5.七年越しの思い
私が返事を出した数日後の朝。ワルターが馬車に乗って私の屋敷を訪れた。玄関ホールで待っていると、扉が開きすらりとした人影が姿を現した。
「お久しぶりです、ケイトリン先生。ずっと、お会いしたかった」
そう言って優しく微笑む彼を見て、私はただあっけにとられることしかできなかった。
七年ぶりに会ったワルターは、輝かんばかりの青年になっていた。かつてかなりの美少年だった彼は驚くほど背が伸びて、甘く柔らかな色気まで備えてしまっていた。
まるで妖精の王子様だ、そんなことを真っ先に思った。彼の麗しい姿に、どこかの屋敷で見た妖精の絵画を思い出さずにはいられなかった。
今のワルターはそれくらいに謎めいていて美しく、品性と風格を備えていた。とても十八歳とは思えない、立派な姿だった。
しかもそれだけならまだしも、彼は華やかな正装をきっちりとまとって、大きな花束を抱えていた。
赤いバラの花束はとてもみずみずしく、まるで今しがた摘んできたようにすら見えた。花束を抱えた彼の姿はあまりに麗しくて、きらきらとした光をまとっているように思えた。
花束を優雅な動きで差し出して、ワルターはにっこりと笑う。
「この花束は、貴女のために用意しました。庭師と一緒にとげを摘んだバラを、水桶に活けてここまで運んだのです」
「……とげを摘むなんて……普通は、庭師に全て頼むものではないの? 慣れない作業で怪我でもしたら……」
「貴女に差し上げるための花束ですから、僕も何かしたかったんです。それに、貴族が庭仕事をしてはいけないなんて決まりはありません」
堂々と言い切る彼がおかしくて、つい笑ってしまう。そのまま花束を受け取って、顔を埋めた。
「そうね、あなたらしいかもしれないわね。ありがとう。ふふ、いい香り」
ワルターに笑いかけると、彼はとても嬉しそうに笑み崩れた。けれどなぜか、すぐに真顔になる。急に雰囲気が変わった彼に、思わず目を見張った。
「……今日は、貴女に告げたいことがあります」
私の屋敷の玄関に、ワルターの澄んだ声が響く。聞くものを惹きつける凛とした声で、彼は私に問いかけた。
「ケイトリン先生。貴女は七年前の約束を、覚えておられますか?」
「ええ、もちろんよ。あなたが大人になったら、お友達になりましょう。その約束ね」
彼は今までの手紙の中で、時折あの約束について触れていた。そしてそのために立派な大人になるのだと、毎回決意を新たにしているようだった。何とも微笑ましいその文面に、にこにこしながら手紙を読んだものだ。
しかしワルターは、苦しそうに目を伏せてこう言った。
「僕はもう十八歳、そろそろ大人として認められる年齢になりました。ですが……あの約束について、なかったことにしてほしいのです」
思いもかけない言葉にぽかんとしたけれど、すぐにうなずいた。正義感が強い彼にしては珍しいけれど、七年もあれば気が変わるのは当然だろう。
でもそれだけを告げにきたにしては、彼の様子はどうにもおかしいものだった。
そう思いながら、ワルターの様子をうかがう。彼は勢いよく首を横に振って、さらに言葉を続けていた。
「僕は決して、軽はずみな気持ちでこう言っているのではありません。……七年前、僕は……貴女との縁をどうしてもつないでおきたくて、あの約束をしたのです」
彼の話を邪魔しないように無言でたたずみ、じっと耳を傾ける。むせかえるほどのバラの香りが、私たちを包んでいた。
「でもやはり、僕は子供でした。当時の僕にとっては、血のつながりの次に強い絆が『友達』だったのです。けれどじきに、僕はあの約束をしたことを後悔するようになりました。友達では足りないと気づいたから。僕はもっと、貴女の近くにいたいのです。誰よりも近くに」
友達では足りない。そう告げる彼の目には、甘い甘い光がともっていた。この切なげな表情は、もしかして。
「あの、ワルター、それってまさか……」
戸惑う私に、ワルターはきっぱりと言った。とても堂々とした、思わず見ほれるほど凛々しい姿だった。
「僕は貴女を思っています。子供の僕は、この思いの正体に気づけませんでした。でも今なら断言できます。この思いは、恋慕の情なのだと」
そこで彼は言葉を切り、困ったように小さく微笑む。
「……百通目の手紙を書く時に既に貴女がどこかに嫁いでいたら、僕はそのまま貴女の友人となるつもりでした。でも今、貴女は独り身のままです。だから僕は、秘めていた思いを明かすことにしたのです」
ワルターは強い目で、まっすぐに私を見つめている。バラの香りが、ひときわ強くなったような気がした。酔いそうなくらいに甘く、魅惑的だ。
くらくらする頭を振って、一生懸命に考えをまとめる。どうにかこうにか、反論の言葉を紡ぎだした。
「で、でも私は子爵家の娘で、あなたは侯爵家の跡継ぎでしょう。親しく付き合うには家の格が違いすぎるわ」
「僕が身分というものにいきどおっていたのは、貴女もご存知でしょう? ちゃんと、両親の承諾はもらっています」
この反論は予想していたのだろう、彼はまったく動じることなくそう返してくる。
「それに、私はもう二十五で、その……いき遅れなのだけれど。それが今さら恋だなんだなんて、貴族たちに何て言われるか」
「年齢なんて関係ありません。それに、貴女が素晴らしい家庭教師で、素晴らしい人物だということは、みなの知るところです。きっとみな、祝福してくれるでしょう。もし陰口を叩かれたところで、痛くもかゆくもありません。貴女さえそばにいてくれれば、他には何もいりません」
彼は昔から意志が強かった。こうと思い込んだらちょっとやそっとでは動かない。友人と引き離されたことがどうにも納得できなくて、心を閉ざして黙りこくってしまうくらいには。
「……ケイトリン先生。いえ、ケイトリンさん。僕は、今ここで貴女に求婚します」
静まり返ったホールに、ただ彼の声だけが反響する。美しい音楽のようだと、どことなく他人事のようにそんなことを思う。
正直言って、まだ実感がわいていなかった。あの小さなワルターが立派な大人になって、しかも私に求婚している。一度だって、そんな状況を想像したことはなかった。
「子供の頃から、ずっと貴女に憧れていました。元教え子に求婚されるというのは、もしかすると不名誉なことなのかもしれません。ですが、僕はどうしても貴女をあきらめたくない」
小さな頃から変わらない、ひたむきで一生懸命な声音。けれどその声はあの頃のように澄んだ高い声ではなく、しっとりと落ち着いた穏やかな声だ。
まっすぐに私を見つめる、きらきらした目。けれどその目は、あの頃よりもずっと高いところにある。
当然ながら、子供のワルターを男性として意識することはなかった。けれど、今のワルターは。
「……少し、時間をもらえるかしら。記憶の中のあなたと、目の前のあなたが、あまりにも違っていて……その……ちょっとだけ、混乱しているの」
結局、口をついて出たのはそんな言葉だけだった。彼の気持ちにすぐこたえてやれないのは申し訳なかったけれど、正直戸惑いのほうが大きかったのだ。
「はい。七年も待ったのですから、あと少し待つくらいどうということはありません。……それに、そうやって貴女が考えている間は、貴女がよそに嫁いでしまう心配をしなくても済みますから」
望む返事ではなかっただろうに、ワルターはとても嬉しそうに微笑む。その笑顔のまぶしさに、知らず知らずのうちに鼓動が速くなるのを感じていた。
色んなしがらみのせいで言葉にできずにいるだけで、私の答えはもう、決まっているようだった。