Fortune(5)
「……そうだと、いいです」
「ああ。あなたも一応気を付けろよ」
「はい。ありがとうございます」
ナタとワトは互いに頷き合った。
「ところであんたの妹だけど」
「……マクシーネですか?」
また話が飛んだなと、ナタは内心呆れていた。
しかし彼がマクシーネの名を出すとは、まさか彼女が問題でも起こしたのだろうか。あれだけアマリアでは大人しくしろと口を酸っぱくして言ったのに、まったくあの子は。そう考えながらナタがハラハラしていると、
「俺がもらってもいいか?」
「……へっ? ああ、なんだ。はい。あの子でよろしければ」
どうぞ、とナタはさらりと答えた。
アマリア国王に気に入ってもらえるなんてマクシーネはすごいな、等と呑気に考えていたら、今度はナタの背後でエマが盛大なため息を漏らした。
「ナタ様、ご本人に相談もせずに即決なさってよいのですか?」
「えっ、あれ? そうか、そうだね。でもマクシーネにはいい話だと思うんだけど」
「それはそうでしょうけど、マクシーネ様のご意思も尋ねてから決めて下さい」
「ああ、うん、そうする」
エマを振り仰いでいたナタは再度ワトと向き直った。
「ということなので、そちらの件はマクシーネの気持ち次第ということになります」
「……彼女が断ることはあると思うか?」
「さあ、どうでしょうか。あの子が“わたし”と離れたくないと言うことは有り得るかもしれませんが」
ナタは自身を指差しながら言った。
するとワトは大袈裟に肩を落とし、
「なるほど、最大のライバルはあなたか」
ナタはくすりと微笑んだ。
「マクシーネの留学期間はまだまだあります。その間に口説いて下さい、本気なのでしたら。わたしは反対しません」
そう言ってにっこり笑いかけると、ワトは一瞬たじろいだようだった。そして彼は後ろに立つ従者と顔を見合わせていた。
*
夕暮れの浜辺は綺麗だった。
沈みゆく夕日に照らされた海がキラキラ輝いて、昨日遠くから見た時とはまた違う風景を作り上げていた。
マクシーネと訪れたこの浜辺は、ガッダ公爵の私有地らしい。エラルドというガッダ公爵の長子が教えてくれたのだと、マクシーネが言っていた。
ナタたちの他に人はなく――護衛のエマとテオバルトはもちろんいるが――、町からも少し離れているのでとても静かな場所だった。
ナタは裸足で波打ち際に立ち、引いて寄せる波音をずっと聞いていた。足下の砂を波がさらっていく感覚が少しばかりくすぐったい。
ナタは夕日を見つめ、ゆるゆると吐息を漏らした。
マウラはなんてのどかで、穏やかなのだろう。こんなに静かで落ち着いた時間を過ごすのもかなり久しぶりだ。
「お姉さまー! 見て見て、綺麗な貝殻!」
駆け寄ってきたマクシーネが、手の平に載せた貝殻を差し出す。真っ白で小さな巻き貝がころんと転がる。
「あっちにたくさん落ちてるんです。あ、さっき浅瀬で小さい魚が跳ねていましたわ。あとあと、岩場にはカニもいるんですって。探しに行きたいけど……もう暗くなりそうですわね」
「……うん」
ナタが小さく頷くと、妹は僅かに眉を下げて顔を覗き込んでくる。
「お姉さま、元気ないですね。お疲れですか?」
「ううん……そんなことないよ」
ナタは否定して、微かに笑んだ。
今日は会談以外の時間はずっと休んでいたし、食事も睡眠も取れるだけ取った。だから疲れはほとんどない。ただ何故か、心が重いだけで。
するとマクシーネは視線を落とし、しばらくして何か決心したように顔を上げた。
「カールのこと、エマ曹長に聞きました」
「え……?」
唐突にカールの名が出て、ナタは驚いた。
「お姉さまの側にカールがいなかったから、おかしいと思ってたんです」
「……うん……カールは……」
わたしを庇ったの。と続けようとしたが何故か喉が詰まってしまった。
ナタの視線は段々下がっていき、ついには俯いた。その間も、波は何度も打ち寄せ、ナタとマクシーネの足下を濡らす。
ふとしたときに思い出してしまう。傾いていくカールの背中と、血にまみれた彼の顔。血に濡れた自分の手。
水面が輝いていたが、ぼんやりしているナタの目には何も映っていなかった。
「お姉さま」
静かに呼ばれナタが顔を上げると、いつの間にかマクシーネは手に何かを持っていた。そして彼女はおもむろにナタの手を取り、持っていた何かを渡した。
ナタは首を傾げてそれを見下ろす。
手の平に載せられたのは、水晶のように透き通った石で造られた小鹿のオーナメントだった。少し首を傾けた様子が可愛らしく、また両目が紫色に染まっていた。
「……これは?」
ナタは小鹿のオーナメントから妹の顔へと視線を投じた。
「アマリアで知り合った《昌術師》の女の子が、お姉さまに渡してほしいとわたしに預けたのです。わたしもアマリアに着いてすぐこれを頂きました」
そう言ってマクシーネは手首にあるカラフルな花々が埋め込まれた腕輪を見せた。夕日の光を浴びてきらりと輝いている。
「そう……」
ナタは無意識に小鹿のオーナメントを撫でながら小さく呟いた。
マクシーネの言う《昌術師》はたぶんチカのことなのだろう。助けてもらった上にこのようなものまでプレセントしてくれ、何だか申し訳なかった。
「アマリアでは小鹿は幸福をもたらすと言われているんですって」
マクシーネが少し早口に告げる。
「アマリアには神様の力で人間になった小鹿の物語があるんです。だから鹿が神格化されてて、幸福の象徴になっているのだとか。だからアマリアのあちこちに鹿をモチーフにしたものがありますし、小鹿のアクセサリーもいっぱいあるんですよ」
「へえ。それで小鹿なんだね」
ナタは微笑ましく思いながらオーナメントを目の高さにかざした。夕日の色を吸い込み、瞳が不思議な光を放つ。
「そうです、だから小鹿で……だから、お姉さまも幸福が訪れますようにって……」
「え?」
驚いて視線を戻すと、マクシーネは僅かに涙ぐんでいるようだった。
「だって、だって、お姉さまばかりつらい目にあって、お姉さまにばかり大変なことが起こって! お姉さまにだって幸せになる権利ぐらいあるのに!」
悲しそうな顔で怒ったように妹が言うものだからナタは思わず面喰ってしまった。
幸せになる権利。そんなの考えたこともなかった。だって自分自身そこまで不幸だとは思っていないのだから。
手で目を擦っているマクシーネを眺めながら、ナタは小首を傾げた。
「わたしは十分幸せだよ」
マクシーネが少し赤くなった目でこちらを見る。
「お父様とお母様の間に生まれて、マクシーネという可愛い妹がいて……カールと出会ってからはディルク大尉やエマたちとも出会えた。……この瞳のせいで人が怖かった時期もあるし辛いことだってあったけど、やっぱりそれはわたしが気にしすぎてるせいだって、ようやくわかったよ」
そう言ってナタは水平線に沈みゆく夕日へ振り向く。
「わたしは……わたしの運命を正しく導くのが使命なんだ、きっと」
「……よくわかりません」
隣で妹が訝しげに呟き、ナタはふふと笑った。
「マクシーネと一緒だよ。わたしは知らないことが多すぎる。だからこれからもっと色んなものを見て、色んな人と話して、たくさん学ばなきゃ」
それだけではない。一度途絶えたはずの輪廻がまたこうして復活した意味を、自分は知る必要がある。
自分は魔女ではないけれど、この瞳の色には何か深い因果があるのだ。まあマクシーネに話したら心配されるどころの話じゃなくなりそうなので、このことは自身の心の中にしまっておこう。
しばらく姉妹は無言で夕焼け色に染まる海を眺め、波の音を聞いていた。
日が沈みきって薄暗くなった中でマクシーネが唐突に切り出した。
「そうだ、お姉さま。マウラでミド・ブルージャが何て呼ばれてるかご存知?」
この問答は二度目だ。一度目はルーカスに尋ねられた。まさか、と思いながらナタは自信なく答える。
「……女神」
するとマクシーネはどこかつまらなそうに唇を尖らす。
「なぁんだ、ご存知でしたの。マウラでは女神と呼ばれることの方が多いんですって。書物にもなってて、その本をお借りしましたから後で一緒に読みましょ」
ね? とマクシーネが小首を傾げる。
ミド・ブルージャを女神と呼んでいたのはマウラだったのか。ディルクの妻が読んだ本というのも、マウラのものだったに違いない。
――あれ、でもルーカスは“俺の故郷では”と言ってた気がするけど、彼はアマリア出身ではないのかな……。
ふと疑問に思ったが、まあいいかと、ナタは考えるのを止めた。どうせ彼にはもう会えないはずだから。
「わたしも読んでみたいと思ってたんだ」
「でしょう? きっといいお話よね、こんな素敵な国で伝わったお話だもの」
マクシーネがぴょんと跳ね、ナタはくすりと微笑んだ。
「そうだね。カペルもいつか、こんな風に穏やかになるといいな」
「ええ、そうなると信じてますわ」
姉妹は笑い合って、まだ微かに明るい水平線を共に眺めていた。
第11章「Fortune」 終