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 日本に帰ってきて、僕はまた以前と同じ生活に戻った。制服を着てカバンを持って、毎日学校に通うようになった。学校は隣町にあったので、僕は汽車に乗って通っていた。でもある日、こんなことがあった。



 その日の列車は、大してこんではいなかった。ラッシュにはまだ間があったし、土曜日の午後でもあったし。

 でも、誰も座っていない座席は見つからなくて、僕は車内を歩きながら、どこか空いている場所はないか探していた。向かい合った四人がけの座席だったけど、どこも一人か二人座っていて、誰もいない座席はなかなか見つからなかった。この日は朝方雪が降っていたから、列車の床はぬれて滑りやすくて、歩きにくかった。

「献鹿さん」

 不意に名前を呼ばれて、僕はびっくりした。すぐに振り返って、そっちを向いた。

 僕がたったいま通り過ぎたすぐそこの座席に女の子が座っていて、僕を見つめていた。僕と同じように学校帰りらしくて、制服を着て、カバンをひざに乗せていた。

 僕はすぐに、それが誰なのかわかった。僕は彼女を知っていた。何年も会っていなかったけれど、一目でわかったんだ。従姉だから。ずっと以前、まだ小学校にも上がっていないころだったと思うけど、親戚の集まりなんかで何回か会ったことがあったから。

 彼女の名前は、青垣冬子といった。僕より二つ年上で、とてもきれいな人だったけれど、それ以外の理由でも、僕は彼女をよく覚えていた。なんていうか、顔を見ているだけで不安になって、胸騒ぎがしてくるような女の子だったんだ。

 僕にはその感じがうまく説明できないのだけど、あのころ僕は五歳か六歳だったはずだけど、顔を見ているだけで、火薬を山ほど詰め込んだ砲弾のつやつやした表面を眺めているときとか、外科手術に使う銀色のメスの冷たいなめらかな刃で肌をなでられているときのような、そんな不安な感じがしてしまう女の子だったんだ。胸騒ぎと言ったのはそういうことで、僕が冬子を好きだったとか、そういうことではなかっただろうと思う。

 そういう小さいころでも、僕は冬子と口をきいたことは一度もなかったと思うし、それ以後も一度も会ったことがなかった。でもそれがどういうわけか、その冬子が列車の中で僕を見つけて、話しかけてきたんだ。

 僕は、少し後戻りをして冬子のところまで行って、ちょっとためらってから、冬子の斜め前の座席に座った。はす向かいになるのだけど、こうやって女の子のそばに腰かけるところを誰かに見られたらどうしようと思った。こうるさい大人の目というのは、どこにだってあるから。でも冬子は従姉なんだから、そういう言いわけも立つかな、と僕も考えたりはしたけれど。

 だから座席に座っても、まっすぐにではなくて、僕は何となく横目で見たのだけど、冬子は小さいころと同じようにとてもきれいだった。もう十年ぐらい会っていなかったわけだけれど。

 冬子は女学校の三年のはずだった。そして、冬子がどこの女学校に通っているのか、僕にもすぐにわかった。

 冬子が着ていたのが、見覚えのある制服だったから。このあたりではよく知られている女学校だったし、変わった制服だから、他の学校の制服と見間違えるはずはなかった。

 真っ白な制服だった。上着とスカートがひと続きのワンピースで、本当に真っ白だから、汚さないようにしたり、清潔に保ったりするのが大変そうだった。

 夏服だったら、こんなふうに真っ白でも涼しそうでいいのだろうけど、このときの冬服もそうだったから、それは少し寒々しかった。でも純潔とか純粋とか、純真無垢とかいうことに非常にこだわる学校らしいから、そういう制服もわからないではなかった。お仕着せの冬のコートだって、エリに赤い細い線が一本入っている他は、ボタンまで真っ白だったんだから(このコートは、きちんと折りたたんで冬子の隣に置いてあった)。でも当の女学生たちは、みんなプライドを持ってこの制服を着ているようだった。

 冬子の制服には、しわも汚れも一つもなかった。折り目も、つい今さっきプレスしたばかりみたいで、まるで制服屋の店先でマネキンが着ている見本みたいだった。だけど、その制服はあまりにもきれいだった。きれいすぎた。

「その制服、新品なの?」僕は言った。

 実をいうと僕は、女の子と口をきいたことがなかったものだから、ひどく恥ずかしかった。何の話をすればいいのかもわからなかったし。だから制服のことでも何でも、とりあえず話題にできることが見つかって、ほっとしていた(いっておくけど、佳奈は女の子のうちには入らないからね)。

「はい」

 冬子は小さな声で、短く答えた。

 でも、僕にはまだ納得できなかった。卒業まであと一年しかないのに新しい制服を作ったりするもんだろうか、と思ったんだ。あの制服は一着一着、専門の店に特注するものだそうだから、ひどく高価なはずだった。冬子の家は金持ちだから、そんなお金に不自由することはないのだろうけど。

 僕は少しの間、そんなことを思いながら冬子の制服を眺めていた。不意に冬子が言った。

「学校を卒業なさったら、献鹿さんはどうされるのですか?」

 突然そんなことをきかれて、僕はびっくりして冬子を見つめ返したのだけど、そうしたらもっとびっくりすることに、冬子は僕とまっすぐに視線を合わせたんだ。

 僕の偏見かもしれないけれど、女学生がそんなことをするなんて、僕にはとても信じられなかった。それも、あの女学校の生徒が。青垣家の娘が。

 だけど冬子は、やっぱり僕を見つめていた。

「うん、叔父さんが働いていた鉄道会社が雇ってくれるって」僕は答えた。

「ロンドンから機関車を持って帰ってきたごほうびでしょうね」

 僕は、バカみたいな顔をして冬子を見つめ返していただろうと思う。僕は冬子のことなんか、今日こうやって再会するまですっかり忘れていたんだ。だけど冬子は僕のことを覚えていて、それどころか、僕のことを少しは知っているらしかったから。

「なぜ知ってるの?」僕は言った。

「母から聞きました。献鹿さんのお母さまと母とは、今でも少し行き来がありますから」

 こうやって僕と冬子が話をしている間も、列車は走りつづけていた。機関車から出る黒い煙が窓の外にときどき顔を出して、床下でレールの継ぎ目がガタンゴトンといっていた。

 列車が鉄橋にさしかかった。大きな川を渡る長い鉄橋だ。ガランガランと大きな音がして、トラスの鉄骨が窓の外で踊りはじめた。その向こうには、水量の多い流れと、雪が積もって白くなった広い川原とが見えている。いつもならこの川原は、枯れた草や、捨てられたり流されてきたりしたゴミがたくさんあってひどく汚らしいのだけど、この日は雪がそういうものをぜんぶ隠してしまっていたから、とてもきれいだった。

「ご存じですか? 以前この鉄橋で、大きな列車事故があったそうですよ。何年も前のことですけど」冬子が言った。

「えっ?」

「事故です。汽車の」

「知らない」僕はそんな話、聞いたこともなかった。

「汽車が、この鉄橋の上で脱線転覆したそうです。人が百人くらい死んだそうですよ。前の日の大雨で橋脚の根本がえぐり取られていて、そこへ汽車が来たのだそうです」

「そんな話、聞いたこともないよ」

「私は大叔父から聞きました。私の家には、そのときの写真もあります」

 それで思い出したのだけど、冬子の大叔父というのは、以前は写真師だったんだ。写真館をやっていた。なんのかんの言っても親戚のことだから、僕も少しは知っていたんだ。

 僕も一度か二度、その人が撮った写真を見せられたことがあるような気がする。刀をさした侍がカメラの前でポーズを取っているところとか、お歯黒をした女たちが並んで立っているところとか、このあたりで最初に建てられた洋館の工事の様子とか。

「列車事故のとき、大叔父はたまたま近くにいたから、直後の様子を写真を撮ることができたのだそうです。私もその写真を見せてもらいました。身重の女の人のおなかが破れて、赤ちゃんが外に飛び出していたり、男の人の首がなくなっていたり、誰かの片腕だけが、レールとレールの間にポツンと落ちていたりしました」

 僕はまたびっくりしていた。これって、まるで年頃の女の子が話すことのようじゃなかったから。

 冬子ってなんて女の子なんだろうと思った。だけど、悪い意味でじゃない。僕は本当に感心していたと思う。

 冬子は僕を見て、にっこりした。僕は、あんまりほめられたことじゃないかもしれなかったけど、ぼうっとしてしまって、冬子から目が離せなくなった。

「私の学校も、ああいうことがあって大変でした」

 また冬子がこんなことを言い出したので、僕はもう一度びっくりしなくてはならなかった。でもおかげで、この場であの件を話題にしてもいいんだとわかった。それまで僕は、わざとその話題を避けていたから。

 それは、誰だって知っているある殺人事件のことだった。さっき冬子と出会って、すぐに僕は思い出したのだったけど、話題にしちゃまずいかと思って、ずっと黙っていたんだ。それを冬子の方から話しはじめたわけだね。

 一カ月ぐらい前のことだけれど、冬子が通っている女学校で殺人事件があったんだ。新聞にも大きく出たから、覚えている人も多いだろうけど、ある日の放課後、女の音楽教師が刺し殺されているのが見つかった。彼女は音楽室のピアノのそばに倒れているのを発見されたものだから、新聞は大きく見出しをつけて、音楽室殺人事件と書いた。それで大騒ぎになったのだけど、一カ月後のこの時になっても、まだ犯人は捕まってはいなかったんだ。

「私は、なくなった先生からピアノの個人教授を受けていたのです。でもこれを機会に、ピアノを習うのはやめることにしました」冬子が言った。

「その先生、どんな先生だったの?」僕だって、少しは興味を持って新聞記事を読んでいた。でも新聞だけでは、詳しいことまではわからなかった。

 冬子は僕を見つめていた。

 このときの冬子の表情を、僕はよく覚えている。というよりも、一生忘れられないだろうという気がする。

 冬子は、あの年ごろの女の子がよくやるように、顔をちょっと伏せて、それでも上目づかいに僕を見ていた。まるではにかんでいるような顔つきだったけど、でも僕にはそうは思えなかった。僕は冬子の顔を見ていて、瞬間にそう感じたのだけれど、冬子は笑っていた。それも、照れて笑っているというのではなくて、せせら笑って、ほくそ笑んでいたんだ。してやったりみたいな。自分だけが真実を知っているというような。

 だから僕にはわかった。証拠はなかったけど確信できたんだ。冬子があの女教師を殺したのだと。

 冬子はピアノの個人教授を受けていたそうだから、事件の日がレッスンの日じゃなかったとしても、冬子が音楽室に入ってきても、女教師は怪しみも警戒もしなかっただろうね。そのとき、音楽室の中にはこの女教師だけがいて、そこへ冬子が一人でやって来たとしても。冬子がカバンの中にナイフを隠し持っていたとしても。女教師は「何か質問したいことでもあるのだろう」ぐらいにしか思わなかっただろうね。

 僕が考えていることが伝わったのかもしれないけれど、冬子が口を開いた。僕に向けて、顔を少し上げた。それでも少し横を向いて、まっすぐに見ないようにはしていたけれど。

「頭の固い変な先生でした。何でもないことで急に怒り出したりする人でした」冬子は、今度こそ僕をまっすぐに見つめた。冬子は少し笑った。

 僕はもう一度、冬子が殺したんだと思った。根拠はまるでなかったし、動機の見当もつかなかったけど、僕は確信していた。

 卒業まであと一年しかないのに新しい制服を買ったことだって、ナイフで人を刺せば返り血ぐらい浴びるだろうから、そのとき着ていた制服は真っ赤になってしまったのだろうね。事件が起こったのは一カ月前で、もう寒くなっていたから、冬子はきっとコートを着て登校していただろう。血のついた制服をそのコートで隠して、冬子は学校を離れたのだろうけど、制服は完璧に白く保たなくちゃならないわけだから、しゅっちゅう洗いに出すことなんかを考えても、少なくとも数組、普通の学校の生徒よりもたくさん必要だろうから、血で汚れた制服を捨ててしまったら、新しい制服がもう一組必要になったのだろうね。

 このときになって気がついたのだけど、コートも新品のようだった。血のついた制服の上に着れば、コートだって汚れてしまうだろうから。

 新聞で読んだときから僕は思っていたのだけど、どう考えたって、学校内部の犯行に違いないと思えた。外部の人間が女学校へ入っていけば、すぐに目立ってしまうから。だから犯人は内部にいるに違いない。

 だけど警察も学校も、それを認めたくないのだろう。新聞を読んでも、学校の外から犯人が侵入したという前提で捜査が進められているようで、意地でも内部犯行説を取る気はないようだった。

 女学校内部の人間、それも女子生徒が犯人かもしれないなんて、誰も絶対に認めないつもりなのだろう。女子生徒を逮捕しなくてはならないはめになるくらいなら、このまま事件を迷宮入りさせた方がましということなのだろうし、その方が全員が安心できる。あの女学校はとても有名だから、その名前にキズがつくことは、どうしても避けたいのだろうね。学校の名前にキズがつくことに比べたら、女教師ひとりの命の方がはるかに軽い。逆に言えば、犯人にとってはこれほど心強い味方はいないね。

 だって世間では、あの学校に自分の娘を入学させることや、あの学校の卒業生を嫁にもらうことは、本当に大したことだとされていたから。それを人生の目標みたいにしている連中もいるようだったし。

 とても小さな学校で、毎年十五人しか新入生を取らなかったし、勉強ができるだけじゃなくて、しかるべき人間の推薦とか、家柄とか資産とか、そういうものも必要だったから。卒業生たちも、慈善活動などでよく新聞記事になっていたし、どこの会社でも役所でも、この学校の卒業生を優先して雇い入れるというのは、うわさ話ではなくて、ほとんど常識になっていたから。

 だから、学校内部から犯人が出るなんて絶対にあってはならないことで、学校外で犯人を見つけるか、でなければ迷宮入りになるというのは、初めから決まっていたようなものだね。冬子が最初からそこまで計算していたとは僕も思わないけれど、今では冬子もそう考えているのだろう。僕はそう思った。

 それでも警察だって、一応は学校内部の捜査もやったのだろうし、ピアノの個人教授を受けていたということで、冬子も事情をきかれたりはしただろうけど、事件の日にはレッスンの約束はなかったと冬子が言えば、怪しいとは思っても、警察もそれ以上は追及しなかっただろう。青垣家には、警察だって手を出しにくいだろうから。

 冬子の斜め前に座ったまま、僕はそんなことを考えていた。

 でもおかしなことに、冬子のことが怖いとか、犯した罪を責めてやろうとか責任を取らせてやろうとか、そんなことは僕は全然思わなかった。冬子が殺人者だったらどうだというんだろう? 自分でもひどく驚いていたのだけど、僕には、冬子が殺人者だということが、ほとんど気にならなかったんだ。

 それどころか僕は、冬子に強く引きつけられるのを感じていた。それも、生まれてから一度も経験したことがないほど強く。逆らうことなんて、とてもできないぐらい。

 僕は冬子をじっと見つめていた。視線が引きつけられるというだけじゃなくて、僕の脳みそが、まるでもう冬子の方へ、糸みたいなものをつけられて、本当に引っ張られているみたいな気がした。冬子も、見つめられて恥ずかしがる様子はなくて、またにっこりした。

「献鹿さん、私のことがお好きでしょう?」冬子が言った。それから楽しそうに、クスッと笑った。

 僕は、笑っている冬子にまた心を奪われたのだけど、もう列車は駅に近づいていて、窓の外にはよく知っている町の風景が広がっていた。いつもは汚れた町だけど、この日は雪が積もっていたので、冬子の制服のように何もかもが白かった。僕は、もう自分は冬子からは逃げ出せないだろうと思った。

 列車が止まると、僕は冬子と一緒に降りた。冬子の家は、近所というほどじゃなかったけれど、僕の家から歩いて行けるぐらいの距離にあった。行ったことはないはずなのに、僕はなぜかそれを知っていた。

 駅を出て、僕と冬子は並んで歩いた。道は、踏まれて固くなった雪におおわれていて、滑りやすくて歩きにくかった。僕は、冬子が自分の家とは反対の方角へ歩いていることに気がついた。冬子の家はもっとあっちだ。こっちじゃない。でも冬子は、僕と一緒に歩くためにわざわざ遠回りをするつもりでいるようだった。冬子は何も言わなかったけれど、なんとなくわかった。




 二年後に学校を卒業して、僕はあの鉄道会社で働きはじめた。就職と同時に、僕は結婚もした。小さな家を借りて、冬子と二人で暮らすようになった。

 ある日の夕方、仕事を終えて僕が家に帰ってきたら、冬子が僕の顔を見て言った。

「お客さまがみえていますよ」

 僕はびっくりして冬子を見つめ返したのだけど、僕はまだ、なんとなくそうすることが恥ずかしかった。

「お客さん?」

 誰だろうと僕は思った。客が来るなんて、僕には心当たりがなかった。

「外国の方ですよ。欧州からいらしたとか」

 外国人の客なんて、余計に心当たりがなかった。それにしても、冬子は何の警戒もせずにそんな客を家に上げてしまったのだろうかと思った。

「なんでも、献鹿さんがロンドンにいらっしゃったときのお知りあいだとか。悪い人のようには見えませんでした」

 冬子には、こういうふうに僕の考えを先回りして察してしまうようなところがあった。一家の主婦というよりは、まだどこかのお嬢さんみたいな感じのする人だったけれど。

「ふうん」

 たしかにロンドンでは何人かと知り合ったけれど、それにしたって、わざわざ日本まで会いに来る人というのは見当がつかなかった。何かの用事でたまたま日本にやって来たから、ということならあるかもしれないけれど、それにしたって、日本へやってくる用事がある人というのも見当がつかなかった。でもそれは、会ってみればわかることだった。客は奥の部屋で待っているということだったから。

 冬子は僕の帽子を受け取って、帽子かけにかけてから、コートを脱がせてくれた。マフラーもはずしてくれた。

 僕は冬子と一緒に廊下を歩いて、奥の部屋まで行った。そこは客用の一番いい部屋ということになっていたのだけど、僕は金持ちじゃないから、大したものじゃなかった。床の間なんかもあったけれど、冬子の実家に比べたら、バカみたいなものだった。

 でも冬子は、僕が金持ちじゃないことを気にしてはいないようで、それが僕にはとてもありがたかった。冬子だって、嫁に来るときには持参金を持たされていたはずだから、ヘソクリというのかな、僕が知らない金を冬子は持っているのに違いなかった。だけど僕も冬子も、そんなことを話題にしたことはなかったし、実際どうでもいい気がしていた。普通に暮らしていくだけなら、僕の給料だけでもなんとかなったから。

 ところで、客というのは白人の男だった。畳の部屋で座布団の上に座って、あぐらをかいていたらしいけれど、僕と冬子の足音が聞こえてきたので、あわてて正座しなおしたという感じだった。こげ茶色の背広を着て、窮屈そうに座っている。僕はふすまを開けて、客間に入っていった。

 ノエル・デカポッドが日本間で、座布団の上に正座してこっちを見上げているところというのは、吹き出したくなるような眺めだった。色黒の雄牛が洋服を着て、所在なさげにちんまりと座っている。僕の表情を見てだろうけど、デカポッドはにやりと笑った。

「驚かしちまったかな」デカポッドは英語で言った。

「そうでもないです」

 僕は、にやにやしながら冬子を振り返った。冬子には英語はわからないのだけど、にっこりして僕を見つめ返した。もしかしたら冬子には、これがデカポッドだとはじめから見当がついていたのかもしれない。イギリスへ行ったときに経験したことは、僕は冬子にはよく話していたから。

 僕はデカポッドの前に座った。デカポッドの前にお茶とお菓子が出ていることに気がついた。冬子もいったん畳にひざをついたけれど、デカポッドの茶碗が空っぽになっていることに気がついたらしい。冬子は、またすぐに立ち上がった。部屋を出ていく。

「なんでえ、オレの顔を見ても驚かないのか」冬子が部屋を出て、ふすまを閉めていってしまうとデカポッドが言った。まだ少しニヤニヤしている。

「こんなところで何をやってるんです?」僕は言った。

「オレだって来たくはなかったさ。つまらねえ仕事さね」

 冬子が、新しいお茶を持って入ってきた。それをデカポッドの前に置いて、僕の隣に座った。

 デカポッドは、座布団の上で少し身体を乗り出した。「頼みたいことがあるから来たのさ。おまえにじゃなく、そちらのべっぴんの奥さんにな」

「冬子にですか?」僕はデカポッドを見つめ返した。それから、ちらりと冬子を見た。冬子は気がついて、にっこりした。

 デカポッドも冬子を見た。「そう、冬子って名前だったな。結婚前の旧姓は青垣だろう?」

 デカポッドが自分を見たり、〃冬子〃とか〃青垣〃とかいう言葉が聞き取れたせいだろうけど、冬子がなんだか不思議そうな顔をしていたので、僕は、デカポッドが言っていることを冬子に説明した。

 またデカポッドが言った。

「冬子さんの母上の青垣中佐に会いたいんだ。どうしても相談しなければならんことがあるんでな」

 僕は、デカポッドが言ったことをまた冬子に説明した。それを聞いて、冬子も少し驚いた様子だった。

「どういう相談なんですか?」僕はデカポッドに言った。

 デカポッドは平気な顔で答えた。「それはおまえには話せねえ。青垣中佐に直接説明したい。でもおまえにも、通訳として同席を頼まあ」

 そういうわけで、翌日の夕方のことだったけれど、冬子の母親、青垣中佐が僕の家へやって来た。この日の朝早くに冬子が実家へ帰って、デカポッドが会いたがっていると伝えたんだ。だから青垣中佐はやって来た。

 青垣中佐は、そんなに大きなものではないけれど、おかかえ御者つきの馬車を持っていて、それに乗ってやって来た。中佐が僕の家にいる間、馬車は玄関の前に止めてあったのだけど、それまでにも中佐がここへ来たことは何度かあったから、そんなに目立つ眺めではなかったと思う。たぶん。

 青垣中佐は海軍の軍人で、女の職業軍人というのは珍しかったし、士官となると、もっと珍しかった。それに中佐となると、海軍でも彼女ひとりだったんじゃないかなあ。ここ何年も戦争はなかったけれど、なんだか知らないけど、彼女は世間では知られていない大活躍をどこかでしたみたいで、今では最近新しく作られたポストについていて、横須賀港に出入りする艦艇の何隻かは彼女の指揮下にあるそうだった。

 そういう青垣中佐が僕の家へやって来たんだ。たぶん職場から直接来たのだろうけど、海軍の制服を着たままで。

 冬子はすぐに中佐を、デカポッドと僕が待っている部屋へ通した。デカポッドは日本風の部屋では居心地が悪そうにしていて、僕にはそれがおかしかった。

 部屋へ入ってくるとき、中佐は帽子を脱いでわきの下にはさんでいたので、つやのある黒い髪が見えた。後ろでたばねて、きちんとまとめてある。

 デカポッドがあわてて立ち上がったけれど、僕は座ったままでいた。デカポッドと中佐を眺めていた。

「青垣です」中佐は背筋を伸ばして、もう一度帽子をきちんとかぶって、海軍式の正式な敬礼をした。デカポッドは照れたように笑って、あやふやでいい加減な敬礼を返していた。

 青垣中佐は僕を見て、少しにっこりした。「元気そうですね」

 なぜだか知らないけれど、僕は青垣中佐は好きじゃなかった。義理の母なんて、そんなものかもしれないけど。

 デカポッドが座りなおした。中佐も座る。これから僕は通訳をしなくちゃならないわけだった。冬子も中佐にお茶を運んできて、僕の隣に座った。

 デカポッドが話しはじめた。「オレたちは、どうしてもあんたの協力が必要なんだ。青垣中佐」

 僕はそれを日本語に訳した。でも中佐は、何も言わずにデカポッドを見つめている。

 デカポッドがまた言った。「オレたちは、きのう横須賀港に入港したある船に関心を持ってる」

 青垣中佐はため息をついた。「正確には、あの船の積み荷にですね」

「ああ」デカポッドは、えらそうにふんぞり返った。

「よくご存じですね」中佐は、身体の力が抜けてしまった様子だった。彼女のそんなところは見たこともなかったので、僕は少し驚いていた。

 中佐が続けた。

「でも、なぜあなたが日本に来ているのです? もう海軍は退役なさったのでしょう?」

 デカポッドは首を少しかしげて、唇をゆがめた。「オレだって、好きで極東くんだりまで来たわけじゃねえさ。オヤジに勘当されそうになってさ、兄貴がとりなしてくれたからなんとか勘当は取り消されそうなんだが、交換条件としてこれが出てきた。この件を首尾よく終えることができれば、オレは遺産相続人にとどまることができる」

「大変ですね」

「まあな」

 しばらくの間、中佐もデカポッドも黙ってしまった。仕方がないから僕は、隣にいる冬子を見た。冬子はにっこりした。

「あのう」僕は日本語で言った。「それって、どんな積み荷なんですか?」

 デカポッドは日本語がわからないから、不思議そうな顔で僕を見た。中佐は僕を見つめた。

「蒸気タービンですよ」中佐が小さな声で答えた。

「え?」僕は目を丸くしていたと思う。

〃タービン〃という言葉が聞き取れたせいだろうけど、デカポッドが言った。

「日本海軍もなかなかの策士だわな。詳細は話せねえが、今度こそイギリス国外に持ち出すことに成功したわけだ。それが昨日、横須賀港に到着したということさ」

 中佐は、もう一度ため息をついた。「何もかもばれているわけですね。それであなたは、私に何をおっしゃりたいのです?」

 デカポッドの表情が少し険しくなった。ほんのわずかで、よく見ていないと気がつかないほどだったけれど。

「蒸気タービンは貨物船から降ろされ、もうすぐ横須賀から運び出されるはずだが、その輸送方法が知りたい。なんとか穏便に取り返したいのでな」

「でもこれは海軍の中の一派が計画したことで、私は直接かかわってはいないのです」

「それって、鯨派だよな」

「よくごぞんじですね」

「ああ。でもいつも思うんだが、おかしな名前の派閥だよな」

「海軍本省の前にあった鯨屋という飯屋でくだを巻いていた将校たちが中心になって作った派閥だからです。海軍の中では一番大きな派閥ですが、私は属してはいないのです。それにそもそも」中佐は、デカポッドをまっすぐに見つめた。「どうして私がイギリスに協力しなくてはならないのです?」

 デカポッドはちょっとの間、すました顔でなんとなくむこうを向いていたけれど、何かを決心した様子だった。中佐を見つめかえして手招きをし、座布団の上で身体を乗り出させた。もちろんデカポッドも同じようにして、中佐の耳に顔を近づけた。デカポッドの口が動くのが見えて、中佐の耳に何かをささやいた。

 何を言ったのか、僕と冬子には聞こえなかった。日本語だったのか英語だったのかもわからない。いくらデカポッドでも、日本語の短い文章ぐらいなら覚えることができるだろうし、中佐だって英語が一言もわからないわけじゃない。

 デカポッドの口が閉じて、中佐の耳もとから離れていったときには、もう中佐の様子は変わっていた。顔色が変わったというようなものじゃなくて、もっと大きな変化だった。何秒かの短いあいだだったけれど、息もできないでいる様子だった。中佐はデカポッドを見つめ返し、「本当ですか?」と言った。

「おう」デカポッドは無表情にうなずいた。

 長いあいだ、部屋の中はとても静かだった。僕や冬子はもちろん、デカポッドも中佐も口をきかなかった。だいぶたってやっと、「なんてこと」という中佐の小さな独り言が聞こえた。

 中佐はため息をついて、とうとう言った。

「そういうことであれば、私は協力するほかありません。何ができるかわかりませんが、努力はしましょう」

「ああ、そうしてくれると助からあ」デカポッドは、やっぱり無表情に言った。

 中佐は帰っていった。玄関まで冬子が送っていったのだけど、中佐は肩を落としているように見えた。中佐のそういう様子は見たこともなかったので、僕は何がなんやらさっぱりわからなかった。そのあと、デカポッドも帰っていった。近所に外国の船員向けのホテルがあって、デカポッドはそこに滞在していた。



 数日後の夕方、僕が会社の建物から出てきたら、目の前に馬車が止まっていた。御者の顔に見覚えがあったから、青垣中佐の馬車だとすぐにわかった。だけど、いるのは御者だけで、後ろの座席は空っぽだった。僕を見て、御者がすぐに降りてきた。

「お乗りください。青垣がお待ちしております」御者は言った。

 僕が後ろの座席に乗り込んで、御者が手綱を取って、馬車が動きはじめた。

 僕は、町はずれの公園へ連れていかれた。何ヘクタールもある大きな公園で、家族連れが散歩したり、若いカップルがデートをしたりする場所だけど、寒い日だったから、今はほとんど誰もいなかった。馬車は公園の入口のところで止まって、僕は一人で歩いて公園に入った。

 中佐はすぐに見つかった。公園の真ん中に池があって、そこで鳥を眺めていた。白や茶色の鳥が何羽かいて、水の上を泳いでいた。あんまりエサがありそうな池じゃないけれど。

 中佐もすぐに気づいて、僕に近寄ってきた。いつもそうなのだろうけど、背筋を伸ばして歩いてくる。海軍の制服を着ている。そういえば、僕はこの人が私服を着ているところは一度も見たことがないのだった。僕と冬子の結婚式にだって、制服で出席したような人なんだから。

「呼び出してすみませんでした」中佐が言った。この人はいつも、僕にはていねいな言葉を使った。冬子の夫だということで立ててくれていたのかもしれないけど、そうじゃない気もする。

「蒸気タービンの件ですか?」僕は言った。

「余計なことは言わなくてもよろしい。口を開けば開くだけ、秘密がもれる可能性が増すのですよ」中佐は小さな声で言った。

 中佐はひどく疲れている様子だった。元気がなくて、顔色も悪い。中佐が続けた。

「デカポッド氏には、こう伝えなさい。蒸気タービンは9884号という貨車に積まれて、横須賀港から列車で運び出される予定です。でも、積み込む日付まではわかりませんでした。四月一日以降になるのは確実のようですが、あとは本人が調べるでしょう。献鹿さんも鉄道会社にお勤めだから、お手伝いができるだろうし」

「僕もこれに関わるんですか?」

「スパイ活動はお嫌い?」中佐はかすかに笑った。ずいぶん悲しそうな笑顔だったけれど。

「逮捕されたりするのは嫌ですね」

「なら気をつけておやりなさい。部屋は前のまま空けてあるから、冬子はいつでも私のところへ帰ってこれますが」中佐は同じ調子で続けた。彼女の悲しそうな声を聞いていると、この件をスパイごっこみたいに感じておもしろがっていた僕の気持ちも冷えてくるようだった。

「僕が逮捕されたりしたら、あなたも困りますよね」

「ええ、本当に困ります」中佐はうなずいた。

「そうだ中佐、このあいだ、デカポッドさんから何をささやかれたんですか?」

 中佐の表情が固くなった。そして、ぴしゃりと言った。

「それは、あなたが首を突っ込むべき事柄ではありません。私の個人的なことです」

「はい」僕は、飼い主にしかられた犬みたいな顔をしていたかもしれない。中佐がかすかに笑ったようだった。

「そんなに縮こまることはありません」中佐は言った。「私は、あなたをなかなか高く評価しているのですよ」

「えっ?」

「あなたが見かけによらずしたたかな人だということは、私もよく知っているつもりです」この日はじめて、中佐はにっこりした。

「僕って、したたかなんですか?」僕はちょっと興味を感じた。この人が僕をほめるようなことを言ったのは、これが初めてだと思うから。

 中佐は僕を見つめた。白いきれいな顔なので、僕はちょっとどきどきした。

「でなければ、冬子を嫁にやったりするものですか。はじめは冬子を、ある政治家の家に嫁がせるつもりでいたのです。でもその前にあなたがしゃしゃり出て、冬子をさらっていってしまった」

「それって迷惑でした?」僕はちょっとうれしくなった。

「はじめはね。でもそのうちに、どこぞのボンクラ息子よりは、あなたに冬子をやるほうがおもしろかろうと考えるようにはなりました」

「へえ」

「さあ、あまり長くこんな場所にいて、誰かに見られたら面倒です。すぐに帰って、デカポッドに伝言を伝えなさい」

 僕は中佐と別れて、家に帰ってきた。玄関で冬子にコートを脱がせてもらいながら、僕は言った。

「さっき中佐に会ってきたよ」(義理の母親のことを〃中佐〃と呼ぶなんて、この世で僕ひとりだろうね)

「デカポッドさんのお話のお返事ですか」冬子が言った。

「うん」

 デカポッドはホテルに滞在していたけれど、夕食だけは毎日僕の家で食べることになっていた。でもこの日、まだデカポッドは姿を見せてはいなかった。

 だけどすぐに現れた。僕が廊下を歩きはじめたら、玄関の外に人の気配がして、戸がガラッと開いて、デカポッドが入ってきたんだ。黒いコートを着て帽子をかぶって、外は寒いから、顔を少し赤くしていた。僕と冬子を見て、うれしそうに笑った。

「町でこんなものを見つけて買ってきたんだが、すまんが料理してくれないか。イギリスでは見たことがないものなので珍しくてな」

 デカポッドは、僕と冬子にどんぶりを見せた。どこのゴミ捨て場から拾ってきたんだろうと思えるようなかけたどんぶりだったけれど、ずっと手に持ってきたらしい。

 僕と冬子はのぞき込んだ。どんぶりの中には水が少し入れてあって、ドジョウが十匹ぐらいいた。細長くて、口のまわりにヒゲが生えている魚だ。くっつき合って、ぐねぐねしている。

「これってローチだろ?」デカポッドが言って、笑って僕と冬子を見た。子供みたいな顔をしている。

「このドジョウ、料理してくれる?」僕は冬子に言った。

「はい」冬子がにっこりした。

「勝手ですまんが、頼むよ」デカポッドが言った。

 だから、この日の夕食にはドジョウの天ぷらが加わった。デカポッドは、はしをじょうずに使ってドジョウをつまんだ。

「なぜオレがこんな物を買ったかわかるか?」デカポッドは、僕にドジョウの顔を見せながら言った。

 僕は、黙って首を横に振った。

「おまえも覚えてるだろう? この顔が親愛なる兄、ウィルソン少佐殿にそっくりだからさ」デカポッドは笑って、大きく口を開けて、ドジョウを一口で飲み込んだ。

 夕食を食べながら、僕は中佐からの伝言をデカポッドに伝えた。デカポッドは黙って聞いていた。そのあとすぐに僕は、冬子にも同じことを話した。冬子に隠し事をするのは、僕は好きじゃなかったから。



 次の日曜日、僕はデカポッドと一緒に出かけた。町を見物したいというものだから、道案内としてついてきたんだ。

 僕とデカポッドは、横須賀駅のプラットホームで列車を待っていた。大きな駅で、旅客列車だけでなくて、軍港に出入りする長い貨物列車もここを通る。このときも、ちょうど隣の線路をそういう貨物列車が発車していくところだった。

「おいケンジントン、あれは一体どういうことだ?」突然デカポッドが、驚いた顔をして指さした。デカポッドの目は、発車しつつある貨物列車のほうを向いていた。

「なんです?」

「あの貨車には9884と書いてあるんじゃないか?」

 デカポッドがどの貨車のことを言っているのか理解するのに何秒かかかった。僕は頭をめぐらせた。どれもこれも同じような形をした黒い貨車の列に目を走らせた。そして気がついた。

 どうということのない普通の四角い貨車だった。他の貨車と同じように真っ黒に塗られているが、車体の横の部分には、たしかに白いペンキで9884と書いてあるのが見えた。

「まだ四月じゃありませんよ」

 デカポッドがくやしそうな声を出した。「あれは横須賀港から来た列車だ。くそ、予定を早めやがったんだ」

 僕は呆然としてしまった。もう貨物列車は駆け足ぐらいのスピードにまで加速して、駅の側線から出発していきつつあった。長い列車で、9884号貨車は、前から三分の一ぐらいの場所に連結されている。先頭にいる機関車は信号機を越えて、もう本線に乗り出している。

「どうします?」僕は言った。

「すぐに追いかけなくちゃならねえ」

 五分後、やっと旅客列車が到着した。時刻表通りの時間だったのだけど、僕は何時間も待たされたような気がした。きっとデカポッドも同じだったろうと思う。

「追いつけるだろうか?」列車に乗り込みながらデカポッドが言った。

 僕は列車ダイヤを思い出そうとした。僕だって鉄道会社の社員だから、ダイヤの読み方ぐらいは教わっていた。僕が働いていたのは特急列車を管理する部署だったから、客車の出入りのパターンはよく知っていた。そして貨物列車は、客車列車と絡み合いながら線路の上を走っている。だから僕は、ダイヤ表上で一点鎖線で表されている貨物列車の動きをある程度思い出すことができた。

 僕はにっこり笑った。「大丈夫です。あの貨物列車は次の駅で機関車を付け替えます。その間に追い越しますよ」

「何とかして、人目を避けながらあの貨物列車の近くへ行くことはできないか」

 それは、僕にもどう答えていいかわからない質問だった。

 次の駅で、僕とデカポッドの乗った列車は貨物列車を追い抜いた。デカポッドはデッキのドアを開けて顔を出して、本当に9884号貨車が連結されているかどうかを確かめていた。確かめることができたようで、デカポッドは少しは満足そうに僕を振り返った。

 僕とデカポッドは、客車のデッキに立ったままでいることにした。人目の多い客室内よりは安全だろうから。列車は、カタンコトンと走り続けている。

 ガラガラとドアの開く音がして、誰かがデッキに出てきた。振り返ってみると車掌で、乗客たちのキップを調べにきたのだった。

 もちろん、僕とデカポッドのキップには問題はなかった。でも僕は、車掌の手でハサミを入れられたキップを受け取ったあとで気がついた。僕は、隣の車両へ移動しかけた車掌を追いかけていき、話しかけた。デカポッドはデッキで待っていた。

「どうしたんだ?」僕が戻ってくると、すぐにデカポッドが言った。

 僕はニコニコしながら、折りたたんだ白い紙をデカポッドの前で振って見せた。

「いまの車掌は顔見知りでした。頼んだらダイヤ表を貸してくれました」

 僕は、デカポッドの前でダイヤ表を広げた。ダイヤ表というのは白い大きな紙で、斜めの直線やら時刻のスケールやら駅名やらが、目が痛くなるぐらいいくつもいくつも印刷してある。知らない人には何のことやらわからないものだけれど、デカポッドはちゃんと読み方を知っていた。

「さてさて、どうしたもんかな」デカポッドは、うれしそうに両手をこすり合わせた。

 ダイヤ表を調べて、ここから何十キロも先だけれど、あの貨物列車が田舎の小さな駅で停車して、一時間近く時間をつぶす予定になっていることがわかった。夜の九時過ぎにその駅に停車して、急行列車二本と特急一本を待ち合わせする。発車は十時過ぎだ。

「ケンジントン、この駅へ先回りしようや」

 僕はもちろん賛成した。僕とデカポッドは急行列車に乗り換えて先を急ぎ、途中の駅で下車して時間をつぶして、また普通列車に乗った。目的の駅には、貨物列車がやってくる三十分前につくことができた。

 谷間の小さな駅で、短いプラットホームと小さな建物があるだけで、駅員も一人しかいなかった。駅前から細い道が森の中に伸びているが、ぐるりと見回しても、家は一軒も見えなかった。きっと、山道を何丁か行った先に集落があるのだろう。

 僕とデカポッドは列車から降りて、駅を出て道を歩いていくふりをして、ぐるりと大回りをして、茂みをかきわけてまた駅まで戻ってきた。当然あたりは真っ暗だけれど、ポツンポツンと何人かいる客たちや駅員に見られないように気をつけていた。線路のすぐわきに小さな物置小屋があったので、その影で待つことにした。

 僕はそばに置いてあった枕木に腰かけていたけれど、デカポッドは立ったまま、駅の建物から差し込んでくる弱い光にかざしてときどき懐中時計を眺め、何度もまわりを見回して、誰にも見られていないか確かめていた。

 最後の普通列車が行ってしまい、九時過ぎになって、とうとう貨物列車が姿を見せた。真っ暗な中、遠くからヘッドライトだけがぎらりと光っている。シュウシュウいいながら、蒸気機関車が煙を吐いている。速度をゆるめ、停車する準備に入っている。ブレーキをかける音が聞こえた。スピードを落としていき、とうとう停車した。僕とデカポッドは、小屋の影から見ていた。

 機関車の運転台に人影が二つ見えた。機関士と機関助士だ。話している内容まではわからないけれど、気楽そうにおしゃべりをしている。プラットホームに駅員も出てきて、おしゃべりに加わった。ゆっくりと歩いて、三人は駅の建物の中へ入っていった。

「いい気なもんですね」僕は言った。

「そりゃそうだろ」デカポッドが小さな声で答えた。「発車まで一時間もあるのだからな。ほれ、もう一人お仲間が来たぞ」

 僕も同時に気がついたのだけど、貨物列車の一番後ろにつながっている車掌車から車掌も降りてきて、プラットホームの上を歩いて駅の建物へ向かった。ガラガラと戸を開けて、車掌も中へ入っていった。これで貨物列車は完全に無人になったわけだった。それに、最初の急行列車がここにやってくるのは十五分後だから、それまでは誰に見られる心配もないわけだった。

「行くぜ」デカポッドが歩きはじめた。

「はい」

 僕とデカポッドは雑草をかき分けながら線路まで出て、貨物列車にそって線路の上を歩いていった。目の前に、貨車の黒い車体がいくつも並んでいる。だけど、足元は砂利だから少し歩きにくい。

「9884号貨車はどのあたりでしたっけ?」デカポッドの後ろをついていきながら、僕は小さな声で言った。

「前から三分の一ぐらいのところだった。もう少し歩かなきゃな」

 でも、9884号貨車にはすぐに行き当たった。思っていたよりも前よりにあった。

「そうか」僕は気がついた。途中の駅で貨車を切り離したり継ぎ足したりするから、貨車がつながっている場所はどんどん変わっていくんだ。

 もうデカポッドは9884号貨車の横に立って、まわりを見回していた。

「似た形の貨車は近くにないか?」デカポッドの声が聞こえた。

「えーと」僕は頭をめぐらせた。「五台ぐらい後ろにあります」

 デカポッドが首を伸ばして、僕が言った方向を眺めた。「すまねえが、その貨車の荷札を抜き取ってきてくれないか」

「どうするんです?」でも僕は、もう歩きはじめていた。

「ロンドンで佐藤がやろうとしたことの応用さ」デカポッドの声が聞こえた。

 そのころには、僕はその貨車のところまできていた。僕は、貨車に取り付けてある荷札に手を伸ばした。

 荷札というのは四十センチ四方ぐらいの大きさの厚紙で、金属製のホルダーに差し込んである。このホルダーが貨車の車体に固定してあるわけだけど、荷札には、この貨車に積んである積荷の内容や、発車した駅や目的地の駅、場合によっては経由地なんかの情報が書き込んである。荷札は二枚あって、同じものが貨車の車体の左右に一枚ずつ取り付けてある。だから僕は貨車の反対側へも行って、荷札を二枚とも抜き取った。それから9884号貨車のところへ戻った。

 その間にデカポッドも僕と同じことをしていた。デカポッドの手の中には、9884号貨車から抜き取られた荷札がある。それを僕が抜き取った荷札と交換して、デカポッドは9884号貨車に取り付けた。もちろん僕もさっきの貨車のところへ戻って、荷札をホルダーに差し込んだ。これで、二つの貨車の荷札が交換されたわけだった。

 仕事を終えて僕がデカポッドのところへ戻ると、デカポッドは手帳を取り出して、荷札に書かれた内容をメモしているところだった。僕がやってくると、デカポッドはひょいと手帳のページを見せてくれた。

「駅名はこの漢字で合ってるか?」デカポッドが言った。

 僕は目をこらした。声は出さなかったけれど、かすかに笑ってしまった。「ものすごくへたな字ですが、読めなくはありません。合ってます」

「それはよかった」デカポッドも笑った。

「でも、それをメモしてどうするんですか?」

「これを伝言して、オレの仕事は終わりさ。あとは諜報部の連中に任せる。オレの知ったことじゃねえさ。先回りして、連中がこの貨車をおさえるだろうよ」




 何がきっかけになったのかは知らないけれど、仕事をすませたデカポッドが日本を離れていった日の夜、冬子がこんなことを話しはじめた。

 家の中で、僕と冬子は二人きりだった。まだ四月のはじめだったけれど、珍しく暖かい夜だったから、お茶を飲みながら夜遅くまで起きていた。

「あの音楽の先生のことなのですが」冬子は言った。

「ナイフで刺し殺された人?」

 僕は冬子を見つめた。冬子の顔や表情は女学生のころとまったく変わっていなくて、肌はなめらかでとてもきれいだった。ただどこか、その表情に影のようなものが見えるような気がした。

 ううん、あれは影じゃなかったかもしれない。じゃあ何なのかときかれても、僕にも説明できないけれど。

 冬子は話しはじめた。



 ピアノのおけいこの約束があったから、あの日の放課後、私は音楽室へ行きました。校内には、もうほとんど人は残っていませんでした。先生はピアノの前に座って、私を待っていました。

 先生は手紙を読んでいました。封を切られた封筒がピアノの上に置いてあって、先生はその中身を手にしていたのです。

 先生の名前は、佐藤といいました。私が部屋に入ってくると、先生は顔を上げました。私を見て、にっこりしました。でも、まだ手紙を読み続けています。その手紙は、届いたばかりではないようだったけど、そう古いもののようにも見えませんでした。せいぜい一年かそこら前に書かれたもののようでした。紙のしおれ方でなんとなくわかりました。外国から来た手紙らしくて、宛て名がローマ字で書いてあります。

 私はそばにあった小さなテーブルの上にカバンを置いて、楽譜を取り出して、先生の隣に立ちました。でも先生は、おけいこを始める気にはなれないでいるように見えました。考えごとをしている様子です。私は、ピアノの前にあるイスに腰かけました。先生がそうするように合図をしたからです。

 先生は話しはじめました。

「この間、私の母が亡くなったことは知っているでしょう?」

「はい」

 佐藤先生のお母様は、半年ぐらい前に病気で亡くなっていました。私はお葬式にも出ました。佐藤先生はお母様と二人暮らしだったのですが、今では一人暮らしになっていたわけですね。

「昨夜、母の遺品を片付けていたの。いつまでも手付かずにしていても仕方がないから。でもそうしたらね、こんなものが出てきたの」

 佐藤先生は、私にその手紙を見せました。なんとなくだけど、先生は昨夜からずっと、何回もこの手紙を読み返したのだろうなあという気がしました。

 佐藤先生はしばらく黙っていましたが、少し考えた後でまた言いました。

「ええ、あなたに聞いてもらうことにしましょう。あなたはとても良い子だから」

 佐藤先生は私を見つめて、にっこりしました。先生は続けました。

「これは、叔母が母にあてて書いた手紙なの。叔母は母の妹で、ずっと独身でいたのだけど、ある事情があって、一年と少し前に亡くなったの。

 叔母は外国で事件を起こして、絞首刑になったの。あの事件の犯人が身内だということを、私たちは世間から隠してきたのだけど、事件のことはあなたも聞いたことがあるだろうと思うわ。新聞に大きく載ったから。だけど、叔母が真犯人であることは間違いない。手紙の中で叔母自身も認めているから。

 叔母と母はとても仲が良かったから、手紙の中で、叔母は事件の本当の原因をくわしく書いているの。なぜ自分の雇い主を殺すことになったのか。

 叔母は最後まで、警察にも裁判官にも話さなかったのだけどね。だからもちろん、このことは新聞にも載らなかった。新聞記者たちは、勝手な想像をいろいろ書いていたわ。若さへの嫉妬だとか、高価な宝石に目がくらんだせいだとか。でも、本当の理由はそうじゃない。叔母は、母にだけは本当の原因を知らせてきたの。誰か一人ぐらいには真実を伝えておきたかったんでしょうね。

 母は、もちろんこの手紙を受け取って読んだはずだわ。でも私には、そんな手紙が届いたことさえ教えてくれなかった。この手紙は、タンスの奥深くに隠してあったわ」

 先生がとりあえず話し終えたようだったので、私は言いました。

「叔母さまからの手紙は一通だけなのですか?」

「これ以外にも何通かあったわ。でも、隠してあったのはこの一通だけよ」

「他の手紙には何が書いてあるのですか?」

 先生には、私が何を考えているのか、まったくわかっていなかったに違いありません。すぐに答えました。

「日本を出発する直前の様子とか、昨日ロンドンに着いたとか、そういうことね」

「その事件はロンドンで起こったことなんですね」

「ええ」先生はうなずきました。

 ここまで来ると、私がしなくてはならないことは一つしかないようでした。どうやればいいのか、私は頭の中で考えはじめました。もちろん、それを先生に悟られるわけにはいきません。

 私は母から、小さなナイフを与えられていました。使い方も教わっていました。護身用として、いつもカバンの中に入れてありました。

 私は先生に言いました。

「誰かに、その手紙のことをお話しになりましたか?」

 先生は答えました。本当に何も気がついていない顔で。指で手紙をいじっています。「いいえ、あなたが初めてよ。でも今度、新聞社の人に見せてみようと思うの。それで叔母の罪が消えるわけじゃないけれど、でも叔母は、ある忠誠を果たしただけなのよ。そのことをこの手紙が明らかにしてくれるわ。新聞社もきっと記事にしてくれると思う」

 私は、そっと立ち上がりました。でも先生は気がつきませんでした。まだ手紙をいじっています。絞首刑になった叔母さまの書いた文字を眺めています。

 私は自分のカバンのところへ行きました。先生はまだ気づきません。

 やってみると、思っていたよりも簡単でした。母が教えてくれた通りにすると、先生は声も立てませんでした。すぐに動かなくなりました。血もあまり出ませんでした。軍人というのは、いろいろなことを知っているものですね。



「それからどうしたの?」冬子の髪をなでてやりながら、僕は言った。冬子は、子猫みたいに僕の胸にもたれかかっている。

「カバンと手紙を持って音楽室を出ました。洗面所でナイフと手を洗いました。制服についた血は、コートで隠すことができました。家に帰って、手紙は燃やしてしまいました。母が帰ってきたので、事情を話しました」

「中佐はなんて言ったの?」

「大変だったねと言ってくれました。帰ってきたばかりだったのに、母はすぐにまた出かけていきました。誰か偉い人に会いにいったのだと思います」

 冬子は立ち上がって、部屋のすみへ行って、いつも持ち歩いている小さな革のカバンを持ってきた。その中を探して、小さなナイフを取り出した。折りたたみ式になっている。

「これがそのナイフです。十二歳の誕生日に母から贈られました」

 冬子は、ナイフを僕の手のひらの上に置いた。小さな手にもうまく扱えるようにだろうけど、あまり大きなものじゃない。折りたたみ式になっていて、指で刃をのばしてみたのだけど、きちんと手入れがしてあって、銀色に光っている。日本刀のように二枚の鉄を打ち合わせて刃が作ってあるわけじゃなくて、一枚の鉄から作ってある。外国製のものかもしれない。作りは荒いけれど、きれいな刃だ。さやの部分は、ヤギの角から作ってある。いかにも職人が手作りしたようなやつだ。その職人も、これを使って十七歳の女の子が人を殺すとは思っていなかっただろうけど。



 その翌朝は少し寒かったから、僕はコートを着て会社に出かけた。駅まで道を歩いていった。

 駅のプラットホームには人がたくさんいた。みんな同じようにコートを着ている。マフラーをしている人もいる。

 列車が来た。朝の通勤列車だ。いつも僕が乗っている列車で、黒っぽい色をした古い客車を電気機関車が引っ張っている。イギリスで作られた機関車だ。毎朝いろんな番号の機関車が来るけれど、六号機が来ることはない。この機関車を見るたびに、僕は叔父やデカポッドのことを思い出した。デカポッドは今どこにいるんだろうと、僕は不意に思った。

 列車がプラットホームに止まって、客たちが乗り込みはじめた。

 職権乱用かもしれないけど、僕はいつも機関車の運転台に便乗することにしていた。機関士の隣に座って行くわけだね。視察のためとかなんとか理由をつけて、僕は毎朝そうやっていた。だから僕は機関士たちとは顔見知りだったし、ときどきは運転の手伝いもした。タブレットをかわりに受け取ったり、機械室へ行って、空気タンクのドレンを抜いたりした。機関車はイスもバネも固いから、あまり乗り心地は良くないんだけどね。暖房のききも悪いし、すきま風も入るし。

 列車は三十分ぐらい走って、終点に着いた。僕もここで降りることになる。駅前に大きなビルディングがあって、そこが鉄道会社の本社だった。僕は機関車のデッキに出て、ハシゴをつたってプラットホームに降りた。鉄の手すりが冷たい。

 でもそこで、誰かが僕を待っていた。

 機関車は列車のいちばん先頭にあって、ここからだと改札口も遠いから、人はほとんどいなかった。この列車はここから回送列車になって、車庫に入ってしまうんだしね。

 だけど、この日はここに誰かがいた。こんなプラットホームのはしっこに。制服を着てはいないから駅員じゃない。中年の男で、どこかで見たことがある顔のような気もする。その男は、すぐに僕に近寄ってきた。電気機関車の車体のすぐ横だから、機械の音がブーンと聞こえている。機関車の大きな車輪がすぐそばに見えている。

「青垣からお手紙を預かってまいりました」

 男は、僕に白い封筒を差し出した。今までポケットに隠していたらしい。

 思い出した。これは青垣中佐の御者だ。僕にこの封筒を手渡すために、ここで待っていたらしい。ということは中佐は、僕のふだんの行動をよく知っているのだろうね。でなきゃ、こんなところで僕をうまく捕まえるなんてできっこないから。

「読み終わったら、この手紙はすぐに燃やしてほしいとのことでした。かならず」御者は言った。僕をまっすぐに見つめている。

 受け取って、僕はすぐに手紙をコートのポケットに隠した。封筒が折れ曲がってしまったけれど、そんなことを気にしている余裕はなかった。

「わかりました」

 僕はそう言ったのだけど、でももう御者は、むこうを向いて歩いていこうとしていた。僕と話しているところを人に見られたくないらしい。だけどたぶん、誰にも見られなかっただろうと思う。

 御者の姿が見えなくなってから、僕は歩きはじめた。走るか、さっさと歩くかしたかったのだけど、我慢してゆっくり歩いた。売店で新聞を買って、手紙をその中にはさんで、新聞を読むふりをして手紙を読んだ。わざわざ人の少ないプラットホームまで移動して、ベンチに座って、まわりに誰もいないことを確認してから。

 中佐が手書きした手紙で、こんなふうに始まっていた。いかにも女らしい字で、冬子よりも字はじょうずかもしれない。



 読み終わったら、すぐにこの手紙は燃やすこと。人まかせにせず、必ず自分で燃やしなさい。

 海軍の首脳たちは、あなたと私がデカポッド氏に協力していたことを知りました。どうやって知ったのかは、私にもわかりません。彼らは私たちを捕まえ、復讐するつもりでいます。考えてごらんなさい。これで海軍は、タービンの入手に二度も失敗したのですよ。

 あなたはすぐにこの手紙を処分し、会社へは行かずに、まっすぐ家へ帰りなさい。手元にあるだけのお金と貴重品を持って、冬子と一緒にすぐにまた列車に乗りなさい。荷物は持たずに、ちょっと隣町まで買い物に行くだけだという顔をして。

 西へ向って、神戸まで来なさい。兵庫県の神戸ですよ。港がある町です。明日の夜七時ちょうどに、神戸港の西第一埠頭まで冬子と二人で来なさい。

 何も考えずに、言われた通りにしなさい。私のことは心配しなくてもよろしい。自分でなんとかします。今すぐ動きなさい。それから、この手紙は必ず燃やすこと。



 僕は手紙と封筒を、新聞紙に包んだまま丸めた。立ち上がって、駅のすみっこにあるゴミ焼き場まで行った。レンガで作った小さな焼却炉だけど、駅で出たゴミを燃やすのに使っていた。このときも、煙突から煙が出ていた。僕は焼却炉のフタを開けて、新聞紙ごと手紙をほうり込んだ。燃えつきるのをきちんと確かめた。次の下り列車は何時だったっけ、と考えながら。

 僕が家の近所まで戻ってきたのは、一時間ぐらい後のことだった。うまい具合に、すぐに下り列車に乗ることができたから。

 僕は、駅からゆっくり歩いて家へ帰った。走ったりしたら目立ってしまうから。でも歩きながら、もし冬子が家にいなかったらどうしようと考えていた。どこかへ出かけていたりしたら?

 だけど冬子は家にいて、庭を掃除していた。僕の家には小さな庭があって、木が少しだけ植えてあった。冬子は、そこで落ち葉を掃除していた。

 家の中に入って、冬子を呼んで、僕はすぐに事情を説明した。冬子はすぐに理解したようで、何も言わずにしたくを始めた。着替えて、いつも使っている小さなカバンに少しだけ物を詰めた。

 家を出て、二人で駅まで歩いた。だけど途中で、知っている顔とすれ違った。十軒ばかりむこうの家の主婦で、町内の見張り役みたいな女だった。つまり、町内で起こっていることなら何でも知っているという。

 打ち合わせも何もしなかったのに、その女とすれ違う瞬間、急に冬子が僕に言った。大きな声だったから、あの女にも絶対に聞こえただろうと思う。

「あの時計は母からいただいたもので、とても高価なのですよ。それを汽車の中に忘れてくるなんて、どういう人なんでしょう」

 突然そんなことを言い出すし、冬子がこんなに大きな声を出すところは見たことがなかったので僕はとても驚いたのだけど、すぐに気がついた。だから僕も言った。

「今からちゃんと駅で探してもらうさ。必ず見つかるよ」

 冬子が答えた。いかにも夫婦ゲンカらしく聞こえたと思う。「そんなことをおっしゃって、もし見つからなかったらどうなさるんです? 母にどう言い訳するんです?」

 そんなことを言い合いながら、僕と冬子は歩きつづけた。曲がり角をまがって、さっきの女にはもう声が聞こえないところまで行ってから、二人とも黙った、声は出さなかったけれど、少し笑った。

「疲れた」僕は言った。

「でも、神戸はまだまだ遠いですよ」と冬子。

「そうだね」

「どの汽車に乗るのですか?」

「わからない。まっすぐ行くのなら東海道本線だけど、海軍の連中もそう考えて、途中で見張っているかもしれないし」

 冬子は前を見ていた。もうそこに駅が見えている。

「ここからすぐに下りの汽車に乗るのは、やめたほうがいいかもしれませんね。いちど東京まで出て、大回りをしましょう」

 僕にも、それはいい考えに思えた。というよりも、なんで今まで思いつかなかったんだろうという気がした。

 そうやって僕と冬子は上りの列車に乗ったのだけど、列車が途中の大きな駅で何分間か停車したとき、冬子はちょっとプラットホームに降りて、売店で時刻表を買ってきた。列車の時刻が、細かい字でいっぱい印刷してある本。僕は鉄道会社で働いているくせに、あの本はあまり好きじゃない。読んでいると頭の中が、片付いていない部屋の中みたいにゴチャゴチャになってしまいそうな気がする。

 列車がまた動きはじめた。僕は窓の外を眺めていたけれど、冬子は隣で時刻表を読んでいた。ラッシュの時間は過ぎていたから、列車の中はすいている。一台の客車の中に、客は七、八人しかいない。

 冬子が不意に時刻表を置いて、指先で僕のほおに触れた。僕はびっくりした。人目のあるところで冬子がそんなことをするのは初めてだったから。

 だから僕は冬子を見つめたのだけど、冬子はそっとほおを近づけてきて、僕のほおに軽く触れさせた。何をするつもりなのかわからない。冬子のほおはやわらかくて、とてもあたたかかった。

 冬子の声が小さく聞こえた。耳のすぐそばでささやいている。

「いいですか、表情を変えてはいけませんよ。さっきの駅で売店へ行ったときに気がついたのですが、この客車のデッキに男が一人、ずっと立っています。三十歳ぐらいで、もちろん見たことのない顔です。私たちと同じ駅から乗りました。今も乗っています。でも、なぜ客室に入ってきて座らないのでしょうね。空いているイスはいくらでもあるのに」

 冬子は僕のひざに手をもってきて、僕の指をなではじめた。そうしながら、同じ調子でささやき続けた。僕は表情を変えないように苦労していた。あまりうまくはいっていなかったかもしれないけれど。

「売店で、あの男は私をじっと見ていました。私も目のすみっこで見張っていました。あの男はときどき、ちらちらとあなたの方も見ていました。きちんと訓練を受けた尾行者ではないようです。海軍の学校では、尾行のおけいこはしないのでしょうね」

「すると」僕は、冬子の肩に頭を乗せるふりをした。ふりというか、本当に軽く乗せたのだけど。「その男は、僕と冬子のあとをつけているの?」

「もちろんそうですわ」冬子は身体を起こして、僕をまっすぐに見つめた。今度はささやき声ではなくて、普通の大きさの声だったけど、これは誰に聞かれてもかまわないセリフだったから。

「さあ、次の駅で降りますよ。きっと皆さん待っておいででしょう」また冬子が言って、僕の肩に触れた。

 でも、東京はまだまだ先だった。なぜこんなところで列車を降りるのか、僕にはわからなかったのだけど、でも何となく感じたのは、今回の旅では冬子が主導権を握るんだろうなあ、ということだった。こういうことは僕よりも、きっと冬子の方がじょうずにやるだろうから。

 僕と冬子は、次の駅で列車を降りた。急行列車も止まらないような小さな駅だった。駅前に広がっている町も小さかった。旅館が一つと食堂が一つ。少し向こうに小さな酒屋が見えている。

「こっちですよ」

 駅の外に出て冬子が言った。僕は冬子のそばへ行って、小さな声で言った。

「さっきの男はついて来てる?」

 冬子はにっこりした。どうしてこんなときににっこりできるんだろうという気がした。僕はもう、不安で心臓がドキドキしていたのに。

 冬子は、普通の大きさの声で言った。

「もちろんです。〃伯父さま〃が私たちのことをお忘れになるはずがないでしょう? そうだ、そこで馬車を雇ってきてくださいな」

 冬子が見ている方向を見たら、小さな看板だから僕は気がつかなかったのだろうけど、馬車屋があるようだった。小さな建物の扉が半分開いていて、木でできた箱のような小型の馬車が一台、おしりを見せている。

「うん、行ってくるよ」

 馬車屋の中をのぞきこむと御者がいて、わら束で馬の背中をなでてやっていたけれど、話をするとすぐに用意をしてくれた。赤ら顔で、いかにも酒をよくやるという感じの中年の男で、馬をつなぎ、馬車を通りに引き出して、僕と冬子のためにドアを開けてくれた。僕と冬子は乗り込んだ。

「どこまで行きますか?」僕と冬子の顔をのぞきこむようにして、御者は言った。僕は何と答えていいかわからなかったから、冬子の顔を見た。

「篭谷までお願いします」

「へえ」

 バタンとドアを閉めて、御者台に乗り込んで、御者は馬車を走らせはじめた。ぎしぎしごとごと、馬車は進みはじめた。

「篭谷ってどこ?」御者には聞こえないように、僕は小さな声で言った。

「峠の小さな町です。だいじょうぶ、私に任せてください」

「うん」僕は、背もたれにゆっくりと身体を寄りかからせた。

「ねえ御者さん」窓から身体を乗り出して、冬子が話しかけた。「この町には、他には馬車はいないのかしら?」

「どうどう」御者は馬に声をかけて、歩調を少しゆるめさせ、手綱をピシッと鳴らして答えた。「へえ、この馬車が一台あるきりでさあ」

「隣町には?」

「あることはありますが、何里も先ですよ。どうかなさったんですか?」

「ええ、こんど友人たちの集まりがあって、篭谷でそれをしようかと思うのだけど、十人近くいるから、この馬車一台では運びきれないでしょう?」

「そういうことなら、あっしが手配できますよ。そのときにはおっしゃって下さいまし」

「ええ、ありがとう」

 冬子は僕の隣に座りなおして、にっこりした。小さな声で言った。

「これで、伯父さまたちがすぐには追ってこれないことがわかりました」

 馬車はゆっくり進みつづけた。馬はのんびり歩いていく。

 なのに、ひどく揺れた。車輪にはバネがついてはいるのだろうけど、ほとんどきいていない感じ。短い車体が前後に揺れる。小さなボートに乗って、波を乗り越えながら進むときみたいに。それも、鉄でできたゴツゴツした波の上を。乾いた水たまりの跡に来るたびに、ドスンと落とされるような振動がある。そのたびに窓ガラスが、窓枠の間でビリビリ揺れる。

「伯父さんは、今ごろどうしているだろうね」馬車が町を抜けかけたころ、僕は言った。もちろん、振り返って窓から後ろを見たりはしない。

「今ごろは、親戚に電報を打っていらっしゃるんじゃないでしょうか。人を集めたり、いろいろと段取りもあることでしょうから」

「ふうん。宴会には駐在さんも呼ぶのかなあ?」

 僕は、さっきの男が地元の警察に協力を求めたりはしないだろうね、という意味で言ったのだけど、冬子にちゃんと意味が伝わるかどうかは自信がなかった。御者には話は聞こえていないとは思ったけれど、念を入れたほうがいいから。

 冬子はにっこりして答えた。

「駐在さんをお呼びするわけにはいかないでしょうね。お忙しい方だから」

「それは良かった。駐在さんは怖い人だから、僕はあんまり一緒にいたくないよ」

 冬子は笑った。本当に子供みたいな、楽しそうなくすくす笑い。

「それは伯父さまも同じ意見でしょう。同じ村の中に住んでいても、あのお二人はあまり仲が良くないようですよ」

「へえ、そうだったの」僕は少し安心した。仲が悪いのなら、海軍は警察に協力を求めたりはしないだろうから。

 馬車は走りつづけた。

 舗装のないガタガタ道。たんぼや畑の中を走りつづけた。ときどき、まんじゅうみたいに丸くこんもりした森がある。神社の鎮守の森なのかもしれない。

 馬車は平野を抜けて、山の中へ入っていった。道がくねくね曲がって、上り坂になる。窓の外も、木や草のしげみになる。ときどき崖のそばを通る。たまに川があって、短い橋を渡る。そんなふうにして、一時間半ぐらい走って目的地に着いた。

 着いてみて初めてわかったのだけど、ここは湯治場だった。温泉宿がいくつかあって、思っていたよりも大きな町だった。江戸時代から立っているような木造の古めかしい建物で、三階建てのものも多い。町のあちこちから、白い湯気がのんびりと立ち上っている。

「つきやしたよ」馬車を止めて、御者台から飛び降りて、御者がドアを開けてくれた。

「ありがとう」冬子が先に下りて、サイフを出して料金を払った。それからにっこりして、冬子は紙幣をもう一枚取り出した。

「帰りに、これで一杯やってくださいな」そう冬子が言うのが聞こえた。びっくりしてそっちを見たら、御者が頭をかきながら、それを受け取っているところだった。

「こりゃあどうもすみません」

「いいんですよ。親切にしていただいたからですわ」

 何回か冬子にお辞儀をした後で、御者台に乗って御者と馬車が行ってしまってから、僕は冬子に話しかけた。

「どうして金をやったの?」

 冬子はにっこりして、僕を振り返った。

「あの御者には、すぐには家に帰ってほしくなかったのです。帰れば伯父さまたちが待ち構えていて、私たちをどこまで乗せたのかと質問するでしょう。それよりは、どこかの酒場で数時間酔いつぶれていてくれているほうが好都合です」

 僕はため息をついた。そんなこと、僕は思いつきもしなかった。

「今夜はここに泊まるの?」僕は町を見回した。そろいの模様に染められた浴衣を着た湯治客たちが、数人ずつかたまってのんびり歩いている。

「そうもいかないでしょうね」冬子が答えた。ちらりとまわりを見て、誰かが話を聞いていないか、こっちを見ていないか確かめたようだった。「遅かれ早かれ、伯父さまたちはここをかぎつけてくるでしょう」

「じゃあ、どうするの?」

「献鹿さんが伯父さまの立場だったら、どうなさいます?」

「さあ?」

「ここには宿がたくさんありますから、ここに泊まることも考えられます。だけどここから先、中央本線の方へ抜ける馬車鉄道もあるのですよ。ほら、そこから乗ることができます」

 そっちを見たら、僕はこの時まで気がつかなかったのだけど、少し先に小さな馬車鉄道の駅があって、線路が山を下って北へ向かって伸びているようだった。

 冬子が言った。

「伯父さまたちは、三つの可能性を考えるでしょう。私たちが今夜ここに宿泊するか、馬車鉄道に乗って北へ抜けるか、ふたたび馬車を雇って東海道へ戻るか」

「どうするの?」

「伯父さまたちの裏をかきましょう。こっちです」冬子は歩きはじめた。自信がある様子なので、僕は黙ってついていったのだけど、何が何やらさっぱりわからなかった。冬子が向かっていたのは、温泉宿の間を抜ける細い路地で、どう見たってどこかへ通じているような道じゃなかった。

「どこへ行くの?」

 僕は自分でも、母親に頼り切っている小さな子供になったような気がしていた。でも、そういう感じがいやじゃなかった。僕よりもしっかりしているのだから、冬子に従う方が賢い。

 そのまま道は町を抜けて、上り坂になった。ちょっときつい坂で、ぼくはふうふう言いながら冬子についていった。このまま山を上がって、峠を越えてどこかに出るようだった。

 冬子が振り返った。

「この峠を越えて、御段原へ出ましょう」

「御段原? ぜんぜん違う方向なんじゃない?」僕は立ち止まった。冬子が笑った。

「そう思うでしょう? でも意外と近いのですよ。山を一つ越えればすぐです。きっと伯父さまたちは気がつかないでしょう。御段原線の汽車に乗りましょう」

 冬子がまた歩きはじめたので、僕もついていくしかなかった。

「本当にいけるの? もうすぐ夕方だよ」

「子供のころ、母に連れられてこの峠を越えたことがあるのです。細い山道だけど、子供の足でも歩いていくことができる道でした」

 そうやって峠を越えて、日が暮れて真っ暗になったころに、御段原駅に着いた。駅のところでは線路が少し高くなっていて、僕と冬子は短い坂道を登っていった。

 列車が来るまで少し時間があったので、待合室で待つことにした。ベンチに座って、よりかかりあって少し眠った。やっぱり二人とも疲れていたのだろうね。待合室には他には客はいなかったのだけど、そういうところって、家出をしてきた二人の子供が、疲れ切って眠ってしまっているところみたいに見えたかもしれない。

 夜九時をすぎるころには、僕と冬子は神戸行きの夜行列車に乗っていた。目立たないように、客の少ない二等車を選んだ。二等車は個室式になっていたから、それも都合がよかった。向かい合ったイスが二つあるだけの小さな部屋だ。冬子はすぐにドアに鍵をかけて、窓のカーテンを閉めた。

 駅を出て列車のスピードがついてくると、僕は少し安心した。海軍の連中はなんとかまいてしまうことができたようだから。明日の朝になれば、もう神戸についているはずだし。

「おなかがすいた」僕は、空腹だということに突然気がついた。朝から何も食べていない。

「でも、食堂車へ行くことはできませんよ。誰に見られるかもわかりません」冬子が言った。

「うん」

「だけど、本当におなかがすきましたね」

「うん」

 冬子はにっこりした。「すぐ隣の車両だから、食堂車の厨房へ行って何か作ってもらってきましょう」

「いいの?」

「すぐに戻ります」

 冬子はからからとドアを開けて、部屋から出ていった。ドアを閉めるとき、小さな声で言った。「ちゃんと鍵をかけておいてくださいね」

「うん」

 大丈夫かなあと僕も少しは思ったのだけど、それよりも空腹のほうが強かった。

 冬子は五分ぐらいで戻ってきた。ドアにノックの音がして、「私です」と冬子の声が聞こえた。僕が鍵をはずすと、冬子が入ってきた。

「おにぎりを作ってもらいました」皿に乗せた四つのおにぎりを見せた。僕はよっぽどうれしそうな顔をしていたのだと思う。冬子がにっこりした。

 おにぎりを食べ終わって、僕と冬子は少しのあいだうたた寝をした。でも、たぶん真夜中をすぎたころだったと思うけれど、僕はそっと揺り起こされた。目を開けると、冬子がのぞきこんでいた。

「なに?」

「展望車へ行きませんか。少し風にあたりたいのです」

 なぜ冬子がそんなことを思うのか、僕には見当もつかなかったのだけど、僕は何でもかんでも冬子の言うとおりにすることに慣れていた。これまで、それでうまくいかなかったことは一度もなかったから。

「いいよ」

 僕は立ち上がった。冬子が上着を着せ、ドアを開けてくれた。でもそのとき、冬子が手の中に何かを握っているような気がした。手のひらの中に、小さなものを入れているようだ。でも、僕は何も言わなかった。

 その下で車輪がゴトンゴトンと鳴っていて、ときどき左右に揺れる廊下を歩いて、僕と冬子は列車の一番後ろまで歩いていった。展望車はここにあって、テラスのような展望台がある。廊下の天井には黄色い色の白熱灯が列になってぼんやりと点灯しているけれど、真夜中だから誰にも出会わなかった。胸のポケットから時計を出してちらりと見たら、十二時三十分過ぎだった。僕はダイヤ表を思い浮かべた。岐阜をすぎて、もうすぐ関が原にかかるあたりだ。

 展望台につくと、風がびゅうびゅう吹きつけてきた。ガラスも何もなくてむき出しの場所だ。狭い長方形をしていて、三方向に鉄製の手すりがある。

 僕は空を眺めた。星がたくさん出ている。ときどき通り過ぎる信号機が赤く光っている。大きな音を立てて、突然貨物列車とすれ違った。

 でも冬子は、景色になんか興味はないようだった。いつの間にか片方の靴を脱いで、手に持っていた。何をするつもりなのか、僕にはさっぱりわからなかった。

 展望台にももちろん照明があったが、天井ではなくて、そばの壁に作り付けになっていた。大して高い位置じゃないから、冬子にも簡単に手が届く。薄いガラスのカバーの中に、白熱灯が二つ入っている。僕はこういう客車の管理をする部署で働いているから知っていたのだけど、これは値段の高い特製の電球でね。透明度の高いガラスと丈夫で明るく輝くフィラメントが使ってあって…

 冬子は靴を逆さまに持って、かかとでその電灯を強くたたいた。一度目でガラスのカバーが割れ、二度目で電球が二つとも割れた。展望台は真っ暗になった。

「何するの!」

 でも冬子は僕のほうなんか見もしないで、すぐに靴をはいた。そして、展望台と客室をへだてているドアに忍び寄った。ガラスのはまった大きなドアなのだけど、廊下の電球はまだついているから、そのガラス越しに廊下の様子がよく見える。でも展望台は真っ暗だから、廊下から展望台の様子は何も見えなかったに違いない。冬子はノブに手を伸ばして、そのドアをさっと開けた。

 これは手前向き、つまり外向きに開くドアだった。ドアはさっと大きく開いて、男が一人、身体のバランスを崩しながらこちらに倒れこんできた。ドアの下のほう、床に近いあたりにかがんで、展望台の様子をうかがっていたらしい。ドアの下半分はガラスでなくて木でできていたから、僕からは見えなかったらしい。

 男は展望台の床にうつぶせに倒れこんだけれど、もちろんすぐに立ち上がろうとした。冬子が何かを手に持っているのが見えた。それは、きらりと光を反射した。冬子は男の背中に突き立てた。

 男が悲鳴を上げた。僕は何が何やらわからなくて、手すりに背中を押し付けたままでいた。

 予告も何もなく、ずっと遠くにある機関車が汽笛を鳴らして、列車が鉄橋にさしかかった。長い川を渡る大きな鉄橋だ。列車は、月の光を反射して光っている水の上にさしかかり、車輪がガランガランと大きな音を立てはじめた。

 男は、ふらふらしながら立ち上がった。冬子が、男の背中を強く押した。背中にナイフを突き刺されたまま、男は手すりを越えて、列車の外へ落ちていった。

 男は悲鳴をあげながら落ちていったけれど、すぐに列車の音以外は何も聞こえなくなった。列車は鉄橋を渡り終えた。車輪の音が、急に静かになった。

 冬子は、肩で大きく息をしていた。手すりに寄りかかって、身体を支えていた。

 僕は、冬子を個室へつれて帰った。途中の洗面所で手を洗って、冬子も少しは落ち着いたようだった。

 個室のドアを閉めて鍵をかけてから、冬子は小さな声で言った。

「あの男のことは、食堂車へ行ったときに気づきました。海軍はかなり大きな網を張っているようです」

「大丈夫?」僕は冬子を座らせた。

「ええ、大丈夫です」冬子はかすかににっこりした。僕は冬子の向かいに腰かけた。

 長いあいだ、冬子は何も言わなかった。ひどく疲れている様子だった。でも、とうとう口を開いた。

「思っていたよりも苦しい旅になりそうです」

「うん」

「この列車で神戸までは行くことはできるでしょうが、その後はどうなるか本当にわかりません。どこで海軍の人たちが待ち構えているかもしれません。だから今この瞬間が、献鹿さんとお話ができる最後の機会かもしれません」

「うん」

 冬子はにっこりして、僕を見つめた。

「献鹿さんと暮らすことができて、とても幸せだったと思います。人殺しをお嫁にもらってくださったことにも感謝しています」

 僕は、少し首をかしげたに違いない。冬子がまたにっこりした。僕は言った。

「あの音楽の先生のこと? でもあれは、何かやむをえない事情があったんでしょ?」

「それはそうなのですが」

「あの手紙のことが新聞に載ったら、どうして冬子は困るの?」

 冬子はにっこりした。「佳奈の死の本当の原因が明らかになってしまうからです」

「それが困るの?」

 冬子はしばらく黙っていた。何か考えている。それから言った。

「献鹿さんは、ご両親が実の両親ではないことはご存じなのでしょう?」

「知ってるよ。どこかから引き取って、養子にしたんだって。実の母には、僕を育てられない事情があったらしい。それがどこの誰なのか両親は話してくれなかったけど。でも、それがどうかしたの?」

「そのあたりの事情が世間に知られると、私は困るのです」

「なぜ?」

 冬子はまた少し黙った。それから言った。

「そうなったら、私は献鹿さんと結婚することができなくなってしまったでしょう」

「どうして?」

 冬子は手を伸ばして、僕の髪に触れて、そっとなではじめた。

「覚えていませんか。赤ちゃんのころ、私はよくあなたと遊んであげましたよ」

「えっ?」

「私は引き取られた孤児だから血縁はありませんが、あなたの姉なのですよ」

「中佐がそう言ったの?」もちろん僕は、そんなことは全然知らなかった。このとき初めて聞かされた。

 冬子は答えた。「ある事情があって、生まれてすぐあなたは養子に出されてしまったのです。ちょうど子供ができなくて悩んでいたご両親に、あなたは引き取られました」

「親戚のあいだでもらい子をしたの? 親戚たちは、僕と冬子が姉弟だと知ってるの?」

 冬子はかすかに笑った。「青垣家のものはみんな知っています。知らないのはあなただけです」

「そういう結婚に、なぜみんな反対しなかったの?」

 冬子は、もう一度にっこりした。

「蒸気タービンの件があったからです。タービンの陰謀をあなたが世間にばらしてしまうのではないかと、海軍はひどく恐れていました。ばらされる危険をかかえておくぐらいなら、いっそのことあなたを殺してしまえという意見まで出たそうです。でも、青垣中佐の義理の息子ということであれば、血気盛んな海軍将校たちも手が出せなくなるでしょう。だから母は、私をあなたにとつがせたのです」

 僕は冬子を見つめていた。冬子は、少し恥ずかしそうに微笑んだ。

「でも、どうして僕は養子に出されたの?」

「そういう習慣なのです。青垣家では、当主となるべき男子は、ごく早いうちに外へ出し、外の空気を吸わせるのです。青垣家の跡継ぎであることは教えずにです。早くからちやほやされて育ったのでは、当主としてつとまらないことが多いのです。そうやって青垣家は繁栄してきたのです。あなたは二十歳の誕生日に事情を知らされるはずでしたが、その前にこんなことになってしまいました」

「なんかひどいね」僕はふくれっつらをしていたと思う。

「でも私たちは、ずっとあなたを見守ってきたのですよ。毎年の誕生日に化石をプレゼントしていたことは知っているでしょう? 大蔵家に頼んで、あなたが欧州へ行くことができるように手配したのも私たちです。あの旅行は意外な結末に終わってしまいましたが」

「佳奈がいけずだったからね」

 冬子はにっこりした。「それを埋め合わせるために、叔父はあなたを再びロンドンへ連れていったのです」

「またまた意外な結末になったけどね」

「そうですね。でも、佐藤を大蔵家に潜りこませたのも私たちだったのですよ。旅行中にあなたを見守らせるのが役目でした」

「ほんとに?」

「あなたは気づかなかったはずですが、佐藤以外にも男たちが二人、ひそかに付き添っていたのです。この二人が佳奈の死体を木箱に詰めたのでしょう」

 冬子はしばらくのあいだ、黙って僕を見つめていた。それから続けた。

「大蔵家と青垣家の間には、少なからず縁があります。だから佳奈も、跡取りを育てるときの青垣家の奇妙なしきたりのことは知っていたのでしょう。そして偶然でしょうが、佳奈はそれがあなただと気づいたのでしょう。秘密を守るために、佐藤は手を下さざるを得なくなったのでしょう」

「どうして?」

「今の青垣家には、跡継ぎにふさわしい若い男子はあなたしかいません。年を取った者では跡継ぎにはなれません。古くからの約束があって、男子の跡継ぎが途絶えた場合には、青垣家の家督はすべて大蔵家に譲られることになっているのです。大蔵家の人間たちなら、あなたをひそかに葬ることぐらいためらわないでしょう」

「へえ」僕は少しのあいだ黙っていた。それから言った。「佐藤さんって、どういう人だったの?」

「母の幼なじみだったそうです。青柿家が学費を出して、学校を卒業させました。英語がとてもよくできたそうです」

「ふうん」

 冬子の表情が少し変わった。でも優しい表情だった。僕のほおに軽く触れた。「気がついていますか? 私が姉であるとわかった瞬間から、あなたの口調は甘えん坊のようになっていますよ」

「うん、ねえさん」

「わかっているのならよろしい」冬子はにっこりして片腕を伸ばして、僕のほおにそえた。少し声の調子を変えて、冬子は続けた。

「青垣家は名はありますが、今では大蔵家のほうがお金も力もあるでしょう。それでも、青垣家の人脈というか、人のつながりは大したものなのですよ。大蔵家はそれをねらっているのでしょう。それに大蔵家は、青垣家の家来だった血筋です。元の主人の家をのっとることに残酷な喜びを感じてもいるでしょうし」

 そのまま、列車はダイヤどおりに走り続けた。もう車内では何も起きなかった。

 念のために、僕と冬子は京都駅で列車から降りた。夜が明けたばかりの時間だったけれど、そこから伏見までチンチン電車に乗って、その先は小さな川舟を雇って、ゆっくり川を下って大阪まで行った。その間もずっとまわりを見ていたのだけど、海軍の連中は影も見えなかった。いくら海軍でも、日本中に見張りを配置することはできないようだった。

 僕と冬子は、大阪からはまた馬車を雇って、夕方前に神戸に入った。道ばたで見かけた店で、神戸の詳しい地図を買った。

 地図を見ると、西第一埠頭の場所はすぐにわかった。神戸の市街の西のはしで、造船所に近いあたりだ。地図の解説文に書いてあったのだけど、西埠頭というのは、外国から輸入される果物が陸揚げされる場所ということでよく知られているそうだった。特にバナナは、輸入量の半分ぐらいを扱っているそうだった。

 そういえば、西埠頭の形は何となくバナナに似ていた。バナナの房みたいに、いくつかの埠頭が海に向かって突き出している。数えてみたら四つあって、西から第一、第二、第三、第四埠頭。

 僕と冬子が埠頭へ向かって歩きはじめたのは、夕方五時ごろのことだった。埠頭へ通じる線路にそった道を歩いていた。

 だけど、不意に何かに気づいた様子で、冬子が立ち止まった。僕の手を引いて、建物のかげに隠れさせた。

「どうしたの?」

「あそこに誰かいます。数人立っています。男の人ばかりです」

 僕は、見つからないように、そっと首を伸ばしてのぞき込んだ。冬子が言う通り、百五十メートルぐらい先に数人いた。背筋を伸ばして、いかにも抜け目のない感じで、まわりを見回しながら立っている。港の作業員という感じではない。

 僕は首を引っ込めて、ポケットから地図を引っ張り出して広げた。海軍の連中は、実にうまい場所に立っていた。あそこで線路と道が右に分かれて、運河を渡る短い橋を通って埠頭につながっていた。あそこを通らないと、埠頭へは行けない。

「困ったことになりましたね」冬子が言った。「どうしましょう」

「いま何時?」

 冬子が時計を見た。「六時少し前です」

 僕は空を見上げた。「もうすぐ日が暮れるね。七時前には真っ暗になると思う。でも暗くなったからって、連中が引きあげるとは思えないけど」

「なんとかしてあそこを通り抜けなくてはなりませんね」

「うん」

 僕と冬子は歩いて、とりあえずその場を離れた。少し道を戻ったんだ。あんまり近くにいて、何かの拍子に見つかったら困るから。

 もちろんそれは、ついさっき歩いてきたばかりの道だったのだけど。そこをもう一度歩いたからといって、何かいい考えが浮かぶというものでもないのかもしれないけれど。

「ねえ、献鹿さん」不意に冬子が言った。

「どうしたの?」

「さっきはいなかったのに、今はあそこに機関車がいますよ」

 そっちを見たら、冬子の言う通りだった。この道は線路にそっていたのだけど、そこではちょっと線路が広くなっていて、貨車を止めることができる場所だった。そこに機関車がいて、貨車も何もつないでいなくて、一台だけで停車していた。いま停車したばかりなのだろうけど、運転台から機関士が降りてきて、線路の砂利の上を歩いて、線路わきにある事務室のようなところへ入っていくところだった。ガラス戸があって、中の様子が少し見える。イスやテーブルがあって、小さなストーブもある。機関士たちが使う休憩所のようだった。

 僕と冬子は、少しのあいだ様子を見ていた。機関士はイスに座って、同僚だと思うけど、他の職員と話をしている。外が暗くなってきたから、電灯をつけるのが見えた。

 僕は腕時計を見た。六時三十分。中佐は七時ちょうどと言っていたけど、少しぐらい早くてもかまわないだろう。いつあの機関士が休憩所から出てくるかもしれないし。

 まわりは本当に暗くなっていた。家々の明かりがつき、星も見えはじめている。

 僕と冬子は、線路の中に入り込んだ。さくがあったけれど、一カ所こわれているところがあって、簡単に通り抜けることができた。

 砂利の上を歩いて、機関車に近寄った。足の下で砂利が音を立てるからドキドキしたけれど、防ぐ方法はなかった。冬子は猫のようにやわらかく歩くので、小さな音しか立てなかった。

 休憩所からは見えない側から、機関車のハシゴを登った。僕が先に登って、運転台のドアを開けた。音を立てないように、そっと。

 運転台の中は真っ暗だった。人がいるかもしれないと恐れていたのだけど、そういうことはなかった。まあ、暗くて狭い運転台の中にずっといるという趣味の人はいないだろうから。

 振り返って、手を引いて冬子を運転台に引っ張りあげた。冬子は、すぐに車内の柱のかげに隠れた。僕は運転席へ行った。ありがたいことに、ブレーキとコントローラーのレバーは差したままになっていた。この二つがないと機関車は動かせないのだけど、僕は、面倒くさがってこの二つを抜かない機関士が多いことを知っていた。

 この先は、ウソみたいにうまくいった。音を立てないように、僕はゆっくりと機関車を発車させた。冬子は心配して、窓からそっと休憩所の方をのぞき見ていたけれど、機関士たちは何も気がつかなかった。

 運転台の中に残してあった機関士の帽子を、僕は自分の頭に乗せた。そのほうが、いかにも本物の機関士らしく見えるだろうから。

 最初のカーブを曲がって、休憩所から見えないところまで来てから、僕はヘッドライトをつけた。埠頭の入り口はもうすぐだった。

 さっきの連中はまだいた。もちろんこっちを見た。だけど、ただの機関車だと思ったらしい。何も気がつかなかった。

 こうやって、僕と冬子は西第一埠頭まで行くことができた。僕は、機関車をゆっくり走らせた。埠頭の終点で止まりそこねて、機関車ごと海に飛び込むのは嫌だったから。

 ゴロンゴロンと走り続けた。埠頭の先端、線路の終点までやって来た。

 機関車を停車させると、そばに海軍の制服を着た人が一人いて、不思議そうな顔をしてこっちを見ていたけれど、すぐに機関車に近寄ってきた。

 やっぱり青垣中佐だった。中佐も、運転台にいるのが僕と冬子だとすぐに気がついた。僕と冬子が機関車から降りてくるのを、中佐はハシゴの下で待っていた。

 冬子を先に降ろした。僕は手を取って手伝ってやり、下から中佐が支えてやった。僕も機関車から降りた。機関士の帽子をまだ頭に乗せたままだったから、あわてて脱いで、デッキの手すりに引っかけた。

「これはまた大きな御輿に乗ってやって来たものですね」中佐が言った。すぐに、僕と冬子を連れて歩きはじめた。

「他に方法がなかったんです。埠頭の入口のところで連中が見張っていて」僕は答えた。

「そうだったのですか。でも、来れてなによりでした。心配していたのですよ」

「これからどうするんですか?」

 僕と中佐が話しているのを、冬子は黙って見ていた。

 中佐は僕と冬子を、埠頭の先端まで連れていった。そこから先には陸地はない。コンクリートの岸壁がそこで終わっている。

 小さなボートが一つつないであった。オールでこぐタイプのボートだ。せいぜい五、六人しか乗れないだろう。無人のまま、埠頭のくいにとも綱でつながれている。波を受けて、ゆっくりと揺れている。

「乗りなさい」中佐が言った。

 僕と冬子は言われた通りにした。もちろん中佐も乗り込んできて、とも綱をほどいた。中佐はボートの中央に座り、オールを動かしはじめた。

「冬子は舵をおとり」二、三回オールを動かして、ボートが埠頭から離れると中佐が言った。

「はい」冬子はボートの一番後ろに腰かけ、舵につながっているレバーに手を伸ばした。僕も冬子の隣に腰かけた。

 ボートは、そうやって漕ぎ出していった。波の少ない日だったけれど、それでもボートは少し揺れた。僕は振り返って、神戸の町や埠頭、さっきの電気機関車を眺めていた。中佐はボートをこぎつづけた。そして言った。

「あれは持ってきたの?」

「はい」冬子が答えた。

「出しなさい」また中佐が言った。

 冬子は舵を片手で押さえたまま、もう一方の手をカバンの中に入れて、何かを取り出した。銀色に光った金属製のものだ。なんだろうと思って目をこらしていたら、冬子が持ち上げて見せてくれた。

 手錠だった。二組ある。もちろん本物のようだった。

「すぐにおはめ」中佐が言った。ずっとオールを動かし続けているから、少し息を切らせている。

「はい」冬子は、手錠を自分の手首にはめた。左右、両手の手首に。

 僕はびっくりした。わけがわからなかった。冬子は何かの容疑者なんだろうか。たしかに冬子は、あの女教師を殺した犯人なのだけど、でも、今そんなことが問題になるはずはないし。

「献鹿さんも同じようにするのですよ」中佐が言った。

「なぜですか?」

「説明しているひまはありません。言う通りにしなさい」

「でも…」

「ごらんなさい。もうそこに船が見えているのですよ」中佐は、首を後ろに向けてちらりと振り返っていった。もうボートは埠頭からかなり離れたところまで来ていて、ずっと先、このままボートが進めば行き着くであろう場所に船がいるのが見えた。ブイに係留されている。背の高いシルエットから見て軍艦のようだ。

 かちゃんと小さな音が聞こえた。同時に、僕の両手首に何か冷たいものが触れた。気がついたら、冬子が僕の手に手錠をかけたところだった。

「ごめんなさい」冬子が小さな声で言ったけれど、僕はどう答えていいか思いつきもしなかった。

 ボートは進みつづけ、船に近づいていった。僕は軍艦のことに詳しくはないけれど、戦艦と呼べるほど大きな船ではないようだった。それでも、水雷艇と呼ぶほど小さな船でもない。甲板に煙突が二つ並んでいて、黒い煙をゆっくりと吐いている。僕は首を曲げて、黒い船の影を見上げていた。

 ボートが接舷すると、どんなに首を上に向けても、船はほとんど見えなくなった。それぐらいあちらは大きく、こちらのボートは小さい。甲板からは鉄の階段のようなものが下ろされていて、中佐はボートをそれと並べた。すぐに水兵が一人飛び乗ってきて、ボートのとも綱を階段に結わえつけた。

「中佐殿、お一人で大丈夫でしたか?」

 不意に声が聞こえた。階段のところに男が一人いて、こっちを見ていた。中佐と同じような制服を着て、中佐に向けて敬礼をした。あとでわかったことだけれど、この男はこの船の副長だった。オールから手を離して、中佐も敬礼を返した。

「大丈夫だ。二人とも手錠をかけてある」

「そうでしたか。ご苦労様です」

「脇田のことは残念だな」中佐は、ボートの中でゆっくりと立ち上がった。手すりをつかんで、鉄の階段にひょいと乗り移った。

 副長が答えた。

「鬼のカクランというやつでしょう。すぐに退院できるとのことでしたが」

「そうだな。殺しても死ぬようなやつじゃない」

「はい、中佐殿」

「乗組員たちは、私が臨時の艦長になることを知っているのか?」

 副長はうれしそうに笑った。「知っております。みな楽しみにしております」

「私はきつい女だぞ」

「なんといいますか…」副長はにっこりした。「お手並み拝見という気分なのだろうと思います」

「そうか」

「はい、歓迎いたします」

 中佐は、無表情に僕と冬子を振り返った。

「この二人を船室へ入れておけ」

「これが例のスパイなのですね」

「ああ。適当な部屋はあるか?」

「それが」副長は少し困った顔をした。「予備の食料庫を片付けさせて、そこにほうり込んでおこうかと思います」

「そこから出たものはどこに置く?」

「床に転がしておくしかないでしょう」

「それでは歩くのに邪魔だ。艦長室は空いているのだろう?」

「ですが、中佐殿がお使いになるのでは?」

「私は使わぬ。その二人は艦長室へ入れておけ。外からカギをかけろ」

「承知しました」

 副長は、ボートから降りるように僕と冬子に合図をした。

 僕と冬子が船に乗り移って、階段をニ、三歩あるきかけたら、後ろから中佐が言った。

「手錠は外してやれ。海の上から逃げ出せるやつはおるまい?」

 中佐は、副長にひょいとカギを投げた。

 そうやって、僕と冬子は艦長室に入れられた。鉄の壁で囲まれて、小さな窓が一つあるだけの四角い部屋だ。ちゃちなベッドと机があるだけで、他には何も置けないぐらいせまい。窓は、今は外からよろい戸でふさがれている。

 僕と冬子は、並んでベッドに腰かけた。目の前には机がある。この机の上で、艦長が航海日誌を書いたりするのだろうね。

 僕も冬子も口をきかなかった。ずっと黙っていた。そのうちに船が動きはじめたようだった。エンジンの音が大きくなって、船体が揺れはじめた。

 二時間ぐらいして、外からドアのカギを開ける音が不意に聞こえてきた。僕と冬子は、お互いにもたれ合って少し眠っていたのだけど、びっくりして、すぐに目を覚ました。

 ドアが開いて、中佐が入ってきた。中佐は一人だけで、手に料理の乗った皿を持っていた。

「食事だ」中佐が言って、きちんとドアを閉めた。

「おかあさま」

 冬子が小さな声でそう言うと、中佐は皿を机の上に置いて、そっと冬子のほおをなでてやった。冬子がにっこりする。冬子のほおに触れながら、中佐は僕を見た。

「このまま大阪湾を南下して、太平洋へ出ます。四十八時間後、イギリス側と接触する予定です」

「イギリス側って?」

 中佐は不思議そうな顔をして、冬子を見つめた。「説明してあげなかったの?」

 冬子が答えた。「盗み聞きされるかもしれないと思って、二人ともずっと黙っていたのです」

 中佐は笑った。「大丈夫よ。艦長室の中で密談ができないようだったら、戦争などできないわ。兵たちに作戦のすべてを教えるわけではないから」

「じゃあ、今回のはどういう作戦なんです? 船を勝手に動かしていいんですか?」

「良くはありませんよ」中佐は答えた。どこか楽しそうにも見える。

「じゃあ、なぜ?」

「それを説明しましょう」

 中佐は話しはじめた。

「私がやろうとしていることは、まったくの裏切り行為です。これが公になれば、大きな新聞記事になることでしょうね。だけどその時には私はもう日本にはいないのだから、みんな好きなだけ騒げばいいわ。

 たしかに私は海軍軍人で、ある部隊を任されています。それがおかしな部隊でね。私は駆逐艦を三隻従えているのだけど、正規の艦隊には属していないのです。軍事演習というものがあってね、そのときには誰かが敵役をやらなくちゃならないでしょう? 本物そっくりの演習じゃないと、効果は上がらないから。

 だから敵役の船が必要になってきて、それが私の三隻なのです。この三隻は艦隊を離れて、つねに独立して行動しています。演習のときに相手の裏をかいたり、不意打ちを食わせたりしてあわてさせるのが任務なのです。この駆逐艦も、そのうちの一隻です。もちろん今は軍事演習の季節じゃありません。もうすぐ始まるけれど、あと三週間先のことです。

 私はこの船に、ある命令を出しました。もちろんウソの命令です。司令部は何も知りません。何もかも私が作ったウソです。だけど水兵たちはそんなことは知りません。さっきの副長だって知りません。私が命令書を偽造したら、すぐに信じてくれました。たまたま艦長の脇田が病気で入院してくれたのも運が良かったし。副長も冬子の顔を知らないしね。知っていたら、こういう作戦は不可能だったでしょう。

 船員たちは、自分たちが特別の任務についているのだと思い込んでいます。イギリス側とスパイを交換するという任務です。

 イギリスは、外国にスパイを何人も送り込んでいます、日本だって、あちこちに送り込んでいます。そういうスパイたちも、ときどきは正体がばれて逮捕されてしまうことがあります。あなたたちは、そうやって逮捕されたスパイだということにしてあります。イギリスから送り込まれてきたスパイですね。また、香港へ送り込まれていた日本人スパイが一人、正体がばれてイギリス当局に逮捕されたということにもしてあります。これから海上でイギリス船と落ち合って、スパイ同士を交換するわけですね」

「うまくいくんですか?」

「さあ?」中佐は、眉を上げて僕を見た。「いかなかったら大変ですね」

 僕はもう、何を言っていいかわからなかった。中佐も静かになった。

 冬子が口を開いた。「おかあさま、私たちのことを献鹿に話しました」

 中佐は冬子を見つめ返して、ふうっと息を吐き出した。「埠頭で顔を見たときから、そんな気がしていたけれど」それから僕を見て、指でそっと僕のほおをなでた。「こういう母親では、あなたは不満かもしれないけれど」

 僕は何も言わなかった。どう答えていいか、もっとわからなくなってしまったから。

 それ以上は何も言わずに、かすかににっこりしただけで、中佐は部屋を出ていってしまった。僕と冬子は、中佐が持ってきてくれたものを食べた。

 僕と冬子は、その後もずっと艦長室に閉じ込められていたのだけど、食事はいつも中佐が運んできてくれた。そして、船内の下のほうではずっとエンジンがズンズン言っていた。僕と冬子はあまり話もしなくて、ずっとお互いに軽くもたれかかったままでいた。

 でも一度だけ、僕は冬子と少し口をきいた。

「さっきなぜ手錠を持っていたの?」と僕は言った。

「こういうことがあるかもしれないから持っていなさいと、結婚式の日に母から渡されていたのです。ずいぶん用意のよい人ですね」



 船は走りつづけた。四十八時間後、やっとエンジンが止まった。船の中は静かになって、それでも波でゆっくり揺れている。窓がふさがれているから、外で何が起こっているのかさっぱりわからない。僕と冬子は待っているしかなかった。並んでベッドに腰かけたままでいた。

 でも、とうとうドアが開いた。

 外からカギが開けられて、ドアが開きはじめると、すぐに中佐の声が聞こえてきた。少し大きな声だった。

「…まあ、そういうことだ」

 中佐は誰かと話をしているらしい。冬子が、僕の腕にそっと触れた。

「外へ出てもらおう。イギリス側とスパイの交換を行う」ドアが完全に開いて、部屋の中に一歩入ってきて中佐が言った。中佐の後ろには、副長や水兵たちがいるのが見える。

「早くしろ、のろのろするな」また中佐が言った。

 僕はあわてて立ち上がって、冬子を振り返って、手を引いて立ち上がらせようとした。突然、中佐が僕のおしりをドンと強くけった。

「のろまなやつだ」

 あれって、ぜんぜん手加減してなかったと思う。冬子が僕の背中に手をあてて、そっと廊下に押し出した。中佐は、わきによって道をあけている。

 中佐が、副長を振り返って笑った。

「こういうことをするから、私はきつい女だと言われるのかもしれないな」

「スパイになら、今のでも優しすぎるぐらいです。海の中にけり落としたっていいですよ」副長は、本気でそう思っているみたいに見えた。

「そんなことをしたら、我が方のスパイを取り戻せなくなるぞ。この二人は小者だが、交換してくれるスパイはかなり優秀な奴らしい。二人と一人を交換してくれるのだからな」中佐はまだ笑っていた。

「そんなにすごい奴なのですか。早く顔を見たいものですな」副長もうれしそうな顔をした。

 僕と冬子は、甲板の上まで連れていかれた。外に出て初めてわかったのだけど、外は真っ暗だった。真っ暗な夜の海だ。大洋の真ん中のようで、どっちを向いても、陸地の明かりは見えなかった。

 わずかに風が吹いている。手すりの向こうの暗い海からやってきて、僕と冬子のわきをかすめ、背後にある砲塔にぶつかって砕けている。

「あれか?」中佐の声が聞こえた。

 中佐は、むこうにいるもう一隻の船を眺めていた。海は、まるで黒い色の毛布かシーツでも広げてあるかのように見える。そっとやれば、その上を歩いていくことだってできそうな。

 イギリス船は何百メートルか離れたその海の上にいて、背が高くて、船体の上に箱をいくつもいくつも積み上げたような形をしていて、大きいのや小さいのや、大砲がいくつも突き出していた。

「でかい艦だな」中佐は感心している様子だった。

 副長が答えた。

「大げさなことですな。たかがスパイの交換に」

「ボートが来ます」水兵の一人が言った。

 海の上には本当にボートが一隻いて、あのイギリス艦から降ろされたばかりのようだった。こっちへ向かって走ってくる。兵が四人乗っていて、着ている制服の違いでわかったのだけど、そのうちの一人は将校のようだ。

「我が方のスパイは乗っていないようだな」中佐が言った。

 このとき副長は双眼鏡をのぞき込んでいたのだけど、答えた。「そのようです。どういうことなのでしょう?」

「あちらの気が変わったのかもしれない。小者二人では釣りあわんというつもりなのかもしれない。私が行って交渉してこよう。おまえはここで待っていろ」

「では、護衛の兵をつけましょう」副長は双眼鏡をおろした。

「いや、私一人で行く。小さなボートだから、私とこの二人を乗せるのが精一杯だろう」

 ボートは、もうすぐそばまでやってきていた。イギリスの水兵たちが、とも綱を投げてきた。こちらの水兵が、それを固定した。

「本当にお一人で大丈夫ですか?」また副長が言った。

 中佐は振り返った。「心配するな。すぐ戻る。この二人を引き渡して、一人を受け取ってくるだけのことだ。私一人が行けばすむ。それに、イギリス側と接触するのはできるだけ少ない人数にしろとの命令も受けている。イギリスの連中も、私の身に何かあって国際紛争が起きるようなことは望んでいまい」

 そうやって、僕と冬子と中佐だけがボートに乗り込んだ。すぐにとも綱がほどかれて、ボートは動きはじめた。

 ボートは、イギリス艦に近寄っていった。

 本当にでかい船だった。見たことはないけれど、エジプトのピラミッドぐらいあるような気がする。それぐらい大きくて背が高い。このでかいものが、みんな鉄でできている。甲板からは鉄でできた階段が海面の近くまで降ろしてあって、ボートから乗り移って、それを登っていくようになっていた。

 副長は、僕と冬子と中佐がイギリス艦に乗り込んでしまって、そのあとボートまでがウインチで甲板に引き上げられてしまうのを見て、ひどく驚いただろうと思う。甲板の上から、双眼鏡を使うのも忘れて、呆然とこっちを見ていた。その後、イギリス艦はすぐに全速で走りはじめたしね。

 もちろん駆逐艦は追いかけてはこなかったし、攻撃してもこなかった。目の前で何かの陰謀が行われたのだということにはすぐに気がついただろうけど、独断でイギリスと戦争を始めるわけにはいかないから。

 僕と冬子と中佐は、イギリス艦の中で、監禁されたのではないけれど、簡単な作りだったけど客室のようなところへ入れられて(戦艦の内部に客室があるだなんて、僕は知らなかった)、外には出してもらえなかった。小さな丸い窓があって、そこから外を見ることはできたけれど、もちろん窓の外には、夜の海と空しかない。

 デカポッドが部屋の中に入ってきた。誰かが外からドアをノックするから、僕が開けに行ったのだけど、そうしたらデカポッドがいたんだ。

 デカポッドは言った。

「さっきあんたたちがやったのと同じように、オレも海の上でこの船に乗り移ったんだぜ。でも波が荒くてさ、死ぬかと思った。一ガロンぐらいゲロをはいたな。それとさ、本当はもっと小さな船の方が目立たなくていいに決まってるが、どうにも手配がつかなくて、近くにいたこの戦艦を使うことになった。バカみたいに大げさなことだよな」

 誰も何も言わなかったのに、デカポッドは勝手にイスを見つけて、腰かけてしまった。僕と中佐と冬子も、そばへ行ってそれぞれイスに座った。

「日本海軍が動きはじめたことを、イギリスへ帰る途中で知ったんですか?」僕はデカポッドに言った。そして、同じことを日本語で、冬子と中佐にも言った。

「そうさ」とデカポッド。「あんたたちをすぐに保護しろと命令を受けた。亡命者として受け入れるんだとさ」

「じゃあ、これからはイギリスで暮らすことになるんですね?」

「ああ、湿っぽくて寒い国は大好きだろう? おまえなら日本語の通訳として働くことができるから、生活に困ることはなかろうよ。もちろん、名を変えて身分を隠すことになるがな」

 そのことを中佐と冬子に通訳したあと、僕はため息をついた。どういうわけだか、ため息が出てきたんだ。

 中佐と冬子は、そっと僕のひざに手を置いた。戦艦は、香港へ向けて走りつづけた。




 その日は日曜で、天気がよかったから、僕は庭に出て日向ぼっこをしていた。テラスにイスを持ち出して、本を読んでいた。そこへ姉が茶を運んできてくれた。僕が本から顔を上げると、姉も見つめ返して、にっこりした。

「お母さんは?」と僕は言った。

「種を買いに行くとかで市場へ出かけました。家庭菜園を広げるつもりのようですよ」

「へえ」

 そのとき、門が開く音が聞こえてきた。僕はそっちへ首を向けた。姉も同じようにした。でもここからでは、植え込みが邪魔になって門は見えない。

「誰でしょう? 母にしては早いようですが」姉が言った。

「お客さんかな?」

 僕は本を置いて立ち上がって、様子を見にいくことにした。姉も、衣ずれの音をさせながらついてきた。淡いグリーンのドレスがとてもよく似合っている。

 客は門を入ってきたところで、玄関の前に立ってノックをしようとしていたところだった。でも僕に気づいて、持ち上げかけた手を途中で止めた。

「デカポッドさん」僕は言った。

「おお」デカポッドは笑い顔を見せた。そばにやってきて、僕と握手をした。以前と同じような、力の抜けたいい加減な握手だったけれど。デカポッドは、姉には軽くお辞儀をした。

「久しぶりですね。お元気でしたか?」僕は言った。

「ああ、おまえも元気そうだな」

 僕は姉を振り返った。「この国の暮らしにもだいぶ慣れました」

「そうかい」

 姉はにっこりして、僕とデカポッドを眺めていた。「どうぞお入りください、デカポッドさま」

 デカポッドは、照れたようなどぎまぎした顔をした。

 ドアを開けて、デカポッドを居間に通した。茶と菓子を出した。三人で座った。

「元気そうな顔を見て、ちっとは安心したぜ」デカポッドは部屋の中を見回しながら言った。「中佐はどこだ?」

「母は出かけています。もうすぐ帰ると思いますが」僕は答えた。

「そうか」

「何か御用ですか?」

 デカポッドはまじめな顔になった。「兄貴から面倒な仕事を頼まれちまった。海軍の辛気くさい将校よりは、オレを行かせたほうが刺激が少なかろうってことらしくてな」

「どういうことなんですか?」

「それがさ、中佐に直接話せといわれてる」デカポッドは答えた。

 そのとき、玄関の戸が開く音が聞こえてきた。

「母かもしれません」姉が立ち上がって、居間から廊下へ出ていった。すぐに小声の会話がその方向から聞こえてきて、姉が母を連れて居間へ戻ってきた。

 母の姿を見て、デカポッドが感心したように息を吐き出したことに僕は気がついた。この日の母は、濃いブルーのドレスを着ていた。デカポッドは、海軍の制服を着ていない母を見るのはこれが初めてだったのだろうね。

 母はデカポッドを見て、にっこりした。腰をかがめて、優雅にお辞儀をした。「デカポッドさん、その節は本当にお世話になりました」

「いやいや」デカポッドは立ち上がった。

 スカートの長いすそを手で持ちながら、母は僕の目の前を通り過ぎて、長イスの上のいつもの場所に座った。

「私に御用ですって?」母はデカポッドを見上げた。

「ああ」デカポッドは腰かけた。「あんたに見てもらいたものがあって、英国海軍から預かってきた」

「なんでしょう?」

 デカポッドは、手に持っていた茶色いカバンから一枚の紙をさっと取り出して、母に手渡そうとした。「不鮮明な写真ですまんがね」

 たしかにそれは写真のようだった。大きく引き伸ばしてある。母は途中まで手を伸ばしかけたのだけど、やめて引っ込めた。「私が見てもよいものですか? 私は外国人ですよ」

「ぜひ見てくれと海軍が言ってる。何かの船の一部らしいが、正体がわからなくて手てこずってるんだとさ」

 母は写真を受け取って眺めた。僕も隣からのぞきこもうとした。その様子を見て、デカポッドはかすかに笑った。一瞬、デカポッドと姉は顔を見合わせた。姉は微笑み返した。

 その写真だけど、デカポッドが言うとおり本当に不鮮明なものだった。ピントは合ってないし、粒子も粗い。暗い海で撮ったもののようだった。波立った水面が写っていて、棒のようなものが水中から、ぴょんと波の上に垂直に突き出している。大きさはよくわからないけれど、長さは二メートル以上ありそうだ。直径は水道管ぐらいかな。

 僕には、何のことやらさっぱりわからなかった。水の中から杭が突き出しているとしか見えない。でも母にはわかったようだった。母の表情が変わった。

「これはどこで撮影されたのですか?」母が言った。母は、僕に写真を手渡した。僕は姉に手渡した。姉も眺めていたが、僕と同じように意味がわからないようだった。

「それが何なのかわかるのかい?」デカポッドが言った。

 母は少し黙っていた。それから言った。

「わからなくはありません。でも、いつどこで撮影されたのですか?」

「一昨日、戦艦ターニップが沈没した話は知ってるかい?」

「はい、新聞で読みました」母はうなずいた。

「新聞には事故だと書かれていたが、それは真っ赤なウソでね。救出された乗組員の証言から、魚雷攻撃を受けたものだとわかったそうな」

「魚雷?」

「あんなでかい船を一発でしとめたのだから、かなりいい魚雷だな。日本海軍の雷神一号魚雷を思い起こさせると兄貴が言ってた。どんな魚雷かオレは知らんが」

「でも、ターニップが沈んだのはマーマレード港のまん前でしょう? 日本の船がうろうろしているはずはありませんよ」

「英国海軍もそう思ってた。でも偶然、ターニップが沈められる直前にこういう写真が付近で撮影されていたんだ。ヨットに乗っていた民間人が撮影したものだが、真夜中、海の真ん中で見つけて、なんだろうとシャッターを切ったそうな。大海蛇の背中のトゲだろうかと最初は思ったそうだがね」

「ところがそれが、鉄でできた大海蛇だったというわけですね」

「そうらしいや」

「そうなのですか」母はソファーの背にもたれかかった。姉が茶碗を手渡してやったので、一口すすった。

「これについて、何か知っているかい?」デカポッドが言った。

「ええ、お話ししましょう」カップを置いて、母は身体を起こした。「英国にはお世話になっているから、ご恩返しです」

「ありがたいが、もうしわけない気がしないではねえな。あんたには、こいつの正体をばらすぞといって、むりやり協力させたのだから」デカポッドは、僕を指さしながら言った。

 でも、母は微笑み返した。「そんなことはもういいのです。デカポッドさんの口からばらされなくても、いずれ献鹿は日本にはいられなくなったでしょうから」

「なぜだい?」

「献鹿が青垣家の跡取りらしいと、佳奈は婚約者の田中に話していたようなのです。その田中の口から知らされたのでしょう。人を雇って、大蔵家はこそこそ調査を始めていました」

「そうなのかい」

「ですから、私たちが英国にお世話になっているという事実に変わりはありません。それで、その写真に写っているもののことですが、私は日本を離れて二年になるわけですし、直接かかわる部署にいたわけでもないのですよ」

「それはわかってるさ」デカポッドは、まじめな顔でうなずいた。

 母は話しはじめた。

「英国から蒸気タービンを密輸しようとして失敗した件はもちろん覚えておいででしょうが、それ以前から日本海軍ではいろいろと不祥事が続いていたのです。ほんのちょっとした嵐で船は沈む、大金を出して外国から買い付けた潜水艇の性能は期待はずれ、将校の昇進についての金銭スキャンダルと続いては、政府内部で海軍の評価が下がってしまうのも当然でしょう。これで有事の際には本当に使い物になるのだろうかという意見までささやかれるはじめるほどだったのです。

 そこへあの蒸気タービンの件です。このままいけば我々は冷遇され、いずれは予算だって減らされてしまうだろうという危機感が海軍全体に広がりました。この計画は、そういうときに持ち上がったのです。

 はじめは酒の席での冗談だったようです。外国の名のある戦艦を撃沈してみせれば、日本政府のお偉方だって、海軍の実力を認めざるを得ません。平時ですから、おおっぴらに撃沈することはできませんが、誰がやったのかばれなければよいのです。そして政府の石頭どもにだけ、あれは我々がしたことだと教えてやればよい。そういう計画だったのです。

 この計画は私も耳にしていましたが、冗談だと思っていました。欧州まで出かけていって、英国海軍の戦艦を撃沈してみせるですって? 冗談も休み休み言え、というところです。

 でも彼らは本気だったようですね。ひそかに船を建造し、作戦を実行に移したのでしょう。そう、いま思い出しましたが、私も作戦のための寄付を求められました。海軍の上層部から末端の一兵卒に到るまで、全員に寄付が募られました。私も少し金を出しましたが、今の今まで冗談だと思っていました。発起人たちの酒代に消えてしまうと思ったし、それはそれでかまわないという気分でした。たまには羽目をはずす必要もありますから。でも、彼らははずしすぎたようですね」

「具体的にはどういう計画だったんだい?」デカポッドが言った。

「この船は、もちろん鉄でできているのですが、タルのようなずんぐりした形をしています。浮力を調整する装置がついていて、水に浮かぶでなく沈むでなく、海面下数メートルのところをゆらゆらとただようことができます。そうやってイギリス近海に潜んで、何でもいいから戦艦が通りかかったら魚雷をぶっ放します」

「この写真がその船だとする根拠はあるのかい?」

 姉が写真を母に返した。母が写真の表面を指さした。

「水中から突き出しているこれですが、よく見れば、三本のパイプが束ねてあることがわかるでしょう? 一本は太く、他の二本はそれよりも細い。太いパイプからは薄い煙が出ている。これは、船内に積まれている蒸気エンジンの排気です。もう一本は空気を吸い込むためのパイプです。エンジンと乗務員のためですね」

「残りの一本は?」

「ここが見えますか?」母は、もう一度指さした。「このパイプの頂上が光を反射して、光っているのがわかりますか? 暗くて見えにくい写真だけれど」

「ああ、オレもなんだろうと思っていた」

「これはレンズです。魚眼レンズになっていて、まわりを広く見渡すことができます。敵船の様子を観察するための潜望鏡がもう一本あるはずですが、この写真を撮ったときにはたまたま引っ込めていたのでしょう」

「なあ中佐、あんたはこの船についてよく知っているようだが」デカポッドはにやりとした。

 母もにっこり笑った。「軍籍を離れていても、中佐と呼んでいただけるとうれしくなってしまいます」

「ああ、中佐どの」デカポッドは微笑んだ。

 母はまたにっこりした。「あまりうれしがらせないでください。この船のことは、私も簡単な図面を見せられたのです。冗談で書かれた図面だと思っていたのですが」

「どんな図面だった?」

「簡単なものでしたよ。船の大体の形と、装備の一覧がありました」

「この三本のパイプも描かれていたか?」

「ありました。なんて不恰好な船だろうと思ったことを覚えています」

「非現実的な計画だと思ったわけだ。そのほかに記憶していることは?」

「いくつかあります。非常識な計画だから、成功するとはとても思えなかったけれど、アイディアとして光っている部分がなくはありませんでした」

「どういうことさ?」

「各国の海軍がいま競って潜水艦を開発していることはご存知でしょう? 日本海軍はいささかおくれをとっていますが、潜水艦に関心がないわけではありません。いろいろ資料を集めてはいるのです。

 潜水艦を作る技術は、いまのところどこの国も似たり寄ったりです。細かな性能の違いはあるけれど、それでもドングリの背比べです。そこへ後発組の日本が殴り込みをかけようというのだから、普通にやったのではかないっこありません。割り切った設計にして、あちこち機能を切り捨てるのです」

「どういう機能を?」

「順を追ってお話ししましょう。普通に作ったのでは、他国と変わらない潜水艦しか作ることはできないでしょう。水にもぐって浮いて、魚雷を発射して、燃料や魚雷が切れたら補給して、母港に帰って整備を受けて。

 でももし、最初から最後まで水にもぐったままで、浮上することを考えていない潜水艦だったとしたら? もしそうなら、比重の微調整さえできればいいわけだから、バラストタンクはうんと小さくできます。キングストン弁も一組ですむし、空気圧縮機も小型のものですみます。ごく浅く潜るだけでいいのなら、船体も薄く軽くできます。

 沖合いでゆらゆら待ち構えているだけだから、船体の向きをわずかに変える程度の動力さえあればいい。乗組員は一人だけにします。すると、食料や水を大幅に減らせます。手持ちの魚雷を撃ちつくしてしまっても、補給はしません。そのまま船を捨てます。もちろん乗組員は船を離れますが、浮上できない船だから、脱出ハッチを開くと同時に浸水して、船は沈没します。一度で使い捨てにする船です」

「とんでもなく機能を制限した不自由な船なんだな」デカポッドは驚いた顔をした。

 母はにやりと笑った。「その制限された機能で、戦艦ターニップをほふったようですが」

「ふうむ」デカポッドはほおに指先を当てて、考え込んだ。

 僕は横から言った。「そんな潜水艦、本当に作ったんですか?」

 母は、にっこりと僕を見つめ返した。「この写真を見るかぎり、そのようね」

「計画されていたことはそれだけか?」デカポッドが言った。「戦艦を一隻沈めるだけでおしまいなのか?」

「いいえ」母は首を横に振った。「魚雷は二発積み込んでいます。使い切るまで作戦は終わらないでしょう。戦果としても、戦艦一隻よりも二隻のほうが大きいわけですから」

「では、まだその船はマーマレード港あたりにいると?」

「そう思います。そう、いま思い出しました。船の名前はたぶんマンボウだと思います。あれから変更されていなければ」

「マンボウ?」

「マンボウという魚は、月夜に水面近くに浮いて、何もせずにじっとしているそうです。この潜水艦も波間をただよいながら、敵船が通りかかるまでじっとしています。そういうところが似ているからでしょうね」

「しかし」デカポッドが言った。「どうしてイギリスの戦艦が標的なんだ? アメリカの船だってかまわないわけだろう?」

 母はにっこりした。「それはやはり、イギリスには蒸気タービンの件で恨みがあるからでしょうね」

「ほお」デカポッドはうれしそうに笑った。「それでそのマンボウだが、日本から単独でやってきたのではあるまい?」

「もちろんです。母船に積まれてきたはずです」

「母船?」

「といっても、ただの貨物船です。マンボウを船倉に積んで日本からやってきて、真夜中にマーマレード港の沖で、クレーンを使ってマンボウを海面に降ろしたのでしょう」

「まさか、その母船の名までは知らないよな」

「ええ、そこまでは知りません」母は、もうしわけなさそうな顔をした。

「まいったよなあ」デカポッドは天井を向いて、あごの下をぽりぽりとかいた。

「どうしたんですか?」僕は横から話しかけた。

 デカポッドは顔を横に向けて、僕をじろりと見た。「ここからマーマレード港まで十マイルとありゃしねえ。今すぐ調査に出かけない言い訳なんか見つかりっこねえよなあ」

 母が不思議そうな顔をした。「何百人もの海軍将兵の命にかかわることなのではありませんか?」

 デカポッドは母を見つめ返し、鼻を鳴らした。「軍艦がもう一隻沈もうがどうしようが、オレの知ったことじゃねえよ。軍人でもないのに」

 しばらくのあいだ僕も母も姉も、黙ってデカポッドを見つめていた。

「よし、仕方ねえ」ひざをポンとたたいて、デカポッドがイスから立ち上がった。「行くぞ、ケンジントン」

「えっ?」

 わけがわからなくて、僕は部屋の中をキョロキョロ見回した。デカポッドがもう一度鼻を鳴らすのが聞こえた。

「おまえも通訳としてついてくるんだよ。早くしな」

 二十分後には、僕はデカポッドと一緒に駅のプラットホームに立って、列車を待っていた。そしてその四十分後には、マーマレード駅に立っていた。

「おなかがすきました」駅の建物から歩いて出ながら、僕は言った。かなり不満そうな声を出していたと思う。時計を見たら、もうすぐ正午だった。

「メシの話なんかするんじゃねえ」デカポッドが答えた。「あとでなんか食わせてやるから」

 デカポッドが歩きはじめたので、僕はついていった。

「どこへ行くんです?」

 デカポッドは、駅前から伸びている太い通りを港へ向かっているようだった。五分ぐらい歩くと、だいぶ港らしい風景になってきた。レンガ色の大きな建物がいくつも並んでいて、倉庫街のようだ。背の高いクレーンの並んだ造船所も見えはじめる。船員向けの食堂や酒場がある。空気の中に潮の匂いがしはじめる。ときどきその中に、汽船が吐き出す煙の匂いが混じる。

 デカポッドが立ち止まったのは、二階建ての建物の前だった。いかにも役所という感じで、入り口のわきにはマーマレード港湾事務所と書いてある。

「ここは何ですか?」

「あん?」デカポッドは考えごとをしていたらしくて、ぽけっとした顔で僕を振り返った。「何か言ったか?」

「あのう、ここは何ですか?」

「ああ」デカポッドは軽くウインクして見せた。「まあ見てなよ」

 ドアを押し開けて、デカポッドと僕は建物の中へ入っていった。部屋の中は広くて、大きな事務室になっていた。銀行のロビーを思い浮かべてもらえばいいかな。

「所長さんはいますか?」デカポッドは、手近にいた事務員に話しかけた。

 その事務員は、きちんとヒゲをそって髪を刈った若い男だったけれど、目をぱちくりさせてデカポッドを見つめ返した。きっと、子供のころ読んだ物語の登場人物が本から抜け出してきたとでも思えたのだろう。

 本当にデカポッドは、今にも剣を抜いて、海賊の歌でも歌いだしそうな感じだったから。実際、肩の上にオウムをとまらせていないのがもったいなく思えるぐらいだ。

 若い事務員は、あわてて所長を呼びにいった。所長は奥の部屋からすぐに出てきたけれど、デカポッドを一目見ただけで、露骨にうんざりした顔をした。

「疫病神め」

「えへへへへ」デカポッドはうれしそうに笑った。「覚えててくれたんだね」

「忘れるものか」所長が大きな声を出したので、僕はびっくりした。所長は続けていった。

「あんたのおかげで、私は何枚の始末書を書かされたか」

「でもね」デカポッドは穏やかな声で言った。「今日、オレの話を聞かずに追い返したりすると、またまた始末書もんですぜ」

「何のことを言ってるんだ? そこのガキは誰だ?」

 デカポッドは片方の眉を上げた。「オレの助手ですよ。それはそうと、秘密の相談は人目のない場所でするもんじゃないですかねえ」

 デカポッドは、人の多い事務室の中を見回し、わざとらしく首を傾けて見せた。

 すぐに所長は、僕とデカポッドを所長室の中へ入れた。秘書を追い出し、ドアに自分で鍵をかけ、デカポッドと僕を振り返った。

「それで、今度は何の騒ぎなんだ?」

 デカポッドは勝手に所長の机の上に腰かけ、ポケットからあの写真を取り出して、説明をはじめた。

「信じがたい話だな」説明を聞き終わって、所長が言った。「ただでさえ信じがたいのに、あんたの口から聞いたのではよけいにそうだ」

「これを見てくださいよ」デカポッドはポケットから、別の紙を出してきて所長に見せた。折りたたんであったものだけど、広げると手書きの書き付けで、僕も首を伸ばしてのぞき込んだのだけど、海軍大臣のサインがしてある。『戦艦ターニップに関してはデカポッドに正式に調査を依頼してあるので、できるだけ協力してやってもらいたい』というようなことが書いてあった。

 書き付けを手にとって読んで、所長はため息をついて頭をかいた。

「それで、私にどうしろというんだね?」

 デカポッドは身体を乗り出した。「あんたは税関に顔がきくでしょう? それで頼みなんだが……」

 一時間後には、僕はデカポッドと二人で埠頭を歩いていた。マーマレード港の南のすみで、あまり人や船のいないあたりだ。左側には岸壁が続いていて、右側にはずらりと倉庫が並んでいる。足元の石畳には線路が敷いてあるのだが、僕はそのレールを踏みながら歩いていた。

 人通りはほとんどない。ずっと向こう、埠頭の先端に一隻の船が接岸しているのが見えていた。港湾事務所で調べてもらってわかったことだけど、船名はウツボ丸。いまマーマレード港にいる唯一の日本船で、もちろん貨物船だ。

 僕とデカポッドは、そのウツボ丸に向かって歩いていた。僕とデカポッドは税関職員の制服を着ていた。青いズボンと上着、頭には帽子を乗せている。ついさっき借りてきたものだ。

 歩きながら、デカポッドがちらりと振り返っていった。

「どうでもいいが、おまえの制服はぶかぶかだぞ」

 僕は自分の身体を眺めた。たしかにその通りだった。胴回りはゆるゆるだし、そでも長すぎる。ズボンのすそは、折ってたくし込んでごまかしてある。肩のところがあまりにも余っているから、丸めたタオルを入れて調節していた。

「でも、デカポッドさんだって似合ってはいませんよ」僕はデカポッドの姿を見た。僕とは逆に、デカポッドの制服は小さすぎた。胸が分厚すぎて、上着の一番上のボタンはとめることもできない。

「まあ、不審に思われないように祈るだけだな」

「それって、無理な望みじゃありません?」

「ふん、知るか」

「そうだ。さっき所長が言ってた始末書って、何のことなんですか?」

 デカポッドはにやりと笑った。「おまえも知りたがりだな」

「だって……」

「ああ、話してやるよ。三年ぐらい前のことだが、この少し先の線路に空っぽの貨車が一台とめてあったと思いな。そして近所のガキどもが、その貨車に群がって遊んでいた」

「ええ」

「ところがその線路は、ほんのわずかだが坂になっていてな、おまけにブレーキのかけ方もゆるかったらしい。貨車はガキどもを乗せたまま動きはじめた。何人かはとっさに飛び降りたんだが、二人ばかり取り残されちまった。坂を下って、貨車はどんどんスピードがついてくる」

「どうなったんですか?」僕には、子供らが泣き叫ぶ大きな声が聞こえてくるような気がした。

「運悪く、オレはそこを通りかかってな。なら、なんとかしないわけにはいくまいが? オレはとっさに、そこらに置いてあって木箱やら荷物やらを線路の上に並べたのさ。くそ重たい箱を五個も十個も並べたんだぜ。そこへ暴走貨車がやってきた」

「貨車は止まったんですか?」

「止まったさ。ガキどももケガ一つなかった。線路の上の荷物は全部ぺちゃんこになっていたがな。そしてその中の一つが、あるお偉いお方の屋敷に届けられる予定のマホガニーの本棚だった」

「ははあ」

 デカポッドは僕を横目で見た。「うれしそうな顔をするんじゃねえよ。後始末が大変だったんだぞ」

 僕とデカポッドはそのまま歩きつづけて、ウツボ丸のすぐそばまでやってきた。僕は、立ち止まって船体を見上げた。

 かなり大きな船だ。甲板の上には、荷物の積み下ろしに使う大きなクレーンが突き出している。船腹には鉄製の階段が甲板から下ろされていて、埠頭の地面に接している。そこになぜか船員が一人いて、タバコを吸いながらこっちを見ていた。顔つきから見て、日本人のようだ。

 デカポッドはすたすた歩いていって、その船員に向かって、さっと敬礼をして見せた。船員はびくっとして、思わずタバコを捨てて右手を上げかけた。でも途中で気がついてやめて、わざとらしくその手でほおをぽりぽりとかいた。

「船長はいるかね?」デカポッドが言った。

 僕はそれを日本語に通訳した。「船長さんはいらっしゃいますか?」

 船員はひどく驚いたようすで、目を丸くして僕を見ていたけれど、すぐに日本語で答えた。

「いるよ。何か用かい?」

 僕がそれを英語に訳すと、デカポッドはにっこりして言った。「気にしないでくれ。このガキは通訳だ。日本から密航してきやがってさ。身寄りがないというんで、お情けで働かせてやってるんだ。大英帝国は慈悲深いからな」

 僕がそれを通訳すると、船員はもっと驚いた顔をしたけれど、船長を呼びにいくために一人で階段を上がっていった。僕とデカポッドは下で待っていた。船員の姿が見えなくなると、デカポッドが僕にささやいた。

「あれは軍人だぞ。オレが敬礼するのを見て、とっさに敬礼を返そうとしやがった」

「日本海軍の?」

「ああ、まず間違いねえな」

 二分もしないうちに、ウツボ丸の船長が姿を現した。鼻の下にちょびヒゲを生やした男で、制服を着て帽子をかぶっていたが、服にはしわもなくてぱりっとした感じだった。鉄製の階段を、背筋を伸ばしたまま下りてきた。かちんかちんと靴音が響く。

「何の御用でしょう?」デカポッドと僕の前まで来て、船長はきれいな英語で言った。

 デカポッドが僕のわき腹を軽くつついて、にやりと笑った。「これでおまえの出番はなくなっちまったな、え?」

 船長は黙ったまま待っている。

「いえね」デカポッドが話しはじめた。「これは正式の立ち入り検査ではないので断っていただいてもいいんですが、ちょっとこの船の内部を見せていただきたい事情ができまして」

「なんです?」船長は無表情に見つめ返してくる。

「いやあ」デカポッドは笑って帽子を脱いで、頭を少しかいた。「アホみたいな話で恐縮なんですが、昨日の真夜中のことなんですが、おたくの船倉にロクが舞い降りるのを見たという者がおりまして」

「なんですと? ロク?」

「ロク鳥。鳥ですよ。アラビアンナイトに出てくるやつです。ものすごく巨大で、足で家をつかんで、そのまま空高く舞い上がることができるほどだっていう」

 船長は目をむいた。「それが本船の船倉に舞い降りたと? ばかばかしい与太話ですな」

「オレもそう思うんですがね、目撃者ってのがこの町の市長で、その直接の命令とあっては、形だけでも調べないわけにはいきませんや。やっこさん、酒ビンが人生最良の友という男ではあるんですがね」

「わかりました」船長はため息をついた。「船内をご案内しましょう。隠すことは何もないですからな」

「すいませんねえ」

 僕とデカポッドは、船長のあとをついて階段を登りはじめた。

 あちこちさびた階段なので、僕は少し恐かった。鉄骨をリベットで組んだだけのすけすけのものだから、下の地面が丸見えになっている。一歩あるくたびに、その地面が遠くなる。デカポッドが一歩踏み出すたびに、ゆらゆら揺れる。

「早くしろよ」階段の真ん中あたりまで来たとき、デカポッドが僕を振り返って、いらいらしたような声を出した。

「どうしたんです?」船長が立ち止まって、振り返った。

「えへへへ」デカポッドは笑った。「この通訳がぐずで困りまさあ」

「そうですか?」船長は表情を変えずに続けた。「蒸気タービン事件のときの手際は、なかなか見事でしたがな」

 僕とデカポッドはぽかんと口を開けたまま、十秒以上のあいだ顔を見合わせていた。

 船長がおかしそうに笑った。「これで、ありもしない鳥の巣を探す必要はなくなったわけですな」

「ケンジントン、走れ!」

 デカポッドが、勢いよく階段を駆け下りはじめた。がんがんと大きく足音が響く。意味がわからなくて、僕は一瞬見送っていたのだけど、すぐについて走りはじめた。ぐらぐらする階段を駆け下りていく。船長は黙ってみていた。

 どたどた走って、なんとか転ばずに地面にたどりついたときには、本当にほっとした。見上げると、船長がゆうゆうと階段を登りきって、甲板の上に姿を消すところだった。そしてそのあと、「どうする気なんだろう」と僕がつぶやくのと、階段がぐらりと揺れて大きく傾き、一瞬は我慢したけれど、重力に引かれてすっと落下を始めるのとはほとんど同時だった。

「何ぼやぼやしてやがんだ」デカポッドが僕の腕を乱暴に引っ張って、その場から離れさせようとした。階段は十メートル以上の高さから落ちてきて、僕やデカポッドから何メートルも離れていないところで大きな音を立てて地面にぶつかり、石畳のカケラをいくつも弾き飛ばした。

「大丈夫か?」デカポッドが言った。

「うん」

「日本人め、乱暴なことをしやがって」デカポッドはいまいましそうな顔をして、ウツボ丸をにらみつけた。でも、突然僕を振り返った。「おい、走るぞ」

「え?」

「ついてこい」

 デカポッドに引きずられて、僕も走りはじめた。三百メートルぐらい走って大きな倉庫の影まで行くと、制服を着た数人の税関職員と、海軍の制服を着た将校がひとり待っていた。

「あの船で間違いねえ」両手をひざについて、はあはあ言いながらデカポッドが言った。

「絶対にそうか?」海軍の制服の男が言った。やっと僕は気がついたのだけど、これはデカポッドの兄のウィルソン少佐だった。

「間違いねえ」デカポッドが答えた。「ケンジントンの顔を知ってやがった」

「え?」僕は大きな声を出した。「そのために僕を連れていったんですか?」

「あたりまえだろうが。おまえなんざ、そのぐらいしか使い道がねえよ」

 もちろん僕はふくれっつらをしたと思うけど、デカポッドは気にもしないで、ウィルソン少佐を振り返った。「兄貴、例の人はまだ来ないのかい?」

「迎えの馬車をやったから、もうすぐだろう」ウィルソン少佐は答えた。

 馬車は、それから五分もしないうちに現れた。からからと走ってきて目の前に止まった。ドアが開いて、後ろの座席から制服を着た母が降りてきた。もちろん日本海軍の制服だよ。たんすの奥から引っ張り出してきたらしい。

 ウィルソン少佐は、敬礼をして母を迎えた。母も背筋を伸ばして、敬礼を返した。

 事情を聞かされて、何秒か考えたあとで母が言った。接岸しているウツボ丸のすぐ隣を指さした。そこには、埠頭に作り付けになった背の高いクレーンが立っている。

「あのクレーンの操縦席には鍵がかかっていますか?」

 税関職員の一人が答えた。「そうでしょうが、必要ならすぐに開けさせます」

「どうする気なんです?」ウィルソン少佐が母を見つめた。

 母は、にっこり微笑んで答えた。「私が彼らと話をしてきましょう。ごらんなさい、船が煙を噴き出しはじめています。出港する気でしょう」

 振り返って見上げるとたしかにその通りで、ウツボ丸の煙突から出ている黒い煙が、さっきまでは弱々しくたなびいているだけだったのが、いまはもくもくと立ち昇るようになっていた。

 税関職員が手配をして、クレーンのキーはすぐに手に入った。母はそれをポケットに入れ、クレーンに向かって歩いていこうとした。

「どうなさるんです?」ウィルソン少佐が言った。

 母は振り返り、クレーンを見上げた。とても大きなクレーンだ。何トンもの重さのものを高く持ち上げることができる。鉄骨を組んで作った塔のような形で、てっぺんに操縦室がある。ちょうどウツボ丸の甲板と同じぐらいの高さだ。

 母は、クレーンに登る鉄のハシゴに手をかけた。「私となら口をきいてくれるかもしれません。どうなるかわかりませんが、任せてくれますね?」

 デカポッドとウィルソン少佐は顔を見合わせた。小さな声で「仕方ないんじゃねえか、兄貴」とデカポッドが言うのが聞こえた。ウィルソン少佐が肩をそびやかすのが見えた。

 イギリス人たちが返事をしないものだから、了解したと解釈したらしい。母はハシゴを登りはじめた。僕はイギリス人たちのそばにいて、見上げていた。

 母はいかにも船乗りらしく、身軽に上っていった。ここからでは聞こえはしないけど、口笛を吹きながらだったかもしれない。ひょいひょいと登っていく。いくつものハシゴがつながっていて、途中に踊り場のような場所があるのだけど、母は登っていくスピードをゆるめもしなかった。

 母が操縦室に着いた。ポケットから鍵を取り出し、ドアを開けて中に入った。部屋の中を横切って、大きな木の枠にはまったガラス窓に近寄り、大きく押し開けるのが見えた。ウツボ丸の甲板までの距離は、五メートルほどしかない。

 母は身を乗り出し、指を口に入れて、大きく指笛を鳴らした。ひゅううっと大きな音がここまで聞こえてきた。ウツボ丸の甲板の上でなら、もっとよく聞こえたに違いない。

 もうウツボ丸は、とも綱を切り離しかけていた。甲板の上から、ナタかオノでも振るっているような音が聞こえてくる。突然ぼうっと大きく汽笛を鳴らした。スクリューが動き、船尾で泡が立ちはじめた。同時にとも綱が切れて落ちてきて、大きな音を立てて海面にぶつかった。ぴしゃんとしぶきが上がる。もう、ウツボ丸と陸地を結びつけているものは何もない。ウツボ丸は、長く汽笛を鳴らした。

 ウツボ丸の甲板の上に船長の姿が現れた。手すりに軽く両手を置いて、母と向かい合った。

「脇田少佐、やはりあなただったのですね」スクリューや水の音にかき消されながらだったけれど、母の声はかろうじて僕の耳にも聞こえた。

 船長が答えた。「お久しぶりです。中佐殿」

「おい、なんていってんだ?」デカポッドが僕の肩をつかんだ。

 また母が言った。「あなたが指揮を取っているのではないかという気がしていたのです。もう病気はよくなったのですね」

「恐縮です」脇田少佐は答えた。

「それは私のセリフです。私はあなたの船を勝手に動かしてしまった。あれで誰も処分されていなければいいのですが」

「おい、なんて言ってんだよ」デカポッドが僕を乱暴にゆすぶった。

 僕は腹が立って、デカポッドをにらみ返した。「うるさい、黙ってろ」

 デカポッドは目をむいた。「このクソガ……」でもウィルソン少佐が間に割ってはいったので、デカポッドも黙るしかなかった。鼻から大きく息をはきながら、僕から手を離した。そのあいだも、母と脇田少佐は話しつづけていた。でもスクリューの音がさっきよりも大きく激しくなっていて、僕の耳に聞こえたのは、脇田少佐の最後のセリフだけだった。

「二隻沈めるつもりでいたのですが、半分の戦果でもよしとしましょう。中佐殿もお元気で」

 脇田少佐は口を閉じて、母に向かって敬礼をした。母も背筋を伸ばして、敬礼を返した。ウツボ丸は埠頭を離れていった。

 用事がすむと、すぐに母はクレーンから降りてきた。イギリス人たちは駆け寄り、話を聞こうとした。ウツボ丸はもう何百メートルも向こうへ行ってしまっていた。そして、再び汽笛を鳴らした。

 だけど、普通の鳴らし方ではなかった。短い汽笛と長い汽笛を繰り返しながら、何度も何度も鳴らした。まるで信号でも送っているかのように。

 母が言った。

「あのモールス信号の意味がわかりますか? 私にもわかるように、わざと暗号を使わずに送信したのでしょう。きっと港外のマンボウにも聞こえたことでしょう」

「わかりません」ウィルソン少佐が答えた。「日本語ではないですか?」

「そうですね」母はにっこりした。自分の母親なのに、なんてきれいな人なんだろうと僕は思った。肩の力を抜いたさばさばした表情だ。

「で、なんて意味の信号なんだい?」せっかちなデカポッドが言った。

 母はデカポッドのほうを向いた。「『我を撃沈し、貴艦も自沈せられよ』」

「おい、冗談じゃねえぞ」デカポッドの顔色が変わった。デカポッドだけではなく、まわりのみんながそうだった。

 母は、にっこりしてデカポッドを見つめ返した。「ええ、もちろん冗談などではありません」

 このあと起こったことは、直接見たわけじゃなくて、僕も話に聞いただけなんだけど、こうだったらしい。ウツボ丸は大急ぎでマーマレード港を抜け出そうとし、途中でタグボートとすれ違いそこねて、船腹を少しこすった。それでもウツボ丸は走りつづけて、防波堤の外に出て、小島のかげに入って、港内からは見えなくなったところで大きな爆発音が聞こえて、それでおしまいだった。その後二分ほどして、もっと小さい別の爆発音を聞いたという人もいるけれど、はっきりしない。もちろん、乗組員は一人も救助されなかった。

 ジョンソン少佐は馬車を手配して、僕と母を家まで送り返してくれた。馬車の中で僕と二人きりになって、すぐに母は言った。

「冬子とも相談して、そろそろ日本へ帰る仕度を始めなくてはいけませんね」

「なぜ?」

「なぜですって?」母はいかにも楽しそうに笑った。このときの母は、まるで軍人のようではなくて、どこにでもいる普通の女と同じに見えた。

 僕は言った。「だって僕たちは、日本から逃げてきたんですよ」

 母はにんまり笑った。「今回の件で、鯨派はほとんどが逮捕されるか、更迭されるかするでしょう。保身のため日本海軍は、責任をすべて鯨派に押しつけるでしょうから」

 母は、本当に楽しそうにからから笑った。僕はどういっていいかわからなくて、母を眺めているしかなかった。

 でもこのあとは、何もかもが母が言ったとおりになった。日本から弁護士を呼んで、書類を作成した。それを日本に送って、日本の裁判所に対して、僕は青垣家の家督を相続する申し立てを行った。この弁護士は、髪の白くなった中年の男だったけれど、元気がよくて精力的だった。イギリスへだって、呼べばすぐに来てくれた。

 そしてとうとう、僕が日本へ帰る日がやってきた。その朝、八時をすぎたころ、家の前にガラガラと馬車がつく音がした。どうどうと言う声も聞こえる。窓の外を見たら、まだ眠そうな顔をしたデカポッドが御者台から飛び降りて馬のところへいって、鼻面をなでてやりはじめるところだった。

 どういうわけかデカポッドは、僕や母たちを馬車に乗せて、港まで送っていく役を買って出てくれたのだった。そのためにデカポッドは、おんぼろ馬車を借りてきていた。僕と母たちは、居間で出発前の最後のお茶をあわただしく飲んでいるところだった。

「急がないとね」母が言った。

 姉は母の隣に腰かけていたが、白い手袋をした手を、不意に母の手に重ねておいた。

「私は日本へ帰ることはできません。血のつながりはないとはいえ、私が弟に嫁いだのだということは、今ではみんなが知っているのでしょう?」

 数日前から姉の様子がおかしいことには、僕も気がついていた。何か話したいことがあるのだけど勇気がなくて切り出せない、なんとなくそんな様子だった。でもとうとう、出発の朝ぎりぎりになって、姉は口を開いたわけだった。

「それは心配しなくてよろしい」母はにっこりして、姉を見つめ返した。

「どうして?」

「結婚式の朝、あなたと献鹿の婚姻届を、私が馬車に乗って役場へ届けにいったことは覚えているでしょう?」

「はい」

「でも私は、婚姻届は提出しませんでした。途中の橋の上で馬車を止めて、細かくちぎって川に流してしまいました。ですから実態はともかく、書類の上ではおまえは今でも独身の娘です。独身の姉が弟と一緒に家の中にずっといても、誰も何も言わないことでしょう」

「でも親戚の人たちは?」

「彼らも何も言いません。すべてが献鹿に家督を継がせるために行われたことですから。ところで献鹿」母は、不意に僕のほうを向いた。「なぜ自分が献鹿と名づけられたのか、おまえは知っていますか?」

「ううん」僕は首を横に振った。

 母は続けた。「『献』はもちろん、『差し上げる』とか『与える』という意味ですね」

「でも『鹿』はシカですよ。動物の」と僕は言った。

「いいえ」母は首を横に振った。「それだけではありません。『皇帝の位』と意味もあるのです。もちろんおまえは王や皇帝ではないけれど、青垣家を継ぐ者ではあります。そういう意味を込めて、私たちは名づけたのですよ」

 大きな音を立てて、突然玄関のドアが勢いよく開いて、デカポッドが顔を見せた。

「なああんたら」デカポッドは言った。「オレはずっと待ってるんだがねえ。早くしてくれねえかな。船に乗り遅れてもしらねえよ」

「はい、大尉」そう答えて、母は僕と姉を立ち上がらせた。庭に出ると、馬車のそばで村田弁護士も待っていた。日本の裁判所に対して申し立てをし、僕と母と姉が帰国できるように計らってくれた人だ。僕が生まれるずっと前から、青垣家の顧問弁護士をしていた。

 村田は言った。「私は後始末があるのでもう少しこの国に残りますが、港までお見送りしようと思いまして」

「それはそれは、ありがとうございます」母は頭を下げて、村田にお辞儀をした。姉も同じようにしたので、僕もあわててまねをした。そういう様子を、デカポッドはしびれを切らしたような顔で眺めていた。

 僕たちが馬車に乗り込もうとするとき、デカポッドがつぶやくのが聞こえた。「どうも日本人ってのは、まどろっこしくていけねえや。お互い頭ばっかり下げてやがる」

「それ行け」全員が馬車に乗り込むと、デカポッドは御者台に飛び乗り、いそいそと手綱を取った。馬車が動きはじめた。

 馬車は庭を出ていった。僕と母と姉は、窓から眺めていた。たった二年間だったけれど、自分たちの家として住んだ場所だ。愛着がないわけじゃない。特に母は、庭の草花や木々を名残惜しそうに見送っていた。次にこの家に住む予定の人が、ちゃんと世話をしてくれると約束していたけれど。

「そうだ中佐。例の件を調べてみたのですが」馬車が家の前を離れて、通りを進みはじめると村田が言った。

「どうでした?」興味を持ったふうに、母は身を乗り出した。

「デカポッドの言っていることは本当でした。デカポッドの父親は海軍大臣のウィルソンです。デカポッド本人は母方の姓を名乗っていますが」

「なぜです?」

「幼いころに母方の実家へ養子に出されたのだそうです。跡継ぎがいないとかで」

「どこかの家と似てますね」僕は横から言った。

「そうですね」村田はにっこりした。「それでそのデカポッド家ですが、調べて驚きました。ロンドンから遠く離れてはいますが、とてつもなく大きな領地を持つ一族です。どんなにぜいたくをしても、一生金に困ることはないでしょうな」

「ぜんぜんそんなふうには見えませんね」僕は、青煉瓦街のデカポッドの屋根裏部屋のことを思い出しながら言った。

「それだけではありません」村田は続けた。「日本政府が、よくあなた方の帰国を認めてくれたものだとお思いになりませんか?」

「ええ、思います」母が言った。

「それはデカポッドの功績でもあるのです。口八丁手八丁で、ターニップを沈めたことに対する損害賠償金を値切ってやるからといって、日本側を丸め込んでしまいました。あの調子のべらんめえ口調ですが、たいした弁舌でしたよ。弁護士になってもやっていけるでしょう」

「詐欺師のほうが向いてませんか?」僕は言った。

 村田と母は笑いはじめた。かすかにだけど姉も笑っていたので、僕は少し安心した。

「本当に値切ることができたのですか?」笑いがおさまって、母が言った。

「まさか」村田は笑った。「イギリス人はそれほどお人よしではありません。でも日本側は、値切ってもらえたと思い込んでいます。デカポッドが、ターニップの性能を日本側に大げさに吹き込んでくれたおかげです。本当は、半分クズ鉄みたいな船だったそうですがね」

「村田さんは、それで納得したんですか?」僕は横から口をはさんだ。

「どうでしょうか」村田はにっこりした。「私は日本政府ではなく、あなた方の利益を代表しているわけですから」

 このとき突然、御者台の上から歌が聞こえてきた。大きく怒鳴るような歌声だ。デカポッドが、手綱を取りながら歌っているのに違いない。

「へたな歌だなあ」僕はつぶやいた。調子っぱずれというのは、こういうことをいうのだろうね。音程も何もありゃしない。

 母と姉が、くすくす笑いはじめた。村田もニヤニヤしはじめている。馬たちまでが、居心地悪そうに振り返ったりした。

 でもデカポッドはそんなことには気がつかないのか、気がついても気にならないのか、そのまま歌いつづけた。すてきにへたくそな歌声と、くすくす笑う僕たちを乗せたまま、馬車は港へ向かって、ごとごとと進みつづけた。


(終)


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