表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/10

蒲公英(たんぽぽ)

 雨が銀線のように空から降っている。

 忌まわしい雨が。


 壮年の男は役員会議に間に合うよう、足を急がせた。

 それが半ば引き摺るようになるのは、右脚半月板の影響である。

 何も銃弾で負傷した痕などではない。

 世の中には三十人に一人程の割合で、半月板が円盤型の人間がいる。そして円盤型の半月板は、日常生活を送っていても断裂しやすく、一度断裂すると一生、治ることはない。

 手術により半月板を切除することも可能だが、術後のリスクは高い。


 男の右脚は学生の頃に断裂し、以降、雨の日には特に痛むようになった。

 もう長い付き合いの痛みではあるが、今日のように急ぐ日にはハンデを抱えた我が身が恨めしい。


「お辛そうですね」


 そう、声をかけられたのは公園を突っ切っている時だった。

 首を巡らせればまだ年端もいかない髪の短い少女が、クリーム色のパンツスーツを一人前に着て、桜色のストールを首に巻き、浅葱色の傘を手に男を見ている。小首を傾げるように。

 その手には、蒲公英(たんぽぽ)

 ああ、もうそんな時期だったなと男は思う。

 この雨は春雨…。今は春なのだ。

 長く続いた冬の寒さもまた、男の脚には堪えていた為、春を待ち侘びていたのだ。

 しかし雨はいただけない。

「…膝を痛めていてね。君、学校は良いのかい?」

 男の言葉に少女はふわりと微笑むだけだ。

「その痛み、取り除いて差し上げましょうか」

 は、と男は笑った。

「そんなことは出来ないよ。これは君にどうこう出来るものじゃない」

「出来ますよ」

 さらりと少女が言う。

「出来ます。この花の力を借りれば」

「確かに蒲公英はお茶や漢方薬になると聴いたことがあるが、鎮痛作用があるとは初耳だ」

「花には――――自然界には本来、今の常識では測れない程の治癒の力があるのです。私が行うのは花療法という魔法の一種です」


 男は銀線越しに少女をぼんやり眺めながら、彼女は精神に異常をきたしているのかもしれないと考える。

 魔法だと?

 そんなものがあれば、自分は苦労せず、もっと楽に生きてこられた。

 生き馬の目を抜く業界で、心身を削るようにしてやっと今の地位まで登りつめたのだ。

 魔法という言葉は、男の生き方を侮辱するように思えた。

 剣呑な空気を漂わせている男に臆することなく、少女は彼に近づくと身を屈めた。

 蒲公英を祈るように両手で包んだあと、男の右膝に当てて円を描くように動かす。

 温かな熱を、男は感じた。

 春雨の中、真摯に跪いた少女はどこか厳かな巫女のようで。

 するり、するり、と心に溜まっていた澱が、洗い清められていく。

 まさしくそれは魔法のように。


「終わりました」


 男が我に帰ると、少女が立ち上がって笑っている。

 そんな無垢な笑顔を見るのもいつ以来か。

 膝の痛みは霧消し、果たしてこれは夢ではあるまいかと男が思う内、少女はしずやかにその場を去った。

 役員会議の開始時間が迫っている。

 男は駆け出した。脚が軽い。心も軽い。まるで身体に羽が生えたようだ。

 銀線を見せる春雨が、男にはそれまでよりずっと優しく感じられた。



挿絵(By みてみん)




この作品の原案は水無月秋穂さんによるものです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ