雪柳
白い花びらがほろほろと崩れ、舞う。
コンクリートの壁面から雪柳が楚々とした姿を見せている。
近くの一戸建てに雪柳が植えられているから、そこから繁殖したのだろう。楚々とした外見に似合わず、とてもたくましい花なのだ。
花野はポケットから剪定鋏を取り出し、その一枝の先に当てる。
「ごめんね。少し、分けてね」
そう声をかけてから、パチン、と枝を伐り取った。
今日は風が柔らかい。
もうしばらくすると桜も咲くだろう。長い冬が終わるのだ。
花野は桜色のストールを巻き直すと、今しがた伐り取った雪柳を手に歩き始めた。
その、助けを必要とする人のもとへと――――。
彼女は荒んでいた。
長年、貢いだ男には襤褸雑巾のように捨てられ、会社は首になった。
おまけに身体が病魔に蝕まれていた。
病院の受付の椅子に座る彼女の隣に、若い女性が腰掛ける。
ふと、彼女はその女性、いや、少女に目を奪われた。
清風が似合うような、ほっそりした姿。首に巻かれた桜色のストールが、色白の頬によく映えている。
少女は手に雪柳を持っていた。それすら、絵になる。見舞いだろうか。
ここのところずっと、殺伐とした生活を送っていた彼女に、その少女の佇まいは新鮮に映った。
「どこかご病気なのですか?」
突然、そう訊かれても不快に思わない。常であれば何て不躾な、と眉をひそめるところだ。
彼女の心に悪戯心にも似た意地悪な思いが湧き、少女に素っ気なく告げる。
「胃癌よ」
「…………」
何も答えない少女が、恐らく言葉を失くしているのだろうと思い、更に続ける。
「胃潰瘍だって最初の内は誤魔化されてたけどね。もう、誤魔化しようのないステージまで来ちゃったみたい。でも入院は嫌で、相当ごねたんだけど」
「そう…なんですか」
「胃を全摘しても命がどれだけ延びるか解らない……」
「生きたいですか?」
思わず彼女は少女の顔を凝視する。
そこにからかいの色は僅かもなく、真摯な表情で彼女を見つめている。
「……解らないわ。貴方みたいな子供にはまだ解らないでしょうけど、世間の有象無象に揉まれて、あたしはかなりぼろぼろなの。もう、こんな命、どうなったって良いと思えるくらい」
「本当に?」
「え?」
「本当にどうなっても良いと思われますか?それならどうして病院に来てらっしゃるのですか?心残りがあるからではありませんか?」
畳み掛けて尋ねられ、彼女は口を噤む。
それから少しして、答えた。
「心残りね。ないでもないわ。母さんの作ったおはぎが、もう一度食べたい……」
それはするりと出た、自分でも驚くような飾らない本音だった。
「他愛なくて可笑しい?」
「いいえ」
少女が微笑む。
雪柳を、彼女の腹部に撫でるように当てる。
屋内だというのに、彼女は微風を感じた。
柔らかな風を。
「お母様のおはぎ、食べに行かれてください」
少女の声ではっと我に帰る。
胃のどうしようもない苦痛が綺麗に消えていることに驚く。
これは一体、どうしたことだろう。
解らないが、彼女は少女に礼を言わなければと感じた。少女の不思議な行為により、それが為されたのは明らかだったから。
けれど少女の姿はもう、夢幻のように消えていた。
あとには一枝の雪柳が残った。
病院を出たところで、崩れ落ちた花野の身体を、響が受け止めた。花野の顔面は蒼白で、気を失っている。響は眉間に皺を刻み、彼女の身体を抱え上げ、宿まで運んだ。
〝ほら、花野。桜吹雪よ〟
〝綺麗だね、お母さん〟
〝これを集めると、花療法に使えるわ。憶えておきなさい〟
「…………」
花野が目を開けると、目尻が濡れていた。手で拭う。清潔なシーツの感触が心地好い。自分は倒れた筈だ。ベッドに寝かされているということは、誰かが自分を宿まで運んでくれたのだろう。その誰かには、心当たりがあり過ぎた。
視界を巡らせるとやはり灰緑色のジャケットを着た響がいる。椅子に座り、怒ったような心配そうな顔で花野を見ている。花野が起きたと見て取ると、椅子から立ち上がり、歩み寄る。
花野の額に置かれる大きな手。さらり、と髪を撫ぜる。
「自分の力以上のものを使うな。忠告した筈だぞ」
響の低音の声が花野の耳朶を打つ。
胃癌を花療法で治癒させるのに、相当な負荷が花野に掛かった。
承知の上で、花野は花療法を行った。
詳細は知らずとも花野が無茶をしたことだけは解るのだ。
それを、響は詰っている。
「はい…。すみません、響さん。ありがとうございます」
「……まだそのストールを使っているのか」
「……はい」
桜色のストールは、花野の母の形見だった。
花野の母は、花療法の力を使い過ぎる余り、命を縮め、やがて亡くなった。
その経緯を知る響の、ストールを見る目は複雑だった。