Desert rogue Ⅱ(4)
血で汚れた両手で拳銃を持ち、ナタはすっと腕を上げ、銃口をファーバーに向けた。
ファーバーは一瞬驚いたようだったが、すぐ口の端を上げた。
「……どちらが先に撃てるか、勝負しますか?」
ナタは無表情で銃を構えていた。
自分の胸の内が酷く静かだ。どうしてか、ファーバーを撃つことに対する躊躇いはなかった。
国を滅茶苦茶にした。大切な人たちを傷付けた。大切なもの全てを奪ったこの男を許したくなかった。許せなかった。
――ああ、これは怒りなのだな。
ナタは急に悟った。自分がこんなにも怒りを覚えるのは初めてかもしれない。
どうせ死ぬなら相打ちぐらいしてみせよう。ナタは引き金に掛ける人差し指に力を込めた。同時にファーバーの持つ《マテリアル》が鈍く光を放つ――。
パン、と乾いた破裂音がした。
先に血を流したのはファーバーだった。彼は一瞬何が起きたのか分からないような顔で目を見開いたが、血の溢れる手を押さえ苦痛の表情を見せる。
「え……」
ナタはナタで驚いていた。自分が撃ったのかと思ったが、引き金は引いていない。重くて全く動かなかったのだ。それなのに何故ファーバーの《マテリアル》を持つ手から血が?
そう考え、ナタは唐突に思い出した。
以前ヴェネフィカスも似たようなことで突然倒れた。もしかしたら今回も同じで《マテリアル》が破裂したのではないか。
こちらを睨み付けるファーバーを見つめ返しながら、ナタは酷く冷静に考えていた。でもどうやったのか全く分からない。本当に自分がやったのかさえも疑わしいくらいに何もやってないのだから。
内心混乱しながら銃を下ろしかけた時、突然ナタを大きく囲む防護壁が現れた。チカが作ったものと同じドーム型のものだった。次いで衝撃波がファーバーの身体を弾き飛ばした。しかし彼は空中で体勢を立て直して離れた場所に着地した。
「……離れてしまい申し訳ありません、ナタ様」
すぐ側から息を切らしたエマの声が聞こえ、ナタは振り返った。
彼女は膝に手をついて肩で息をしていた。そしてナタの膝の上に横たわるカールを見て顔をしかめた。
すみません。とエマが小さく謝ったような気がした。
それから彼女はファーバーを見据え、僅かに眉をひそめる。ちらりとナタに――ナタの手にある銃に目を向けて、一層険しい表情を浮かべた。
「ナタ様が撃ったのですか」
「……撃ってない」
ナタはふるふると首を横に振った。
「……そうですか……もう大丈夫ですので、銃は下ろしてください」
諭すように言ってから、エマはナタを庇うように背を向ける。
彼女の姿を目で追いながらナタは急に頭がぼんやりとしてきたのを感じた。いや身体の力が抜けたという方が正しいかもしれない。
結局、ファーバーを撃つことは出来なかった。相打ち覚悟で銃を構えたはずなのに。
情けなく思う反面、自分自身が引き金を引くことにならなくてよかったと、心の何処かで思う自分もいた。
銃を下ろして、ナタは僅かに俯いた。
「ファーバーは《マテリアル》を持ってる……適合者だ」
「承知しました」
そう頷いてエマは拳銃を構えて腕を伸ばした。照準はファーバーに向けて。
二人は向き合ったまま、しばらく睨み合っていた。緊迫感が辺りを包むのを、ナタは虚ろな心で眺めていた。
ふと風が吹いて、砂を巻き上げた。同時にファーバーが左に走りだす。エマは銃口で彼を追って発砲した。
パン、パン、と渇いた音の後に離れた位置で砂が跳ね上がる。
ファーバーはこちらの周囲を回るように走っているが、徐々に近付いていた。《マテリアル》を使う素振りはまだ見せない。
その時、不意にエマは銃を撃つ手を止めた。銃弾が切れたのかエマが僅かに手を下げた隙を狙い、ファーバーが《マテリアル》を持つ手を突き出した。
一瞬、ファーバーが勝ち誇ったような表情を浮かべた。《マテリアル》が輝きを放ったが、それは天を裂く光に掻き消された。
轟音と爆風、激しい光にナタは視界を奪われた。何が何だか分からなくなり、思わず頭を庇って悲鳴を上げた。
防護壁のお陰で爆風に巻き込まれずに済んだのだと思い出したのは少し経ってからだった。
音がおさまったため恐る恐る顔を上げれば、エマは相変わらずナタの目の前に立っていた。彼女は無事だったようだ。
「ったく、怪我人をあんな高く放り投げるやつがあるかよ」
「そうしろと言ったのはパットさんでしょう」
「そうだけどよー」
ぶつぶつと文句を呟くパットが少し離れたところで片足を抱えるように座っていた。 そしてその傍らには、仰向けに倒れているファーバーの姿があり、ナタは目を見張った。
さっきの光はパットの《術》によるものだったようだ。それがファーバーに直撃したのだろう。
「……死んだの?」
ナタは知らず知らずに尋ねていた。
少し考え込むような間を空けてからエマが振り向いた。
「いいえ。死んではいません。……彼には相応の報いが必要だと思いますので」
無表情でそう告げるエマが何故か恐ろしく思え、ナタの背筋が僅かに冷えた。
「パットさんはファーバーを拘束してください。《マテリアル》を所持しているのでそれも全部回収してください」
「あいよ。怪我人の扱いが荒いやつだぜ」
ぶつくさ言いながらもパットは素直にファーバーを後ろ手に縛り始めていた。
その様子を確認してからエマがまた向き直った。彼女はナタを覆う防護壁に手で触れる。すると防護壁はさらりと崩れ、砂になり風に吹かれて消えた。
ナタの前に膝をついたエマを見つめ、ナタは口を開いた。
「エマ……カールが……血が止まらない」
「……手当しましょう」
そう言って、彼女はカールの呼吸を確認し、傷の具合を見始める。
この時エマは、もうカールは助からないだろうと頭の片隅で思っていた。おびただしい出血量だし、呼吸も弱々しい。意識もない。この様子じゃ自分の手当てなんか無意味だ、と――。
「私もお手伝いします」
ふと頭上から声が降ってきて、ナタは顔を上げた。
風になびく銀色の髪が見え、そしてシキの顔があった。
「今は止血ぐらいしか出来ませんが……出来ることはやっておきましょう」
微かに苦笑した彼はエマの隣に腰を下ろし、カールの身体に手をかざした。するとカールから赤黒い光が漏れ始め、その光が次々とシキの手のひらに吸い込まれていく。
何を行っているのかは分からない。しかしその光景に何故かひどく安堵感を覚えた。
《術》を目の前で見ているからなのか、それともシキの治療のお陰でカールが助かる希望が湧いてきたからか、ナタの胸の奥で凍っていた感情が溶けて流れ出していくようだった。
ふと横からハンカチを差し出され、ナタはゆっくり視線を向けた。心配しきった顔をしたハンカチの持ち主、チカが腰を折った体勢で佇んでいた。
彼女の白いローブはところどころ血で染まっている。そういえばチカも負傷していた。恐らくシキが立ち上がれるぐらいまで回復させたのだろう。でも血が流れたせいか顔色が悪く見えた。
ナタはもう一度薄紅色のハンカチに視線を落とし、何気なく自身の顔に触ってようやく、頬が濡れていることに気付いた。
いつの間に涙が出たのかと自分でも驚いた。泣くつもりなどなかったのに。
チカがまた「どうぞ」と言うようにハンカチを揺らし、ナタはそれを受け取った。
「……ありがとう」
掠れた声で礼を伝えて、目頭を押さえたのを皮切りに、涙の量が一気に増えた。雨期にまとめて降る雨のように留まることがなかった。
何が悲しいのか分からない。
いや、悲しくて泣いているのかどうかさえ疑問だ。
嗚咽も漏らさず、肩も揺らさず、ナタは静かに泣き続けた。
どれぐらいそこにうずくまっていただろう。少し落ち着いてきたので鼻をすすりながら顔を上げると、シキによるカールの治療は終わっていた。出血は止まったが、意識は戻ってない。呼吸も未だ弱いようだった。
「すみません」
と、唐突にシキが謝った。
「私の《術》はリスクがありまして、立て続けに何度も使うと私が動けなくなるんです……もっと回復させてあげたかったのですが」
申し訳なさそうに目を伏せるシキに、ナタはふるふると左右に首を振った。十分だよと伝えるように。
「血は止まったんだろ? じゃあ助かる可能性は十分あるって」
ナタが泣いている間に近付いていたパットが事も無げに言った。
「傷はいつか治るし、あとはカールさんの生きる気力次第さ」
その横でエマも静かに頷いた。そして彼女は立ち上がり、
「隊長に応援を呼びましょう。このままマウラに行くにしてもケガ人が多すぎます」
「ファーバーもいるしな」
「ええ。ナタ様の護衛の人数も足りません……ほぼ全滅じゃないですか」
憤りなのか後悔なのか、複雑な感情を隠せない様子で、エマは連絡を取るため近くに止まったままの車へと駆けて行った。
彼女を見送ってからパットが急に思いついたように、シキたちに向き直った。
「なあ、あんたら動けるよな?」
「ええ」
「あっちに負傷者が結構いるんだ。車ん中で動けねえやつもいるから、助けてやってくんねえか。できる範囲でいい」
「わかりました」
「悪いな」
チカを連れて歩いていくシキを目で追いながら、ナタはようやく我に返った。
自分だって動けるのだから何かしなければ。
「わたしも手伝ってく――」
「王女さんはそこに座ってろ」
まるでナタがそう申し出ると分かっていたかのように、パットが言葉を遮った。
彼を見てナタは僅かに眉を下げた。
「でも……何かしたい」
「……いいから、座ってろ」
パットは首を左右に振るばかりだった。
ナタは諦めて浮かしかけた腰をまた下ろし、握りしめているハンカチに視線を落とした。
チカから借りたハンカチはとても綺麗な色だったのに、もうひどく汚れてしまっていた。
それから数十分ぐらい過ぎた頃だろうか。
エマを始め、シキやチカが忙しなく動き回っているのを飽きもせず眺めていた時、遠くから車のエンジン音が響いてきた。
「思ったより早かったな」
少し安堵の混じった力の抜けた声音でパットは呟いた。
砂煙を巻き上げて走る何台もの軍用車が遠くに見えている。恐らくあの中にディルクもいるのだろう。
そう考えた途端、ナタの心臓が一瞬不安げに脈打った。何故かディルクの顔を見たくないと思ってしまった。
そんな気持ちとは裏腹に、車はすぐ到着し、何人もの兵士がバタバタと行き交い始めた。負傷者を次々とトラックに運び込み、気絶しているファーバーは護送車に乗せられた。
カールも担架で運ばれていったため、つられるようにナタも立ち上がり、ついて行った。
「おやおや、こりゃまた重傷だね」
トラックの荷台で負傷者の治療にあたっている白衣姿の男が、カールを見るなり妙に明るい声で言った。
小肥りで眼鏡を掛けた中年の彼をナタは覚えていた。王宮を出る前に診察してくれた医者――確かダンと呼ばれていたと思う。
ダンはトラックから下りてカールの傷の具合を確認し始める。
「射創みたいだけど……《術》でやられたんだね。出血が止まってるのはエマがやったのかな」
ぶつぶつ呟くダンの横からナタは説明した。
「いえ……アマリアから援軍に来てくれた《術師》が治療してくれました。冥の能力だと思います」
「ほほう? 《冥術師》ですか。なるほど」
どこか興味深そうに頷いて、ダンはカールの傷に手際よく包帯を巻き、輸血の準備を始める。
ナタは手当ての邪魔にならないよう彼らから少し離れた。それから間髪入れず誰かに肩を掴まれ、ナタは大きく飛び上がった。
驚いてバクバクと跳ねる心臓を押さえながら振り返ると、ディルクがすぐ側から見下ろしていた。逆光で顔がよく見えなかったが、どうやら眉間にシワが寄っている。
「王女、怪我は?」
「えっと……ありません……」
何だか怒られているような感覚がして、ナタは思わずビクビクしながら答えた。
一方ディルクは安心したと言うようなため息をひとつ漏らし、手を離した。そしてナタの手元を見下ろして、また眉を寄せる。
「撃ったのか?」
「え?」
ナタはきょとんとして自分の手を見下ろした。そこには汚れたハンカチと、黒い拳銃があった。そういえばずっと持ったままだった。思わず苦笑して、ディルクを見上げる。
「撃ってないよ……撃つつもりだったけど」
「そうか。俺が預かっておこう。カールのだろ?」
「うん」
差し出されたディルクの手に、拳銃を載せた。ディルクはしばらくそれを確認してから、腰のベルトに差し込んだ。そしてちらりと負傷者たちの方に視線を投げ、それからナタに向き直った。
「こんな状況だが……マウラに向かえるか」
「……はい」
ナタは真剣な顔で頷いた。
無論、最初からそのつもりだった。ファーバーを捕らえたと言っても、戦争が止まったわけではない。戦争を止められるのが自分だけだというのなら、ここで足を止めてはいけない。
本当は、かなり後ろ髪を引かれているのだが――。
ディルクも神妙な面持ちで頷き返した。
「承知した。じゃあもう少し待ってて――」
「隊長さんも労いの言葉ぐらいかけてやればいいのに」
不意にディルクの背後から笑いを含んだ声でパットが言った。彼は片足に包帯を巻かれ、松葉杖をついていた。
「兵士でもないやつが戦場を生き抜いたんだぜ?」
「ふん、労って欲しいのはお前だろ」
「そうとも言う」
ケラケラ笑いながらパットは怪我人とは思えないぐらい身軽にトラックへ乗り込んだ。腰を下ろしてすぐナタへ振り返る。
「俺もカールさんもここでリタイアだ。ああ、あとザシャの野郎もか。マウラまでついて行ってやれなくて、ごめんな」
ナタはかぶりを振った。
「……ううん。こっちこそ……ここまでありがとう」
パットは言葉を返すことはなく、ニッと白い歯をみせるだけだった。
その後、応急処置が一通り済み、負傷者の乗った車はまた砂埃を巻き上げながら遠ざかっていった。
残されたナタは、車が見えなくなるまでそこに佇んでいた。
第10章「Desert rogueⅡ」 終