Rainy day(1)
――ナターリエには以前にも話したと思うが……お前の母・リーゼがここに嫁いだ理由だ。
「……はい。確かお母様が、その……ゲルリダに狙われていたと。だから保護を兼ねて婚約した……と」
――そうだ。
「でも何故お母様が、ゲルリダに狙われなければならなかったのですか?」
――……かの国は、ミド・ブルージャを欲している。百年前の戦争も、それが原因だとお前にも話しただろう。そして今でも、彼らは紫の瞳を持つ女を捜しているのだという。
「ということは……本当に……?」
――リーゼの瞳が紫色だったのは事実だ……。
「………………」
――…………。
「……お父様は、ボリスのことはご存知だったのですか」
――ああ。リーゼから聞かされている。……かつてボリスはリーゼにとって唯一安心できる人物だった。ボリスもリーゼのことを愛していた……しかし、ゲルリダが初めて接触してきた時にリーゼは不安を覚えたらしい。このままボリスと共にいては彼を不幸にするのではないか、と。
「…………」
――ゲルリダのことは相手が相手なだけにボリスにすら相談できず、リーゼは一人で悩んでいたそうだ。その間もかの国の使者は何度も現れ、その精神的苦痛でボリスにも冷たく当たってしまった。彼にとって自分は魔女にしかなれないと思い込み、『もう会いに来ないで』とまで言ったらしい。その後悔も相まってリーゼは一層己を責めた。
「……ゲルリダは、お母様を連れて行こうとしていたのですね」
――その通りだ。断っても断っても使者が現れ続けた。いつか無理やり連れ去られるのではないかと、毎日怯えていたようでな。そうならなかったのは不幸中の幸いだったのかもしれない。カペルももっと早く保護するべきだった……。そんな時に、私はリーゼと出逢ったのだ。私がデラロサの視察に赴いていた時だ。
「…………」
――あの日のことは今でもよく覚えている。草原の中に佇む彼女の横顔がとても儚げで、今にも消えてしまいそうだったんだ。思わずリーゼに声をかけた時は、自分で自分に驚いたよ。でも恐らく、私は彼女を見て一瞬で惹かれたんだろう。
「……その時は、お母様の瞳は紫だったのですか」
――ああ、ナターリエと同じ、夜明けの空のような、綺麗な色だった。
「どうして色が変わったのでしょうか」
――よくは分からないが、ナターリエを妊娠している時に自然と変わっていったよ。生まれてきたお前が紫の瞳を持っているのを見た時は夫婦揃って驚いたものだ。リーゼは“娘に重いものを背負わせてしまった”と随分嘆いていた。
「そう……ですか」
――……話は少し戻るが、初めてリーゼと出逢った時、彼女は突然泣き出したんだ。私は驚いて困惑するばかりだったが、リーゼは一言だけ告げた。“助けてほしい”と。泣きながらそんなこと言われたら放っておく訳にもいかないと、変な正義感を抱いてな。まああの頃は私も若かった。それでリーゼに詳しく話を聞けば、ゲルリダの名が上がり、国が絡むとなると余計に放置できなかった。
「それで……結婚を」
――ああ……でもこればかりは誤解して欲しくないのだが、無理強いはしなかったのだぞ? リーゼは憔悴しきっていたし、保護の仕方は他にもあったのだが……。
「……だが?」
――ダメ元で求婚したら、頷いてくれたのだ。
「…………のろけ話ですかお父様」
――うーむ、そう受け取ったか。まあいい。……求婚した時に、リーゼがボリスのことも話してくれた。ボリスには上手く説明ができないまま王宮に来てしまった、彼は貴方を恨むかもしれないとな。だが私はリーゼを守るために、彼に恨まれる覚悟を決めたよ。
「……ボリスにちゃんと説明できていたら、何か変わったでしょうか」
――どうだろうな。リーゼの望んだこととはいえ、ボリスからしたら私が権力で奪ったと思われてもおかしくはないからな。“もし”を考えたって過去は変わらないぞ。
「…………」
――だがまさかボリスが、リーゼの娘であるナターリエにまで恨みを……銃口を向けるとは思いもしなかった。正直、そのことに関しては未だに怒りを覚える。
「…………」
――ナターリエ。
「はい」
――これだけは言っておく。ミド・ブルージャと同じ瞳の色をしていようが関係なく、お前は私とリーゼの大切な娘で、マクシーネの姉だ。それは未来永劫変わることのない真実だ。だから“自分は魔女だ”などと考えて卑屈になってくれるな。
「……はい」
――ナターリエには……苦労をかけたな。だがお前がいてくれてよかった。国を守ってくれたこと、礼を言う。ありがとう。
「――――様…………ナタ様」
ナターリエはハッと目を開いた。
父との会話を思い返している内にうとうとしてしまっていたようだ。慌てて顔を上げると、デスクを挟んだ目の前にエマが立っていた。
「お疲れのところ申し訳ありませんが、こちらの書類にサインをお願いします」
そう言って、エマがナターリエのデスクに置いた書類はかなりの厚さがあった。それを見たナターリエはあからさまに顔をしかめ、僅かに唇を尖らせた。
ナターリエがサインを行う場合、筆記の他に印章を押さねばならないのでかなりの手間と時間がかかるのだ。
「さっきの書類もまだ全部に目を通せていないのだけど」
デスクの端に積み重なっている書類の山へナターリエがちらりと視線をやると、エマは無表情に小首を傾げる。
「では、そちらが済んでからで結構ですので、どちらも今日中にお願いしますね」
「今日中!? この量を!?」
「はい。出来ない量ではありません」
反論は許さないとばかりにきっぱりはっきり言い切って、エマはナターリエのデスクの斜め前にある彼女専用のデスクへ戻った。
彼女のデスクの上にも書類は積み重なっている――もしかしたらナターリエに渡された物の倍はあるかもしれない。
唖然としていたナターリエだったが、自分以上に働いているエマを見ていると文句など言えなかった。観念して書類の束を手元に引き寄せ、それに目を通し始める。
アマリアとの休戦協定が結ばれてからもう数ヶ月――半年以上が過ぎた。王宮内は落ち着きを取り戻しつつあるが、やはりまだ慌ただしさの中にあった。
ファーバーら好戦派だった者たちの処分についてはアマリアやマウラなども交え未だ議論が続いている。主犯格の刑罰は重いものになることは必至だろう。
また、デラロサでの紛争を引き起こした反乱軍の幹部主要メンバーの数名が現在逃走中であり、未だに何名か見つかっていない。
国外――北のゲルリダに逃げた者もいるのではと、最近は噂されている。あの国に逃げ込まれたのだとしたら少々厄介だ。ゲルリダと国交がない訳ではないのだが、かの国は閉鎖的で、アマリアほど親密ではない。捜索を急がせた方がいいだろう。
それからデラロサ全域の復興と、アマリアとの国交回復は最重要課題として取り組んでいる。
カペルは戦争による被害はほぼなかったが、内紛の中心地だったデラロサはやはり酷い有り様で、完全に復興するには年単位の時間が必要になるそうだ。町のほとんどを破壊し尽くされているのだ、気長にやるほかない。
それでも復興作業が進んでいない訳ではなく、被害の少なかったデラロサ南部はもうすっかり元通りになっているらしい。時間が取れたらまたデラロサに赴かなければと、以前世話になったフローエ夫妻の宿を思い出しながらナターリエは考えていた。
アマリアとの関係も、農業支援などを通してゆるやかではあるが徐々に改善してきている。でも休戦後しばらく、アマリア国内の世論はカペルに対する非難の声が多かった。国交断絶すべきだという声まで上がったという。
それらの声に「否」を唱えたのがアマリア国王だった。
支援を行うのはカペル国内の経済を回復させて戦争の賠償を払わせるためだ、いわゆる一つの貸しだとか何とか言って宥めたようだ。流石に言葉は選んだだろうが、やはり恐ろしい国だ。ナターリエには返す言葉が見つからなかった。
話は農業からそれるが、アマリアの地質調査団によると、何やらカペルの地下には大きな水脈が存在するらしい。地中のかなり奥深くにあり、その上何層もの固い岩盤によって遮られていて掘り起こすのはかなり難しいようだ。
しかし水の少ないカペルにとって貴重な水源となるやもしれない。枯渇してしまう前に掘り出す方法を考えなければ。カペルが独自に試行錯誤していたら、調査の一貫で手を貸すとアマリアが名乗りを上げてくれた。本当に何から何まで世話になる、アマリアに足を向けて寝られないなとナターリエはしみじみ思うのだった。
自分の代で国力を回復させて、賠償も払い終われるようにしたいと、密かに考えるぐらいだった。
あと、そういえば、マクシーネとアマリア国王の婚約が正式に決まった。
アマリア国王から直接申し出を聞いた時、ナターリエは深く考えずに「いい話が舞い込んできたものだ」などと思いながら即答してしまったのだが、よく考えれば二つの国を巻き込む結婚になるということだ。簡単にいくはずがなかった。
マクシーネがまだ留学中のため公表はしていないが、留学期間が終わったら彼女は一旦カペルに戻り、準備を整えてから再度アマリアに渡る。
この時期に婚約するなど、市井の人々には政略結婚と思われるかもしれない。
実際彼女に縁談の話をした時、とても驚いていた。しかし意外と素直に受け入れてくれたのでこちらも驚いてしまった。
どうやらマクシーネの方も、満更ではなかったようだ。
それに彼女からの手紙によると、アマリア国王から何度となくアプローチを受けたとのことである。あの堅物そうなアマリア国王が、本当に口説きにいくとは思いもしなかった。二人の様子を想像しては、ナターリエはつい口元を緩ませた。
マクシーネが離れていくことは寂しいが、心持ちは不思議と晴れ晴れとしていた。
暗い時世が続いていたカペルに、ようやく明るい話題が入ってきたのだから。