第3話
誤算、と言えば確かにそうだったかも知れない。
一つ目は小一時間も歩いたら意外にもすぐに人気のある場所に着いた事。これは嬉しい誤算。
二つ目は、ボロボロに破けたスーツはどうやらかなり目立つらしいと言う事。道行く人が一様にこちらを見てギョッとした顔になる。
目を合わせないように足速に立ち去る姿が悲しい。
そう言う意味では、今目の前に立っている三人は中々勇気があると言えよう。
「なぁオッさん。そのカッコどうしたの?」
「もしかしてカツアゲにあっちゃったのかなぁ?」
「ならさぁ、俺達にもおこづかいちょうだいよ」
三人組はニヤニヤとした表情でこちらを取り囲んでいる。
歳の頃は娘の漣と大して変わらないように見えた。
世知辛い世の中だ。
大人の器としては漱石さんの三枚でも献上してお引き取り願いたいところなのだが。
宗一郎は無駄と知りつつズボンのポケットに手を入れてみた。
普段ならそこに入っているはずの財布の姿は無い。
三つ目の誤算。
おじさん今一円も持って無いんだよね。
―Crystalline-Cell―外伝【Ryman Sorcerer】
「……」
唖然。
意味:信じられない物を見た時の表情。
車道の途中には往々にして青い背景の案内表示の看板があるもので。宗一郎が歩いて来た道も田舎道とは言えども当然ある。
それは良い。
問題があるのはそこに書かれている内容の方だ。宗一郎は馬鹿みたいな顔でそれを見上げている。
「…はんのう?」
そこには車両の速度でも認識しやすいように開発された独特のフォントで白く『飯能市街 4km』と記されていた。
飯能市。埼玉県第二の規模を持つ都市。
そう、『埼玉県』である。
ちなみに宗一郎が勤めていた会社があるのは阿佐ヶ谷で、自宅は吉祥寺。どちらも泣く子も黙る首都東京である。
地理には疎いので良く分からないが、少なくとも歩いて移動出来る距離では有り得ないだろう。
「…これは…」
どう言う事態だ。さすがに背中に冷たいものを感じ始める。
もう少し早く感じ始めないあたりに人より若干鈍いんじゃないかと言う説もあるのだが、まぁそれはそれ。
もう一度昨夜までの行動を思い出そうと試みるがやはりうまくいかない。
―ふぅん…。『こちら』でのあんたの記憶は弄られていないはずだから、思い出せないって事は無いと思うんだけどね―
頭の中で声がする。
結局この声が何なのかは考えない事にした。
大方自分の頭の中で生み出した幻聴のようなものなのだろうが、寝てる間に徘徊する上にそれではもはや救いが無いからだ。
―またあんたはそうやって…。まあ良いわ。それよりソーイチロー。記憶を操作されてないのに思い出せないって事は、あんたが無意識にその記憶を思い出さないようにブロックしてるって事かもよ―
なるほど。
ショックによる記憶喪失?いや、防御反応か。人間思い出したくない事にはプロテクトがかかると聞いた事がある。
「って事は、それが思い出せたら何でこんな所に居るのかが分かるのかな」
それは有り難い。単なる記憶喪失であるなら自分の頭がおかしいと言う線は大分薄くなる。
スーツがボロボロになってる理由もきっとそのショックに関係するのだろう。
となれば問題は大体解決だ。手が血まみれなのと石の声が聞こえる事は取りあえず置いといてだね。
―いや…それはどうかな。『扉』がどこに開くかなんて分からないから。あんたが知ってる所に来れただけでも奇跡的な訳だし―
と、ソウイルがまた何か良く分からない事を言ってるが無視。
何だか心が軽くなってきた。先行きが見通せるというのは安心なものだよ。
―単純…―
はっはっは。
何はともかく人が居る所まで行かないと何も出来ない。
市街まで4kmって事は小一時間も歩けば着くだろう。お腹も空いたし、服も着替えたい。
よしあと一息。
気合いを入れ直した宗一郎は革靴では歩きにくい車道をよたよたと歩き始めた。
それから三十分も歩いただろうか。ようやく遠くに街の景色が見え始めた。
普段運動を全くしていない割には特にくたびれる事無くここまで辿り着いた。意外に自分もまだまだ若い。
などと思っていると車道の横に駐車場を見つけた。
大型の車両を停める為の場所なのか、そこにあるのはトレーラーとかトラックと言った普段見ない車両ばかりだ。
そのトレーラーの丸みを帯びた車体を見た瞬間、宗一郎の頭をズキリと鋭い痛みが走った。
―どうしたの?頭痛がしたけど―
ソウイルが少し心配そうに聞いてきた。
そうか、五感を共有してるって言ってたから…。幻聴に理屈を求めても仕方ない。
「いや…何でも無いよ」
頭痛はすぐに消えた。脳梗塞だろうか…。行く年波には勝てない。
「あっ」
駐車場の隅に洗車用だろうか、水道を見つけた。良かった、手を洗いたかったんだ。
服はともかく手が血塗れなのは、これから街に入るのにはちょっとマズい。喉も乾いたし。
ゴロゴロとした砂利を踏みしだいて水道に駆け寄る。
日光で熱くなった蛇口を捻ると水が溢れ出て来る。手をさらすと水は温かったが、程なく冷たくなる。
心地良さに何となく嬉しくなり鼻歌などを歌いながら血塗れの手を擦り合わせた。
―冷たいわソーイチロー―
ソウイルが抗議の声を上げる。
我慢してくれ。大体冷たいのは僕の手だ。
この辺りの感想の違いを見ると、ソウイルとは感覚を共有してはいても情動は別々な事が良く分かる。まぁそんな事を考えても仕方ないが。
そんな事を思っていると、乾いてパリパリになった血液が見る間に剥がれ落ちていく。石もその青味がかった表面が現れてきた。
「お、中々綺麗じゃないか」
―褒めても何も出ないわよ―
冗談も言える。器用な石だ。
「〜♪………あれ?」
調子良く手を洗っていた宗一郎の動きが止まる。その眉根が寄る。
血の下から現れたのは見慣れた自分の手。歳相応にくたびれて張りを失った肌。
だがその状態なのは手の甲の半分程までだった。それから上、ちょうど握り拳を作れば相手に当たる辺りから先が何だが不思議な事になっている。
水から手を抜いた宗一郎は濡れた手をそのまま太陽にかざした。
「…何だこりゃ…」
光を遮るはずの影はそこには無く、宗一郎の手指は、太陽光を透過してきらめく何か透明なものに変わっていた
青味がかったそれはソウイルの石と同じ色をしていた。
市街の定義は民家や商店などが多く建っている場所だそうだ。
そんな庶民の生活の象徴のような場所も、お金が無い人間にはとことん冷たい。
「お腹空いたなぁ…」
宗一郎は随分往来が増えた道をトボトボと歩く。
財布が無い事に気が付いたのは市街に入ってからだった。
いつからだろう。少なくとも草むらで寝ていた時には無かったと思う。
「って事は記憶が無い間か…」
そうなるともう成す術が無い。
―ねぇ、どこに向かってるの?―
当てなどあろうものか。
「あ〜…、取りあえず交番かな」
適当な答えてみるが、良く考えてみれば遺失物の届出をしに行くのも、右も左も分からない今の状況なら悪い選択でも無いかも知れない。
根本的には何も解決されないが。
―ソーイチロー、悪い事は言わないから治安組織に行くのはやめた方がいいわ―
なんで?
―あんた今の自分の格好がどうなってるか分かってるの?―
ボロボロだね。
「それが?」
―だから、どう説明すんのよ。目が覚めたら一文無しで草むらで寝てました。服はボロボロですが記憶がありません、なんて言うつもり?―
ソウイルは少しイラついたような声を出した。
確かに、警察の目から見たらそれは最高レベルに危ない人に映ってしまうのは間違い無い。
それに―
「そうなるとこの手についても説明しないといけなくなるなぁ」
ソウイルと違って手の方はもう幻では済まされない。
何と言っても『物』がそのまま別の物に置き換わってしまっているのだから。
「ん〜…でもなぁ」
それらを差し引いても取りあえず警察には行った方が良いような気がする。うまく事情を説明出来れば家まで送ってくれるかもしれないし。
とその時、正面から歩いて来た人が何気無くこちらを見てギョッとした顔をした。露骨に顔を背けるとそのまま足速に去って行く。
またか。街に入ってからと言うものこんな感じで危ないものを見たように逃げられた事が何度かある。
ちょっとは心配してくれても良いのに。
鏡を見てないから自分の姿がどうなってるのか良く分からないのだが、どうやらかなりヤバい感じになっているようだ。
…やっぱ警察に行くのは止めとこうかな…。
いや、でも…。
そんな風にぐだぐだと考えながら歩いていたせいだろうか。肩に軽い衝撃を感じるまで宗一郎はこちらに人が向かって来ていた事に気が付かなかった。
「おっと、すみません。大丈夫ですか?」
大袈裟に地面に転がった男は、肩を押さえて大袈裟に騒いだ。
「あだだだだ!骨が折れた!」
君は医者かね。
「おいオッさん!人にケガさせといて詫びも無しかよ!」
しましたが。
男は骨が折れた割には元気に立ち上がると、骨が折れたはずの右腕を使って宗一郎の胸倉を掴んだ。
「よおオッさん。俺達の連れに何やっちゃってくれてんの?」
胸倉を掴んでいる男の後ろからさらに二人の男が宗一郎を取り囲む。
「まぁちょっとこっちで話そうよ。なっ?」
と、左右から両腕を掴むと、宗一郎は捕まった宇宙人のように成す術無く路地裏へと連れ込まれてしまった。
その時になってようやく真っ白になっていた頭が働き出す。
そうか、これがオヤジ狩りか。
―感心してないで―
ソウイルが呆れたような声を出す。
いや面目ない。
―まったく。この手の馬鹿はどこにでもいるのね。で、どうすんの?―
なぜかソウイルは少しワクワクしたように言う。
や、どうするもこうするも無いんだ。
―そうね。あんたならこんな子供、魔法を使うまでも無いわね―
買い被り過ぎです。魔法?
「何一人でブツブツ言ってんだよ!」
声に出していたかい。
少年達は宗一郎を壁に押し付けると完全にその周りを取り囲んだ。ちょっと逃げ場が無い。
「なぁオッさん。そのカッコどうしたの?」
「もしかしてカツアゲにあっちゃったのかなぁ?」
「ならさぁ、俺達にもおこづかいちょうだいよ」
「お〜お〜。そうだよ。じゃないとフコーヘーだもんなぁ」
少年達は口々にまくし立てる。
君達は分かりやすくて良いなぁ。
「あ?ナニその目?ナメてんの?ナメてんでしょ?」
「そう言う事?へ〜そう言う事。あ〜あ、せっかくオンビンに済ませてやろうと思ったのに」
「あんまり反抗的だとさ痛い目見ちゃう、ぜ!」
言うやいなや振り上げられた少年の拳が、空を切る。
「おっ?」
避けれた?
「何避けてんだよ!」
無茶言わないでくれ。
今度は別の少年二人が同時に攻撃を繰り出した。蹴りと拳。どうやら脚を崩してから拳を叩き込むつもりらしい。
だが不良の割には中々のコンビネーション。特に蹴りの少年はしっかり腰も入っていて、ちゃんとした格闘技の経験があるのは確実…と、そこでハタと気が付く。
今何を考えてた?
「オラァ!!」
「あてっ」
キレイに関節に入った蹴りに膝が折れ、バランスを崩してがら空きになった腹に拳が叩き込まれた。
鈍い衝撃が全身に伝わり、さらに振り下ろされた拳が後頭部を打つ。
幼さ故の手加減の無さで少年達が宗一郎を打ちのめしていく。
眼鏡がひしゃげ、ただでさえ破れかけていたスーツのあちこちからビリビリと音がする。
そして宗一郎の身体にはどうしようも無くダメージが、ダメージが、ダメージ…
「…あれ?」
痛くない?
ぽかんとした顔で立ち上がった宗一郎を見て、さすがに少年達は一歩後ずさった。
「おいおい…なんだよこいつ」
「ちょ…おかしいだろ」
―あははっ!良いわねソーイチロー!―
そんな少年達の様子を見てソウイルが歓呼の声を上げる。
何か生き生きしてるなぁ…。
―さぁソーイチロー!今度はこっちの番よ!やっちゃいなさい!―
「ん、よし」
宗一郎は恐怖で握り締めていた拳を開くと勢い良く振り上げると、右側を塞いでいた少年を押し退け全力で走り出した。
―ちょっとちょっと!どうして逃げるのよ!!―
ソウイルが抗議の声を上げる。
「いやほら、三十六計なんとやらってさ、言うじゃない」
―何それ!?―
まったくこの幻聴はものを知らない。
「だからさ、僕はケンカとかした事無いから。多勢に無勢だし、逃げた方が良いって」
平和主義なんだよ。痛いの苦手だし。
―なっ…!―
ソウイルが言葉を失う。
―戦った事が無いって…あんたがそれを言うの?―
「え?」
―んー、…調子狂うわね。まぁ良いわ。でも逃げるなら何で路地の奥に向かってんのよ?―
う〜ん、ケアレスミス?
―馬鹿!もう、平和主義だってんなら逃げ切ってから言いなさい。ほら、追いつかれてるわよ―
「いっ!?」
さすが若者。脚が速い。
―あんたが遅過ぎるのよ―
昔から速い方じゃ無かったんだよ。でも今日は歳の割には頑張ってる方。息も上がらないしさ。
「待てコラァ!」
「逃げてんじゃねぇ!」
少年達の怒声がすぐ後ろで聞こえる。
「ひ〜!」
路地は抜けるどころかどんどん深くなっていく。
ど…どうしよう。
―もう倒すしかないでしょう。いいソーイチロー。良く聞きなさい。あんたは普通の人間じゃないの。すごい力を持ってるの。あんな子供なんて何十人居てもお話にならないくらいの…―
「へ〜そりゃすごいね〜」
―っ!人の話を聞きなさい!―
幻聴の余田話などに耳を貸してる余裕などない。
とにかく今はどうやってこのピンチを切り抜けるかで…。
「おわぁ!」
突然何かに脚を取られた。
バランスを崩した身体が地面に叩き付けられる。
「痛たたた…」
―痛くない痛くない―
痛いよ。
…あれっ痛くないか?
―この程度の損傷はダメージの内にも入らないわ、私達にとっては―
?
―それよりほら、来たわよ。どうすんの―
ヤバっ、そう思った時にはお尻を後ろから蹴り飛ばされていた。起き上がりかけていた身体が無様に転がる。
「ったく、てこずらせやがって」
「ナメた真似してくれんじゃねえかよ」
「覚悟は良いよなぁ、オッさんよぉ!」
そう言って少年の一人が地面に落ちていたコンクリートブロックを持ち上げた。さっき脚を取られたのはあれらしい。
殴られても平気だったし、あれも平気かな?
―あ〜…あれはちょっとマズいかな…―
そんな聞きたくも無い呟きが聞こえた直後、少年が勢い良くコンクリートブロックを振り下ろして来た。
ご丁寧にもこちらに向けられた角が凄い速度で落ちて来る。
狙ってるのは頭かな。角は三面の頂点が合わさってエネルギーが集中するから、当たったらダメージレベル2は免れないな…とか。訳も無くそんな事が分かった。
コンクリートブロックのザラザラした表面が妙にはっきり見えて…。
「っ!!」
直撃する直前、宗一郎は思わず頭を両腕でかばった。手にコンクリートブロックがぶつかる堅い感触がして…。
しかし頭を砕くはずの衝撃はいつまで経っても訪れなかった。
「ぎゃっ!!」
「ぐわぁ!!」
代りに響いてきたのは少年達の叫び声だった。
「あ…え?あれ?」
恐る恐る目を開けると、そこには腕やら脚から血を流した少年達がうずくまっていた。
な…何?
「うわぁぁ…あ、脚が…脚が痛えよぉ…」
「大丈夫かい?何がどうして…」
手を差し延べた宗一郎を見て少年達が再び悲鳴を上げた。
「な…何だよその手…」
「ば、化け物…化け物だ!!」
「うわぁぁぁぁぁぁ!!」
にわかに狂乱に陥った少年達は、血が流れるのにも構わず信じられないような勢いでその場から走り去ってしまった。
「えっと…」
一人取り残された宗一郎は呆然と小さくなる背中を追った。
取りあえず助かったみたいだが、何が何だか良く分からない。
何気無く頭を掻こうと右手を持ち上げたその時。
「わっ!?」
突然視界を赤い光が襲った。懐中電灯でも当てられたかと思ったが、違った。
その光は宗一郎自身の右手から発せられていた。いや右手そのものが発光していたのだ。
「???」
光はただの光では無く、何か無数の文字のようなものを形作り、指先の方に向かって流れている。
光は徐々に終息していき、やがて完全に消失した。
後に残されたのは青味がかった透明な指。触れてみれば柔らかさも暖みもあるのに、そこは明らかに人体の構成物とは違う『何か』に置き換わってしまっている。
全身から冷たい汗が染み出て来る。
地面にはバラバラに砕けたコンクリートブロックの残骸。そして左右にそびえる建物の壁にはコンクリートブロックの破片が無数に食い込んでいた。
その光景はテレビで見た散弾が打ち込まれた壁に良く似ていた。
…ソウイルは、さっき何て言っていた…?
―あんたは人間じゃないって言ったのよ―
その声を聞いた瞬間、宗一郎の身体がビクリと震えた。
―まったく。私の言う通りにぶちのめしておけば大怪我させずに済んだのに。馬鹿な男―
宗一郎は震える手でポケットに入れていた声の主を取り出した。
指と同じ色をした透明な石。
だが良く見ればその内部を赤い光が走っているのが分かる。
ソウイルが言葉を発するのに呼応して、大きさもバラバラな文字が縦横無尽に駆け巡る。
「…き、君は一体…」
―言ったでしょ。私はS2ソウイル。人を殺す為だけに造られた、悲しい破壊兵器の成れの果てよ―
宗一郎が怯えている姿が面白いのか、それともやっと話を聞いてたのが嬉しいのか、ソウイルは楽しげな声を出した。
宗一郎の頭を再び頭痛が襲う。
今の言葉を、どこかで聞いた事がある。
ソウイル…、違う。彼女じゃない。もっと別の誰か…。
思い出せない。
しかし、別の記憶の扉が開いていく。
タンクローリー。押し潰される身体。視界を塞ぐ灼熱の炎。
そして、炎を切り裂いた一陣の光。
ああ、そうか。
―認めなさいソーイチロー。あんたはもう人間じゃないわ―
思い出した。
「僕はあの時…死んだんだ…」




