Fearful witch(4)
「答える必要はないと言っている」
「身を呈して庇ったところを見ると、その女の身分は相当高いんじゃないか? 例えば、王女、だったり」
「フリッツ、黙ってろ」
カールが口を開こうとしたのをディルクは遮った。
相手のペースに呑まれるのは危ない。冷静に、そして隙を見せずに対応しなければ。
ボリスがくくと喉の奥で笑い、蔑む目を向ける。その視線はディルクたちの後ろのナタに注がれているようだった。
「そうか、お前が王女か。俺はずっとお前に会いたかったよ」
ボリスのその言葉に、ナタはびくりと身体を震わせた。
カールたちの背に隠れているはずなのに、ねっとりと舐め回すような視線が向けられているのを全身で感じる。
ナタが何も言えずに硬直していると、ボリスはなおも続けた。
「お前が生まれた時、あんなに絶望したことはない。お前の瞳の色が紫だと聞いて、な。出てこいよ、魔女」
心臓が早鐘のように打ち付け、口から飛び出てしまいそうだった。それなのに全身の血の気が引いて、足下がふらふらと定まらない。
こんなに恐怖を覚えたのは初めてだった。
ボリスが憤っているのは国にでも軍にでもない、国王自身にだ。
そして彼の知人であったという、ミド・ブルージャと呼ばれた女性は、恐らく――。
「大体気付いてんだろ? 俺がさっき話したミド・ブルージャってのは、お前の母親だ」
ナタの思考は完全に停止し、ボリスの言葉を受け入れるだけの装置と化していた。
「あいつはここで幸せに暮らしてた。俺が、幸せにしてやるはずだった! それなのにお前の父親が、国王が全部踏みにじっていきやがったんだ!」
彼の声には怒気ではない、私怨がこめられていた。
「行きたくもない王宮に連れていかれて、好きでもない野郎の子を産んで、あいつはさぞ不幸だったろうな!」
違う。
ナタは口を動かしてみたが、唇が震えるだけで声など出はしなかった。
違う。そんなことない。そんなはずはない。父は母を愛していたし、母も父の側で幸せそうに微笑んでいた。
ナタの記憶の中には仲睦まじく寄り添う両親の姿があるというのに。
――あの笑顔は……偽物だったの?
頭の中は混乱で渦を巻き、ナタは浅い呼吸を繰り返していた。
「ミド・ブルージャ、恐怖の魔女さんよ、お前はデラロサを滅ぼしに来たんだろ」
ボリスの冷ややかな言葉に、ナタはかぶりを振って叫んだ。
「違う!」
「何が違うって!? お前が来てすぐに東部の街が襲撃されてんじゃねぇか! あそこには俺たちの本拠地があることも知ってんだろ! その目で、あの燃える街をよく見てみろ! あれがこの国の答えだ! 反乱軍なんか人間とも思ってないんだろ!」
「違う……違う! わたしはただ、話がしたくて……っ」
「黙れ!」
ボリスの怒鳴り声にナタはひゅっと息を詰まらせた。
「リーゼを奪った国王も、その血を受け継いでる子も、俺は一生恨む。話なんかしないし、王族の権力なんか認めない。つーかよ、俺と話がしたいんなら、隠れてないで出てこい。お前は誰かを盾にしないと話せないのか」
逆らうことを許さないような口調でボリスは言った。彼に理解してもらうためには従う他ない気がした。
ナタはぶるぶる震える手を押さえ、何かに取り憑かれたかのようにゆらりと一歩踏み出そうとした。しかしすぐエマに腕を掴まれ止められてしまう。
ナタが振り返るとエマがゆっくり横に首を振った。そして背を向けたままのディルクが落ち着いた声で諭す。
「ニコラ、お前はそこにいろ、何もしなくていい。ボリス、お前も話はそこら辺にしとけ。それからもう一度勧告する、銃を下ろせ」
「……断ると言ったはずだ」
「俺たちはお前を殺すつもりはない」
「だが連行はするんだろ。どっちみち俺は裁かれて死刑だ。俺は、この国の権力には従わない。それなら、いっそ――」
ボリスが目の色を変えてナタを見据えた。
次の瞬間、一発の発砲音が鳴り響いた。エマが庇うように、小さく悲鳴を上げるナタを抱え込む。
そしてすぐ、どさりと人が崩れ落ちる重い音が耳に届く。
恐る恐る顔を上げると、カールもディルクも目の前に立っていた。その向こうには、頭から血を流して倒れ、ピクリとも動かなくなったボリスの姿が。
ナタはへたりとその場に膝から崩れ落ちた。
反乱軍の重要人物が死んだ。反乱軍の本拠地もあの状況では恐らく壊滅状態なのだろう。半年続いた紛争はここに終結された。それなのに何故、こんなにもやるせないのか。
「……誰が撃ったの」
項垂れたまま尋ねてみたが、側にいるであろう兵士たちは誰も答えてくれない。ナタはもう一度、同じ問いを発した。
「誰が撃ったの」
するとため息と共にディルクが口を開いた。
「エヴァンに狙撃させた。お前らがここで降りた後、もしもの時のためにと、草むらに潜ませてた。撃ったのはエヴァンだが、命令したのは俺だ。文句があるなら俺に言え」
ディルクの面倒そうな口調に無性に腹が立ち、ナタは顔を上げて彼を睨んだ。
「何故……っ殺す必要があったの! 捕らえるだけでもよかったはずでしょう!」
「あれが完全に殺意を見せた、だから撃った。それだけだ」
「でも、殺すなんて……なんでっ」
ナタはきつく目を閉じて俯いた。
こんな結末、望んでいなかった。もっと他にも、殺さずとも、いい方法があったかもしれないのに。
「おい」
低く声を掛けられナタは弾かれたように顔を上げた。いつの間にかディルクはしゃがんでいて、ナタを近くから見下ろしていた。
その感情のない視線に思わず息を呑む。これが戦場を経験する兵士の眼なのかと、真正面から直に冷徹な眼差しを受けて、ぞくりと肌が粟立った。
「俺はお前を守れと命令された。お前は俺に人を殺すなと言う。その二つに挟まれた時、俺がどっちを優先して選ぶか……それが分からないぐらいお前も馬鹿ではないだろ」
返す言葉が見つからず、ナタは唇を噛んで視線を落とした。
「人を傷付けたくない気持ちも分からないでもない。だが、俺はお前を守らなきゃならん。守ってやらなければならない仲間もいる。そのためなら人だって殺す。ここにいるやつらは、皆そのつもりでいる」
「いい加減、覚悟を決めるんだな」と言い残し、ディルクは立ち上がって遠ざかっていった。
取り残されたナタは、呆然としたまま、しばらくそこにうずくまっていた。
ザシャの車がやってきたことも、草むらから狙撃銃を持ってエヴァンが出てきたことも気付かなかった。
日が傾いて空が赤く染まり、風も冷えてきた。
ボリスの遺体は袋に入れ、草原に立っている一軒家の裏の墓碑の近くに埋めた。カールに聞けば、その墓碑はボリスが反乱軍の死者のために建てたものだったらしい。
その墓碑がまさか己の墓標になるとは、ボリスも思いもしなかっただろう。
軍は今必死になってボリスの行方を追っているはずだ。彼の遺体は軍の上層部にでも提出すべきなのだろうが、そんな気分にもなれなかった。ディルクの独断だ。露見した時に処分を受けるのは自分だけでいい。
ディルクは地面に腰を下ろして車体に背を預け、草原の中にぽつんと佇む寂しげな少女の後ろ姿を眺めていた。隣で膝を抱えているエマもぼんやりと遠くを見ている――黒い煙が立ち上る、デラロサ東部の街を。
「王女、これからどうすんすかね」
ディルクの頭上の窓を開いて車の中からザシャが呟いた。ディルクは片膝を立てて頬杖をつき、「さぁな」と素っ気なく返した。
「うーん、反乱軍がいなくなったら、今後は紛争もなくなる。ってことは、王女のやることはもうないってことっすよね」
「だろうな」
「じゃあ王宮に戻るのかなぁ」
寂しそうにザシャが言い、ディルクはふっと笑って肩をすくめた。
「あ、隊長、なんかちょっとバカにしましたね?」
「いや。お前はだいぶ、王女のことを気に入ってんだなと思ってな」
「え? 隊長は好きじゃないんすか?」
「別にそうは言ってないだろ」
ディルクは眉をひそめて宙を仰いだ。
「だってオレ、王族ってのは高飛車で常に偉ぶってるのかと思ってたんすよ。でも王女は想像とは違って、車に初めて乗っただけですごいはしゃぐし、こっちが怪我したらオロオロするぐらい心配してくれるし。なんか可愛いなぁって。妹みたいで全然憎めないんですよね」
「……そうだな」
「おっ、隊長もそう思います?」
からかうような声が降ってきたが、ディルクはそれには答えなかった。
「あの王女は……背負ってるものがでかすぎる」
「へ? どういうことっすか」
「俺らが敵だと思ってる人間……反乱軍だろうが何だろうが、王女にとっては等しく国民なんだ。だから人が一人死んだだけで、ああやって思い悩むのさ」
ディルクとザシャは、草原に立つナタに目を向けた。彼女の傍らにはカールがいて、何かぽつぽつと話しているようだった。
「考えが甘い、ってこと?」
「俺からしたらな。武力同士の衝突で人が死ぬことなんざ当たり前だろ、どっちも死にたくはないんだからな。王女も頭では理解できているみたいだが、感情がついていかないんだろう。俺みたいに割り切れたら、楽になるのにな」
「ふぅん」