雨・涙・涙雨(Ⅲ)
とりま、ここまで読んでいただいた感謝を
ありがとうございます
夜通し降った雨が晴れた翌朝。
流は制服に腕を通すと、いつも通りの朝をすごしたものの、いつもとは違い鞄を持たずに玄関に向かった。
「お兄ちゃん、鞄!」
遅れて妹の一葉が流に声をかけるが、流はそれに答えながら靴ひもを結ぶ。
「いや、今日は多分、登校中にお腹が痛みだすから」キュッ――と、靴ひもの紐を絞める。「だから、鞄はいらないから」
「……は?」
一葉は流の後ろで頭を抱えると「いつものがついにきたか」と心の中でつぶやいた。無論、流は自分の後ろで妹が呆れているとは知らずにドアノブに手をかける。
「流」
ふと、エプロンで手を拭きながら廊下に顔を出した母が彼の名前を呼ぶ。
流は振り返らずにそれに答えた。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
ドアを開けた先には白銀の曇り空が広がっていた。
涙雨(sun shower)
由佳は自分が何年も住んでいた病室を出口から眺めて、やはり、荷物がなくなってしまえば誰の部屋かわからないなと少し、寂しく思った。
病室自体は何度か移ったが、ここで働く母と父、それと、ほかの先生方の好意により何度もこの部屋に戻ってきたほど、この部屋が好きなのだ。
ありきたりだがここには思い出がたくさん積もっている。
楽しい思い出も、悲しい思い出も。勿論、流君のものだけではなく、この病院で出会えた様々な人々との。
由佳は部屋を一通り見回すと、視線を窓の外に向けた。
「……今日は曇りか」
ふと、由佳は心の中で「このまま、晴れないといいな」と呟いた。
由佳は晴れの日が嫌いだった。
というのも、それは流のせいで、彼と遊んでいると晴れの日はよく外につれられて遊び、自分は遊びを教わる側であったし。その上、外の遊びで由佳が流にかなうわけもなく、いつも、悔しい思いをしたからである。
だから、晴れの日は彼の日、雨の日は私の日。
そう、勝手に心の中で決めていた。
けれども、かといって、雨の日が好きかと言われるとそうと言い切れない自分が居るのを由佳は自覚していた。
「そろそろ、行かなきゃ」
由佳は思考を打ち切ると、壁に掛かっている時計を見て、思いの外、長居してしまった事に驚いた。
今日は由佳がほかの病院に転院する日。
彼女がこの町から去る日なのである。
晴れ
流は病院までの道のりを何でいこうかと考えたが、結局、バスやタクシーなどを使わずに徒歩で行く事にした。
勿論、それは流の財布の中身にそれだけの資金がなかったわけではなく、なんとなく、流は「いつものように」徒歩で行きたかったからである。
病院はこの町の丘の上にあって、自転車でいくのは少し骨が折れる。
かといって、交通機関に頼れば、小学生の流は病院に週に何回も通えなかったため、徒歩は、当時の彼なりの苦肉の策であった。
しかし、人間慣れとは不思議なもので、気づけば、そこまで徒歩を苦と思わなくなっていた。
「ここら辺も」流は歩きながら周囲を見渡した。「3年前とは変わるもんだな」
最近、ここら辺は住む人が増え始めて開発が進んでいると流は聞いていた。
確かに、木々が極端に少なくなった訳ではないが、昔からあった古い家がマンションになっていたり、改築して新しいものになっていたりしているのが目立っていた。
そんな、見慣れた真新しい町並みを眺めて「変わらないものなんかないか」と自嘲気味に呟く。
ふと、そんな流の脳裏に考えがよぎる。
3年で自分は何が変わったのだろうか。
逆に、今から会いに行く由佳は何か自分が知らない様に変わってしまったのだろうか。
流の歩みが途端に止まる。
自分は由佳に会えるほど成長したのか?
そうして、彼の胸中にもやもやとした雲が、かかりはじめた時。
「流」
流の耳に家族の次に馴染んでいる声が届いた。
腐れ縁
「お前、こんなところで何してるんだ?」腐れ縁の視線は手ぶらな両手に移る。「鞄ももってないし」
「……俊太郎」
腐れ縁は家から出て学校への登校途中、普段の合流地点の手前で足を止めている流をみつけ、無視する理由もなく声をかけた。
しかし、よく見れば、流の様子はどこか沈んでいるように見え、それ以前にバックを持っていないことから何かおかしい事に気づく。
「鞄はどうした?」
「今日は学校へは行かないんだ」
「そうか、サボリだな」
「違う、病欠だ」
「じゃあ、病院にでも行くのか?」
腐れ縁は思った事をただ口にしただけだが、その言葉を聞いた流は苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべた。
なるほど、病院絡みか。
腐れ縁は流の様子を見て心の中で呟く。
彼自身、流から何かを直接聞いたわけでもないし、事の顛末を聞いた訳でもなかったが、長い間、流が病院に通っている事は知っていた。勿論、健康体である流が病院に通うとして、さらに、家族が入院していないことを考慮に入れると、自ずと、目的は明らかになる。
腐れ縁は左腕の時計を確認し「俺も今日は遅刻だな」と心の中で呟いた。
「おい、話せ」
腐れ縁は細かいことを言わずにただ、短くそう告げた。
流は腐れ縁に雨が降り始めたようにポツポツと話し始めた。
雨
由佳の目の前には白衣を纏った父と、看護服を着た母が座り、由佳の検査結果を淡々と教えてくれていた。
血中の成分の濃度がどうとか、最近の症状がどうとか、由佳自身が一番よく理解している自分の病気の話だが、なぜか、今日の診断結果は由佳にとって他人事のように聞こえた。
由佳は注意を両親の声からそらして考えてみて、ふと、その理由に思い当たる。
あぁ、そうか、私、寂しいんだ。
由佳の脳裏に、流が小学校を卒業した時、自分にしてくれた話がよぎる。
『卒業証書を受け取るときとか、先生がクラスに戻った後にしてくれた話とか全然おぼえてないんだ、話聞いてるときもなんか上の空でね。でも、終わって気づいたんだ。あぁ、寂しかったから、きっと、終わりを自覚したくなかったんだろうなって』
由佳は一字一句正確に蘇る流の言葉に「流君の言った通りだ」と嬉しくて笑みをこぼす。
「由佳、聞いてるか?」
「一人でに笑うなんて、気味悪いわよ」
父は不安げに尋ね、母は由佳に苦笑する。
「うん、聞いてたよ、経過は良好、異常なしでしょ?」
「違う、症状は鎮静化、転院に問題なしだ」
「同じじゃん」
父はすねたように口を尖らせると、由佳から視線をはずし検査結果の用紙を乱暴にめくる。母は今度はそんな父の様子に苦笑を漏らす。
由佳はそんな両親の様子を見て、寂しいのは自分だけじゃないことを知る。
そうだ、両親に診断してもらうのも、父の口から結果を聞くのも今日がきっと最後なんだ。
小さな事だが、由佳にとってはとても大きな意味を持つことだった。
由佳は段々と心が悲しみに曇っていくのを感じていたが、雨は降らせまいと決意した。
そのために、両親を直視し、大きく息を吸った。そして、思いを込めて言葉を紡いだ。
「お父さん、お母さん」
唐突に由佳の口調がまじめになったのを感じた由佳の両親は、少し、驚いたように由佳を見た。
由佳はその視線にひるまずに、笑顔を浮かべて言った。
「今まで、ありがとう」
すると、今度は、父が苦笑をもらし、母は感極まったのか涙を流すのを我慢しようとして変な表情を浮かべる。
由佳は心の雲が晴れていくのを感じると、母の変顔を見て思わず声を出して笑った。
晴れ
流は、すべて、というわけではないが、ほとんどを腐れ縁に話し終えた。
短くない話だったが、腐れ縁は学校の始業時間も気にしない様子で流に向き合った。
聞き終えた腐れ縁は、すこしだけ、考え込んだ後、一つ呆れたようにため息をつくと口を開いた。
「少し、確認したいんだけどいいか?」
「あぁ」
「まず」腐れ縁は人差し指を立てて1を表す。「お前は出来ることなら彼女に謝りたいんだろう」
流はさらに追加でやりたいことがあったが、とりあえず、首肯した。
「あぁ」
「それで、思い立ったが吉日、学校をさぼってまで病院に行くと」
「まぁ、僅差でサボリだからそれはいいとしよう」
「だけど、ふと、今の自分が会いに行っていいのか不安になった」
まぁ、どうせ、お前のことだから。
腐れ縁は再びため息をつきながら言った。
「3年あわなかった自分が、彼女に会うのにふさわしいのか疑問に思ったとか、そんなところだろ」
流は素直に腐れ縁の洞察力に舌を巻いた。
「なんだか、段々、心を読まれてるんじゃないかと不安になってきたんだが」
「そんなもんだろ」
「そんなもんなのか」
「まぁ、ともかくだ」
腐れ縁は話が逸れる前にいったん区切り、掲げていた人差し指を流に向けた。
「そもそも、彼女がお前に会いたくないとか、彼女がお前のことなんか忘れてるとは考えなかったんだな」
「あ」
今更だが、当たり前の予測をされて、流は思わず驚きの声を漏らす。
そういわれてみればそうだ、自分は彼女の涙の跡を見て、それ以外の事を考えようとはしなかった。いや、思いつかなかったのだ。
由佳が悲しんでいる、なら、自分が会いに行かねばと、ただ、それだけを思っていた。
腐れ縁は流の反応を満足げに見つめると、流から視線をはずし、空を仰ぐ。
「それなら、もう、悩む必要はないだろうに」
流も腐れ縁の視線を追うように空を見た。
そこには、朝よりも純粋で純白な曇り空が広がっている。
彼女の涙をみたくないと思った。
自分が彼女を傷つけたなら謝りたいと思った。
確かに、これは流の独りよがりな考えだ。ただ、自分が彼女に謝りたいという。そこに、彼女の心情がどうとか、そんなもの一切関係がなかった。
流はふと言葉を漏らす。
「わがままだな」
「わがままだよ」
「悪いか?」
「いいや、悪くないさ」
少なくとも、うじうじしてるよりマシだろ?
腐れ縁はしてやったりの笑みを浮かべた。
「どうだ、迷いは晴れたか?」
流もそれに答えるように笑みをたたえた。
「晴れてないけど、そうだな、あんまり、天気は関係ないな」
「当たり前だろ、感情ひとつで決断するもんじゃない『本当の決断は考え始めた時に、すでに答えがでてるもんだ』」
「いい言葉だ」
「そうか? 俺はキザで臭いとおもうが」
「当たり前だ、なんせ、俺の言葉だからな」
今度こそ二人は声を出して笑った。
流は肩にのし掛かっていた何かが無くなったのを感じると、手をのばして空の雲をつかみとるように大きく伸びをした。
すると、空にのばした手の中に、一粒目の涙が飛び込んでくる。
何かの始まりを告げるように、雨が降り始めた。
雨
中庭のアジサイが雨に降られているのを眺めながら、由佳は一回のロビーのベンチで約束の時間がくるのを待っていた。
とは言っても、約束の時間までは3、4時間あり、時間をつぶすのなら父と母の元に行くのが良いのだが、由佳はここ3年の日課通り、ロビーに居ようと思った。
彼のおかげで出来るようになった会話を忘れないように、流が病院に来なくなった後、由佳は暇になればロビーに行って空いている席に座り、隣の人と話すのを日々のルーティーンに組み込んでいたのだ。
そして、この数年だけでも彼女は沢山の人の物語を聞いてきた。
記憶力が良くておもしろい話をするが、その反面「家族」について悩んでいた少年。
自分がやりたいことを持ってはいたが、その夢に本当の自信を持つことができなかった少女。
気さくで明るかったが、自分の生きる価値に疑問を持つ青年。
その他にも色んな人が由佳の隣に座り、世間話、自慢、悩みなど色んな話をしてきた。
アジサイを持ってきてくれたあの少年も、ここで出会ったのだ。
由佳が見ず知らずの他人であり、再び会うのかもわからないが故に、ここにくる人は何のためらいもなく誰にも言えないことを話してくれる。
由佳はそれに耳を傾けて、諭して、教えて、誉めて、感心して、少しの間だがその人の力になればいいと思っていた。
そうして、由佳は、きっと、自分の中に居る「芥川流」をみていたのだ。
「……流君」
流に会わなければこんなに積極的にもなっていなかっただろうし、今の自分も無かったように思える。
勿論、数えられないほど会わなければ良かったと後悔したし、何度も彼のことを忘れてしまおうと思った。
しかし、その度にアジサイが由佳に楽しい時間を思い出させてくれた。
優しくて、賢かったが故に、彼は由佳よりも早く先に起こるであろう別れに気づき、一人で長い間悩んでいた。
由佳は遅れてそのことに気づいて、彼の足を引っ張りたくないと思った。
本当は、流はアジサイの向こう側に生きる人なのだから。
「神様か……」
由佳はなにも変わらないままの中庭のアジサイをみて、トゲがない花のはずなのに、チクリと針を刺された気がして思わず、胸を押さえる。
神様なんて、いないよ。
「悩み事ですか?」
「えっ?」
不意に、隣の席から声がかけられて、すぐに声のした方向を見る。
確かに、隣の席は空いていたはずなのに、気づけば、そこには一人の女性が座っていた。
その女性は、こういう人の事を美人だと言うのであろうと思うほど美しかった。
顔立ちの整いの良さ、長い艶やかな黒髪、すらっと伸びた背に、膝の上に乗せた両手の白さ。しかし、どれもが主張しすぎているわけではなく、落ち着いた、おしとやかな雰囲気をたたえている。
由佳が思わずその雰囲気に取り込まれていると、女性は優しい笑みを浮かべた。
「すいません、ずっと、私の方を見て思い詰めた表情をしていたものですから」
私の方? 由佳は女性の言葉に少し引っかかりを感じたが、それ以上に一人でもやもやとしていたところを見られていたのを知ると顔を赤くする。
「え、いや、あの」由佳は誤魔化すにも、羞恥に口を滑らせた。「ちょっと、昔の事で考え事を……」
「考え事にしては、辛そうでしたね」
「えぇと、あまり、良い思い出ではないんです」
由佳は口に出してから、思い直した。
「いや、良い思い出ではあるんです、けど、どうしてなんでしょう」
今の気持ちを伝える為の言葉を、由佳は必死に探しては見るが、その言葉が見つからずに口を閉じた。
彼女の目の前にある、だけど届かない。雨雲の向こうの青空のような距離。
由佳は言葉に出来ない自分にもどかしさを感じていたが、隣に座る女性は急かしも、呆れもせずに由佳の言葉を待って、にこにこしていた。
そんな、女性に由佳はふと尋ねた。
「長くて、つまらない話ですけど、聞いてもらえますか?」
すると、女性はうれしそうに何度も頷いた。
「えぇ、勿論」
そうして、由佳は三年間ため込んでいたものを吐き出し始めた。
怪獣
今日は一週間のうち学校が一番早く終わる時間であったため、小学校は給食が終わればすぐに下校となった。
少年は下校途中、怪獣がプリントされたお気に入りの傘をさして、今日は何をして遊ぼうか考えを巡らせていた。
少年は長靴で道ばたの水たまりを勢い良く踏んで、水しぶきを散らす。
家でゲームでもしようか、でも、お母さんがうるさいな、じゃあ、友達の家にでも行こうかな、けど、約束してないから電話しないと駄目だな。
そんな中、ふと、少年は見知った人を見つけて足を止めた。
「あっ」
少年の登下校の道の途中にある文房具屋さんの屋根の下。
そこで、雨足を苦い表情で見つめる神様がいた。
「公園のお兄さん、なにしてんの?」
少年は流と同じく、文房具屋の屋根の下にはいる。
流は声をかけられたのに驚いたようであったが、少年の顔をみると納得したのか笑みを漏らす。
「アジサイの少年じゃないか」
「そうだよ、お兄さんはなにしてるの?」
少年は屋根の下で流の横に並ぶと、もう一度尋ねた。
すると、流は罰が悪そうに雨を眺めながら答えた。
「いや、病院に行く途中だったんだけど、雨が降ってきてね。傘を買おうにもちょうど近くのコンビニは全部売り切れてて」
「じゃあ、雨宿りしてたの?」
「そう、雨宿りしてたんだよ」
少年は流の制服を見て、確かに、雨で濡れている事に気づき、そこまでして、なぜ、病院に行きたいかが気になった。
「なにしに病院にいくの?」
すると、流は少年の問いに照れたように頬を掻いた。
「病院にいる悲しんでるアジサイに謝りに行こうと思ってさ」
「悲しんでるの?」
「あぁ、自分のせいで悲しませちゃったんだ」
そう言った流の横顔は、自分が悲しんでいる訳でもないのに、少年の目には苦しそうに映った。
流の辛そうな様子に、少年は何か自分に出来る事はないかと考えを巡らし、ある事に気づく。
「傘、もう一本あるよ!」
「え?」
流は少年の言葉の意味より、どちらかというと少年の突然の大声にびっくりしたのだが、少年は流の様子も気にもとめないでランドセルを降ろして開けた。
すると、少年のランドセルの中には、不測の雨の為に常備している折りたたみ傘があり、彼は躊躇いもなくそれを取り出すと、流に渡した。
「……いいのかい?」
「うん! ペットボトルのお礼!」
誇らしげに笑う少年を見て、流は遠慮の言葉を飲み込んだ。
その代わりに、今度は流が素直に感謝の言葉を述べる事にした。
「ありがとう、助かった!」
流は傘を受け取ると、勢い良く折り畳み傘を開く。
バッ――と、開かれた傘は少年の目にはどこかうれしそうに見えた。
「お兄ちゃん、がんばってね!」
「おう、まかせろ」
気づけば、お兄さんのじめじめした雰囲気はどこ行ったのか。
太陽のように自信満々に答える彼に、少年はきっと、大丈夫だろうと思った。
そうして、少年が見送る中。
流はにわか雨のように少年のもとを走り去った。
雨
「私は彼が苦しんでいたのが嫌で、それで、終わりにしようと思ったんです」
「そうなんだ」
由佳は流との思い出のすべてを話し終える。
つまらない話をしてしまったかと申し訳なく思い、女性の表情を伺うと、意外なことに女性は絶えず柔和な笑みで由佳の方を見つめているだけだった。
由佳はその視線に見つめられて、先ほどは見つからなかった言葉が自然に胸中に浮かんでくるのを感じた。
しかし、その言葉のあまりにも自己中さに戸惑う。
私にこんな事言う資格があるのか。
由佳は再び沈黙する。
「あなたはそれで良かったの?」
しかし、由佳の何かをためらっている様子を察した女性は由佳に問いかけた。
私のした事は正しかったのか。
くしくも、女性の問いは、由佳がため込んでいた言葉そのものだった。
「……わかりません」
彼のために他に私に何ができたのだろう。突き放すにしても他のやり方が会ったはずだ。
そうやって由佳が思考の海に沈もうとしたとき、しかし、女性がそれを遮った。
「違いますよ、私が言いたいのは」女性はそのとき、初めて視線を由佳から逸らした。「彼のことは今どうでもいいんです、あなたはどうしたかったんですか?」
女性の言葉は由佳の心の奥深くにいる幼い自分に語りかけていた。
女性の問いに由佳の中の小さな由佳が大声をあげそうになる。
彼女はその前に、女性に答えた。
「だけど、それは流君を傷つけることになるから」
「そうね、彼が悲しむのは当然よね」
だけどね。
女性は再び由佳を見つめると言った。
「あなたは、それで幸せなの?」
そんなこと。
由佳は何かを言いかけようとして、しかし、それを言ってしまえば自分の三年が無駄になってしまう事に気づいて口を閉じた。
そんな、由佳をどう思ったのか、女性は何も言わずにただ由佳を見つめた。
二人の間にしばらく沈黙が流れる。
しかし、それを破ったのは何かに気づいた女性の驚きの声だった。
「あっ」
彼女の視線は由佳を通り越してその奥を見ていた。由佳もつられて彼女の視線を追い、その先にある中庭のアジサイを見た。
すると、そこには、日光に照らされ纏った雨粒を輝かせるアジサイの姿があった。
「雨はやみましたね」
晴れ
流が病院に後少しで着こうかという時に、ちょうど雨は止んで、雲の隙間から日光がさし始めた。
流はさしていた傘をしまって、最後の坂を駆けあがった。
坂の下の町並みとは打って変わって、病院の周囲は何も変わった様子がない。
流はなぜかそれに安堵して胸をなで下ろすと、すぐに病院へと駆け込んだ。
平日の昼すぎだからか人は少なかったが、年輩のかたがたが多く、ちょうど、流が一回のロビーに入るとリハビリを終えた何人ものおばあちゃんやおじいちゃんが流の横を通り壁となり、ロビーの様子は見えなかった。
流は由佳と出会った中庭のアジサイがまだあるのか気になったが「それを確認するのは、後からでもいいか」と、ロビーに行くのをあきらめ、近くのナースセンターに向かった。
「あの」
受け付けにいた若い女性の看護士さんに、流は話しかけた。
「どうしましたか?」
看護士さんは制服姿の流を一瞬怪訝そうに見つめたが、すぐに、何かを心配するように流に尋ねた。
流は意を決して看護士に尋ねた。
「村上由佳さんの病室を教えてほしいんですが」
看護士さんは「あぁ、村上さんの」と得心したように流に首肯を返した。
「B棟の203ですよ……あ」しかし、看護士は何かに気づいたように流に言った。「でも、もう、転院しちゃいましたよ」
「……転院?」
流は看護士さんの答えに、認めたくないとでも言うように尋ね返した。
雨
女性はしばらくアジサイを見つめた後、何かに気づいたように入り口を一瞥すると、席から立ち上がった。
「そろそろ、行きますね」
「え?」
由佳は思わず、「もう行くんですか?」と尋ねかけたが、よく、考えれば彼女を止める謂われが自分にない事に気づき、言葉を飲み込む。
しかも、由佳自身もそろそろ車に乗ってここから去らねばならず、引き留めたところでどうしようも無いことに気づいた。
由佳は別れの言葉を言おうとしたが、なんとなく、口からでてきた言葉は感謝の言葉だった。
「ありがとう、ございました」
由佳はすわったまま、女性に頭を下げる。
長々と詰まらない話で引き留めてしまった。それだけならまだしも、彼女は由佳の心の奥にまで語りかけてくれた。
今更何かが変わる事はないが、由佳には素直にそれがありがたかった。
すると、女性は何を思ったのか、由佳の下げている頭に手を添えると慈しむように頭を撫でた。
「私は、あなたが彼の幸せを望んだように、彼もまた、あなたの幸せを望むとおもいますよ」
だから。
女性は手を離す、由佳は暖かな感触が名残惜しくて頭をあげて女性の方を見つめた。
「辛かったんでしょう、がんばったんでしょう、我慢したんでしょう」
ふと、その言葉に、由佳の中の小さな由佳が泣き叫ぶ。
いっぱいがんばった、いっぱいがまんした、いっぱいこうかいした、つらかったつらかったよ。
しかし、由佳は泣くもんかと涙を堪えた。
対して、女性は由佳の意志の強さに苦笑を浮かべると今度は彼女の頬を撫でた。
「だから、今度は自分の好きな方を選んでくださいね」
そして、それが女性の最後の言葉なのか、女性の手は今度こそ由佳から離れていく。
由佳は思わず声をかけた。
「あの! 名前だけでも教えてもらえませんか?」
「私ですか?」
女性は窓の先にあるアジサイを指さした。
「アジサイの妖精ですかね」
「妖精?」
つられて、由佳の視線は見慣れたアジサイに移る。
「花言葉はうつろい、それは人生そのものなのかもしれません」
「あの、ありが――」
由佳は最後に女性に礼を言おうとしたが、気づけば、そこに彼女の姿はなく、ただ、いつものアジサイが咲いている姿があるのみだった。
由佳は青いアジサイを見つめ「ありがとう」と感謝の言葉を述べる。
「由佳!」
同時に、入り口の方から母の自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
彼女は席を立ち上がり、母の元にいこうとした。しかし、アジサイを見てあることに気づいた。
晴れ
流は歩きながら「行く意味があるのか?」とうっすらと自問自答を重ねた。しかし、流は行く意味などなくとも歩みを続ける。
たとえ、そこに、もう、彼女がいなくとも。
流は途端に色あせた世界の真っ青な空を眺める。
看護士さんの話によれば、由佳の転院日はちょうど今日の昼だったらしく、2、3時間ほど流が到着するより前に、もう、ここを去ってしまっていたらしい。
なんてことだ、俺がぐずぐずしていなかったら、もう少し早くに家を出ていれば。沢山の後悔と自分への罵倒が意識の水面に浮かんでいけば消えていく。
それすらも、本当は意味のない行いであった。
しかし、最悪の形で行き場をなくした流の感情はただ、他の事に集中しなければ今にも決壊してしまいそうであった。
そして、流は歩みを止めずに、なんとか、自分の足で彼女の病室だった部屋にたどりついた。
空き部屋のためか、それとも清掃のためか、戸は開きっぱなしになっており、流は部屋をのぞいて息をのんだ。
「この部屋……」
見間違えるはずもない。窓の外の景色が、流に「あの部屋」であると語りかけていた。
勿論、部屋の位置に患者の意志が反映されるかどうか、それどころか、彼女の意図がそうであるとは限らない。
しかし、流にはこの部屋を選んだ由佳の思いが自然と伝わってきたのを感じた。
由佳は待っていたのだと。
途端に流はその場で泣いてしまいそうになる。崩れ落ちて、思いっきり叫んでしまいたい衝動にかられる。
だが、流はそうしなかった。
「あれ?」
ふと、流は部屋に置いてある「アジサイ」に気づいた。
そのアジサイは赤いアジサイでペットボトルに入っている。
流は飛びつくように、窓際に置かれたアジサイに駆け寄った。
そして、脳裏に二日前の公園の出来事がよみがえる。
「これ、あの時の――」
流が思わず声を出してしまったのと同時。
「――うそ」
流の後ろから女の子の声がした。
何で、どうして、嘘でしょ、やめてよ、夢なら醒めてよ。
由佳は少年にもらったアジサイを部屋に置き忘れていたことに気づき、一旦、部屋に戻った。
しかし、そこには思わぬ来客がいた。
これこそ、見間違いようがなかった。
部屋に居て、由佳の目的である少年からもらった赤いアジサイを持っている男の人。
「流君……どうして?」
由佳は開いた戸にもたれ掛かるようにして、なんとか、足のふるえを誤魔化そうとした。
アジサイを持った彼は、驚愕から次第に表情を笑みに変えていく。
「待たせて、ごめん」
自然と由佳の心にストンと流の言葉が落ちた。
由佳は立っているのが辛いのか、出口の戸に寄りかかり
流の言葉に沈黙を保っていた。
流は返事を聞く以前に由佳の様子が心配になり、手をかそうと彼女の方に近づこうとする。
「待って」
しかし、それを制止するように由佳は手を突き出す。流は素直にそれに従った。
「なんで、どうして、流君が謝るの?」
「手紙、読んでなかったんだ、昨日、やっと読めて、由佳が泣いてたの知って謝りたくなったから」
「手紙読んでくれてなかったのはひどい」
「うん」
「でも、なんで、流君が謝るの?」
悪いのは私でしょ?
何かを懇願するように、泣くのを我慢するように由佳は流に言った。
そして、直後、自分の体を支えられなくなったのか由佳は崩れ落ちてしまいそうになる。
「由佳!」
流は彼女の制止などを忘れて彼女に駆け寄り、体を支える。
やはり、由佳の体は細くて、生きているのか不安になるほど軽かった。
「どうして? なんで?」
譫言のように呟く由佳には答えず、とりあえず、マットレスだけになっているベッドに由佳を運び、腰掛けさせる。
流は片手に握っていたアジサイ入りのペットボトルをひとまずベッドに置いた。
「そりゃ、俺が謝るのが当たり前だから」流は由佳の横に腰掛ける。「だって、由佳が泣いていたら、いつも、俺が笑わせてあげたでしょ?」
その言葉に、由佳は虚を突かれたように一瞬呆けるが、すぐに、頬を膨らませてすねて見せた。
「ずるい」
「じゃないと、俺が雨の日に由佳に勝てるわけないじゃん」
「卑怯だよ、どうして、こんな良いタイミングで来るの?」
流は由佳の顔を見つめて、あふれてくる思いを抑えるように饒舌に話した。
「そりゃ、男はみんな頭の良い狼なんだからしかたないって」
流は自信の言葉の適当さに笑みをこぼす。対して由佳も「いつものように」笑いそうになって――その表情を悲しげにゆがめた。
そして、何かに耐えるようにうつむいて、流の胸をこづいた。
「つらかった」
「うん」
「がまんした」
「うん」
「がんばったのに」
「うん」
ふと、流はマットレスの上に小さな水たまりが生まれていくの見つけ、雨を降らす張本人の頭を撫でた。
彼女は必死に涙を拭った。
「絶対、次、あって、も、無視、してやる、つもりだった、のに」
「うん」
「すごい、嬉しいん、だもん」
「ごめん、謝って謝るつもりだったけど」流はふと、自分の頬につたう滴にきづき、彼女と同じように拭った。「俺もうれしいから」
流の語尾の震えに気づいたのか、由佳はゆっくりと顔をあげて流を見つめた。流は目の前が涙でゆがんでいたが、彼女が笑っているのがわかって、笑った。
「ばか、たわけ、あほ、ちこくま」由佳は罵るにしては嬉しそうだった。「でも、好き」
「俺も」流は一度、息を深くすった。「好きだから」
由佳は小突いていた手を開くと、流の背の後ろに回し、流の胸に顔を押しつけた。
流はあぁ、と思わず声を漏らす。
なんて平凡で、すぐ手に入るような日常を自分は求めていたんだろう、なんて大事なものを自分は失っていたのだろうか。
流は自分の胸の中に空いた穴が、彼女の涙で埋まっていくのを感じた。
「流君」ふと、何かを思い出したように由佳が顔をあげた。「アジサイの花言葉って何か知ってる?」
「いや、そういわれてみればなにかわかんない」
「私と流君はようやく、落ち着いたところかも」
「ギブアップ教えてください」
「いやだよー、だ」
由佳は笑う、流も笑う。
お互い止まらない雨に苦労しながら、不格好な笑みを浮かべていた。そして、さらに、お互いの変な顔に笑い泣いた。
そんな二人を祝福するように窓に雨が打ちつけた。
二人は窓の外に視線を移して、雨が降りながらも、空は青く輝いている光景に目を奪われる。
「涙雨だ」
「狐のよめいりだね」
「ねぇ、流君、こんなに空が明るいなら、きっとお天気雨って神様のうれし涙なんだと思わない?」
流は由佳の言い回しが別れの時のものであり、しかし、その意味が逆なことに気づいてほほえむ。
「じゃあ、俺たちのうれし涙はきっとお天気雨なんだろうね」
流は隣にいる由佳の確かな感触を感じながら窓の外を眺めた。
彼女に伝えたいことがいっぱいあった。言葉にできないほど溢れてくるそれらを、上手く整理して流は由佳に話そうとする。
由佳と別れたあと自分がどうしたかとか、中学の頃の出来事とか、腐れ縁と流のこととか、赤いアジサイと公園の出来事のこととか、その少年が傘を貸してくれたこととか。
流はそれらを上手く伝えようとして、隣の由佳に視線を移して口を開こうとした。
しかし、流は確かに隣に由佳がいることを知ると「まぁ、いいか」と口を閉じた。
なにを焦る必要があるんだろう。
伝える時間はたくさんあるじゃないか。
流は再び、隣の由佳と同じように穏やかにお天気雨を眺めた。
そうだな、まずは。
自分がどれだけ君のことが好きなのかを伝えよう。
そうと決めた流は、まず、こう、口火を切ることにした。
「梅雨がはじまったんだ」
空から降ってくる雨が涙が、一つの渦にあつまった。
青い大空から降ってくる雨は移ろいの中で二人を見つめると、この物語の区切りに拍手を送る。
晴れと雨とアジサイが混ざってやっと、本当の梅雨が始まった。
いつかは、明けてしまうものと知りながらも天気はなんども移り変わる。笑って、泣いて、笑って、泣いて。
そして――涙雨はアジサイに恵みを与えるのだ。
Fin
後書き
・まず、はじめに、お久しぶりです、受験が終わるまで活動を休止していました乱藤です。活動再開してるって事は受験が終わったかって? 浪人なう。
・浪人生の間は、投稿することも連載中の方にも何かを投稿するつもりはありませんでした。何故したかって? きっかけは、ジブリ映画と、一人の女の子。ジブリと彼女にまず感謝。ありがとう。
・「あれ、これ新シリーズだ」と思ったそこのあなた。違うんです、これ、実は中3の時に書いた奴なんです。勿論手を加えに加えましたよ。中2病乙。
・シリーズと言っておいてあれですが、浪人終わるまで、「家・牢・宝」「暗・昏・暁」(両方原本はできている)を書き直すつもりなし。わぉ、良い迷惑だぜ。
・いろいろとほかに喋りたいことありますけど、まぁ、とりあえず、今回はここまでで。来年、本当に受験が終わってから会いましょう。では。
ここまで読んでくださったあなたに最大の感謝を。
また会いましょう。
平成26年七夕、深夜の自室にて
追記:活動報告にメイキングあげました