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第1話

 それは浅い眠りの時に見る、脈絡の無い夢だった。

 薄桃色に染まった視界の中で指一本動かせない。

 円形のガラスの向こうに立つ白衣の男が何かを話しかけているが、確かに聞こえているはずの声が聞こえない。

 ただ情報だけが、話の内容だけが頭の中に再生されていく。

 

 ―…私にも娘がいるんだ。もう長いこと会ってはいないが…―

 

 夢の常として話は断片的で要領を得ない。

 夢の中の自分は男に何か言葉を返した。

 だがその声も聞こえない。いや、水の中にいるなら声を出している訳では無いのだろうが、その内容すら頭には浮かんでこない。

 自分の言葉を聞いた男の頬が少し緩む。

 

 ―…そうだな。同じ父親のよしみだ。君を必ず元の世界に帰す…―

 

 他人の記憶を覗いているような奇妙な気持ちでそのやり取りを眺めていた時、唐突に思い出した。

 男の声が聞こえないのでは無い。

 思い出す事ができないのだ。


 ―…だが一つだけ協力してくれソーイチロー…―

 

 自分の言葉が思い出せないのは、記憶が失われてしまったからだ。とても大切な記憶だったはずなのに。

 

 ―…安心してくれ、君は奴らの造った紛い物とは違う…―

 

 これは夢では無い。これは夢では無かった。これは…

 

 ―『扉』を破壊する―

 

 これは現実に起きた事だと。

 

 

 

 

―Crystalline-Cell―外伝【Ryman Sorcerer】

 

 

 

「おお…」

 仏壇に自分の遺影がある。写真は去年社員旅行で撮ったものを使ったらしい。中々良く撮れている。昔から写真写りは良いのだ。

 すぐ横には永遠に美しいままの妻の写真が寄り添っている。彼女に再会できたかもと思うと少し残念に思わなくも無い。

―あら、キレイな奥さんじゃないの―

 どこからかそんな声が聞こえる。

 そりゃどうも。

 何となく自分の遺影に手を合わせてから宗一郎は台所のテーブルについた。

 さすがに破れたスーツは着替えたので今は着慣れた部屋着である。眼鏡は一応予備を掛けているのだが昔作った物なので度がずれていてちょっと見えにくい。早急に新しい物を作る必要がある。

「はい、コーヒー」

「ありがとう」

 漣が出してくれたカップから湯気を上げる小麦色の液体を眺めていると、やっと自分の家に戻って来た実感が出て来た。

 チン、と軽い音を鳴らしてトースターが止まる。中から程良く焼けたランチパックを取り出すと、漣は皿に乗せたそれを宗一郎の前に置いた。

 宗一郎は心の中で思わず感嘆の声を上げる。

 おお、神よ。どんなにこの瞬間を待ちわびた事でしょうか。

 自分の分のコーヒーをテーブルに置いて、漣は対面のイスに座った。

 漣はまだ制服のままだったが学校は休ませてしまった。悪い事をしてしまった。

 宗一郎はトーストしたランチパックを手に取ると早速口に入れる。サクサクとした表面と中から溢れるチーズの食感を楽しむ。全くこんな美味いものを作り出したパン屋さんは偉大だ。

―娘も可愛いのね。全然似てないわ―

 また声がした。

 自慢の娘だ。自分なんかに似てもらっては困る。

―ふふっ―

 声が軽く含み笑いを漏らした気配がした。

 朝の通学出勤の喧騒の時間を過ぎれば、大きな通りも無い住宅街は驚く程の静寂に包まれる。

 テレビも付けていないキッチンには宗一郎のトーストをかじる音と、漣が皿にコーヒーカップを置くカチャンと言う音だけが響いている。

「……」

「……」

 宗一郎がそっと伺うと、漣は宗一郎を見るでもなくテーブルの真ん中辺りに目を落とし無言でコーヒーをすすっている。

 宗一郎は再びトーストをかじる。

 どこかの家で干した布団を叩く音が遠くから響いてくる。

 …気まずい。

 奇妙な緊張感を持った空気をバンバンと乾いた音が掻き回す。

 そう。ここ一年くらいはいつもこんな感じだ。何か言いたいと思っているのに上手く言葉が出てこない。

 例の声はおしゃべりな癖にこんな時は一言も口をきいてくれない。宗一郎はポケットの中の硬い感触をグーで殴り付けた。

 手が痛いだけだった。

「…あのー、漣ちゃん?もしかして…怒ってる?」

 恐る恐るそう聞いた瞬間、コーヒーカップを置いた漣が弾かれたように顔を上げ、両手をテーブルに叩き付けて立ち上がった。

 衝撃でカップが跳ね上がり、ガチャンと大きな音を立てる。

 宗一郎の身体が凍り付く。

「当たり前でしょ!私や伯父さんがどれだけ心配したか分かってるの!?急に帰って来なくなるし!ケータイは繋がらないし!会社に電話したら女言葉の変な男が出るし!!」

 あの人はオカマ!?漣はヒステリックに叫んだ。

 男色の気は無いと思う。変態に違いは無いけど。

「そしたら急に警察から電話がかかってきて…父さんが…ひぅ…し、死んだって…」

 言葉を詰まらせた漣を見て宗一郎は先程とは別の意味で凍り付いた。

 漣の母親譲りの、大きくて黒目がちの目から突然大粒の涙が溢れ始めたのだ。

 そうなると宗一郎としてはひたすらうろたえるしかない。

 ど、どどどど…どうしよう。

―知らないわよ―

 やっと答えてくれたのに声は冷たかった。

 漣は自分の涙に気が付くと顔を隠すようにテーブルに突っ伏した。

 再び訪れた静寂。

 漣のしゃくり上げるような嗚咽だけが響く。

―ったく。何か声をかけてあげなさいよ。父親でしょ―

 や、そうなんだけどね。

 女の子の涙は本当に苦手なのだ。昔から。

「…った…」

「へっ?」

「…良かった、生きてて、…父さん…。私…一人だけに…ひぅっ…こんなに沢山…部屋は使えないって…誰も…誰も居ないのに…」

 嗚咽に混じって途切れ途切れに言葉を繋ぐ漣を見て、宗一郎は結局この言葉しか浮かばなかった。

「ごめんな、漣」

 艶やかな光沢を放つ黒髪にそっと手を置いた。

 母さんに良く似た黒髪。そこから伝わって来る体温を感じる。やっぱり自分はまだ生きているのだ。

 漣は一際大きな声を上げてしばらく泣き続けた。

 

 

 

         ● 

 

 

 


 閑静な住宅街を一人の男が歩いている。

 背は高くも低くも無い中肉中背といったところか。

 服装は半袖の上着からインナーのタンクトップそしてジーンズ。靴や帽子までが黒で統一されている。

 細身だが筋肉質な体付きに黒い服は良く似合っていると言えたが、全体的に見るとどこか特徴が無く、道ですれ違ってしまえば十秒後には記憶から消えてしまうような、そんな格好だった。

 帽子の下から覗く顎はまだ若い、いっそ幼いとも言えるラインを残している。

 男は特に気取る様子も無く普通の足取りで住宅街を抜けて行く。

 真夏の日差しは強く溶けそうな程に熱せられたアスファルトからは陽炎が揺らめいている。

 角を曲がると突然視界が開けた。目の前には中程度の規模の公園。

 樹木の緑に覆われた公園には日陰が多く、見るからに涼しそうだ。虫の少ない住宅街にあって、そこだけが自然溢れる森のように蝉達が精一杯求婚の鳴き声を上げている。

 だが男はそんな光景に見向きもせず公園の前の通りを進んで行く。

 道の脇に立つ壁には数メートル前からずっと、何かを強く擦り付けたような傷が続いている。

 傷はさらに十メートル以上も先まで伸び、その先には真新しい自販機、そして突き当たりには閑静な住宅街には不釣り合いに焼け焦げたアスファルトと壁が見えた。

 壁には大きな穴が開き、近付くとまだ僅かにきな臭さが鼻を突く。

 穴のそばには小さな花瓶が一つ。黒一色の視界の中に鮮やかな色を落としている。

 男は焼けた範囲を検分するようにぐるりと歩くと、壁の穴の前でしゃがみ込んだ。

 ほとんどは警察の調査で持ち去られてしまったので、その近辺にはほとんど何も残っていない。

 しばらく穴の断面を眺めていた男は、ふと何かに気が付くと壁の向こう側―住宅街なので民家の敷地だ―に手を伸ばした。

 引き戻した手に握られていたのは何と言う事の無い小さな石ころだった。

 だがその質感は普通の石とは異なり、明らかに元は壁の一部だった事が分かる。

 男は手の中で軽く石を転がすと、ある部分で動きを止めた。

 それは小さな石の、さらに小さな断面。

 断面は妙になでらかで艶があり、元々その形に成型したのだとしても造り得ない、まして破壊されてできる事は決して有り得ないものだった。

 男は感触を確かめるように断面を擦る。

 その時、上着の胸ポケットに入れた携帯電話が細かく振動し着信を告げた。男は画面を確認すると携帯電話を耳に当てる。

「俺だ」

 声の質の割りには落ち着いた喋り方で男はマイクに声を吹き込む。

「ああ、見つけた。間違ない、埼玉で見つかったのと同じだ」

 男はもう一度石を手の中で転がすとポケットに入れる。

「あ?ああ。大丈夫だよ。ちゃんと袋に入れたから」

 言いながら少しあちこちのポケットに手を入れて何かを探していたが、見つからないのかすぐに諦める。

「そっちはどうだ?『A』の家に何か変化は」

 壁に寄り掛かった男の表情が―口元しか見えないのだが―僅かに変化した。

「…そうか。いや、俺が行こう。お前はそのまま監視を頼む。ああ、『あさつき』に繋がる大事な手掛かりだからな。万全を期そう」

 その後も一言二言交わし、男は携帯電話を閉じた。

 壁から背中を離し、立ち去る直前にふと脚を止め花瓶を眺める。

「…」

 少しだけ考えた後軽く花瓶に手を合わせ、今度こそ脚を止めずにその場を後にする。

 踵を返した瞬間、首から下げたネックレスに付けられた透明な石が陽光を反射してキラリと光を上げた。


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