ネイム
『ずるいじゃないか、と私は言う。
世の持ち物全てに、誰かの名前がある。
そこに、私の名前は書けない。
もし、私がその人のように、見つけられたとしても
その人が、とっくに自分の名前をつけてしまっていたら、もうその人のものだ。
私は言う。
自分の持ち物に名前を書ける日は、いつやってくるのだろう。
永遠に来ない気がするのは、どうかどうか気のせいであってほしいと願う。
ぼんやりとした不安にだって、いい加減に飽きてきた。
私も、いつかその名前と引き換えに、死に至る小説の主人公になることがあるのだろうか。』
ユイカ
『ユイカの言うとおりね。
図書館に行くと嫉妬して、本屋へ行くと絶望に苛まれる。
私はその中に入ることができない、って。
生まれてくる時代がほんの少し遅かったせいで、春樹や龍を真似た、なんて言われたら、たまらなくなる。
私は二世じゃない。
私は、私なのに。
私の名前は、ここに刻めないまま。
誰も、何も、認めてくれない。
ユイカだけよ。』
アカネ
いつだったか。ある日、こんなメールが私の元に届いた。
「初めまして。私、あなたの小説を読んで、すごく共感しました。よかったら、メールしましょう。アカネ akane@xx.ne.jp」
私は小説家になりたい。けれど、どうせなれない。こんなご時世だから、専業作家では食べていけないし、私は趣味で書いていければ、それでいい。はじめはそんな軽い気持ちでHPを開設した。私の小説は、日ごろの鬱憤を晴らすべく書き連ねたようなもので、こんな惰性で書いたものを人様に見せてしまっていいのだろうか、なんて思ってはいたが。まあどうせ、趣味で書いているのだから、嫌なら読んでもらわなくて結構だ。
私のHPには一応、メールの投稿欄もあって、訪問者が私宛に直接送ることができるが、今までは小説の感想メールなんて届いたことは一度もなかった。せいぜい、小説もしくは作者(私)への中傷が一回か二回ほど、あったくらいで。
だから、彼女からのメールが来たとき、はじめは何かの冗談かと思ったくらいだった。
けれど彼女のメールには、彼女のアドレスが載せてあったので、一応ためしに送ってみることにした。返事は期待していなかった。
「こちらこそはじめまして。ユイカです。驚きました。私の小説を読んでくれて、その上メールまで送ってくれたのは、あなたがはじめてです。私でよろしければ、喜んで。ユイカ yuica@xx.ne.jp」
すると、小一時間くらいで携帯電話のバイブ音が鳴った。
彼女からだった。
「ありがとうございます。私も実は、小説を書いているのです。それでもあなたのように、小説を投稿することができずにいました。あなたのHPを見て、なんだか勇気が湧いてきて、私もこの前、やっと小説を投稿することができたのです。それはあなたのおかげだと思って。本当に、ありがとうございます。嬉しいです。アカネ」
初回のメールでこんなに礼儀正しく返してくれる人は、初めてだった。ときどき小説を書いている掲示板に、自分と気が合いそうな人を対象に友達を募集したことがあったのだけれど、たまにその募集を見てメールをしてくれた人たちは、初対面にも関わらず敬語は使わなかったり、絵文字・顔文字が鬱陶しいほど乱用されたりしていて、私とはとても気が合いそうになかった。だからいつも、そういった類のメールは断っていた。
彼女からメールが来たときはもう、彼女のような人は、二度と現れないのではないか、と思うくらいだった。運命だと感じた。
私は、彼女へ返事をするために、メールを打った。
「仲良くしてくださいね。ただメールのやり取りをするのは、話題が尽きてしまうかもしれないので、よろしければ詩の交換でもしませんか?あなたの世界がどのようなものなのか、すごく興味があります。ユイカ」
「名案です。稚拙な文章でユイカさんには到底及びませんが、よろしくお願いします。アカネ」
そんな風にして、私たちのメール交換は始まった。
* * *
しばらくメールのやり取りをするうちに、私たちの関係がとても親密なものとなっていることに、私は気づいた。前から知っている友達、いや、それ以上の何かで、言葉では言い表せないくらい、奇妙なのだ。
私はいろいろな言葉を、私の小説に吸収させてきたのだけれど、この違和感には、全く覚えがない。どうしてなのだろう。彼女のメールは、私を時に喜ばせ、時に切なくさせる。そんなことを考えている私を、ときどき私自身が軽蔑してくるので、私はなんだか泣きたくなってくる。
『どうしてなの、と私は言う。
ありふれた、あの死に至らしめる小説たちを、あれほどに憎んでいたくせに。
いざ、私の身にふりかかってくると
あの小説たちの主人公と似たような感情が沸き起こってくる。
私は言う。
私は、あの小説の主人公に取り憑かれてしまったのだ、と。
私の心は、世界中に訊いても誰一人、完璧に答えることなどできない。
もはや、あの死に至った主人公ですら、私の胸中は探れないのだから。
私の心は、錘となって、深い海の底に沈んでしまったのだから。
それでもきっと、あなただけには、私の心を掬い上げてほしいのだ。』
ユイカ
『ユイカを掬って上げる。
図書館に行くと嫉妬して、本屋へ行くと絶望に苛まれる。
そんな日々も、ユイカに出会ってから少しだけ和らいだ。
けれどまだ、私は傍観者で、いつまでたっても蚊帳の外。
いっそのこと、第一次世界大戦のころに生まれてくればよかったのに。
一兵士として、勇敢に逝けたなら、どれだけ楽になるだろう。
でも私はまだ、自分の名前をここに刻むことができないの。
もしそれができたなら、私は喜んでこの身を捧げよう。
この世はいつだって、戦場なのだから。
ユイカだけは、いつまでも私の名前を覚えておいてね。』
アカネ
* * *
私は彼女とのメールに、どんどん夢中になっていった。やり取りは、互いの日常生活に支障をきたさない程度に行われた。もちろん、毎回このような詩の交換ばかりではなく、普通の会話もしていた。だから彼女とは、ごく自然に仲良くなっていった。
私と彼女とのメールが一年ほど経ったある日、私はなんだか彼女に会いたくなってしまっていた。
こんな風に言ってしまうと、随分と急に思い立ったかのように見えるかもしれないが、そうではない。実は、ここ二、三ヶ月の間、私はずっと彼女には言えずにいたが、こんなにメールのやり取りをしているのだから、そろそろ本物の彼女に会ってみたくなったのだ。
しかし、インターネットを通じて、私のHPで一方的に知り合い、その上私がもっている情報は、彼女の名前とメールアドレスだけだった。もしも会ってしまえば、きっと夢から覚めたような感覚に陥れられるかもしれない。けれど、私はそれでもよかった。彼女に会えるのなら。
「アカネのメール、届いていたのね。すぐに気づかなくてごめんなさい。昨夜は仕事で疲れて眠ってしまっていたの。昨日のメールもすごく嬉しかった。ところで、急なお話かもしれないのだけど、私、アカネのこと、本当はよく知らないでしょう?だから、一度あなたに会って、直接おしゃべりしてみたいの。ユイカ」
彼女のメールの返事は、どちらかといえば、私が返すより早い。遅くても、その日のうちには返事がきていた。だから、その日も、すぐに返ってくると思っていた。
しかし、その日は結局、彼女のメールは私の元へと届かなかった。
翌朝、私は携帯電話のアラーム音でいつものように目覚めた。彼女からメールが届いていなかったことを思い出し、もしや、という期待を込めながらセンターメールを問い合わせる。すると、一件のメールが受信完了となった。
「ユイカ、あなたが私に会いたい、という気持ちはわかるの。いずれ、そういう日が来るとわかっていたから。けれど、あなたがそう、私に願ってしまったら、あなたとのメールは終わりにするつもりだった。だって、私はあなたに会うことができないのだから。会わないほうが、いいのだと思う。私にとっても、ユイカにとっても。このままお別れにするのは寂しいけれど、どうか、お元気で。ユイカとのメール交換、夢を見ているみたいで、とても楽しかった。ありがとう。アカネ」
私は彼女からのメールを読み終えると、顔面をたらいでぶつけられたような、そんな気分に陥った。私の何がいけなかったのか、私には全く見当がつかなかった。
私は、彼女に失望されたのだろうか。
せめてきちんとした理由を彼女から訊いておかねば、私の気が済まない。だから、このようなメールを、無駄な抵抗かもしれないとは思ったが、彼女に送った。
『またもう一度、と私は言う。
ずっと、探し求めていたあの主人公
ようやく会える、と思っていたのに。
また見えなくなってしまった。
私は言う。
あの主人公と、ずっと同じ夢を見ていられると思っていたのだ、と。
もうそれは叶わない、と告げられて
それからずっと、私は眠ることができない。
またもう一度だけ。
あの死に至らせる小説の主人公のように、夢で再会できたなら。』
ユイカ
彼女からメールは返ってくるのだろうか。私は彼女にメールを送ったが、彼女からは二、三日間待ってもメールは返ってこなかった。私は待った。ひたすら、待ち続けた。
私の気持ちが通じたのか、通じなかったのかはわからないが、私が彼女にメールを送ってから一ヵ月後、待ち焦がれていた彼女からのメールが、私の元へ届いた。私は、少し緊張しながら、そのメールを開く。
『ユイカを眠らせてあげる。
図書館に行くと嫉妬して、本屋へ行くと絶望に苛まれる。
私は相変わらず、自分の名前をそこに刻むことができない。
治や由紀夫は、そんな私を見て、笑っている。
私の名前は、図書館にも、本屋にも、ない。
そして未来にも、ない。
私はアカネという名前だったのに。
ユイカはアカネに会いたいのに、アカネはユイカに会うことはできない。
ユイカは私の名前を覚えている?
ユイカにどうか、覚めない夢を。』
アカネ
このメールが送られてきたすぐ後に、また彼女からのメールが、私の元へ届いた。
「本日午後九時、新宿駅東口の改札付近にて、あなたを待つ。」
『アカネ』という署名はなく、このそっけない文だけでメールは終わった。一方的なメールだったが、私は何の迷いもなく、了解、とだけ、返事を送った。
* * *
私は、会いたかった。ただひたすら、彼女に。とくに彼女からのメールが来ないこの一ヶ月間は、彼女のことばかり、考えていたような気がする。こんなに誰かのことを想うのは、生まれてはじめてのことだった。
そして、午後九時。新宿駅東口まで、私は向かった。
私は興奮を抑えることができず、新宿駅のホームを降りて、東口に辿り着いたとき、それは最高潮に達した。やっと、会えるのだ。夢のようだ。
私は彼女らしき人物を探した。この時間は、家路に急ぐ人々でごった返していて、彼女が一体誰なのか、私には全く見当がつかなかった。そういえば、私は彼女の顔を知らなかった。
かれこれ十分くらい経ち、途方もなくなってきたころ、改札付近で、誰かと、いかにも待ち合わせしています、という雰囲気を醸し出している人物が二人いた。私は、おそらく右側にいる女性だ、と思い、高鳴る鼓動を抑えながら、声をかけようとした。しかし、反応したのは左側の――なんと、オカマの方だった。その上、明らかに私の目を見て、私の名前を呼んだのだ。
私は、絶句した。オカマ扮する自称アカネは、正真正銘のニューハーフだった。どうやら性転換手術は施していない、ということらしい。自称アカネが女のフリをしていた理由は、自らの変身願望がやがて、女性になりたいという憧れに変わっただけのことだった。しかし、私のHPを読んで感銘を受けたことと、あの文章力は、本物だった。
「ユイカがアカネに会えないのは知っていたけれど、アカネじゃない私も、結局ユイカに会うことはできなかったのね」
――今、確かに自称アカネはそう言ったのだ。
なぜ、自称アカネは私を私だと、見破れたのだろうか。どうして?と私は自称アカネに訊いた。
「待ち合わせなんてしているはずのない、隣の女性に声をかけようとしたからよ」
「…どういう意味?」
「彼女、私の仲間なの。彼女もちゃんと自分のHPで小説を載せているのよ。あなたはきっと、私を女だと思い込んでいるに違いないから、私のフリをしてもらおうと思って、近くにいてもらったの。あなたを騙すつもりはなかったのだけれど、あなたも私を騙したのだし、お互いさま、喧嘩両成敗ということにしておきましょう。夢はもうとっくに覚めてしまったのだし、もうこれであなたに会う理由はないわね。お互い、物書きの世界で切磋琢磨しましょう」
――ようやく会えた彼女が、ニューハーフだったとは。まさか、彼女も女のフリをしていたとは思わなかった。これほど切望していた夢は、瞬く間に散っていった。
私の名前は、ユイカではない。
私の名前は、甲斐悠斗。正真正銘の男である。
私は、HPで自称ユイカと名乗り、小説を書いていた。
けれど私が偽ったのは、自称アカネと同じ、名前と性別だけである。
ただし、私に変身願望は、ない。
――私の名前は、ユイカ。
あの死に至る小説の続きを描く、自称小説家である。