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3.私たちの約束

 そんなやり取りをきっかけに、ワルターは少しずつ年頃の少年らしい姿を見せてくれるようになっていた。笑ったり、はしゃいだり、ふくれっ面をしたり、しょんぼりしたり。


 まだ彼の中にためらいのようなものはあるようだったけれど、それでもそんな表情を見せるようになっていたのだ。


「そういえば、どうしてあなたは今までずっと口を閉ざしていたの? 誰に対しても最低限の話しかしないって、侯爵様も奥方様も心配してらしたのに」


 勉強の合間にそう尋ねてみたら、彼はにっこり笑ってこう答えた。


「誰もぼくのことを分かってくれないって、いじけていたんです。意地になっていたのかもしれません。でも、今はケイトリン先生がいてくれますから」


「……私、大したことはしていないのに」


「いいんです。あなたがぼくのことを分かろうとしてくれている、それだけで十分です」


 十歳とは思えないくらいに大人びた、いたずらっぽい笑みを浮かべてワルターは首をかしげる。元々綺麗な子なので、そうしているととても絵になった。


「だからそろそろ、他の人とも接していこうと思います。理解されなくても構わないと、そう思えるようになりましたから」


 そうしてワルターは宣言通り、私以外の人間に対してもきちんと話をするようになったのだ。誰に対しても心を閉ざし続けていた彼の大きな変化に、侯爵夫妻はとても喜んでいた。


 私がワルターのことを呼び捨てにしているのを侯爵夫妻にうっかり聞かれてしまった時は焦ったけれど、すぐにワルターがとりなしてくれた。ぼくがそう呼ぶように頼んだんです、と。


 侯爵夫妻は少し戸惑いつつも、私をとがめるようなこともなかった。


 そうして私とワルターは、一日のほとんどを一緒に過ごすようになっていた。授業の時間外もお喋りをしたり、庭を散策したり。侯爵夫妻に連れられて、劇を見にいったりもした。


 またその合間を縫って、貴族の子弟たちが顔を合わせるパーティーに、ワルターの付き添いとして何度も出席した。


 かつて平民の親友を失った痛手を引きずったままのワルターだったが、それでも少しずつ、同世代の知り合いを作ることができるようになっていた。


 もう、彼は大丈夫だ。自然とそう思えるくらいに、彼は成長していた。




 ある冬の夜、長椅子に二人で並んで座り、暖炉にあたりながらお喋りをしていた。彼と話しているのはとても楽しくて、気がつくともう眠る時間になっていた。


 そろそろ休みましょうか、と口を開きかけた時、不意にワルターがぽつりとつぶやいた。温かな炎の色に染まった彼の横顔は、とても寂しげだった。


「ケイトリン先生、ぼくの家に来てくださって、ありがとうございます。けれど……先生はいつまで、こうしていられるのでしょうか」


「私は、長くても一年間という約束でこのお屋敷に来たわ。だから、次の春でお別れね。……寂しくなるけれど」


 貴族の家では、子弟のために家庭教師を雇う。けれど、特定の教師の影響を受け過ぎないように、また、色々な人間と接して見聞を広めるために、家庭教師は長くても一年で交代するのが通例だ。


 そして私は、ワルターの心を開かせることができた。彼はもう私以外の人間とも打ち解けるようになったし、新しい友達もできた。私は、役目を果たすことができたのだ。


「……もっと、ここにいてもらえませんか?」


 ワルターがそっとこちらを向いて、か細い声で尋ねてくる。


「家庭教師としてではなくても、その……友人とか、えっと、人生の先輩とか、ええと……なんて言えばいいのでしょうか」


 彼は可愛らしい顔を引き締めて、一生懸命に言葉を探しているようだった。その様子に、心が温かくなる。私は彼の大切な存在になれたのだと、そう思えたから。


「住み込みの友人なんていないわ、ワルター。私も、できることならずっとここにいたい。けれどそれでは、駄目なのよ」


 優しくそう答えると、ワルターは無念そうに目を伏せた。すねたように口をとがらせている。


「……分かっています。ケイトリン先生は傷ついて、そこから立ち上がるために家庭教師という仕事を選んだのだと。そして先生の心の傷は、まだ治っていないのだということも」


「ええ。あなたと一緒にいるのは楽しいわ、ワルター。でも私は……まだ、立ち止まれない。絶望の中で見つけたこの仕事、自分でつかみとった一筋の光を、まだ手放せないの」


 いつか、ジョーディ様とセシリアのことを、そんなこともあったわねと笑い飛ばせるようになれるまでは。そんな言葉をそっとのみ込む。


 ワルターが心配そうな顔で、こちらをのぞき込んできた。


「……どうしてぼくは子供なのでしょう。大人だったら、先生を引き留めることも、追いかけていくこともできたのに」


 ジョーディ様とセシリアとの間にあったこと、そしてその中で私が感じたことについて、ワルターに全てを話してはいなかった。


 自分の命と引き換えにしてでも一矢報いてやりたいというあのどす黒い思いを、ワルターは知らない。


 でも、彼は薄々感じ取っているようだった。目を離したら私がいなくなってしまうのではないかと思っているかのように、ただひたむきに私を見つめ続けている。


「ありがとう、ワルター。……たとえ離れていても、あなたのことを忘れたりはしない。あなたのその思いがあれば、私はもう大丈夫よ」


「……あの、ケイトリン先生」


 私の顔から目をそらすことなく、ワルターが言う。


「ぼくは、これからたくさんのことを学んでいきます。いつか、一人前の大人になります。自分の行く道を、自分のありようを、自分で決めることができるようになります」


 彼のなめらかな頬に、うっすらと赤みが差している。今までで一番真剣な顔で、彼はゆっくりと言った。


「そうしたら、その時は……ぼくと友達になってください」


 思いもかけない、けれど必死な言葉に、一瞬目を見張る。それから、にっこりと笑いかけた。彼の申し出は、私にとっても願ってもない、素敵なものだと思えたから。


「もちろんよ。元教え子と友人になってはいけないという決まりはないものね」


「……ふふ。大人になったらかなえたい夢が、またひとつ増えました」


 ワルターは、とても無邪気に笑っている。うっとりと、夢見るような目で。


 私たちはくすくすと笑い合って、小指をからめた。こんな風に誰かと約束をしたのはいつぶりだろう。とても子供らしい、可愛らしい誓いの儀式だ。


 でも私にとっては、それはとても大切な、決して破りたくない約束だった。

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