蒲公英(たんぽぽ)
雨が銀線のように空から降っている。
忌まわしい雨が。
壮年の男は役員会議に間に合うよう、足を急がせた。
それが半ば引き摺るようになるのは、右脚半月板の影響である。
何も銃弾で負傷した痕などではない。
世の中には三十人に一人程の割合で、半月板が円盤型の人間がいる。そして円盤型の半月板は、日常生活を送っていても断裂しやすく、一度断裂すると一生、治ることはない。
手術により半月板を切除することも可能だが、術後のリスクは高い。
男の右脚は学生の頃に断裂し、以降、雨の日には特に痛むようになった。
もう長い付き合いの痛みではあるが、今日のように急ぐ日にはハンデを抱えた我が身が恨めしい。
「お辛そうですね」
そう、声をかけられたのは公園を突っ切っている時だった。
首を巡らせればまだ年端もいかない髪の短い少女が、クリーム色のパンツスーツを一人前に着て、桜色のストールを首に巻き、浅葱色の傘を手に男を見ている。小首を傾げるように。
その手には、蒲公英。
ああ、もうそんな時期だったなと男は思う。
この雨は春雨…。今は春なのだ。
長く続いた冬の寒さもまた、男の脚には堪えていた為、春を待ち侘びていたのだ。
しかし雨はいただけない。
「…膝を痛めていてね。君、学校は良いのかい?」
男の言葉に少女はふわりと微笑むだけだ。
「その痛み、取り除いて差し上げましょうか」
は、と男は笑った。
「そんなことは出来ないよ。これは君にどうこう出来るものじゃない」
「出来ますよ」
さらりと少女が言う。
「出来ます。この花の力を借りれば」
「確かに蒲公英はお茶や漢方薬になると聴いたことがあるが、鎮痛作用があるとは初耳だ」
「花には――――自然界には本来、今の常識では測れない程の治癒の力があるのです。私が行うのは花療法という魔法の一種です」
男は銀線越しに少女をぼんやり眺めながら、彼女は精神に異常をきたしているのかもしれないと考える。
魔法だと?
そんなものがあれば、自分は苦労せず、もっと楽に生きてこられた。
生き馬の目を抜く業界で、心身を削るようにしてやっと今の地位まで登りつめたのだ。
魔法という言葉は、男の生き方を侮辱するように思えた。
剣呑な空気を漂わせている男に臆することなく、少女は彼に近づくと身を屈めた。
蒲公英を祈るように両手で包んだあと、男の右膝に当てて円を描くように動かす。
温かな熱を、男は感じた。
春雨の中、真摯に跪いた少女はどこか厳かな巫女のようで。
するり、するり、と心に溜まっていた澱が、洗い清められていく。
まさしくそれは魔法のように。
「終わりました」
男が我に帰ると、少女が立ち上がって笑っている。
そんな無垢な笑顔を見るのもいつ以来か。
膝の痛みは霧消し、果たしてこれは夢ではあるまいかと男が思う内、少女はしずやかにその場を去った。
役員会議の開始時間が迫っている。
男は駆け出した。脚が軽い。心も軽い。まるで身体に羽が生えたようだ。
銀線を見せる春雨が、男にはそれまでよりずっと優しく感じられた。
この作品の原案は水無月秋穂さんによるものです。