4.百通目の手紙
そうして春になり、私は侯爵家を去ることになった。色とりどりの花が咲き乱れる美しい風景の中、ワルターはぼろぼろ泣きながら私を見送っていた。
「ケイトリン先生、手紙を書きますね。だからどうか、返事をください」
「もちろんよ、ワルター。元気でね」
「……約束のこと、忘れないで」
「忘れたりしないわ。楽しみに待っているから」
そんな言葉をかわして、私は馬車に乗り込んだ。窓の外では、ワルターがずっと私を見つめていた。
私も、どんどん小さくなる彼の姿を見つめ続けた。彼の姿が木々に隠れて見えなくなっても、まだそちらを向いたままでいた。
最初から、長くて一年と決められた滞在だった。もっとここにいてほしいというワルターの申し出を断ったのも私だった。
でもやはり、寂しいと思ってしまったし、辛かった。でもその辛さは、驚くくらい温かく、優しいものだった。
一度実家に戻った私は、またすぐに支度を整えて馬車に乗り込んだ。これから、また別の家で家庭教師をするのだ。
ワルターと信頼関係を築き、彼を立ち直らせたことで、侯爵夫妻は私のことを素晴らしい家庭教師だと褒めちぎった。そうして彼らは、社交の場で私のことを話したらしい。
それがきっかけになって、すぐに次の仕事が見つかった。今度は、かんしゃく持ちの八歳の男爵令嬢だ。やはり両親が手を焼いて、私に助けを求めてきたのだ。
正直、ワルターと打ち解けることができたのは偶然だと思っていた。次もうまくいくとは限らない。でも、頑張るしかない。私はこの道を進むと決めたのだから。
そうしているうちに、豪華な屋敷が見えてきた。ワルターと出会った日のことを思い出して、自然と笑顔になっていた。
半年後、私は男爵令嬢に見送られて屋敷を後にした。彼女もその両親も、みんな笑顔だった。
彼女がかんしゃくを起こしていたのは、自分の思いをうまく言葉にできなかったからだった。
そしてさらに悪いことに、令嬢たるもの常に優雅に笑っているようにとの教えが、彼女をがんじがらめに縛ってしまっていたのだ。
どれだけ押し殺したところで、悲しみや怒りは生まれてくる。それをうまくやりすごすには、彼女は幼過ぎた。得体の知れない重苦しい感情を抱えて、彼女は日々暮らしていたのだった。
だから私は、それらの感情に名前を付けて、正面から向き合うことを教えた。負の感情を押し殺すのではなく、負の感情に振り回されるのでもなく、その思いを認めた上でそっと胸の奥にしまい込む、そんな方法を。
もっとも私だって、偉そうなことは言えない。それが完璧にできていたなら、こうして家庭教師になることもなかったのだから。
そう思った拍子に、ジョーディ様とセシリアのことを思い出す。思い出して初めて気がついた。いつの間にか、私はあの二人のことを意識せずに過ごしていたということに。
我ながら、不思議なものだ。一時は命を絶つことすら考えたというのに。私の心を癒してくれたのは時間か、それともワルターとの思い出か。
そんなことをこっそり思いながら、私は幼い令嬢との信頼関係を築いていったのだった。
それから私は、さらにあちこちの貴族のもとを回り、たくさんの子女と関わっていった。色んな子供の悩みを知り、共に解決していく。そんなことを繰り返していた。それはとても、やりがいのある仕事だった。
そうして、気づけば家庭教師の仕事を始めてから八年が経っていた。私はもう二十五歳、貴族の令嬢としてはかなりのいき遅れになっていた。
でも私の家にはちゃんと跡継ぎがいるから、私が婿を取らなくても大丈夫だ。
最初の数年、両親はずっと私を説得しようとしていた。もう気は済んだだろう、家庭教師など辞めて、嫁に行きなさい。いい縁談の話がいくつも来ているんだよと、そんなことを言って。
でも私は、その言葉をずっと無視していた。失恋の痛手を忘れるために、若くして家庭教師になった。
それを、たった二年や三年で辞めてしまいたくはなかった。私のあの日の苦しみは、そんなに軽いものではないのだから。こんなに早く仕事を投げ捨ててしまっては、きっと後悔する。そう考えて。
もっとも、それは自分に対するただの言い訳でしかなかった。私はもう、あの失恋のことはどうでもよくなっていたのだ。
そんなことよりも、困っている子供たちの力になりたい。その思いのほうがずっと強くなっていた。
それに今では、私は有能な家庭教師として貴族たちの間で評判になっていた。そうやって誰かに必要とされることも嬉しかった。
そうしてまた数か月の仕事を終えて久しぶりに家に戻った私を、笑顔の両親が出迎える。
さすがの両親も私を嫁にやるのはあきらめたらしく、最近では開き直って私の仕事を応援してくれていた。
「お帰り、ケイトリン。つい昨日、いつもの手紙が届いたところだよ」
父がそう言って、美しい手紙を一通渡してくる。見慣れた筆跡に、笑みが浮かんだ。
「……ワルターは、本当にまめね」
私が受け持った生徒たちは、今でも時折手紙をよこしてくる。とはいえ、多い子でも年に数通だ。それらの手紙は、月に一度両親がまとめて私の滞在先に転送してくれている。
しかしワルターは違っていた。彼は毎月のように、いやそれ以上に手紙を書いてくれていたのだ。
おかげでこの七年間、彼がどう過ごしていたか、何を考えていたのかを全て知ることができた。まるで彼がいつも近くにいるようだと、そんなことを思っていた。
幼かった筆跡や言葉遣いがどんどん大人びていき、同封されている押し花も、どんどん美しく繊細なものに変わっていった。
やがて、手紙からほんのりといい匂いがするようになった。一人前の男性のたしなみとして、香水が吹きつけられていたのだ。
手紙を大切に持ったまま、自室に戻る。それから机に向かい、ワルターからの手紙を開封した。
きっと、ここ一か月の間に起こったことを事細かに教えてくれるのだろう。七年が経っても、無邪気で熱心な文章は子供の頃のままだった。満面の笑みで手紙に目を落とし、そして首をかしげる。
手紙は、こんな文面で始まっていた。
『親愛なるケイトリン先生、お元気ですか。この手紙は、僕が貴女に送る百通目の手紙です』
今まで生徒たちからもらった手紙は、全部分別してきちんとしまってある。ワルターの手紙をしまうための箱は、ひときわ大きなものになっていた。そうか、もう百通にもなるのか。
『僕が手紙を書くたび、貴女は返事をくれました。僕は、いつも貴女がそばにいてくれているように思えていました』
ええ、私もよと心の中で返事をして、続きを読む。
『……僕は、ずっと前から心に決めていたことがあるのです。貴女への百通目の手紙を書くことがあれば、その時まで貴女との縁が切れていなければ、僕はそれを実行に移そうと、そう考えていました』
突然の決意表明に、目を見張る。ワルターは昔からそれはもう意志が強かったし、こうやって明言したからには、何が何でも実行するのだろう。でもどうして、そのことを私に話すのだろうか。
『そのために、ケイトリン先生の協力が必要なのです。ちょうど、そろそろ今の仕事を終えられる頃合いだと聞きました。どうか、僕と一度会ってはもらえませんか』
そしてその手紙は、いつでも私の屋敷を訪ねていけること、都合のいい日時を教えてもらえると嬉しいということがつづられていた。
彼にしては珍しく、短めの手紙だ。いつも添えられていた押し花もない。
その代わりなのか、使われている便せんも封筒も、いつものものより上等だった。きちんとしたお茶会に招待する時に使うような、そんな感じのものだ。
もう一度首をかしげながら立ち上がる。ちょっと家でのんびりしようと思っていたから、次の仕事はまだ入れていない。両親の都合を確認して、すぐにワルターに返事を書こう。
自室を出て廊下を歩く。あれきり会っていないけれど、きっとワルターは立派な青年になったのだろう。でも私の記憶の中の彼は、きらきらした目の飛び切り美しい少年のままだった。
「ふふ、楽しみね」
この時の私は、ワルターの意志の強さをちょっぴり甘く見ていた。そのことをじきに思い知らされるとも知らずに、私は浮かれた足取りで進んでいた。