一文入魂
さらりんと読める文章を書ける人はすごいと思う──。
とある出版社に応募し、(案の定)落選した作品を大幅に改稿して、ブログに連載中である。
枚数制限のある公募の場合、書き上げた原稿の一部を泣く泣く削ったりするわけで、100%(個人的に)満足な出来栄えとはいかない。それでも当時は、「うん、なかなか~」と勝手に自己満足していた(でも落選)。
あれから早幾年。
ごそごそお蔵から引っ張り出して読み直してみると、まあ、拙い、拙い。
こりゃ突っ込みどころ満載だろうと我ながら愕然とする。
ライトノベル仕様だったこともあり、ラノベ特有の恥ずかしい台詞回しもテンコ盛りで、なかなかに「痛い」。
が、それよりも何よりも気になったのは、文章のぎこちなさである。
物語を書く場合、ストーリー展開のほう(構成等)に気を取られて、肝心の文章のほうがおざなりになることがある。長編であればあるほど、その傾向は強くなる。一文一文、気を遣ってはいるのだが、ともかく全体量が多いので、その後あまり検分することなく、あるいは気づかぬまま、「確定」させてしまうのだ。大事の前の小事というやつかも知れない。
これがまずい。全体を通して読むと、「なにこれ。すっげえ読みづらい」となる。
良い作品は、ページ数が多いくせに読みやすい。それは単にネタが面白いからだけではない。
書きぶりが実に滑らかなのだ。読んでいて引っかかるところがまるでない(もしくは、ほとんどない)。
では、そのような文章を生み出すにはどうすればよいのだろうか。
個人的に気をつけているポイントとしては、「てにをは」のような助詞や接続詞の使い分け、適度な代名詞の使用、そして一文の長さなどだ。とても基本的なところだが、侮るなかれ。巷に出版されている書籍の中には、「げ、なにこれ」的文章が結構見られる(誤字脱字は問題外)。
例えば、「犬は笑った」と「犬が笑った」では、微妙にニュアンスが異なる。大した差はないように思うかも知れないが、前後のつながりを踏まえると、明白な差となって表れることもある。
単語の並びやリズムにも気を遣う。
「アサガオを団扇で扇いだ」と「団扇でアサガオを扇いだ」では、印象が変わる。
長ったらしい文章も要注意だ。
「はさみを使って髪を切った」と「はさみで髪を切った」の場合、どちらがよいのだろう。
漢字を開くかどうかという問題もある。
「その時」とするか、「そのとき」にするか。
描写が過ぎて、ごてごてと形容詞で飾り立てるのもいかがなものか。
「孔雀の羽がついた極彩色の扇子を手に、背もたれのある長椅子に座って、青ざめた顔で笑った」の文章など、どらやきの上に生クリームとバニラアイスと栗の甘露煮とメレンゲをトッピングしたようなものだ。
※ちなみに、私が初めて400字換算で300枚の長編を書いたとき、読んでもらった人から「釘があちこち出てる床みたいだ」(=つっかえて読みにくい)という感想をもらった。ネタの面白さ以前の問題だったという涙のエピソードも今は懐かしい(違)。
このように、たかが一文といえど、考える要素はたくさんあるのだ。
自分の場合、たった一文に何日もかけることがよくある。「これでよし!」と思っても、数日後に「やっぱこれダメ」と書き直すこともある。なので、とても遅筆である。文才のある人なら、さらりと済ませられるのであろうが、そんな「お宝」は持ってないので、試行錯誤で一文一文を作っていくしかない。
文章道は、かくも困難である。
とにもかくにも、「一文入魂」なのである。