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 僕がまだ子供だったころだから、ずいぶん昔の話だよ。大正と呼ばれていた時代で、昭和ですらまだ何年か先のことだった。自動車なんかなくて、道を走っているのは馬車が普通だった。電車もなくて、線路の上はみんな汽車が走っていた。

 この時代には、海外へ旅行するなんて、そうそうできることじゃなかった。特に、金持ちの家の子でもなんでもない普通の子供にはね。でも僕は運よく、欧州へ出かけることができた。だからあの時、僕はロンドン市内にある大きな公園にいたんだ。

 ロンドンの空気は、思っていたほどじっとりとしてはいなくて、日もさしていて明るかった。もっとも、僕たちは昨日の夜ついたばかりだし、今日はたまたまそうなだけかもしれないけれど。

 ロンドンの空気を胸いっぱいに吸いながら、僕は思っていた。ここはシャーロック・ホームズのいる町なんだ。僕はなんだか、こそばゆいような楽しい気分になってきた。シャーロック・ホームズなんて架空の人物にすぎないのだけど。

 そうだ。機会があったら、ベーカー街ってどんなところなのか、見にいってみよう。まず地図を買ってきて、どのあたりなのか調べよう。

 天気がよくて日があたって、本当に気持ちがよかった。ロンドンっ子たちもそう思っているのか、公園には人があふれていた。みんな芝生の上をぞろぞろ散歩したり、敷布を広げて座っていたり、子犬を追いかけまわして子供らが走りまわっていたりする。やっぱり、こういう天気の日は貴重なのかもしれない。だからみんな、むだにすまいと陽にあたりに来ているのかも。そういえば一昨日、海峡をわたってきたときは天気が悪かった。波も高くて、僕は平気だったけど、連れの三人は船酔いで、船室のイスにへばりついていた。

 そんなことを思いながら、僕は公園のベンチに座っていた。佐藤さんは僕の隣にいて、忙しく手を動かして、編み棒を使って器用にレースを編んでいたけれど、僕は日光をあびながら、機嫌よくまわりを眺めていた。見えるかぎりずっと青い芝生が広がっているけれど、ところどころこんもりした茂みもあって、もしも人が一人もいなかったら、妖精が住んでいる森だといわれてもそのまま信じることができそうな気だってする。

 でもそのとき、不意に佳奈の声が聞こえてきたので、僕はげんなりした。佳奈は遊歩道の向こう側にいて、田中と二人で何かおしゃべりをしていたのだけど、今はこっちを向いて、僕に手招きをしている。

「あんた、ちょっとこっちへ来なさいよ」

 僕はいやいや立ち上がった。僕がそばへ行くと、佳奈はある方向をあごで示した。

 佳奈は十七歳。大金持ちの家の娘だからいい洋服を着ているし、とてもきれいな女の子でもあるのだけど、いつも意地悪なことばかり言うから、僕はぜんぜん好きじゃなかった。だからこのときも、何を言われるんだろうと思っていたのだけど、佳奈はこういった。

「あそこの馬車の車体には、なんて書いてあるの?」

「どの馬車?」僕はその方向を向いて、目をこらした。遊歩道の隣は大きな通りになっていて、馬車が何台か通り過ぎていくのが見えた。

「あの大きな字の書いてあるやつだ」田中が、いかにもバカにした声で言った。「見えないのか?」

 田中は佳奈の婚約者で、もうすぐ結婚することになっていた。あんな女の子と結婚したがるなんて僕には理解できないが、似合いの夫婦にはなるかもしれない。田中も意地悪で、ものすごく感じの悪いやつだから。

 少しのあいだキョロキョロして、どの馬車のことなのかやっと僕にもわかった。明るいピンクに塗られた四角いやつだ。馬が一頭つないであるが、今は道のはしに寄って止まっていて、そのまわりに子供らが群がっている。ロンドンでは普通に見られる光景なんだろうね。

「あの子らは、なぜあんなに群がってるの?」佳奈が言った。

 僕はもう一度、馬車の車体を眺めた。たしかに大きな文字が書かれている。でも、はじめて見るものだ。『パンチとジュディ』って何のことだろう?

「あれはなんて書いてあるんだ?」田中が言った。

「わかりません」僕は答えた。

「あんたって、何も知らないのねえ」佳奈が言った。でもそのとき、その馬車から大きな声が聞こえてきた。芝居のセリフのような声だ。男の声だが、男女の声音をうまく使い分けている。馬車の後部には小さなステージのようなものが作られていて、子供らが面白そうに見上げている。操り人形芝居が始まっていた。子供らが拍手をした。そういう大道芸なのだろう。

「あんたって役立たずねえ」佳奈が言った。

「もういい」田中が片手で、僕を追い払うようなしぐさをした。「佐藤のところへ帰れ」

 僕は黙って、後ろを向こうとした。

「待ちなさい」不意に佳奈が、僕を呼びとめた。僕はまた二人のほうを向いたのだけど、意味がわからなくて、二人の顔を交互に眺めた。

 佳奈が田中の耳に顔を近づけて、こそこそささやくように言った。

献鹿けんろくは誰かに似てるとずっと思ってたのよ」

 自分の名前を呼ばれて、僕は佳奈を見つめ返した。田中が不愉快そうな顔をした。佳奈が続けた。

「いま横顔を見て気がついたの。献鹿って、青垣の叔母さまに似ていると思わない?」

「あの女だてらの軍艦乗りかい?」田中は目を丸くして、僕の顔を眺めなおした。

「ええ」佳奈は眉をひそめた。「よく見たら、気味が悪いぐらい似ているわ。でも気の毒ね。顔が似てるってだけじゃあ、あの家の財産のおこぼれにあずかるわけにはいかないものね」

「あははは」田中が笑いはじめた。そして、まだ僕が目の前にいることに気づいて、ハエでも追い払うように手を振って、僕を下がらせた。僕はさっきのベンチに引っ込んで、また佐藤さんの隣に座った。

 佐藤さんは中年の婦人で、独身だということだった。佳奈のメイドとして少し前に雇われて、この旅行にも日本からついてきていたのだけど、なぜ佳奈なんかのメイドになったのかなあと思えるぐらい親切な人だった。佳奈はあんな女の子だから、どの雇い人も長続きしなかった。

「何のお話だったのです?」編み棒をまだ忙しく動かしたまま、その佐藤さんが言った。

「僕は青垣中佐に似てるって言われました」

 佐藤さんが顔を上げた。「献鹿さんの叔母さまにあたる方ですね」

「小さいころに一回か二回会っただけだから、顔は覚えてません。そんなに似てるんですか?」

 佐藤さんはにっこり笑って、また編み物に戻ってしまった。「私も新聞で写真を拝見したことがあるだけですが、ほんの少し似ていますよ。でもご親戚だから、不思議なことではありませんね」




 青煉瓦街はロンドン中心部の近く、小さな家がごみごみと立て込んだあたりにあった。

 辻馬車が青煉瓦街にさしかかる前から、僕は胸がドキドキしていた。身体が熱くなって、汗までかいていた。自分が物語の主人公になったような気がしていた。コナンドイルの探偵小説は、いつもこんな具合に始まるじゃないか。何か問題をかかえてせっぱつまった依頼人が、名探偵ホームズのドアをたたく。

 青煉瓦街に入って、その番地の家の前についたのだろうけど、馬車が止まったので、僕は自分でドアを開けて降りて、前にまわって御者にお金を払った。チップを含めて少し多めに。

 御者は、東洋人の僕をジロリと見返したけど、その金額のおかげだろうけど、「ありがとうございます、旦那」と言った。

 旦那と呼ばれて僕は変な気がしたけれど、悪い気分じゃなかった。だからこれからは、辻馬車にはお金を多めに払うことに決めた。僕のお金じゃないんだし。

 馬車を降りて、やっと僕はまわりを眺める余裕が出てきたのだけど、急に心細くなってきた。すぐにここを離れたい気持ちになったのだけど、もう馬車は遠くへ行ってしまって、かどを曲がって見えなくなるところだった。

 僕は、もう一度まわりを眺めた。いろんな形をした小さな家が、通りに面してくっつきあって立っている。両側には歩道があるけれど、道幅はとても狭くて、敷き詰められている石畳はゆるんで、あちこちでめくれかかっている。その石がどこか青みがかっているのが、この街の名を由来なのだろう。雨で押し流されてきたのだろうけど、道のわきには、砂が三角州のようにたまっている。すぐそばに下水口があって、嫌な匂いのする空気が立ち上ってくる。のぞき込んだら、ドブネズミがさっと姿を隠すのが見えた。

 通りのむこうのほうや、路地へ通じる曲がり角には、この街の住人たちが何人かいて、みんな僕を見ていた。あんまり歓迎している目つきには見えなかった。突然ぴしゃりと音がしたのでそっちを向いたら、すぐそばの窓のよろい戸を誰かが閉めたところだった。

 目的の家はすぐ目の前にあって、振り返って見上げて、僕はげんなりした。この街の雰囲気にぴったりとマッチした家だった。屋根が急角度になった二階建ての家で、もとは白い石でできていたらしいけれど、なんだか薄汚れて黒っぽくなっている。くすんだ緑色に塗られた木のドアがあって、そのわきに番地が書いてある。

 僕はため息をついた。これが目的の家に違いない。僕は、そっとドアをノックした。

 長いあいだ、何の反応もなかった。一分ぐらい待っても何も起きなかった。留守だなと思って、僕はうれしくなった。早くホテルへ帰ろう。事件は解決しないかもしれないけど、僕の知ったことじゃないや。

 突然、ドアが開いた。予告も何もなくて、ドアの向こうに足音も聞こえなかったので、僕はびっくりした。

 ばあさんというか中年というか、とにかく六十歳ぐらいの女が顔を出した。やせたものすごく背の高い女で、丸く結った髪をしているけれど、あちこちほつれたり後れ毛があったりする。でも本人はそんなことは気にしないのだろうけど、とにかく僕を見下ろして、口を開いた。ケンカするときのメンドリみたいな声を出した。

「ああ?」

「あのう、探偵のデカポッドさんに…」

 僕が言いおわる前に、ばあさんはまた口を開いた。

「あのごくつぶしの部屋は屋根裏だよ。道案内なんかしないからね、行きたきゃ一人で階段を上がっとくれ」

「えっ?」

「ほれ」ばあさんはドアを大きく開いて、入れと僕に合図をした。

 そのあと、僕がどんな思いを味わったか想像がつくかい? 玄関からはすぐに階段が上へ伸びていたのだけど、狭くてきつくて汚れていて、足の下でぎーぎー鳴って、とてもじゃないが楽しくなんかなかった。だけどこの階段も、屋根裏部屋よりははるかにましだった。

 僕は階段を二つ上がって、屋根裏部屋の入口の前に立ったんだ。ハエが飛んでてクモの巣が張ってて、ホコリが積もって真っ白になった明かり窓から、ぼんやりと光が差し込んでいる。ドアは開いたままだった。だから僕は何も考えずに一歩踏み込んだのだけど、次の瞬間にはもう後悔していた。

 これが名探偵の住む部屋であるもんか。机の上も長イスの上もベッドの上も物だらけだ。脱いだままの服。読み終えた新聞。昨日の夕食だったらしい汚れたままの食器。ちょっと馬力を入れて磨かなくちゃならない靴(これは机の下に転がっている)。破れてつばの取れた帽子。灰でいっぱいになった灰皿。そのわきには、カップ一杯分の灰がこぼれたままになっている。

 それだけじゃない。名探偵というのは、シャーロック・ホームズみたいにかっこいい人間のことだよ。いま僕の目の前に立っているような、髪の毛はくしゃくしゃ、シャツもしわだらけ、ズボンつりの片方がずり落ちたままでも気がつかない間抜け面のことじゃない。僕の足音で驚いて、けとばされた犬みたいな顔で振り返ったりはしない。

「おまえ誰だ?」稀代の名探偵(ホテルの支配人はそう言った)、ノエル・デカポッドが僕を見て言った。

「あのう、僕、事件の依頼人です」

「依頼人? 何の事件だ? ああ、オレに解決しろって言うんだな。おまえの名前は? 外国人か?」

「名前は献鹿といいます」

 デカポッドは、露骨に嫌そうな顔をした。「外国人の名前は覚えにくくていけねえや。自分の国の外に出るときには、ジョンとかジェインとか適当に改名しておいてほしいな」

「よけいなお世話ですよ」

「そうかい? まあいいや、おまえの名前はケンジントンとかいったな?」

「献鹿です」

「それでだケンジントン、何の用だって?」

 僕はため息をついた。「ちょっと困ったことが起きて、ホテルの支配人に相談したら、デカポッドさんを推薦してくれたんです」

「へええ、そりゃびっくりだ。今度からはホテルにもリベートを配ってまわらにゃならんようになるかもしれんな。で、どこのホテルだ?」

「スクイッド・ホテルです」

「ひええ、じゃあおまえはお金持ちだな」デカポッドは、大げさに驚いた顔をした。「あそこの宿賃はくそ高いからな」

 僕は、この家にきてから何回目かのため息をついた。もちろんデカポッドの耳にも入ったに違いないけど、僕は気にもならなかった。でも不意に、またデカポッドが言った。

「なあケンジントンよ、日本の冬もロンドンと同じく、すこぶる寒いのだろうな」

 僕はびっくりした。デカポッドはうれしそうに笑った。

「まあ座れや」デカポッドは、そばのイスを指さした。自分はベッドに腰かけた。

 僕はそのイスを眺めた。イスの上には大きな皿が置いてあって、何日前のか知らないけど、干からびたフライドチキンの残りかすが乗っかっている。その皿をどけないと座れないが、僕はそんな皿には触りたくなかった。

「じゃあ立ってろ」デカポッドの声が聞こえたので、僕はほっとした。

「どうして僕が日本人だとわかったんですか?」僕はフライドチキンの皿から何とか目を引きはがして、デカポッドのほうを向いた。皿の上にはハエが六匹とまってたよ。

「おまえが発音するへたくそなRのおかげだよ。イギリス人に間違われたかったら、もっと勉強して、中に木のクサビでも入れてクレオパトラみたいに鼻を高くすることだな。それと、目はシャムネコみたいに青くしろ」

「え?」

「で、どんな事件なんだ? 早く話せ」

「従姉の佳奈が行方不明になってしまったんです」

「おまえがケンジントンで、従妹の名はカナリア諸島か? 父親はガラパゴスってんだろ?」

 でも僕は無視して、事件について話しはじめた。

「佳奈は僕の従姉で、大蔵という人の末娘です。大蔵氏は事業家で、大変な大金持ちです。半年ほど前に佳奈に結婚を申し込んだ人がおりまして、田中という若い男です。佳奈も田中のことが嫌いではないので、先日婚約しました。でも佳奈はまだ十七歳ですから、結婚するには早いし、結婚してからはそうそう遠出もできなかろうから、欧州を一周する旅行に出てきたわけです」

「金持ちは違うよなあ」デカポッドは僕を横目で見た。僕は話しつづけた。

「そうやって佳奈と田中氏は欧州へ旅行に出かけたわけです。この旅行には付添いが二人ついてきていて、それがメイドと僕です。メイドの名は佐藤さんといいます」

「日本の醸造酒は、なんていうんだった? そんな名前じゃなかったか」デカポッドが口をはさんだ。

「僕は英語が少しできるので、通訳としてついてきました」

「ああ」デカポッドは大げさに首を縦に振った。「おまえの英語はなかなかいいぞ。ほめてやる。昨日、そこの通りでオレのサイフをすったガキとそっくりのしゃべり方だ。あれはおまえだったんじゃないのか?」

「一昨日の夜までは佳奈は元気でした。その夜、僕と佳奈と田中の三人で芝居を見にいって、スクイッド・ホテルに帰ってきたのは九時ごろでした。そのままお休みを言って別れたんです。僕と田中はそれぞれの部屋へ寝にいき、佳奈は佐藤さんと寝室へ行ったはずです」

「つまり、あなた自身はカナリア諸島が寝室へ入るところはご覧にならなかったというわけですな。口の達者な坊ちゃんよ」

「ええ、そのあと佳奈を見たのは佐藤さんだけです」

「それで、その醸造酒と同じ名前のメイドは何と言ってるんだ? 酒くさい息の女か?」

「日本の醸造酒はサケです。メイドの名は佐藤さん。佐藤さんは佳奈が着替えるのを手伝って、それから佳奈は一人で寝室へ入っていったそうです。佐藤さんの部屋は佳奈の寝室のすぐ隣にあるんですが、夜中に物音を聞いたりはしなかったそうです。でも朝になっても佳奈が起きてこないので見にいったら、佳奈のベッドは空っぽだったそうです。

 すぐにホテル中を捜したんですが、佳奈はどこにもいない。ホテルの人にもきいてみたんですが、佳奈が出ていくところは誰も見なかったということでした。フロントには一晩中だれかがいますから、佳奈が出ていけば気がつくはずです」

「ホテルには裏口があるだろうが?」デカポッドが言った。

「荷物の搬入が一晩中あるとかで、やっぱり常に誰かいるそうです」

「警察へは届けたのか?」

「昨日の朝いちばんに届けました。ところが腹の立つことに、失踪後四十八時間たたないと捜索願いは受理できないとかで」

「警察が出てきたって、何の役にも立ちゃせんがな。それでも結局は受理させたんだろう?」

「なぜわかります?」事実そうだったのだけど、僕は驚いた。

「おまえの得意そうな顔にそう書いてあらあ」デカポッドはにんまり笑った。「で、どうやって受理させた?」

「大使館の方から手を回してもらいました。駐英大使に会って、事情を説明しました。大蔵氏の名前が、ここで役に立ちました。大使館から連絡を入れると、警察はすぐに刑事をホテルによこしてくれました」

「おお、やっぱりお金持ちは違うねえ」

 僕はうんざりして、フライドチキンの乗った皿をハエごと投げつけてやろうかと思ったのだけど、その前にまたデカポッドが口を開いた。

「で、来たのは何という刑事だ?」デカポッドは興味を持ったようだった。

「ウィーゼルいう名前です。でも、あんまり当てになるようには見えませんでした」

「はっはっは」デカポッドが笑いだした。「ウィーゼルか」

「知ってるんですか?」

「よく知ってるさ。打ち上げ花火みたいにまっすぐ突き進むしか能のない男さ。そのうち火が消えて、失速してひょろひょろ落ちてくる」デカポッドは笑いつづけた。僕は黙っていた。

「それからどうした?」笑って暑くなったのか、デカポッドはシャツのボタンを一つゆるめた。

「ウィーゼル警部がどうも信用できない感じだったので、私立探偵を雇うことを思いついて、ここに来ました」

「なるほど」デカポッドは少し考え込んだ。「カナリア諸島は、ロンドンには知り合いがいるか?」

「いないと思います。僕が佳奈のすべてを知っているわけではありませんが」

「カナリア諸島の古くからの友人で、今はロンドンに住んでいるといったようなやつは?」

「それも、たぶんいないと思います」

 そのとき、階段を上がってくる足音が聞こえてきた。下の階からやってくる。男の足を連想させる強い歩き方だったけど、少しせわしない感じもする。ドアはずっと開いたままだったので、すぐにその人物が姿を見せた。僕には見覚えのある顔だった。ウィーゼル警部。

「やっぱりここにおられましたな。ホテルで聞いてきたんです」ウィーゼルは、僕の顔を見ていった。それからデカポッドのほうを向いて、ちょっと帽子に手を当てて、あいさつするしぐさをした。「こんにちは、デカポッド大尉」

「やあウィーゼルの旦那。行方不明の日本の嬢ちゃんについて、何かわかったんですかい?」とデカポッドが言った。でもベッドに腰かけたままだ。

 ウィーゼルの表情が少し変わって、僕のほうを向いた。「大変お気の毒ですが、遺体が発見されたようです」

「え?」と僕。デカポッドも口を開けたまま、目を大きく見開いている。ウィーゼルが続けた。

「婚約者の田中氏でしたっけ、その人に身元の確認に行ってもらいました。結果はまだ聞いていませんが、たぶん間違いないでしょう。年齢や容貌、服装などが一致しますから」

「もう殺されちまったのか? どこで発見されたんで?」とデカポッド。

 ウィーゼルがちょっと笑った。「チジックですよ、デカポッド大尉。それがちょっとおもしろいんですがね」

「どうおもしろいんです?」デカポッドは一瞬不審そうな顔をしたが、すぐにニヤニヤ笑いはじめた。あれってきっと、わいせつなことでも想像してたんだと思うよ。

「ローダーという家がいま屋敷を改装中でしてね、部屋の飾り物として、E&S商会から等身大の少女の石膏像を購入したんです。等身大だから二メートル近くある大きなものなんですが、こう、少女が大きな水ガメをかついだようなかっこうの像でして(ウィーゼルは、そのかっこうをやって見せた)、それが今朝その家に届いたんです」

「その中に死体でも入ってたんですかい?」ウィーゼルがべらべらしゃべるもんだから、デカポッドはイライラしたのかもしれない。少し早口で言った。

「よくおわかりで。使用人たちが木箱の梱包をほどいたのはいいんですがね、中から石膏像のかわりに死体が出てきたのだそうで、その驚きようったらなかったそうです」ウィーゼルは、いかにもおかしそうに笑った。

「梱包してあった?」

「分厚いしっかりした木箱で、外から見て何もおかしなところはなかったそうですよ」

「その死体は、本当にその日本人に間違いないんですかい?」

「そのうちに正式の報告が入ると思いますがね、まず間違いないでしょうな」

「やれやれ」デカポッドは頭をかかえた。

 僕は一瞬、デカポッドが佳奈の死をいたんでくれているのかなあと思ったのだけど、そうじゃないとすぐにわかった。デカポッドがこうつぶやくのが聞こえたから。

「これで金は入らなくなった」

 どうも、スリにサイフを取られたというのは事実だったらしいね。

「あー」僕は口を開こうとした。なぜそんな気になったのか自分でもわからなかったのだけど。

「なんだ?」デカポッドが顔を上げて、じろりと僕を見た。気がついたら、ウィーゼルも僕を見ていた。

「あのう」僕は言った。「これって殺人事件なんですよね?」

「それは間違いないと思います」ウィーゼルが答えた。「死体の後頭部には鈍器で殴られた大きなキズがありますから」

「じゃあ、やっぱりデカポッドさんにお願いしないと」

「それは、オレに事件の捜査を依頼したいということかい?」デカポッドはぴょんと立ち上がった。「警察が捜査するはずだぜ?」

「いや、でも…」この先どういったもんか、僕は少し考えた。でも、考え続ける必要はなかった。デカポッドが、壊れたダムみたいに大声で言い出したから。

「ぜひやらせてくれ。昨日ガキにサイフをすられちまって、一文無しなんだ。貧民救済、立派な人助けだ。いやあ、すてきな坊ちゃんだねえ」

 五分後には、僕とデカポッドは家を出て、表の通りを歩いていた。ウィーゼルはもう一人で捜査に戻っていた。でも別れぎわに、デカポッドはウィーゼルにこんなことを言った。「死体は検視局に送られるんだろうが、その棺おけ…じゃねえや木箱は、ロンドン警視庁へ行けば見られますかね?」

 ウィーゼルは不思議そうな顔をした。「お嬢さんの死体が入れてあった箱ですか? それはそうですが、たいしたものじゃありませんよ。本当にただの箱ですから」

「それで結構ですよ。じゃあウィーゼルの旦那」

「はい、大尉」

 そういって、ウィーゼルは角を曲がって見えなくなった。二人で並んで歩きはじめて、すぐに僕は言った。

「ウィーゼル警部は、なぜデカポッドさんのことを大尉って呼んだんですか?」

「なぜっておまえ、オレは本当に大尉だからさ」デカポッドは、僕の顔をじろりと見た。

「本当に?」

「オヤジが海軍にいてな、兄貴も海軍軍人だ。そのオヤジが、オレをむりやり海軍に押し込みやがった。すぐに退役してやったが、それでも一応は正式な大尉殿さ」

「へえ」

「感心するようなことじゃねえよ。一インチも泳げない海軍大尉だぞ」

 僕とデカポッドは歩きつづけた。デカポッドは太っていて、背が高くて身体はがっしりしていた。屋根裏部屋で見たときにはしまらない感じだったけれど、こうやって上着を着て帽子をかぶると、少しはさっそうとして見えた。誰に似ているかといえば、『宝島』にでてくる海賊の船長かな。ごついブーツをはいて、どすんどすんと歩く。

 ところで、僕には一つ気づいていることがあった。ウィーゼルは気にもしなかったようだけど、デカポッドは明らかに、死体が入っていた木箱に関心を持っている様子だったんだ。僕はそう感じていた。だから、デカポッドは木箱を見にロンドン警視庁へ行くに違いないと思った。

「まずメシを食って、それからホテルへ行って、関係者の話を聞くことにしようや」とデカポッドが言った。

 僕は、あれれと思った。予想がはずれた。てっきりロンドン警視庁へ行くと思っていたのに。

 少し歩いたところに、小さな食堂のようなものがあった。デカポッドは僕を連れてそこに入り、テーブルの前にどかりと座った。

 デカポッドは、本当によく食べた。僕はコーヒーを飲んだだけだったけれど、デカポッドは、長さ三十センチぐらいあるパン二本とスープ三杯、焼いたベーコンを山盛り平らげた。それとゆで卵を三つ。最後にデカポッドは、大きな音を立ててゲップをした。

「そんなに食べて、大丈夫なんですか?」食事はすんだらしいので、テーブルの前から立ち上がりながら、僕は言った。

「大丈夫さ。オレの胃は人一倍丈夫なんだ」

「そうじゃなくて、お金あるんですか? スリにあったんでしょ?」

 デカポッドも立ち上がり、平気な顔で僕を見下ろした。「おまえが払うんだ。必要経費だろ?」

「自分で飲んだコーヒー代は払いますよ」

「けちけちするな。おまえの金でもないくせに」

 もう何を言っても仕方がないような気がしたので、僕はポケットからサイフを引っ張り出した。店を出て通りに出て、辻馬車を拾った。デカポッドが乗り込むとき、ひっくり返ってしまうんじゃないかと思えるぐらい、重みで馬車が傾いた。「おっとっと」と御者がつぶやく声が聞こえた。

 スクイッド・ホテルにはすぐに着いた。馬車を降りてお金を払って、正面玄関を入っていった。デカポッドがさっさと歩いていくので、僕は半分駆け足みたいにして、急いで歩かなくてはならなかった。ロビーを横切りながら、僕は言った。

「今は佐藤さんしかいないはずですよ。田中は死体の身元確認に出かけているわけだから」

「それでかまわん」デカポッドは、歩きながら早口に言った。どうも基本的に、せかせかした人みたいだった。

 またデカポッドが言った。

「部屋を見てメイドの話を聞いたら、ロンドン警視庁へ行くかもしれん。その頃には証拠品も運ばれてきているだろうからな」

 僕は一人でにんまり笑った。やっぱりデカポッドはあの木箱にご執心みたいだから。

「それはそうと」だけど急に立ち止まって、デカポッドは小さな声で言った。内緒話でもするみたいな感じで。

「何ですか?」僕も立ち止まった。

「おまえにきいておきたいことがある」

「はい?」

「失礼な質問だって怒るなよ。佳奈がいなくなったとオレを訪ねてきたときも、死体が発見されたと聞かされたときにも、おまえはまったく動揺していない様子だった。なぜだ? 従姉だろうが?」

 どんなことをきかれるんだろうと思って、僕は少しドキドキしていたのだけど、すぐに安心した。きかれて困るような質問じゃなかったから。

 僕は答えた。

「僕は佳奈が大嫌いでしたから、いなくなろうが死のうが、どうでもいいことです。それどころか、死んでせいせいしましたよ」

「どういうことだ?」デカポッドは、おもしろそうな顔で僕を見た。

「佳奈ってね、大金持ちだということを鼻にかけた、わがままで本当に嫌な女の子でした。いつもいばっていて、人を見下していました。僕のことだって、貧乏な家の出身だということで、軽蔑はいつも視線や言葉で感じられました。通訳として欧州まで来る機会が与えられたわけだから、文句を言えば罰が当たるのかもしれませんが、とにかく嫌な女の子でしたよ」

「婚約者は、そうは思っていなかったろうな」

「あいつは、財産目当てに結婚しようとした食わせもんですよ。佳奈が死んで計画が狂ったから、がっかりしてるでしょうよ」

「なかなかすてきな話だな。メイドはどうだった? 佳奈を好いていたか?」

「佐藤さんは、そんなことをベラベラしゃべる人じゃありませんが、佳奈を好きになるなんて、財産目当てのバカ男ぐらいしかいないんじゃないですかね」

 デカポッドがまた歩きはじめた。僕もついていった。階段をいくつか上がって、佳奈の部屋の前に着いた。

 ここはこのホテルで一番いい部屋で、大きなリビングと寝室とバルコニーと、作りつけの小さなキッチンがある。建物の南東の角にあって、とても日当たりがいい。窓の外には、噴水のある中庭の景色が広がっている。使用人のための小部屋も付属していて、そこで佐藤さんは寝起きしていた。これは本当に小さな部屋で、ベッドと小さなテーブルと戸棚があるだけで、窓もなかった。

 僕とデカポッドはドアの前に立っていた。白く塗られた、佳奈の部屋の大きなドア。ノックすると、佐藤さんが中から開けてくれた。

 佐藤さんは、いつものようにすきのない感じで、きちんとドレスを着ていた。でも、普段から髪をきつくひっつめているのだけど、この時は少し後れ毛があって、白髪も普段より多く見えるようだった。目の下にいつもはないしわができていて、ひどく疲れている様子だったけれど、佳奈の死を悲しんで泣いていたのではないみたいだった。話すときに、少し唇が震えるのが目についた。

「献鹿さん、知らせはお聞きになりましたか?」佐藤さんが言った。もちろん日本語でだよ。だから僕も日本語で答えた。

「ええ、ウィーゼル警部が知らせに来てくれました。それで勝手だとは思いましたが、この探偵さんに…」

 だけど突然デカポッドが大きな声で話しはじめたので、僕はびっくりした。僕は目を丸くして、デカポッドを見上げていたと思う。なんだかちょっとおかしな表情で、デカポッドは僕を見つめ返してにっと笑った。デカポッドはこういった。

「心配にはおよばんよ、マダム。見つかった死体は別人だとわかった。佳奈はまだ生きている可能性が高いね」

 僕は、ぼけっとしてデカポッドを見つめていた。デカポッドが小さな声で言った。

「さあおまえ、いまオレが言ったことをこの女に言うんだ」

「でも…」僕はささやき返そうとした。

「さあ」デカポッドが僕をさえぎった。「通訳をしろ。役立たず」

 だから僕は、佐藤さんに言った。「見つかった死体は別人でした。佳奈はまだ生きている可能性があります」

「そうなのですか」佐藤さんは息をついた様子だった。

 僕とデカポッドは、広い居間に通された。僕は何度か見て知っていたけれど、デカポッドはグルリと一まわりして、気のないふうに様子を眺めていた。壁も天井も真っ白で、淡いピンク色のじゅうたんの上にふかふかのイスやテーブルが並んでいる。暖炉もあって、火が入っていた。

「おかけになって下さい」と佐藤さんは言おうとしたけれど、そのときにはもうデカポッドは、勝手に長イスに腰かけてしまっていた。

 僕はデカポッドと並んで座った。僕はひざを曲げて、ほんの軽く腰かけただけだったけれど、デカポッドはゆったりと深く座って、いかにも楽しそうにしている。今にもニヤニヤ笑いはじめるんじゃないかという感じ。この人の頭の中はどうなっているんだろう、という気がした。デカポッドの体重のせいで、長イスのクッションはぺちゃんこになってしまいそうだ。

 佐藤さんは、僕やデカポッドとは向かい合わせに、それでも少しずれた位置に腰かけていた。男の真ん前に座るようなはしたないマネは彼女はしないのだろうし、そうしながら、身体の前でずっと両手を組んでいた。その様子はあまりにも固くて、まるで石みたいな感じがした。

 デカポッドが英語で質問をして、それを僕が通訳して佐藤さんから事情を聞いた。でも、大したことは何も出てこなかった。僕がすでに知っていて、デカポッドにも話したことばかりだった。

「では、お嬢ちゃんの寝室を見せてもらおうか」とデカポッドが言って、すました顔で立ち上がった。

「はい」佐藤さんも、両手を身体の前で組み合わせたまま立ち上がった。

 僕もまだ寝室の中までは見ていなかったので、少しは興味を持ってついていった。佐藤さんがドアを開けてくれたので、僕は首を伸ばしてのぞき込んだ。

 佳奈みたいな女の子でも、女の子の寝室というだけでいい感じだね。天蓋のついた大きなベッドがあって、僕が使っているベッドの二倍ぐらいの大きさがありそうだった。フリルのついた絹のカバーがかかっていて、枕もとんでもなく大きかった。その他の家具もぜいたくで、僕の部屋がいかに安っぽいかということがよくわかった。同じホテルの中なのに、大した違いだね。

 デカポッドは部屋の中央まで行って、チョロリと見回しただけだった。大して興味を引くものはなかったらしい。すぐに出ていこうとした。

 でも寝室を出ようとして、デカポッドは不意に立ち止まった。何かに気がついたらしい。匂いでもかぐような顔つき。

「どうかしましたか?」と僕は言った。

 デカポッドは、僕の顔の前に指をかざして制止するしぐさをし、少しして言った。「香水の匂いがする」

「女の子の部屋だから、香水の匂いぐらいしたって不思議はないでしょう」と僕。佐藤さんは寝室の入口に立ったまま、デカポッドと僕を見ていた。

「この部屋には化粧台もあるし、香水のビンも見えるが、この匂いのもとはそこじゃない。ここだ」デカポッドは自分の足もとを指さし、かがみ込んだ。だけどそこはただの床で、ほかの場所と同じようにじゅうたんが敷いてあるだけ。何もない。でもよく見たら、薄いけれど大きなしみがある。

「ああ、それでしたら」佐藤さんが言った。なんだか知らないけど、ものすごくいいタイミングだった。「数日前に佳奈さまが香水のビンを落として、ビンはそこで割れてしまいました。香水の匂いがしているのはそのためです」

「なるほどな」僕がそれを通訳すると、デカポッドは納得した顔をした。

 でも、僕はどうも変な気分だった。何かおかしな感じがした。佳奈が香水のビンを落としたことを佐藤さんが知っていても構わないし、そのことをデカポッドに告げても不思議はない。だけど、佐藤さんが香水のことを言い出したのは、まるで取ってつけたみたいにいいタイミングだったんだ。僕はとても変な気がした。

 だけど、僕がそんなことを思っている間も捜査は進んでいたようで、デカポッドが佐藤さんに言った。「あんたの部屋も見せてもらえるかい?」

「ええ」僕がそれを通訳すると、いかにも何でもないといった顔で佐藤さんが言った。また僕は少し変な気がした。このとき、彼女の表情の中に安堵みたいなものがわずかに見たような気がしたんだ。佐藤さんは、デカポッドの関心が自分の寝室に移ることか、佳奈の寝室から離れることを望んでいるような気がした。

 デカポッドもそれに気づいたかどうかは僕にはわからなかったけれど、デカポッドはなんでもない顔で居間を横切って、佐藤さんが寝起きしている小部屋へ行った。僕も口を閉じたまま、ついていった。

 デカポッドは佐藤さんの部屋のドアを開けて、しばらく中をのぞき込んでいたけれど、すぐにドアは閉めてしまった。気になるものも、興味を引くものもなかったのだろうね。

「佳奈さまは見つかるでしょうか」佐藤さんが言った。

「ああ、たぶん見つけることができるだろうと思うよ」僕が通訳すると、佐藤さんを見つめ返しながらデカポッドは答えた。佐藤さんをそのままにして、デカポッドと僕は佳奈の部屋を出た。

 廊下に出て、デカポッドは僕の前を歩いていき、角を曲がって、とんとんと階段を下りていった。どこへ行くのか知らないけれど、僕はついていった。一階のホールを横切って、誰に案内されているわけでもないのに、デカポッドは支配人の部屋の前へ行った。どうもデカポッドは、このホテルの中の様子をよく知っているみたいだった。だけど僕はよけいな質問なんかしないで、黙っていた。

 ドアをノックすると、すぐに支配人が顔を見せた。僕とデカポッドをすぐに部屋の中へ入れてくれた。

 ここは、いかにも責任者の部屋という感じの大きな四角い部屋で、カーテンを引いていない窓の向こうには街の通りの様子がよく見えていて、壁には油絵までかけてあった。壁紙は、さっき佳奈の部屋で見たのと同じ高級そうなやつだ。部屋のすみには紫檀の小物入れが置いてある。スタッフの部屋にまで、こんなに金をかけてあるわけだね。僕はあらためて、ここの宿泊料はものすごく高いんだろうなあと思った。僕が払うわけじゃないけどさ。

 支配人の顔は、もちろん僕はもう知っていた。この人がデカポッドを推薦してくれたのだから。鼻の下の短いひげをワックスで固めていて、かん高い声で話すやせた男だ。

「これはデカポッドさま、あの事件のお調べですか?」支配人は言った。

「やあクイットの旦那、元気だったかい?」

「はい、おかげさまで。私に何かご用ですか?」支配人は機嫌よさそうに笑った。

「あんたのホテルについて、ききたいことがあってさ」

「これは私のホテルじゃございませんよ。私はただの従業員でして」

「ウソつけ」デカポッドは、にっこりして見せた。「あんたが実質すべてを取り仕切ってるんだろ」

 支配人の表情が変わった。ものすごくうれしそうになった。「ええ、このホテルの中で起こっていることで、私の知らないことは何ひとつありません」

 デカポッドも機嫌良さそうに笑った。「それでさ、あの日本の姉ちゃんがいなくなる前後に、ここに大きな木箱が届くか、発送されるかしていないか知りたいんだが」

「あのお客様は、まだ見つかっていないのですか?」支配人は、眉にしわを寄せた。お芝居でも何でもなくて、本当に心配そうな顔をした。

「まだ行方不明さ。それで、どうなんだい?」

「大きな木箱ですか? ちょっと待って下さいよ」

 支配人は、少しのあいだ考えていた。

「そう、そういえば一つありましたよ」支配人が言った。

「どんな箱だい?」

「二十九号室に置いてあった長イスが、すっかり古くなってしまいましてね、模様替えも兼ねて、新しいのを買い入れることにしたんです。それで新しいものを注文して、このあいだ木箱に入って届いたんですが、それが何とまあ、注文したのとは違う色のが入っているじゃないですか。だからその家具工場と連絡を取りましてね、正しい色の長イスを送らせて、間違って届いた方は送り返すことになったんです。それがちょうど同じ日のことですよ」

「それで、もう送り返したのかい?」

「ええ、貨車に積むために駅へ運びましたよ」

「その家具工場の名前と住所はわかるかい?」

「もちろん」支配人はうれしそうに言った。いかにも胸を張っているという感じ。

「それはありがたいや。教えてくれるかい?」

 デカポッドと僕は、家具工場の名前と住所を教えてもらって、すぐにホテルを出た。

「佳奈はその木箱に詰められてたんですね」また辻馬車に乗ってから、僕はデカポッドに言った。今度の目的地は駅だった。

「まあそうだろうな」

「いまから家具工場へ行くんでしょう?」

「行かねえよ。何の用があるってんだい?」

「でも駅へ行くんでしょう?」

「そうだが、列車に乗るためじゃないさ」

 ふうん、と僕は思った。そしてすぐに、また別のことを思いついた。

「デカポッドさんは、あのホテルの支配人とは親しいんですか?」

「あそこで以前、宝石の盗難があってな、それを解決したことがある」デカポッドは、自慢そうな顔をして胸を張った。

 辻馬車が駅に着いた。駅の正面の入口だ。僕は、ここで馬車を降りるんだと思っていた。ところがデカポッドは馬車の窓から顔を出して、御者に声をかけた。「裏の貨物駅へまわってくれよ」

 辻馬車は、また動き出した。駅をぐるりとまわって、裏口に出た。鉄製の大きなゲートが開いていて、中は大きな広場のようになっている。荷物を積んだ荷馬車が何台もとまっていて、大きな木箱や小さな木箱、毛布と縄で梱包した家具、縄を巻きつけた大きな陶器といったものがゴチャゴチャたくさん置いてある。これらの荷物は、これから貨車に乗せられたり、すでに貨車から降ろされたりした物なのだろうね。

 地面には石が敷きつめてあったけれど、木くずや縄や、梱包に使われていたボール紙の切れっぱしといったものが、そこらじゅうに落ちていた。そんな中を、荷物を手押し車に乗せたり、肩に担いだりした人夫たちがたくさん歩いたり話したりしていて、ざわざわガラガラとても騒がしい。向こうの方では、書類でも読み上げているのか、大きな声でまったく意味のわからない符丁をしゃべっている男もいて、まるで朝早くの卸売り市場か何かのような眺めだった。

「ここで待っているかい?」デカポッドが、馬車から降りながら言った。

「一緒に行きます」僕も馬車を降りた。

「待っていてくれ」馬車を離れて歩きはじめながら、デカポッドは振り返って御者に言った。御者はうなずいた。

 デカポッドは元気よく歩いていった。僕は、また急いでついていかなくてはならなかった。

 デカポッドと僕は、荷物やら人夫たちやらをかき分けて、事務所の建物へ近づいていった。ガラス戸になった入口のすぐ隣にちょっとしたひさしがあって、その下に大きなハカリが置いてある。貨車に乗せる荷物の重さを計るのだろうね。人夫たちが並んでいて、順番にハカリの上に荷物を乗せては、隣にいる制服姿の男が重さを読み上げて、さらにもう一人の男が伝票に数字を記入しているのが見えた。

「ここの責任者に会いたいんだが」デカポッドは、伝票に記入している男に言った。

 その男は伝票から一瞬顔を上げたけれど、面倒くさそうに建物の奥の方を指さした。そして、すぐにまた伝票を記入する仕事に戻ってしまった。

「ご親切いたみいるぜ」デカポッドはそうつぶやいて、入口のドアに手をかけた。

 事務所の中には、いくつか机が並んでいた。一番奥には少し大きな机があって、そこに一人だけ男がいて、書類仕事をしていたけれど、顔を上げてこっちを見た。

「あー」デカポッドが話しかけようとした。

「あんたね」その男はぶっきらぼうに答えた。「私は忙しいんだ。誰だか知らないが帰ってくれ」そして、また書類仕事に戻ってしまった。

 それでもデカポッドは、トコトコとそばまで歩いていった。男がもう一度顔を上げたので、のぞき込むようにして話しかけて、軽くウインクをして見せた。

「聞いてくれ。オレは探偵助手なんだ。ホームズ先生はいま別の件で忙しくてな、オレが下調べをまかされてる。ホームズ先生は、ある荷物のことを知りたがっていなさるんだが…」

 男は目を丸くした。イスをがたがた言わせて立ち上がった。

「シャーロック・ホームズさん? あの有名な?」

 デカポッドは黙ってうなずき、ポケットからなにやら小さなカードのようなものを取り出して、男の鼻先につきつけて見せた。男は手を伸ばして、受け取って眺めた。僕も首を伸ばしてのぞき込んだ。どうやら名刺らしい。〃私立探偵シャーロック・ホームズ助手 ノエル・デカポッド〃と書いてある。

 男の顔色が変わった。

「ホームズ先生のご活躍は、いつも雑誌で拝見させていただいておりますよ」男はものすごくうれしそうな顔をして、両手を差し出してデカポッドの手をつかんだ。ぶるんぶるんと握手をする。

 デカポッドは、こっそりささやくように言った。いかにも重大な内緒ごとだという様子で。

「一昨日のことなんだが、荷物のことで何かありませんでしたかねえ。列車が着くのが遅れたとか、何かが紛失したとか」

 男のほうも声を小さくして答えた。「さあ、待って下さいよ」

 デカポッドは待っていた。

「そういえば、ありましたよ」男は話しはじめた。「あれはたしか一昨日だったと思います。見たこともない東洋人の女が来ましてね、大きな声でガチョウみたいにガアガアがなりやがったんです。うるさくってたまりませんでしたよ。

 その女の言うことにゃ、これが笑っちまうんですが、亭主がボンクラな野郎で、どっかに送る木箱の中に猫を入れたまま知らずにフタを釘づけして、ここに持ってきて発送手続きをすませちまったんだそうで。猫がいなくなっているのに気づいた女が、必死になって探しに来たってわけでさ。

 猫が入っていることに気がつかないなんて、まるで信じられないようなこってすが、女は私に、その木箱がどこにあるのか教えろって言うんでさ。でもこの広い貨物駅ですぜ、木箱なんて何百もあるんだ。いちいち探してなんかいられませんや。

 私はそう言ってやったんですがね、今度はその女、じゃあここにある木箱をぜんぶ調べさせろって言いやがって。こっちだって忙しいし、そんなバカなことにはつき合ってられないと言ったんですがね、でかい声を出して泣いたりわめいたりするもんだから面倒になっちまって、駅中の木箱を勝手に調べることを許してやったんですよ。

 猫が入っているはずの木箱は、大きくて細長くって、ちょうど棺おけぐらいの大きさなんだそうで、それくらいの大きさの木箱を駅中探して歩いてましたよ。似た木箱はいくらだってありますからね。何十個も調べてました」

「それで、目的の木箱は見つかったのかい?」

「いいえ、もう発送されてたらしくて、見つかりませんでした。女は私のところへ戻ってきて、ひとしきりギャアギャア泣きわめいてから、届け先の駅に問い合わせてみるといいと私が言ってやったら、しぶしぶ帰っていきましたよ。自分で問い合わせたろうと思いますね」

「それはどうだろうかね」デカポッドはつぶやいた。

「え、なんです?」

「いや、いいんだ。ありがとう。きっとホームズ先生もお喜びだろうよ」デカポッドは男に礼を言って、僕を振り向いた。でも、また男を見た。「その女は東洋人だと言ったが、片言の英語をしゃべったのかい?」

「いいえ」男は首を横に振った。「流暢なもんでしたよ」

 僕とデカポッドは歩きはじめようとした。男がまた言った。手の中にあるカードをしきりに振っている。「このお名刺、いただいておいてもいいんですよね。女房にも見せてやりたくって」

「もちろんでさあ」

 僕とデカポッドは事務所を出た。また荷物の間をぬって歩きはじめた。歩きながら、少し声を小さくして僕は言った。

「あんなウソをついていいんですか? 名刺まで用意して」

 デカポッドは僕をちらりと見つめ返したけれど、平気な顔で答えた。「かまやしねえよ。現実と小説の区別もつかないやつのことなんか、気にすることはねえ」

 馬車のところまで戻って、僕とデカポッドは乗り込んだ。馬車の車体が傾くとき、馬が居心地悪そうに足踏みをした。

「電報局へ」デカポッドは御者に言った。馬車が動き出した。電報局は、駅のすぐそばにあった。

「すぐに戻るから、おまえはここで待ってろ」電報局につくと、デカポッドはそう言って、一人で建物の中へ入っていった。そして三分もしないうちに出てきたのだけど、短い電報を一本打つくらいなら、それだけあれば充分だろうね。

「どこへ電報を打ったんですか?」と僕は言った。

「ちっとは推理を働かせてみろよ」それでもデカポッドは、うれしそうに答えた。

 僕は少し考えた。でもわからない。

「わかりません」

「すぐにわかるさ。さあ、ホテルまで送ってやるよ」

 デカポッドは御者に、スクイッド・ホテルへ戻るように告げた。馬車が動きはじめた。

「もう捜査は終わりですか?」僕はがっかりしていた。おっかけっこも冒険もないままで終わるのか。

 デカポッドは笑った。「そんなにがっかりするなって。まだ仕事が残ってらあ」

「なにが?」

「おまえは、カナリア諸島が香水ビンを床に落としたとき、その場にいたのか?」

「いいえ。行方不明になるまでは、僕は佳奈の部屋には入ったことはありませんでした」

「ああ、そうだったよな」

 それからデカポッドは黙ってしまったのだけど、僕には何となく、デカポッドが何を考えているのか想像できるような気がしていた。

 スクイッド・ホテルに着くと、僕とデカポッドはまた佳奈の部屋へ行った。佐藤さんは隣の小部屋にいた。田中はまだ帰ってはいなかった。あとで聞いた話では、ウィーゼルは田中を容疑者だと考えていて、何時間も取り調べられていたそうだった。

「どうかなさいましたか?」僕とデカポッドの姿を見て、すぐに佐藤さんが言った。

「いやあ、あんたがひどく元気をなくしてる様子だったんで、気になって戻ってきたのさ」とデカポッドが言った。僕はそれを通訳した。

「それはそれは、ありがとうございます」と佐藤さんは言った。でも、固い声と表情。

「いやいや、忙しい一日だったらありゃしねえ。すまねえが、何か飲ませてくれねえかなあ。のどがかわいちまってさ」とまたデカポッドが言った。なんでそんなことを急に言い出したのか、僕にはわけがわからなかったけれど、そのまま通訳した。

「お茶をおいれしましょう」佐藤さんは、僕とデカポッドに背中を見せて歩きはじめた。キッチンへ向かう。

「悪いね」

 少しして、佐藤さんがお茶のセットを盆に乗せて戻ってきた。デカポッドと僕は、勝手に長イスに座って待っていた。

 佐藤さんは、僕とデカポッドの前にティーカップを置き、お茶をつぎはじめた。

「あれ、佐藤さんは飲まないんですか?」と僕は言った。佐藤さんは、カップを二つしか持ってきていなかったから。

「私はいただきたくありませんので」堅苦しい、まるで本当に息苦しさでも感じているような声で佐藤さんが答えた。

「お菓子もどうぞ」佐藤さんが、小皿に乗せたクッキーをこちらに滑らせてよこした。それから、佐藤さんは下を向いた。

 おなかがすいていたから、僕はすぐにクッキーをもらうことにして、手を伸ばした。

「おっとすまねえ」不意にデカポッドの大きな声がした。カチャンという音も聞こえた。

 あわててそっちを見たら、デカポッドの足下にティーカップとソーサーが落ちて、割れてしまっていた。熱い紅茶もこぼれて、じゅうたんの上に広がっている。これは絶対にしみになるね。

「僕の手が当たりましたか?」そんなはずはないと思いながら、僕は言った。

「そうじゃない。オレが自分でやってしまったんだ。うかつなことだよなあ。すまねえが、ホテルのメイドを呼んでくれねえかな」

「後片づけなら私が」佐藤さんが立ち上がった。

「それでは申しわけねえや。ホテルのメイドを呼んでくれ」デカポッドは繰り返した。

「僕が呼んできますよ」僕も立ち上がった。

「そこの」佐藤さんが言った。「廊下を右に行ったつき当たりに地下室へ続く階段があります。そのわきに控室があります。メイドはそこにいるでしょう」

「そこには暖房用ボイラーもあるのかい?」デカポッドが言った。

 佐藤さんは一瞬、ぽかんとした顔をした。それから顔を赤くし、でもなんとか感情を押さえ込んだようだった。こくんとうなずいた。「はい、そうです」

 いかにもおかしなことがあったとでもいうように、デカポッドがくすくす笑いはじめた。わけがわからなくて、僕はぽかんと見つめていた。佐藤さんにも意味はわかっていない様子だったが、でも佐藤さんはひどく緊張しているというか、まるで怒ってでもいるような顔つきだった。

「ロンドンの空気には、吸っているだけで英語ができるようになるという奇跡の力が備わっているのかもしれねえな」デカポッドは笑いつづけた。「なあ佐藤さんよ。あんたは、いつの間に英語ができるようになったんだい?」

 僕はやっと気がついた。デカポッドはすました顔で続けた。

「そのボイラーだけどさ、こんなに大きなホテルを暖房するためのものだから、かなりのサイズなんだろうな。死体を燃しちまうのにも十分な大きさのさ」

 佐藤さんの顔が再び赤くなり、すぐに真っ青になった。

 デカポッドが静かに言った。「そうだろう?」

「何の証拠があって…」佐藤さんが大きな声を出した。

「ウィーゼルの野郎に言って、ボイラーから出た灰を調べさせた。焼けた人骨が見つかった。燃え残っていた装身具から、佳奈だと確認された。あんたが駅でやった芝居は、はじめからむだだったわけさ」

 真っ青な顔をしたまま、佐藤さんは首を横に振りつづけた。

「そんなはずはありません。あの人たちは長イスを燃やしたはずです」今度こそ僕もはっきり聞いた。佐藤さんはきれいな英語で言った。

「だが、あんたはそれを自分の目で確かめたわけではなかろう?」

「まさか、本当なのですか?」佐藤さんは震えはじめた。

「あの夜、何があった?」

 でも佐藤さんは、デカポッドの言葉なんか耳に入っていない様子だった。独り言みたいに繰り返した。「まさか。まさか」

 デカポッドは僕に合図をして、フロントへ行かせた。僕はフロントへ走っていって、ウィーゼルを呼んでもらった。

 ウィーゼルは、十五分ぐらいして現れた。食事でもしていたのか、シャツのエリには黄色いソースのしみがついている。上着のすそにもパンくずがこびりついていることに僕は気がついた。それにこの匂い。

「カレーがお好きなんですか?」顔を見て僕が最初にそういったら、ウィーゼルはひどく驚いた顔をしていたけれど、何も言わなかった。

 もちろん、ウィーゼルは佐藤さんを逮捕した。佐藤さんも、自分が佳奈を殺したことを認めた。

 後はウィーゼルに任せて、もちろん僕のサイフからは探偵料をみっちりせしめて、デカポッドはすました顔でホテルを出ていった。僕もそのあとを追いかけて、玄関の外に出た。そのときはじめて気がついたのだけど、もう夕方で、太陽が地平線にかかって、何もかもがオレンジ色がかって見えた。このホテルはちょっとした丘の上にあって、見晴らしがよかった。僕は少し駆け足になって、デカポッドに追いついた。

「佳奈はボイラーの中で見つかってなんかいませんよ」僕の声は、詰問するような調子だったかもしれない。

 デカポッドが、立ち止まって振り返った。「日本人とはおかしなもんだよな。死体をボイラーにくべてしまったかもしれないという不安にさらされることよりも、殺人を犯したと認めることのほうを選ぶのだからな」

「じゃあ英国人は、平気で人を火にくべるんですか?」

 デカポッドは、おかしそうな顔をして笑った。

「見なよ」デカポッドは指さした。地平線まで何百軒と続いている家々の屋根の上にはいくつも煙突があって、薄い煙を吐いている。「あの煙のどれが人間を燃やしているものじゃないと、どうしておまえに言える?」

「佐藤さんが〃あの人たち〃っていってたのは、誰のことなんですか?」

 デカポッドはすました顔で、僕を見つめ返した。「こんなに大きなホテルのことだから、昨日のうちにあたふたとチェックアウトしていった東洋系の男が二人ばかりいたとしても、オレはちっとも不思議には思わんね」

「佐藤さんの共犯者なんですか?」

「共犯とは思わないな」デカポッドは、少し表情を曇らせた。「本来は、秘密の護衛としておまえたちに付き添っていたのだろうよ。その二人のことは、佐藤しか知らされていなかったのだろうが。運命のいたずらで、その二人は佐藤の犯行を隠す手伝いをするはめになってしまったわけだ」

「大蔵氏が内緒で佳奈につけておいた護衛……じゃないですよね」

「それについては、おまえに話すのは時期尚早かもしれない。法廷で佐藤本人が口にすれば別だが」

 僕はよく意味がわからなかったのだけど、なぜだかデカポッドはそれ以上は口にしたがらないようだったので、違う話をすることにした。

「あんなところにボイラー室があるって、どうして知ってたんです?」

「前にこのホテルで事件を解決したことがあると言っただろうが? そのときホテルの中を一通り調べたから、様子は頭に入っているのさ」

 翌朝になって、ロンドン警視庁に木箱がひとつ届いた。大きさも長さも、ちょうど棺おけと同じぐらい。

 僕は、デカポッドと一緒にロンドン警視庁に来ていた。僕とデカポッドが通されたのは、庁舎の裏の倉庫みたいに薄暗い場所で、木箱は、床の上に無造作に置かれていた。僕とデカポッドの他に、若い警官が数人とウィーゼルがいた。ウィーゼルはいかにも不満そうに、横目でデカポッドの顔を見た。

「こんな木箱が今朝、なんとかいう家具工場から送られてきまして、あて先は私になってるじゃないですか。そえられている手紙によると、そうするようにあなたから電報で指示を受けたとのことですが、一体どういうことなんです? 中身は長イスだそうですが、殺人事件とどう関係があるんです?」

「オレの屋根裏部屋は、こんな大荷物の荷解きには不向きだからさ」デカポッドは笑って答えた。

「だからって大尉、警察を私書箱代わりになすっちゃ困りますよ。こっちも証拠品の山でうずまりそうなんだから」

「これもりっぱな証拠品ですぜ」

「本当ですか?」ウィーゼルは、いかにも信用していない顔をした。「まあ、いいでしょう。刑事部屋のおんぼろ長イスを取り替えるのにちょうどいい機会ですからな」

「では開けてもらおうか」デカポッドが言った。

 警官たちが、金テコを使って木箱を開けはじめた。金テコの先を釘の頭に引っかけて力を込めるたびに、きーきー耳障りな音がする。

 クギを全部引き抜いてフタを開けると、中から出てきたのは、梱包された石膏像だった。水ガメをかついだ等身大の少女の像。もちろんキズひとつない。

「どうして長イスが出てこないんだ? 荷札にはそう書いてあるのに」ウィーゼルが言った。

「一つの荷物には、荷札はふつう二枚つけられるよな。一枚がはがれたり、汚れて読めなくなったときのためだ」とデカポッドが言った。

「そうです」とウィーゼル。「これにも二枚ついてますが、一枚は泥がついてて読めません」

「そこにはチジックのローダー氏あてと書かれていたのだろうよ。故意に汚される前にはさ」

「故意にですと?」

「そうさ。死体が入っていた木箱の荷札も、一枚は汚れて読めなくなっていたんじゃないのかい?」

「確かにそうでしたが」

「二つのよく似た木箱があって、どちらにも二枚の荷札がついているが、それぞれの一枚を泥で汚し、残る二枚を交換して張り替えてしまえば、その二つの荷物は、一体どこへ行くね?」

「本来、もう一方の荷物が行くはずだったところへでしょうな」

「そういうことさ」

「どうして荷札を二枚とも張り替えなかったのでしょう?」ここまで黙って聞いていたのだけど、僕は言った。

「時間がなかったのだろうよ。だから、もう一組は汚して読めなくするしかなかった。いくら混雑しているといっても、人目の多い貨物駅ではな」

「貨物駅? いったい何の話なんです?」ウィーゼルが不思議そうな顔をした。

「あとで説明するさ。それはそうと警部殿、例の東洋人二人組は見つかったかい?」

「いいえ」ウィーゼルは困った顔をした。「手配はしているのですが見つかりません。日本大使館も、そんな連中のことは知らないといっています。もっとも、その二人が日本人だという証拠は何もありませんが」

「佐藤は何か言ったかい?」

 ウィーゼルの表情が、苦々しそうなものに変わった。

「あの女は強情でして、何も言わんのです。香水の大ビンでなぐって佳奈さんを殺したことは認めましたが、殺害の動機も共犯者の有無も、何もかもだんまりを決め込んでまして」

「そうかい」デカポッドはため息をついた。「ならきっと、彼女は最後まで何もしゃべらんだろうよ。絞首刑は決まっているのだから、全部自分ひとりでかぶる気なのだろうな」

「佐藤さんは、何のためにそんなことをするんですか?」首をかしげながら、僕はデカポッドを見つめ返した。

「さあ」デカポッドは首を横に振った。「オレにもわからねえな」

 だから僕はそれで引き下がるしかなかったのだけど、一つだけ確信していることがあった。

 デカポッドは絶対にウソをついている。佐藤さんの動機が何だったのか、あの二人組は誰が送り込んだものだったのか、デカポッドは知っているのに違いない。でもロンドンを離れる日まで、僕にはそれを質問する勇気は出なかった。なぜか出なかったんだ。




 小学生のころから、僕は勉強なんて大嫌いだったけれど、中学に上がると、どういうわけか英語だけはおもしろいと思うようになった。だから少しは熱心に勉強するようになっていたのだけど、そこに佳奈が目をつけて、欧州旅行の通訳として駆り出したわけだね。

 その後も、僕は英語の勉強を続けていた。そのごほうびかどうかは知らないけれど、ある日、叔父が僕の家にやってきて、こういったんだ。

「献鹿、私は今度、仕事でロンドンへ出張することになったんだが、一緒に行かないかい?」

 もちろん僕は、張子の虎みたいに首を縦に振った。前回あんなことがあったから両親が許してくれるかどうかは不安だったのだけど、叔父が話してくれたら、意外に簡単にOKしてくれた。

 だから僕は一ヵ月後には、胸を潮風でいっぱいにしながら、汽船のデッキの上にいた。大陸行きの汽船で、東京湾の水はウーロン茶のような色をして、嫌な匂いを放っていたけれど、ぜんぜん気にならなかった。叔父はもう船に酔って、船室で伸びていたけれど、僕は元気いっぱい、デッキの上を何回も往復して歩いた。とても楽しかった。

 数日後には大陸の港について、列車に乗り換えた。日本のよりも一回り大きな列車だったから、僕にはものめずらしくて、またまた用もないのに車内をウロウロしていた。西へ走り続け、何度も乗り換えて、二週間後、とうとう僕と叔父はフランスに着いた。

 ここでまた船に乗り換えて(港で船の姿を見ただけで、叔父は青い顔をした)、海峡を渡って、イギリスに上陸した。列車に乗って半日走って、とうとうロンドンについたのだった。

 叔父は日本のある鉄道会社で働いていて、その鉄道会社がロンドンのEBBC社に電気機関車の製造を依頼し、それが完成したと連絡があったので、こうやって受け取りに来たのだった。だからロンドンについても、僕は数日のあいだは叔父のお供をして、機関車工場とか輸出を監督する役所とか、あちこち歩いた。でもそれもすんだので、僕は一人でロンドンの町を見物して歩くようになった。叔父も何か用があるとかで、毎日どこかへ一人で出かけるようになった。

 だからこの日も、僕がホテルへ帰ってきたのは夕方の六時ごろだったのだけど、叔父はまだ戻ってきてはいなかった。僕はおなかがすいていたから、ホテルのレストランで一人で食事をした。泊まっていたのは、前のときと同じスクイッド・ホテルだった。

 夕食を終えても、叔父は帰ってこなかった。少し心配になってきて、ホテルの人にきいてみたのだけど、叔父は昼前に出かけたけれど、どこへ行ったのかはわからないという返事だった。

 部屋へ帰って、窓の外からかすかに聞こえてくる馬のひづめや馬車の車輪の音、通行人の話し声なんかを聞きながら、僕は待ち続けた。でも二時間待っても、叔父は現れなかった。眠くてたまらなくなって、僕はベッドに入って、それでもベッドの中で起きているつもりだったのだけど、結局眠り込んでしまった。

 でも僕は、真夜中にたたき起こされた。

 誰かがドアをノックするのが聞こえて、それで目が覚めたのだけど、ちょっとふらふらしながら起き上がって、じゅうたんの上を裸足で歩いて、ドアのところまで行った。ドアのノブをぎゅっと握った。まだ身体が半分以上眠っているような気がして、ひっくり返ってしまいそうだったから。

 ドアを開けると、廊下は明るかった。見覚えのあるフロント係がそこにいて、僕を見ていた。

「お休みのところ、もうしわけありません」フロント係は言った。

「いま何時ですか?」僕は顔をしかめたと思う。廊下の光がまぶしかったから。

「一時をまわったところです」

 ところが、不意に別の誰かが言った。

「献鹿さんですな」

 その人物は、フロント係の後ろから僕を見ていたらしいけれど、僕は気がつかなかった。

 僕はそっちを向いた。見覚えのある顔のような気がした。さっきの声も、聞いたことがある声のような気がする。

「おなつかしい。もう二年になりますか」またその声が言った。でも僕には、まだ誰なのかわからない。

「誰ですか?」僕は言った。

「おやおや、お忘れですか。それとも寝ぼけておられるのか」

 やっと僕は気がついた。たしかに知っている顔だ。

「あ、警部」僕は言った。あのとき佳奈の事件を担当した刑事だ。でも名前は、なんだっけ?

「ウィーゼルです」警部はちょっと帽子を上げて、僕にあいさつをした。

「やあやあ」何と言っていいかわからなかったのだけど、とりあえず僕の口からはそんな言葉が出てきた。

「お元気そうで何よりです。またお会いできるとは思いませんでしたが」ウィーゼルはそう言ったのだけど、少し皮肉な顔をしている気もした。僕の気のせいかな?

「何かご用ですか?」僕は、ちょっと風向きがおかしいのを感じながら言った。慎重に行動した方がいいかもしれない。

「そのことなんですが」ウィーゼルは、ゴホンとせき払いをした。「青垣慶介氏とはお知り合いですね」

「ええ」と僕は答えた。だけど、話がどっちへ行こうとしているのかわからない。緊張して、ちょっと汗がでてきた。「僕の叔父です」

「日本から一緒に来られた?」

「はい」

「お仕事でですかな? 宿帳には日本の鉄道会社の名が書かれていたが」

「叔父さんはそうです。何かあったんですか?」

 でもウィーゼルは、僕の質問には答えなかった。「叔父さんに最後に会ったのはいつです?」

 僕はしばらく考えなくちゃならなかった。むりやり起こされて、まだ頭が少し痛かった。「昨日の朝食が一緒でした。このホテルのレストランで食べましたよ」

「そのあとあなたはどうなさいました?」

「一人で町を見物に出かけました。大英博物館へ行って、ここに帰ってきたのは六時ぐらいだったかな」

「すると、叔父さんの身に何が起こったのかはまだご存じないわけですな」ウィーゼルは、首をかしげて僕を見ながら言った。いかにも人を疑うのが商売みたいな顔をしているように思えて、僕はいっぺんにこの男が嫌いになった。二年前はそうでもなかったのだけど。

「警部さんが、もったいぶって教えてくれないんじゃないですか」

 ウィーゼルは、かすかにため息をついた。帽子のつばに手をかけて、頭を下げるかっこうをした。「昨日の午後、青垣氏がアッパー・スウォンダム小路で死亡しているのが発見されました。ナイフのようなもので背中を刺されていて、殺人事件のようです」

「死んだんですか?」

「ええ、本当にご存じなかったようですね」ウィーゼルはすぐに表情を変え、僕の顔を見てニヤリとした。そういう顔つきはあまり素敵じゃなかったけれど、でもこの瞬間に、僕は容疑者リストから外されたのだろうね。

「昨夜なかなか帰ってこなかったので、僕は先に寝たんです」

「そうですか」ウィーゼルは、何か考えている顔になった。何を考えているのかは、僕にはわからなかったけれど。

「面倒なことになっちゃったなあ」

「まったくご面倒ですが、ロンドン警視庁まで来ていただけますか? いろいろ細かい事情をうかがいたいので」

「僕を逮捕するってんじゃないでしょうね?」ウィーゼルの表情から、そんなことはありえないとわかっていたのだけど、僕は言った。

「そんなあなた、ただ関係者として事情を聞かせていただきたいだけですよ」

 矛盾していると自分でもわかっていたのだけど、僕は、大人としてウィーゼルと対等に話をしたいと思っていたし、同時に子供っぽくふるまってみたくもあった。ウィーゼルは僕をまだ子供だと思っているらしかったから、それを利用するという面もあったのだけど。だから僕はこう答えた。このときの僕は、八歳のひねくれガキみたいな顔をしていただろうと思う。

「ふうん」

 だけどウィーゼルは、僕の感情なんか無視するつもりのようだった。また言った。

「そうだ忘れるところだった。これに見覚えはありませんか? 汽車の部品かもしれない」

 ウィーゼルは上着のポケットに手を突っ込んで、何かを取り出した。大きなものじゃない。片手で簡単につかめるぐらいのもの。

「何ですか?」

「これですよ。死体のすぐそばに落ちてたんですが」

 ウィーゼルは僕に見せた。手のひらよりも少し大きいぐらいの板のようなもの。金属でできていたけれど、普通の金属とは違うようで、金色と銀色の混じったような不思議な色をしていた。半分に割ったパイプのような形で、ねじでとめる穴が二カ所あけてある。

「いかがです? たまたま遺体のそばに落ちていただけで、関係ないものかもしれませんが」

 僕はそれを受け取って、顔を近づけて眺めた。見かけよりもずっと軽くて、薄っぺらいのにひどく固い。手で曲げようとしても、そう簡単には曲がらないだろうと思えるぐらい。本当に普通の金属ではないのかもしれない。念のため鼻を近づけてみたけれど、匂いはない。

「さあ、僕にはぜんぜんわかりません」僕は、ウィーゼルの手に返しながら言った。

「そうですか。そばに落ちていたというだけで、関係はないのかもしれませんがね」

「ねえ、やっぱり警察署へ行かなくちゃいけません?」

「ええ、来ていただきます」ウィーゼルは僕をまっすぐ見た。「すぐにしたくをなさってください」

 そういえば僕は、まだ寝間着を着たままだった。だからドアを閉めて、一人になった。

 僕はすぐに着替えはじめたのだけど、ちょっと思いついて、机の上にあった紙とペンを使って、急いで手紙を書いた。封筒に入れて封をした。

 したくがすんで廊下に出たら、ウィーゼルと若い巡査が待っていた。巡査まで連れてきていたということは、場合によっては僕をむりやり連行することも考えていたのだろうね。僕は、またウィーゼルが嫌いになった。もちろん、それは警察官として当然の行為なのかもしれないけれど。

「では行きましょうか」ウィーゼルが言った。

 僕は、ウィーゼルや巡査と一緒に歩きはじめた。廊下をつき当たりまで行って、そこから階段を下りた。一階のロビーに出る。

 ロビーを横切るとき、僕はさっとカウンターに近寄った。ウィーゼルはすぐに気がついたけれど、何も言わなかった。

 僕は、カウンターの向こうにいる人に話しかけた。ホテルの従業員だね。ポケットから出して、さっき書いた手紙を差し出す。二、三枚コインをそえて。

「メッセンジャーを出して、この手紙をこの住所まで届けてもらえませんか?」

「今すぐでございますか?」カウンター係が言った。午前一時をすぎているわけだから、当たり前かもしれないけど。

「こんな時間だということはわかってるんですが、僕は警察へ行かなくちゃならないので」僕はもう一度ポケットに手を入れて、コインを何枚か追加した。

「承知いたしました」カウンター係は、にっこりして答えた。

「お願いします」

「はい。たしかに」

 僕がカウンターから離れて歩きはじめると、ウィーゼルが近寄ってきた。「どこへ手紙を出したんです?」

「青煉瓦街ですよ」

「まさかデカポッドさん?」

「このままじゃあ、僕は犯人にされてしまうかもしれませんから」僕はウィーゼルを見つめ返した。がんばって笑い顔を隠す。

「何も私はそんな…」

「事件の捜査を依頼するという意味もありますし」僕はいい気分で言った。

 ホテルの前には、窓のない黒い箱形の馬車が待っていた。馬車のそばには、もうひとり巡査がいた。警察の馬車だね。

「まるで犯人を護送するときみたいですね」僕は言った。

「そうじゃありませんて」

 馬車に乗せられて、僕はロンドン警視庁へ連れていかれた。

 でも僕は取り調べ室ではなくて、ウィーゼルの部屋だと思うけど、小さな事務室に通された。あれからウィーゼルも出世したらしかった。前のときには個室は持っていなかったから。

「狭いが、ちょっとした部屋でしょう?」ウィーゼルが言った。正直に言うと、僕にはいい部屋には見えなかったのだけど。

「そうですね」

「おかけください」ウィーゼルは僕を座らせてくれた。なんだか、さっきとはえらく感じが違う。デカポッドの名前が出たからかな。

「何をお聞きになりたいのですか?」僕は言った。

「デカポッドさんがお見えになってからでいいですよ」ウィーゼルは、紅茶をいれてくれようとしている。

 僕は、へぇと思った。でもウィーゼルがそう言ってくれるのなら、そうさせてもらうことにした。

 三十分ぐらいして、デカポッドがやって来た。二年前と変わらないしわしわの服装をして、髪の毛はぐしゃぐしゃで、無精ひげが生えている。どう見たって海賊の親分だ。重いブーツをどたどた言わせながら部屋の中に入ってきて、僕を見つけて、すぐに舌打ちをした。

「おいケンジントン、おまえはいつもオレにトラブルばかり持ち込みやがるな」

「またスリにやられたんですか?」

「うるせえ」

 でもデカポッドはそれ以上は何も言わなくて、そばにあったイスに勝手にどかんと座った。イスの脚が、きしんで音を立てた。ウィーゼルは目を丸くしたまま、何も言えずにいる。

「こんな時間に呼び出して、すみません」僕はデカポッドに言った。

 だけどデカポッドは僕なんか無視して、ウィーゼルに話しかけた。「ねえウィーゼルの旦那。どんな罪でもいいから、このガキを三百年ぐらいぶち込んどいてもらうわけにはいきませんかねえ」僕をあごで示した。

「ええ、かまいませんよ」ウィーゼルが答えた。僕をちらりと見て、表情を探った。「ただし、献鹿さんの食事はデカポッドさんもちでお願いしますよ。ロンドン警視庁は留置場を提供するだけで」

「へへへへへ」デカポッドがうれしそうに笑った。「オレの部屋にはネズミだけはいっぱいいてね」

 ウィーゼルとデカポッドはしばらくのあいだニヤニヤ笑いあっていたが、不意にデカポッドが僕のほうをむいて言った。

「で、今度はどんな事件に巻き込まれたんだ? 王宮の壁に落書きでもしたか? ペンキででかいブタの顔でも描いたか?」

 僕は言い返した。「ブタの顔じゃありません。文章を書きました。〃イギリス人のユーモアのセンスほど嘆かわしいものはこの世にない〃」

「おやおやおや」デカポッドは、またニヤニヤ笑った。

 大きくため息をついて、僕は事情を話しはじめた。叔父と一緒に日本を出たところから。

「ウィーゼルの旦那、しばらくのあいだ、これを借りててもよござんすかねえ」僕が事情を説明し終えたら、デカポッドが言った。さっきの小さな金属片を手に持っている。その様子はいかにも、これは大したものじゃないんだがという感じだったけど、たぶんデカポッドは、それが何か重要なものだと思っているのだろうね。僕はそんな気がした。

「ええ、結構です。死体のそばにあっただけで、関係ないただの金物だと思いますよ」

「それでも結構。少し調べてみたいのでね」デカポッドは不意に立ち上がって、僕やウィーゼルに背中を向けた。表情を見られたくないんだろうという気がした。デカポッドは、その金属片を上着のポケットにすっと入れたようだった。

 少しのあいだ三人とも黙っていた。デカポッドは、やっぱりむこうを向いている。

「お話しすべきことは、全部お話ししたと思いますが」僕はウィーゼルに言った。

「このガキは、もう少しのあいだ泳がしといてもいいんでがしょう、旦那?」急に振り返って、にっと笑ってデカポッドが言った。

 ウィーゼルは困ってしまったらしい。「お二人していじめないでくださいよ」

 デカポッドが、僕の肩に軽く触れた。「ではケンジントン、名残は惜しいが、ロンドン警視庁にしばしのおいとまといこうじゃないか」

 何だかとてもうれしくなって、僕は立ち上がって、ウィーゼルを見た。ウィーゼルは何も言うことはないらしくて、肩をそびやかした。それでも、やっぱり困ったような顔をしている。

「おまえはこれからどうするんだ?」ロンドン警視庁の玄関を出ながら、デカポッドが言った。外はまだ真っ暗だった。午前四時にもなっていない。

「ホテルへ帰っても、寝られそうにないですね。朝になったら日本に電報を打ちますが」歩きながら僕は答えた。

「じゃあ、オレんところへ来るか?」

「ええ、そうさせてください」僕はうれしかった。何かおもしろいことがあるんだろうかという気がした。

 辻馬車を見つけて、二人で乗った。馬車が動きはじめると、すぐにデカポッドが言った。

「おまえの叔父は、ロンドンに知り合いはいるか?」

「いないと思います。アメリカに留学したことがあって、英語はじょうずなんですが」僕は答えた。

「そうかい」デカポッドは少しのあいだ考え込んだ。「叔父のイニシャルはK.A.だよな」

「はい」

「それとさ」デカポッドは、首を曲げて僕の顔をのぞき込んだ。「おまえは趣味で、何かのコレクションをしてないか? いかにもどこかのお坊ちゃんらしくさ」

 僕はびっくりした。「はい、少しだけ」

「なんだ? 事件とは関係ないかもしれねえが」

「でも、正確にはコレクションとはいえないかもしれません」

「どうして?」デカポッドは不思議そうな顔をした。

「子供のころから毎年、誕生日になると小さな小包が届くんです。でも差出人の名前が書いてなくて、誰なのかわからないんです。両親には見当がついているみたいなんですが、僕には話してくれません」

「どんなものが届くんだ?」

「手のひらに乗るぐらいの小さな化石です。何の化石かは年によって違うんですが、僕がそういうものが好きだと知っているようです。去年はアンモナイトでしたよ。詳しい人に見てもらったら、かなり貴重な種類のものだということでした」

「すげえな。おまえみたいなガキに、そんな高価なものを毎年贈ってくれる奇特なやつがいるわけだ」

 僕はあほらしくなって、返事をする気もうせてしまった。

「おまえは何座の生まれだ?」不意にデカポッドが言った。

「えっ?」

「星座だよ。カエル座とかイタチ座とかあるだろうが」

「ああ。でも自分の星座は知りません」

「仕方のねえやつだな。おまえの誕生日はいつだ?」

「来月の一日です」

「ははあ」デカポッドは、いかにも納得した顔をした。

「どうしたんです?」

「いやあ、いかにもおまえにふさわしい星座だと思ってな」

 それって何座なんだろうと思って、僕は質問してみようとしたのだけど、その前に馬車は青煉瓦街についてしまった。馬車を降りて、静かに鍵を開けて家の中へ入った。階段のすぐ下まで来たとき、デカポッドがささやいた。

「足音を立てるんじゃねえぞ。大魔王ヘプジパが目を覚ましたら大事だからな」

「ヘプジパって?」

「おまえも前に会ったろうが? 大家のくそババアだよ」

 僕とデカポッドは足音を忍ばせて、まるで泥棒みたいにして階段を上がっていった。でも、あまり意味はなかったかもしれない。デカポッドが踏み段に足をつけるたびに、体重のおかげでどすどす大きな音がして、木が音を立ててたわんだから。それでも、誰の目も覚まさせずに屋根裏部屋へ行くことができたようだった。

「茶はねえからな、飲みたきゃ自分でいれな」マッチをすってランプに火をつけて、上着をベッドの上に乱暴に放り投げながらデカポッドが言った。

 僕は部屋の中を見回した。二年前と同じように暮らしやすそうな部屋だった、とだけ言っておくね。

 デカポッドは部屋のすみへ行って、小さなテーブルの上を片付けはじめた。乗っかっている古新聞や本、使いさしの食器なんかを床の上に移動させた。そうやって場所を作って、何か仕事をはじめる様子だった。

「何をするんです?」僕は、ちょっと興味を持って近寄った。

「まあ見てなよ」

 デカポッドは、洗っていない汚れたグラスに、そばにあった水差しから水を注いだ。グラスのふちいっぱいのところまで水を入れた。水が表面張力で丸くなって、もう少しであふれてしまいそうだったけれど、ギリギリのところで止まっている。

 デカポッドはポケットから、さっきの金属片を取り出した。それに細い糸を結びつけて、その糸を指でつまんでぶら下げた。金属片を、水を入れたグラスの真上に持っていった。

「何をするかわかるか?」デカポッドは、ちらりと僕を振り返った。カエルで遊んでいる子供みたいに楽しそうだ。

「比重を計るんでしょう?」

「おお」デカポッドは大げさに驚いた顔をした。「おまえもまっるきりバカじゃねえな。比重がわかれば、この金属の正体がわかるかもしれねえからな」

 デカポッドは、金属片をビーカーの水に少しずつひたしていった。あふれた水がテーブルの上にこぼれ、テーブルのへりからボトボトと音を立てて床に落ちた。

 僕は退屈になってしまって、座って待つことにした。ちょっと眠かったし。

 振り返ると、部屋のむこうのはしにソファーがあるのが見えた。もちろん、デカポッドが脱ぎすてた帽子や読みかけた本、何に使うのか知らないけれど大きなハサミがその上に置いてあったけれど、僕は勝手にそれらを床の上に移動させて、どすんと腰かけた。デカポッドはテーブルに向かって、まだ何やらやっている。物入れの中から古い天秤式のハカリを引っ張り出して、金属片の重さを計っている様子だ。でも僕にはどうでもいいことのような気がして、ソファーに身体を持たせかけて、力を抜いた。僕は、そのまま眠ってしまったようだった。

「ほう、これはおもしろいぞ」不意にデカポッドの声が聞こえた。僕は目を覚ました。

「何かわかりました?」僕は頭を振って少しはっきりさせて、デカポッドの背中に向かって言った。

「もう朝だぜ」デカポッドは振り返らなかった。むこうを向いたまま、何かの本でも読んでいる様子だ。

 窓からは派手に朝日が差し込んでいた。いつのまにか夜が明けてしまっていたらしい。デカポッドが立ち上がって、僕を振り返った。

「ケンジントン、これはなかなか興味深い金属だぜ」

「どんな?」

「そのことで、ちょっと出かけてくらあ」デカポッドは上着を取って、そでを通そうとした。

「僕も行きます」僕は立ち上がろうとした。

「いや、おまえが来ても役には立たん。ここにいろ。オレは図書館へ行くだけだ。今朝はヘプジパ様がいやに機嫌がよくてな、おまえに朝食を出してくれるとさ。心して食えよ、毒は入ってないだろうから。それに、今日はいろいろと忙しいのと違うか?」

 僕は、やるべきことがたくさんあることを思い出した。日本に電報を打たなくちゃならないし、大使館とも連絡を取らなくちゃならないし、EBBC社にも行かなくちゃならない。僕がそんなことを考えている間に、デカポッドは一人で出かけてしまった。

 何分もしないうちに大魔王ヘプジパが、朝食を持って現れた。ノックも何もせずに、ドアを開けて入ってきた。

 ヘプジパは鼻にしわを寄せて、テーブルの上をいかにも気に入らない顔で眺めていたけれど、ページを開いたままで置いてあった本をニ、三冊、片手でどすんどすんと床の上に落として、そのあとに朝食の盆を置いた。

「ほれ、早く食べちまいな」ヘプジパは僕を振り返り、大げさに身振りをしながら言った。

「はい」僕は立ちあがって、テーブルに近寄った。

「上等な皿なんだからね。割ったりするんじゃないよ」それが、部屋を出ていくときのヘプジパ様のセリフだった。

 料理はベーコンと卵とパンと薄い紅茶で、まずくはなかった。いや、お世辞じゃなくて。

 僕はゆっくりと食べた。でも途中で気がついたのだけど、屋根裏部屋の中に僕は一人ではなかった。お仲間がいた。僕はそいつに、パンとベーコンのカケラを少しやった。僕の足元で、口をもぐもぐ動かしながら、そいつはうれしそうに食べていた。あまりにも人になれていたから、デカポッドはふだんからあのドブネズミにはエサをやっていたのかもしれないね。

 食事がすんで、ヘプジパに礼を言って、僕は町へ出かけた。まず日本大使館へ行って、叔父が殺されたことを伝えた。詳しいことは警察から連絡が入るのかもしれないけれど、とりあえず知らせておいた。後で何か文句を言われたら嫌だから。

 日本へ電報を打つのは、大使館員がかわりにやってくれた。ちょっと意外だったのだけど、大使館員は僕には本当に親切というか、気味が悪いくらい良くしてくれた。たかだか一般人が殺されたくらいのことで、なんでこんなに良くしてくれるのか僕には理解できなかったのだけど、ありがたいことはありがたかった。ロンドンから日本へ電報を打つなんて、どうやったらいいのか僕には見当もつかなかったから。

 僕が電文を作ったら、すぐに打ってくれた。



『オジ シス。サツジンノモヨウ。キカンシャノジュンビ スンデイル。シジ コウ』



 だけど電報の返事が来るまで二、三日はかかるだろうから、僕はそれまで待たなくてはならなかった。

 大使館を出てから、僕はEBBC社へ行った。EBBC社の連中は、叔父が死んだことはもちろん知らなかったけれど、「電気機関車の引き渡しには問題はない」と言ってくれた。

 あちこち走り回って、たくさんの人と話してくたびれて、夕方、僕は青煉瓦街へ帰ってきた。僕の宿はスクイッド・ホテルなのだけど、デカポッドの話が聞きたかったから。

 僕が青煉瓦街に着いたときにはもう日が暮れていたけれど、デカポッドはすでに帰ってきていた。イスに座って新聞を読んでいた。

「おう、帰ったな。今日はどんな一日だった?」僕の顔を見て、すぐにデカポッドは言った。元気がよくて、機嫌も良さそうだった。

「大使館やEBBC社へ行って忙しかったです」

「EBBC社は何か言ってたか?」デカポッドが、興味を持ったふうに言った。

 僕は首を横に振った。「大したことは何も言っていませんでした。事件のことは知らなかったようです。でも…」

「でも何だ?」

「えらくあっさりしてるんですよ。商売相手が殺されたんだから、もうちょっとあわててもよさそうなもんですが」

「連中は予想していた?」

「そうかもしれませんが、よくわかりませんでした」

 デカポッドはまだ新聞紙を手に持ったまま、しばらく黙っていた。考えごとをしているようだったので、僕はじゃまをしないように静かにしていた。

 不意にデカポッドが言った。「おまえは明日もEBBC社へ行くのか?」

「いいえ、用はないので行かないと思います」

「行けよ」デカポッドは、いかにも気に入らない顔をした。

「えっ?」

「明日、オレをEBBC社へ連れていくんだよ」

「どうして?」

「ごちゃごちゃうるさいガキだなあ」デカポッドは、新聞紙を床に放り出した。「オレは向学心にあふれているから、電気機関車のことが勉強してえんだよ。ああ、勉強したい勉強したい」

 そのあと、デカポッドはろくに口をきいてくれなくなった。仕方がないから僕は、明日EBBC社へ連れていくことを約束して、ホテルに帰った。



 翌朝、スクイッド・ホテルのロビーでデカポッドと待ち合わせた。EBBC社はロンドンの中心部から遠くはなかったので、二人で辻馬車に乗った。

 EBBC社に着いて門衛に名前を告げると、工場長が出てきて迎えてくれた。僕とデカポッドを連れて、工場じゅうを案内してくれた。僕にはもうよく知っている場所だったのだけど、とても広い工場で、レンガ造りの背の高い建物の下で溶接の火花が飛び散って、クレーンが音を立てて動いていた。どこかでハンマーを使っている音が、ドカンドカンとつねに聞こえている。世界中へ輸出する電気機関車を組み立てている。

 なんだかものすごく意外だったのだけど、デカポッドはとても熱心で、電気機関車の馬力とか使用する電気の種類、各部の構造とか重さ、そういったことを詳しく工場長に質問していた。わけがわからなかったけれど、僕は黙っていた。

 そういえば、途中でこんなことがあった。塗装を終えた機関車に仕上げの作業をしている場所のそばを通りかかったときのことだったけれど、突然チャリンとかすかな音が聞こえたんだ。何か軽い金属製のものが床に落ちるような音だ。なんだろうと思って振り返ったら、ハンカチを取り出そうとして、デカポッドがポケットから何かを落としてしまっていた。

 あの金属片だった。金色のような銀色のような不思議な色をしたやつ。僕はかがんで、デカポッドのために拾い上げた。

「すまねえな、ケンジントン」デカポッドはにっこりして受け取った。工場長はその様子を、気のなさそうに眺めていた。

 工場からの帰り道、馬車の中で僕は言った。

「電気機関車はおもしろかったですか?」

「ああ、実に興味深い機械だったな」デカポッドはうれしそうにニヤニヤ笑って、僕を横目で見た。そうすると、いかにもずるがしこいタヌキみたいな顔になる。

「どのあたりがですか?」

 デカポッドはタヌキのような顔をしたまま、おかしそうに僕を見つめ返した。

「特に、あのでかくて棺おけみたいに四角い車体がさ」

 これって文字通りの意味じゃなくて、何かそれ以上の意味を込めて言っているのだろうとは僕にもわかったのだけど、それ以上のことは見当もつかなかった。だって、電気機関車で重要なのはモーターとか制御装置とかであって、車体というのは、要するにただの鉄の箱なんだから。形があって雨もりさえしなきゃいいようなものだから。だから、車体がいちばん興味深かったというデカポッドの話は、僕にはさっぱりわけがわからなかった。

「ホテルまで送ってやるよ」不意にデカポッドが言った。今日はもう終わり、ということらしかった。

「はあ」僕はがっかりした。こんなんじゃ、ぜんぜんおもしろくないじゃないか。

 それが僕の顔に現れていたのだろうけど、デカポッドは少し笑った。そして言った。「おっとそうだ。その前にちょっと寄るところがあるので付き合え。時間はとらせねえ」

「ええ」

 デカポッドは、馬車の窓の外に身体を乗り出して、御者に言った。デカポッドが大きく身体を乗り出すので、車体がわずかに傾く。

「ディオゲネス・クラブへやってくれ」

 御者が黙ってうなずくのが見えた。

「何クラブですって?」聞いたことのない名前だったので、僕は言った。

「ディオゲネス・クラブ。オレのオヤジが所属しているクラブでな。ロンドン中の変人が集まる変人クラブさ。なんせ、クラブ内に一歩でも入ったら、メンバーは互いのことに注意を向けちゃいけないって規則があるぐらいだからな。どんな理由があっても、決まった部屋以外では会話をしてもいけねえときた。これに三回違反したら除名だってんだから、普通じゃねえや。今の時間なら、オヤジはそこにいるはずでな。ちょっと用事を頼んだものだから、その返事が聞きたいのさ」

 だから馬車は、そのなんとかクラブの前まで行ったのだけど、僕は馬車から降ろしてももらえなかった。デカポッドは一人でひょいと馬車を飛び降りて、すぐに戻るからと言って、一人でクラブの建物の中に入っていってしまった。そして三分もしないうちに戻ってきた。デカポッドが乗り込んで、馬車はまた走りはじめた。

 デカポッドは、小さな紙きれのようなものを手に持っていた。半分に折った書き付けのようなものだ。デカポッドはしばらく黙ったままで、その紙きれで自分の鼻の頭を軽くたたきながら、考えごとをしているようだった。

 デカポッドが、その紙切れを不意に僕のほうへ差し出してよこした。雑に、ひょいと突き出したんだ。

「読んでもいいんですか?」

 まだ考えごとをしているらしくて、デカポッドは軽く頭を縦に振った。

 僕は紙きれを受け取って、広げた。やっぱり書き付けで、黒いインクで、見たこともないぐらいきたない字が書いてある。字がへただと僕も子供のころからずっと言われてきたけれど、これに比べたら達筆だと思う。

「きたない字ですね。読めるかな」僕は言った。

「オヤジは悪筆でな」デカポッドが素っ気なく言った。まだ考えごとをしている。

 僕は苦労しながら、その書き付けを読んだ。



 おまえの推理したとおり、一つが盗難にあっておる。日時は先々月の十五日、海軍工廠から煙のように消え失せた。極秘で調査中だが、海軍はいまだ、なんらの手掛かりもつかんでおらぬ。



 僕には、海軍が何の盗難にあったのやら見当もつかなかったのだけど、そのまま書き付けをデカポッドに返した。デカポッドはそれからはまったく口をきかなくて、僕をホテルへ送りとどけた。

 数日後、英国政府から輸出許可が出た。これで、機関車を船積みする準備がすべて整ったわけだった。日本からも、「貴殿を臨時社員に任命するので、機関車を船積みして帰国してもらいたい」という内容の電報が届いていた。

 僕がそれを知らせるために青煉瓦街へ行くと、デカポッドはちょっと深刻そうな顔をした。

「ケンジントン、電気機関車を港へ運ぶスケジュールはわかるか?」とデカポッドは言った。

 ちょっと意外な質問だったので僕はびっくりしたのだけど、すぐに答えた。

「ええ、明日の朝八時半にEBBC社を出て、港には十時につく予定です。十台の電気機関車を全部一つにまとめて連結して、蒸気機関車で引っ張って港まで行くんです」

「線路の上を走っていくわけだな。走行中に警備はあるのか? 警備員が乗っているとか?」

「特にないですよ。あんなにでかいものを盗む人はいませんもん」

「それもそうだよな」

「それがどうかしたんですか?」

 デカポッドは身体の向きを変えて、僕をまっすぐに見た。まじめな顔をしている。デカポッドがこんなにまじめな顔をするところは、僕ははじめて見た。

「協力しろ。オレは電気機関車を調べなくちゃならねえんだ」

「えっ?」

 デカポッドは、いらいらような声を出した。「電気機関車の車内を調べるんだよ」

「どうやって?」

「こそ泥のマネをして、輸送中に乗り込むんだ」

「十台もあるんですよ。全部調べるんですか?」

「いちいちうるせえガキだな。オレの言うとおりにすればいいんだよ」

 結局僕は、協力することを約束させられてしまった。だから翌朝早く、僕はロンドン市内のある通りにいた。港の近くだ。そこでデカポッドと待ち合わせていたのだけど、デカポッドはすぐに現れた。

「よおケンジントン。時間通りじゃねえか」デカポッドが言った。

「どうやって電気機関車に乗り込むつもりなんですか?」僕はそれが、ずっと気になっていた。

「こっちへ来い」デカポッドは乱暴に腕を引っ張って、僕を一ブロックぐらい向こうへ連れていった。そこで通りが線路とぶつかって、踏み切りになっていた。広い通りだけど、まわりには誰もいない。このあたりは倉庫街だからだろうね。朝早くでもあるし。

「あの踏切を見な」デカポッドが指さした。

「ええ」

「あれは港へ通じる線路だ」デカポッドは、なんとなく線路に背中を向けた。

「あの電気機関車もあの踏切を通るんですか?」

「そうさ」

「でも、走っている列車にどうやって乗り込むんですか? 飛び乗るんですか?」僕はデカポッドを見つめ返した。

「あそこに大型の荷馬車が見えるだろう?」今度はデカポッドは、百メートルぐらい向こうを指さした。踏切を渡って、少し先。

「はい」

 たしかにそこには、馬が二頭つながった荷馬車がいて、御者も乗っていた。干草を山のように積んでいる。いまは道の脇に止まっていて、御者は御者台に座ったまま動かない。居眠りでもしているのかもしれない。黒い服を着て、帽子を深くかぶっているから顔は見えない。

「重そうな馬車だろ。あれじゃあノロノロとしか動けそうもないよな」デカポッドがまた言った。

「確かにそうですね」でも僕には、あの荷馬車がこれとどう関係あるのか、さっぱりわからなかった。

 デカポッドは僕を見て、うれしそうに笑った。これからやるいたずらの計画を話す子供のような顔だ。

「あの御者はオレの知り合いでな、例の列車がここへさしかかったら、のろのろと踏み切りに走り出て、列車のじゃまをする手はずになっているんだ。すると列車は急停車する。そのすきにオレとおまえはそこの建物の陰から出て、電気機関車に乗り込むんだ」

 そういいながら、デカポッドは背後の建物を振り返った。赤いレンガでできた倉庫の一つだったけれど、ちょうど身を隠すのに良さそうだった。線路にも近い。

 デカポッドは、ポケットから時計を取り出した。

「そろそろお出ましだぞ。建物のかげに隠れていようぜ」

 僕とデカポッドは隠れた。

「来やがったぜ」少ししてデカポッドが言った。デカポッドは建物のかげから顔だけを出して、そっちを見ている。

 僕の耳にも列車の音が聞こえてきた。ゴトンゴトンというレールの音、シュウシュウいう蒸気の音。ときどき、カランカランと鐘を鳴らす。

 荷馬車の方を見ると、御者は顔を上げて列車の方を見ていて、踏み切りに飛び出すタイミングを計っているようだった。

 列車が見えてきた。最初に見えたのは蒸気機関車で、歩くよりは少し速いぐらいのスピードでやってきた。黒く塗ってあって、すすけている。動輪をゆっくり回していて、太いロッドが昆虫の足みたいに動いている。

 蒸気機関車の後ろには、あの電気機関車が十台つながっていた。ずらりという感じ。四角い箱みたいな形で、みんな同じ色をしていて、ムカデみたいで変な眺めだった。

「荷馬車が動くぜ」

 振り向いたら、荷馬車が踏み切りへ出ていくところだった。ゆっくり線路を横切りはじめた。

 機関士はすぐに気づいて、汽笛を鳴らした。ボッと大きな音がして、車体のてっぺんから白い蒸気が吹き出す。

 でも荷馬車は、速くなる様子はなかった。線路の上をのろのろ横切りつづけた。と思ったら、荷馬車はそのまま線路の上で止まってしまった。

 列車が急ブレーキをかけた。大きな車輪が急停止して、レールの上を滑っていった。重たい列車は、すぐには止まれない。荷馬車は線路の上に止まったまま、じっとしている。鉄がこすれる大きな音を立てながら、列車は荷馬車の五十メートルぐらい手前で停車してしまった。

「今だ」

 デカポッドが建物のかげから飛び出して、さっと走って、一番近くにあった電気機関車の手すりをつかんだ。ハシゴをかけ上がって、デッキに登った。僕も急いでついていった。デカポッドが、腕をつかんで僕を乱暴にデッキの上に引っ張りあげた。僕がデッキの上でデカポッドと並んだとき、列車がふたたび動きはじめた。

「ふう、あぶなかった」僕は言った。デカポッドが僕を見て、あきれたように笑った。

 列車は、ゆっくり加速していった。踏み切りにさしかかって、さっきの荷馬車のすぐ横を通り過ぎた。御者が、デカポッドにちょっと手を振った。デカポッドも軽く振り返した。

「ぼやぼやしてないで、早く鍵を開けな」そういう様子を眺めながら僕がぼんやりしていたら、デカポッドが言った。

 僕はポケットからキーを引っ張りだして、電気機関車のドアを開けた。この機関車は車体の前と後ろにドアがあったから、都合がよかった。

 車内に入ると、すぐに運転室があった。壁は明るい灰色に塗ってあって、運転席や助手席、コントローラーやブレーキ弁がある。デカポッドは僕に続いて車内に入って、ドアを閉めた。

「これは五号機だな」車内の壁に書かれた番号を見て、デカポッドが言った。

 デカポッドはそのまま、運転室から機械室の中へ入っていった。僕もついていった。

 機械室の中の様子は、叔父に連れられてEBBC社で見たときとまったく同じだった。天井には明かり窓がいくつかあって、そこから入ってくる光で見えた。中央にせまい廊下、右側に抵抗器室があって、左側にはむき出しの接触器がある。その奥には空気圧縮器と電動発電機。この電気機関車はまったく正常だった。

「何もおかしなところはないですよ」僕は言った。

 デカポッドは、不満そうに鼻を鳴らした。「次へ行くぜ」

 だけど、それはちょっと問題だった。隣の六号機に飛び移ろうというわけだけど、二つの機関車の間には連結器があるだけで、客車みたいな蛇腹はない。それに列車は、ゆっくりだけど走っている。ゴトンゴトンいいながら、上下左右に揺れている。

 デカポッドがまず飛び移った。あんな大男なのに、身軽にひょいと渡ってしまった。

 次は僕の番だったけど、僕はちょっと怖かった。

「早くしろ、ぐず」デカポッドが振り返って、あきれたような顔をした。

「でも…」

「手をかしな」デカポッドに片手を引いてもらって、僕もなんとか飛び移ることができた。

「ふうう」僕がため息をついたら、デカポッドがまたまたあきれた顔をした。

「ほれ、鍵を開けな」

 僕はまた鍵を開けた。運転室を通り抜けて、機械室の中に入った。

 ところが今度の機械室は、さっきとはぜんぜん違っていた。抵抗器室も接触器も何もなくて、部屋の真ん中に、いっぱいのサイズの機械が座っていた。大きさはアフリカ象の二倍ぐらいはありそうで、いままで一度も見たことのないようなもので、こちら側を向いて中央に太い軸が見えていて、いびつなカボチャみたいな形のボディーの表面を、ヘビの大群みたいに金属のパイプが何十本も走り回っていた。ちゃんとすわりがいいように、太い角材を使ってしっかりした台座まで作ってあって、太いボルトでフレームに固定されていた。

 十秒以上の間、口をぽかんとあけたまま、僕は突っ立っていた。

「ご紹介しよう」デカポッドが、舞台の上の役者のように僕を振り返った。両腕を広げて、ゆったりとお辞儀をした。「これが、イギリス海軍自慢の蒸気タービンだ」

 パチパチパチ。

 僕は一人で拍手をした。デカポッドがうれしそうに笑った。

 これって、もしかしたらとてもおかしな場面だったかもしれないね。明かり窓以外は光のない暗くて狭い機械室の中で、デカポッドは芝居気たっぷり。僕は大感激して、必死になって手をたたいている。そしてこれは電気機関車の車内で、おまけにこの機関車は、この瞬間も港に向けて走りつづけている。

「この機関車だけなんでしょうね。こんなものが積んであるのは」しばらくして、なんとか我に帰って僕は言った。

「盗まれた蒸気タービンは一つだけだからな」デカポッドが答えた。「運転室に戻って、港につくのを座って待とうや。足がくたびれた」

 僕とデカポッドは運転室に戻って、イスに座った。運転室にはイスが二つあった。機関士と助手のイスなんだけど、デカポッドが助手用のに腰かけたので、僕は機関士用のに座った。だから僕の目の前には、機関士が使う大きなコントローラーがあったのだけど、この六号機は電気機関車としては空っぽだから、見せかけだけのコントローラーだね。

 そのまま何分か走って、列車が突然ブレーキをかけた。ゆっくりとスピードを落としはじめた。

 列車が止まった。ここは港の埠頭で、すぐ隣に、黒い色に塗られた貨物船が見えていた。大きな船だから、機関車の窓から見えたのは、垂直の壁みたいな船腹だけだったけれど。これが、電気機関車を日本まで運ぶはずの船だった。デカポッドが立ち上がって、機関車のデッキへ出ていった。でも僕は何となくくたびれていたし、デカポッドの様子は窓ガラス越しによく見えていたので、座ったままでいた。

 デッキに出たデカポッドは、ある方向目がけて、大きく手を振って合図をした。少し離れたところに男が一人立っていて、こっちを見ていた。デカポッドは、その男に合図を送ったのだった。

 その男は列車に近寄ってきて、ハシゴをつたってデッキに上がってきた。デカポッドと一緒に運転室に入ってきた。

「こっちだよ、兄貴」デカポッドの声が聞こえた。

 僕はイスから立ち上がった。兄貴と呼ばれたのは、鼻の下にタワシみたいに濃いヒゲを生やした男だった。青い目をして、冷ややかに車内を見回した。

「これが、日本から来た例のガキだ」デカポッドが僕を指さした。それから僕のほうを向いて言った。「これはオレの兄貴のウィルソン海軍少佐どのさ」

「こいつも連中の一味ではないのか?」ウィルソン少佐は、いかにも気に食わない顔で僕をじろりと見た。

「違うさ。オレの大事な大事な依頼人さ」デカポッドが言った。

「新しい金づるか?」ウィルソン少佐は鼻を鳴らした。「で、例のものはどこにある?」

 デカポッドは、黙って機械室へ通じるドアを開けた。ウィルソン少佐は勝手に、そのドアをドカドカ通り抜けていった。

 バカらしくなって、僕はもう一度イスに座った。デカポッドも僕のそばにいて、いかにも楽しそうに僕に目配せをしてきた。ウィルソン少佐の反応が楽しみなのだろうね。僕もそうだったけど。

 何秒もしないうちに、ウィルソン少佐が機械室から飛び出してきた。興奮して顔を赤くしている。

「信じられん。なんてことだ」

「オレの推理は正しかったろ、兄貴」デカポッドがうれしそうに言った。

 ウィルソン少佐はデカポッドを眺めた。よれよれのシャツを着て、ズボンにはしみがある姿だ。靴なんて、最後に磨いたのがいつなのか、悪魔しか知らないだろう。

 ウィルソン少佐が口を開いた。自分の弟の姿に、一瞬で興奮が冷めてしまった様子だ。「おまえが一味の一人じゃなきゃいいのだがな」

 デカポッドは言い返した。「ちっとは感謝してほしいね。見つからなかったら大事になるところだったんだろ?」

「感謝だと?」ウィルソン少佐は眉を上げた。それからすました顔をして、僕に向けて片手を差し出した。にっこり笑って、僕と握手をした。僕は目を丸くして見つめ返していたと思う。

 ウィルソン少佐は言った。「ご協力に感謝します。何とお礼を申してよいやらわかりません。我々は、もう二か月以上もあのタービンの行方を捜しておったのです」

 デカポッドが、口をぽかんと開けた。「見つけたのはオレだぜ。ケンジントンは座ってただけだ」

「だが、この事件をおまえのところへ持ち込んだのはこの若い紳士だ。我々の感謝は彼にささげられるべきだ」

「けっ」デカポッドが大きく鼻を鳴らすのが聞こえた。

 僕とデカポッドを車内に残して、ウィルソン少佐は機関車を降りていった。そのままどこかへ歩いていってしまった。いつのまにか二十人ぐらいの警察官が機関車を取り囲んでいて、誰も近寄れないようになっていた。ハシゴをつたって、僕もデカポッドと一緒に機関車から降りた。

「お兄さんは何をしに行ったんですか?」僕は言った。

 デカポッドが答えた。「EBBC社の連中をとっ捕まえに行ったのさ」

「工場の全員がグルなんですか?」あんなに大きな工場なのに、と僕は思った。

「全員とは思わないが、これだけの大仕事だから、二十人やそこらはそうだろうな」機嫌よさそうにデカポッドは言って、いつの間にか取り出したのか、パイプに火をつけた。「さてさて、運動して腹が減ったから、食事にでも行くかい?」

 もちろん僕はついていった。レストランに入って、よっぽど空腹だったのだろうけど、デカポッドは、僕がびっくりするぐらいがつがつ食べた。満腹して、食べ終わった皿をテーブルの向こう側へ押しやってから、やっと口を開いた。デカポッドはタバコを詰めて、またパイプに火をつけた。

「あの金属片なんだが、あれは何だと思う?」とデカポッドは言った。

「そうですねえ」僕は困ってしまった。「照明器具の部品じゃないですか? キラキラ光ってたから、光を反射するための何かかな」

「なるほど」おかしそうにデカポッドは笑った。「だとしたらその照明器具は、相当な大金持ちでないと手に入れられないような高価な物になるだろうな」

「どういうことなんですか?」

「比重を計ってみた結果、あれは鉄とか銅とかいったありふれた金属とはまったく違うものであることがわかった」

「なんだったんです?」

「それを調べるにあたっては、冶金学や機械工学を勉強しなくちゃならなかった。たったこれだけのものなのによ」デカポッドは上着のポケットから、さっとあの金属片を取り出して、目の前にかざした。「苦労させられたぜ。これは特殊な金属製の刃だ。強くて軽い特殊な合金のな」

「刃?」

「タービンの刃。タービンブレードというやつでね」デカポッドは得意そうだった。

「蒸気タービンの部品なんですか?」

「タービンの心臓部さ。最も重要な部品だといってもいいな。蒸気タービンというのは最近新しく開発されつつある技術だが、これを使えば、従来の蒸気機関よりもはるかに効率よく動力を作り出すことができるんだ。コンパクトな機械だから、小型軽量ですこぶる高性能の船を作り上げることもできるだろうな」

「ははあ」僕にも、だんだん意味がわかってきた。デカポッドが続けた。

「どこの国でもそうだが、日本国も、よりよい装備を自国の海軍に与えたいと願っている。でも予算は限られていて、建造できる戦艦の数など知れている。その穴を埋めるために、高性能の小型水雷艇を大量に作りたいのだが、それにはどうしても質のよい動力装置が必要になる。

 そこで日本国は、イギリス製の蒸気タービンに目をつけた。それをどうしても手に入れたかった。たった一台だけでいい。もし手に入れることができれば、そっくり同じものを日本国内でコピーして作ることができる。ところがイギリスは、どうしても売ってくれない。詳細は話せないが、かなりの金額や政治的譲歩を申し出たそうだ。それでもイギリスは首を縦に振らない。

 だから非常手段に訴えたのだろうな。日本は蒸気タービンを盗んで密輸することにし、おまえの叔父はその密命を受けていた。オレはオヤジに頼んで、国内でタービンに関する事件が起こっていないか調べてもらったんだ」

「でも」僕は言った。「叔父さんはなぜ殺されたんですか?」

 デカポッドは、ふうっと息を吐き出した。ため息と取れなくはない感じだったけど、あきれた感じにも聞こえた。「これを見な」

 デカポッドはポケットに手を入れて、紙を一枚取り出した。くしゃくしゃになっていて、何かのソースらしいしみもついていたけれど、広げると新聞の切抜きだった。僕に手渡した。

「そこの一行広告だ」デカポッドが指さした。こんなふうに書いてあった。



 珍しい化石を求む。相応の礼の用意あり。スクイッド・ホテル気付、K.A.



「叔父さんが出した広告ですか?」僕は顔を上げた。

 デカポッドはうなずいた。「化石の収集ってのは、金持ち連中のあいだではやっている趣味で、このごろはブローカーなんぞもいるそうだ。でも中には、売り物があるとだましておびき寄せて、強盗に早変わりする輩もいる。おまえの叔父はそれにひっかかったのだろうな」

 数日後、僕は一人でロンドンを離れた。機関車たちと一緒に貨物船に乗った。一台足りない九台だったけれど、こんなに大きな土産を外国から持ってかえった人というのも、あまりいないかもしれないね。


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