての道が開けている……入学するだけでも、恐ろしいほどの難関でしょう」
「彼は優秀だったんです。僕の父からもらったお金で、彼は良い学校に通うことができました。そうして王立大学の入学試験に合格したんです。それも、特待生として」
嬉しそうな目で遠くを見つめ、ワルターは話し続ける。
「一年前に、彼のところを訪ねていきました。長年の別離が嘘のように、僕たちは親しく語り合いました。そうして彼の考えを聞いて、驚きました。王立大学を出て、官吏となれば……いつか、侯爵家を継いだ僕とまた会うこともできるのではないか。彼は、そこまで考えていたんです」
ワルターは目を細めて、とても懐かしそうに語っていた。
「……僕は、彼と引き離されたことをずっと恨めしく思っていました。そうしてひたすら沈黙することで、大人たちを拒絶していました。でもその間にも彼は、こうやって自分の足で歩いていたんです」
平民の子供が、学校に通って王立大学に行く。しかも、学費免除の特待生として。
彼は間違いなく、並々ならぬ努力をしたのだろう。小さい頃からきちんとした教育を受けてきた貴族の子弟であっても、ちょっとやそっとのことでは王立大学には合格できないのだ。
「ちょっと、自分が恥ずかしいです。子供だったとはいえ、あのやり方はなかったなって思います」
ワルターがうつむいて、それから私の顔をのぞき込む。顔が近すぎて、恥ずかしい。まるで十代の乙女のように胸がざわついていた。
「けれどそのおかげで、貴女にめぐり合えた。……本当に、世の中は何がどうなるものか、分かりませんね」
「そうね。私たちがこうしているのも、たくさんの偶然が積み重なってのことだものね」
彼との出会いも、奇跡のようなものだった。そうして百通目の手紙をもらって、私の世界はめまぐるしく変わっていった。
そのことについて、ひとかけらの不安を感じていたのも確かだった。本当にこれでよかったのかという、そんな思い。
「……あなたから手紙をもらって、求婚されて……そうして婚約して、ここに移り住んで……嬉しくて幸せなのに、どこか実感がないのよ」
小さな不安に突き動かされるようにして、そんなことを口にする。ワルターは、私の肩を抱く手に力を込めた。
「不安ですよね。僕があまりにも性急に、事を進めてしまいましたから。……時間はあります。貴女がこの状況を心から受け入れてくれるまで、僕は待ちますから」
ワルターは一途で一生懸命で、とっても意志が強くてちょっぴり強引で、けれどとても優しい。
彼のような人に思いを寄せられた幸運に思いをはせながら、そっと彼の手に自分の手を重ねた。
やがて、婚礼の日となった。私は侯爵家に代々受け継がれているという由緒正しいドレスに身を包み、婚礼の儀式に臨んだ。
花婿の正装に身を包んだワルターは、ため息が出るくらい美しかった。夢の中にいるような気分のままぼんやりしていたら、いつの間にか婚礼の儀式が終わっていた。
ワルターに手を取られ、参列者たちの間を通り抜けて会場の出口に向かう。行く手には、たくさんの笑顔があふれていた。
侯爵夫妻と私の両親はちょっぴり涙ぐんでいたし、他の貴族たちも心から私たちを祝ってくれていた。その中には、かつての教え子たちの姿もあった。
ジョーディ様はとてもにこやかに、私たちを優しく見つめていた。どうやら彼は、今でも私がセシリアの、彼の妻の友人なのだと信じて疑っていないようだった。
かつて私が憧れて、焦がれた人。その恋がかなわないと知って、死を選びたくなるくらいに思いを寄せた人。
でも今の私の心は、不思議なくらいに動かなかった。彼に穏やかに微笑み返すだけの余裕すらあった。
私の初恋はかなわなかった。でもそれで良かったのだと、そう思えた。私の愛する人は、生涯の伴侶は、今隣にいる人なのだから。
一方のセシリアは上品に微笑んでいたものの、時折ちらちらと不服そうな表情を見せていた。その表情に、八年前のことを思い出す。
ああ、やっぱり彼女がジョーディ様と婚約したのは、私の片思いをぶちこわすためでもあったのだな、と実感した。
けれどそれとは別に、セシリアはひどく疲れているようだった。どうしたのだろう、と思わなくもなかったが、今の私には関係のないことだ。
さらに進んでいくと、会場の一番後ろに王立大学の制服を着た青年が立っていた。
年の頃はワルターと同じくらい、おっとりとして素朴な雰囲気ながら、高い知性を感じさせる澄んだ目をしていた。
彼は私とワルターを温かい目で見守っていたが、私たちがすぐ近くまでやってくると、私の目をまっすぐに見つめた。その顔から笑みが消えて、とても真剣な表情になる。そうして彼は、ゆっくりと頭を下げた。
ワルターをよろしく頼みます。彼の目は、そう語っていた。だから私も、彼の目を見返してうなずいた。
会場の開け放たれた扉、その外には、泣きたくなるくらいに鮮やかな青空が見えていた。