2.侯爵家の少年
「……ええ、よくできていますよ、坊ちゃま。それでは、少し休憩としましょうか」
にこやかにそう言って、本を閉じる。それから、壁際に置かれていたワゴンを押してきた。先ほどメイドが運んできたもので、お茶とお菓子が乗せられている。
そうやって私がお茶の準備を進めている間、向かいに座る少年はずっと無言だった。目を伏せたまま、てきぱきと本や筆記用具を片付けている。
彼こそがワルター、この侯爵家の跡取り息子にして私の最初の生徒だ。
十歳という年のせいか、その整った顔は少年のものとも少女のものともつかない。年の割に物静かで神秘的な雰囲気と相まって、彼は妖精のように見えることすらあった。
笑えばきっととても愛らしいだろうに、彼はいつも無表情だ。それだけではない。彼は必要なこと以外はまったく喋ろうとしない。
「……ありがとうございます、先生」
お茶を差し出すと、ワルターは一瞬だけこちらを見て礼を言った。けれどやはり、それ以上何も言わない。
そうして、二人きりのお茶の時間が始まる。勉強の合間にこうやって休憩するのは、私たちの日課になっていた。
「それにしても、坊ちゃまはとても優秀ですね。教えがいがあります」
思いつくまま、そんなことを口にする。お茶を飲みながらいつもこうやってあれこれと話しかけているけれど、返ってくるのは無言のうなずきか、短い言葉だけだった。
私がここに来て、もう一か月。けれどもワルターとは、ろくに話ができていなかった。授業はまじめに受けてくれるけれど、それだけ。
でも侯爵夫妻によれば、これでもかなりましな反応なのだそうだ。彼は相手によっては、授業中ですら口をきかないらしい。
彼の心を開かせるために、私はここにいる。でもそんな役目とは関係なしに、彼と話してみたいと思っていた。彼が何を考えているのか、知りたかった。
ワルターからそっと目をそらして、残念さと歯がゆさが入り混じったため息をもらす。
その時、思いもかけない声がした。男のものでも女のものでもない、どこまでも透き通ったガラスのような声。
「……ケイトリン先生、ぼくはワルターです。坊ちゃま、と呼ばないでください」
突然のことに、驚いて彼のほうを向く。ワルターは、綺麗な目でまっすぐに私を見ていた。その力強さにたじろぐ私に、彼はさらに言いつのる。
「先生はぼくより年上で、ぼくを教え導く立場です。ぼくが先生に敬意を払うのは当たり前ですが、先生がへりくだる必要なんてありません」
「けれど、私はあなたのお父様に雇われていて……」
「ぼくはお父様ではありません」
「それでは……ワルター様」
「様、も不要です。あなたはぼくの師なのですから。授業の間だけでなく、これからはずっとワルターと呼んでください。ぼくが、そうしてほしいのです」
ワルターは妙なところにこだわっている。授業の間、二人きりの間だけなら、彼の要求をのむことはできる。けれどそれ以外の場では、さすがに難しい。だから、呼び捨ては授業中だけで勘弁してもらおう。
そう頼もうとして、ふとためらう。何かが心のすみで引っかかった。それではいけない、そんな気がした。
だから少し考えて、彼に問いかけた。
「……ワルター。あなたはどうして、そんなことにこだわるのかしら?」
「そんなこと、ではありません。とても大切なことです。先生がぼくに対して丁寧に接するのは、ぼくと先生の身分が違うから、でしょう?」
思いもかけない彼の言葉に、一瞬返事に詰まる。
「……そう、かもしれないわね……でも、あなたがどうしてそこを気にするのか、私にはよく分からないわ。良ければ説明してもらえると助かるのだけれど」
その言葉に、彼は悔しそうに唇をかんで、うつむいた。彼がこんなにはっきりと表情を変えるのを、初めて見た。
「……ぼくは……身分が嫌いです。身分なんてもののせいで、ぼくは大切なものをなくしました」
貴族の中でも上位に位置する、侯爵家の跡取り。私よりも、セシリアやジョーディ様よりも、ワルターの地位はずっと上だ。いずれ家を継げば、彼はおそろしくたくさんのものを手にする。
彼はその立場ゆえの恩恵を、これまでにも受け続けてきた。そのことに気づかないほど幼い子ではない。それなのに、身分が嫌いだ、なんて言い出すとは。
驚きに、何も言えなかった。ワルターはこちらを見ることなく、つぶやき続けていた。
「ぼくには、親友がいました。こっそり屋敷を抜け出して、外の町に遊びにいった時に出会ったんです」
目の前のワルターは、大切に大切に育てられた温室の花のように見えた。そんな大それたことをするなんて、とても信じられない。
「外の世界をまるで知らないぼくに、彼はとても親切にしてくれました。ぼくたちはまるで兄弟のように、仲良くしていたんです」
ワルターの横顔が、苦しげにゆがむ。手を伸ばしかけて、そのまま引っ込めた。彼は形だけの慰めを拒んでいる、そう思えたから。
「でも彼には、もう会えません。お父様が、彼らの一家を遠くへやってしまいました」
彼はひどく淡々と、やけに大人びた声音で語る。
「彼らは遠くの町で豊かに幸せに暮らしているのだと、お父様はそう言っておられます」
ワルターの父である侯爵は、ワルターの友人一家に金をつかませて遠くに移住させたのだろう。普通の貴族なら、同じ状況に置かれればみんなそうする。
貴族の子息が平民と親しくしているなどと知られれば、他の貴族から陰口を叩かれかねない。一歩間違えば、家の評判すら揺るがしかねないからだ。
子供たちは抵抗するだろう。でも彼らのちっぽけな主張は、大人たちの思惑に踏みつぶされて終わりだ。
「お父様の言葉を疑うつもりはありません。それにこのほうが、彼のためになるのだということも分かっています」
ずっと落ち着き払っていた彼の声に、ひびが入る。そこからにじみ出ているのは悲しみか、それともあきらめか。
「お父様はおっしゃいました。この侯爵家を継ぐ者として、付き合う相手を選びなさいと」
ワルターが、美しい木彫りのテーブルの端をぎゅっとつかむ。その小さな手は、かすかに震えていた。
「お前に何一つ後ろめたいところがないとしても、お前のふるまいをよく思わない者がいるかもしれない、そのことを常に忘れないようにと」
そのまま彼は、顔を伏せる。一瞬だけ、泣きそうな表情が見えた。
「でもぼくは……それでも、こう思わずにはいられないのです。ぼくと彼の身分が対等なら、いいえ、そもそも身分が存在しなかったら、ぼくは今でも彼と笑い合っていられたのかな、って」
幼さの残る声で、ぽつりぽつりと彼はつぶやき続ける。私は何も言えないまま、彼を食い入るように見つめていた。
身分が同じなら。そもそも身分がなかったら。
ワルターのその言葉に、私は思い出さずにいられなかった。つぼみのまま枯れてしまった、私の初恋のことを。
一方のワルターは、どこかすっきりしたような顔をこちらに向けていた。その目元に、うっすらと笑みが浮かぶ。
「こんなことを話したのは、ケイトリン先生が初めてです。最後まで聞いてくれて、叱らないでくれて、ありがとうございました」
そうして彼は、礼儀正しくぺこりと頭を下げた。
「……お父様もお母様も、そして今までの先生たちも……みんな、ぼくの話を途中でさえぎりました。そんなことを言うものではありませんと、そう言って」
「そうだったの……。ワルター、私は……叱らなかったのではなくて、叱れなかったの……」
そう主張する自分の声はひどくうろたえ、揺らいでいた。今度はワルターが驚きに目を見張る。
「だって私も、同じだから……」
そうして私は、語り始めた。ジョーディ様のこと、セシリアのこと。十歳の子供に聞かせていいような話でないことは分かっていた。
けれどそれでも、語らずにはいられなかった。きっとワルターなら、私の心の傷を理解してくれる。そう思えてならなかったのだ。
「……身分なんてものがなかったら、きっと私の現在は変わっていたわ。恋に破れたとしても、私が抱く思いはきっとずっと違っていた」
「先生も……同じだった……」
ワルターは目を丸くして、呆然と宙を見つめていた。しかしすぐに我に返ったような顔をして、席を立つ。そのまま、私の隣までやってきた。
「……不思議な気分です。同じような苦しみを知っている人が、こんなに近くにいたなんて……」
そんなことをつぶやきながら、彼は私の手を取る。
「……ぼくはずっと、あきらめていました。貴族はみんな身分というものの恩恵を受けています。だから誰もぼくの苦しみを分かることはない、分かろうともしてくれないんだって、そう思っていました」
その幼い顔に、ゆっくりと笑みが浮かんでいく。思わず息をのむほどあでやかな、幸せそうな笑み。
「先生は、ぼくの思いを、分かってくれますか……?」
「分かりたいと、そう思っているわ」
私と彼は違う人間だ。私たちはそれぞれ苦しみを抱えているけれど、それは似ているようで違うものだ。
しかしそれでも、私たちはとても近いところに立っている。互いの傷に触れられるくらい、瞳の中に宿る憂いに気づけるくらい、近くに。
「ぼくも、ケイトリン先生の思いを分かりたいと思います」
「ワルター、失恋の苦しみなんて知らないほうが幸せよ」
「それでも、知りたいです。それもまた、今の先生を形作っているものの一つだから」
彼はとてもまっすぐな目で、私を見つめていた。ただの好奇心や興味ではないことが、ありありとうかがい知れる。
「……ありがとう。また、機会があれば、ね。さあ、そろそろ勉強に戻りましょう、ワルター」
「はい、先生!」
飲み終えたお茶のカップを片付けて、また勉強道具を手にする。このわずかな間に、私たちの距離が驚くほど近づいているのを感じていた。