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雨・涙・涙雨(Ⅱ)

べ、別に一週間で(ry

 梅雨といえども毎日雨が降り続ける訳もなく、雷まで鳴った昨日とは打って変わって、今日は雲一つない快晴であった。

 流は、そんな乱暴に塗り付けられた青を教室から眺めている。

 時期が梅雨なら、雨だろうと晴れだろうと無条件に、にこにこしているものだが、流の表情は珍しく曇っていた。

 天気が晴れているのに自分の表情が曇っているとは皮肉にしてもひねりがなさすぎる。

 心の中で呟いた自嘲も間違いなく思い違いなく、昨日に比べてキレがない。

 原因など、思い出すまでもなく、それこそ、この天気のように明快で単純だと思った。

 「あの日」から十年。

 流の思考はゆっくりと記憶の海へと潜っていく。

 そう、ちょうど「あの日」も今日のように快晴だったと。



 涙(tear) 10年前



 小1、小2の頃、母の持病のために流と妹はよく病院に連れていかれた。

 流はまだしも、2歳下の妹は幼稚園であり母なしでじっとしているのは辛かったために、基本的に母と一緒に診察室に入っていた。しかし、流は兄貴面を吹かせて一人で待合い室に座り、子供向けに用意されたマンガや絵本を読んでいた。

 しかし、そう何度も診察の待ち時間に加えて診察時間をつぶせるほど本の種類は豊富ではなく、すぐに流は飽きてしまった。

 そんなある日の事。

 かといって、診察を受ける母に付き添うのもいやで、母の診察には付き添わず、そして、ちょうど、その日の天気が快晴だったのもあり、流は中庭に遊びに行くことにした。

 遊んでいる間に母が帰ってきたりしたらどうしようか? と若干の抵抗があったものの「お母さんが悪い」と理由をつけて外にでる。

 一歩踏み出せば病院の薬臭さは消え、初夏特有のさわやかで気持ちのいい風が吹いてきたので、気づけば流の罪悪感はどこかに流れてしまう。

 無論、流は自分が思いっきり何かを遊べるほど自由な空間ではないことを自覚していたために、彼はなにをするでもなくブラブラと中庭を散策した。

 すると、ちょうど紫色のアジサイが咲いているのを見つけ、紫が好きな流はただそれだけの理由でアジサイに近づいた。

 そして、その時、アジサイが話しかけてきた。

「みんなどうして私を置いていっちゃうんだろう……どうして、私ばっかり……きっと、神様なんていないんだ」

 花の精霊に話しかけられた! と、かなり、戸惑った流は、アジサイの声って女の子の声なんだとか、アジサイも大変なんだなと的外れな考えを浮かべた。

 勿論、すぐに、花と花、葉と葉の間から、向こう側に女の子がいるのを見つけると「なんだ、アジサイじゃないのか」とがっかりする。けれども、その女の子の落ち込んだ様子を見た流は放っておけず、なにも考えずに女の子の言葉を否定した。

「神様っているんだぞ」

 すると、今度は、流の言葉で、少女はアジサイが喋ったと勘違いを起こし、目を見開いてキョロキョロと辺りを見回した。

 少女のそんな様子を見た流は、思わず、声を出して笑った。



「流」

 ふと、腐れ縁の声に意識を現実へと引き戻される。

 気づけば、クラスには流と腐れ縁の姿しかなく、しばし、考えた後、昼休みの次は移動教室だったなと思い出した。

「廊下に出された次はサボりとか、しゃれにならないぞ」

 腐れ縁はどうやら、流の不自然な様子を例の奴と思っているらしく、彼の様子の変化には気づいていない。

 流はむしろそれでいいと、それでも、自分を心配してくれている腐れ縁に感謝した。

「おっと、あぶないあぶない、思わず雨雲に見とれて5限目をさぼるとこだった」

 流はそういいながらバックの中から次の教材の用意を取り出すと席から立ち上がる。

 すると、遅れて腐れ縁から声があがった。

「おまえ、目、大丈夫か?」

 呆れたように、肩を落とした腐れ縁はジト目で流を見る。

 既視感を感じながら流は腐れ縁に尋ね返す。

「何で?」

「なんでって」腐れ縁は視線を流から窓にそらす。「ほら」

 流は腐れ縁の視線につられて同じように窓の外を見る。

 勿論、そこには雲一つない、吸い込まれるような青空が広がっていた。

「よくある見間違いだ」

「あぁ、おまえ限定だけどな」

 バツが悪そうに流は視線を青空からはずす。

 そして、追い打ちをかけるように予鈴のチャイムがなった。



 9年前



 女の子の名前は村上由佳と言った。そして、色々と話すうちに由佳が人生のほとんどをここで暮らしている事、そして、由佳の友達は長くても数ヶ月入院し、色々な形で去っていく期限付きの友達しかいない事を知った。

 勿論、小学生だった流はその事をはっきりと自覚していた訳でもなく、また、そんな境遇を哀れんだわけでもなく。初めの頃は母の待ち時間の暇つぶしに、そして、流にとっては当たり前の事に「すごい!」と新鮮な反応を示す由佳といる時間が段々と楽しくなってきたという理由で、母の持病が完治しても週に二、三回は由佳の元へ遊びに行った。

 母の持病は夏があける頃にはほぼ完治し、健康体である流の病院通いが始まって十ヶ月がすぎた頃、再び梅雨がやってきた。

 そして、ちょうどこの時期に、流は雨の日を好きになり始めた。

 きっかけは、由佳との会話だった。

「私ね、あの青いアジサイが好きなの」

 梅雨まっさかり。流が来た時よりも激しくなってきた雨に、どうやって帰ろうかと悩んでいた時、唐突な由佳の言葉からそれは始まった。

 青いアジサイ? 青いアジサイなんてあったかと首をひねったが、由佳が中庭を見つめている事からすぐに紫のアジサイの事だとわかった。

「え? あれって、紫のアジサイじゃないの?」

「違うよ、青色のアジサイだよ」

「ふーん」

 そっかー、あれは青色のアジサイなのか、と流はすぐに認識を改めた。

 流も彼女に習って窓際に行くと、雨粒越しにアジサイを眺める。

「それで、どうしてすきなの?」

「あのね」由佳はアジサイから流に視線を移した。「私がいる前からずっといて、いつも私を助けてくれたから大好きなの!」

 それにね、アジサイには神様がいるから!

 由佳は流に新しい遊びを教えてもらった時のように嬉しそうに声をあげた。

 流は由佳の喜び様を見て、悲しんでいた彼女を元気づけようとして自分が根拠もなく、言った事だとは今更言えず、ただ、同意するように頷いた。

 すると、その様子を見た由佳は満足げに笑みを浮かべた後、今度は流に聞いた。

「流君はアジサイすき?」

「僕も、アジサイはだいすきだよ」

 流は嫌いな雨を一瞥してアジサイを見る。

「雨の日なんて大嫌いだけど、外のアジサイを見る度にちょっと嫌いに変わるんだ」

「それでも、ちょっと嫌いなんだ」

「だって、雨の日って外であそべないじゃん」

「私は雨の日がすきだよ」

「えー、だって雨だよ? なんで?」

 低学年である流の周りにはまだ雨が好きだなどという大人びた子供はおらず、流は不思議に思って由佳に尋ねる。

 すると、由佳は目をつぶり「ほら」と言った。

「雨の音って音楽みたいじゃない?」由佳は瞼を閉じたまま、吸い寄せられるように窓際に近づいた。「ぽちゃんとかポトンとかピチャンとか」

 瞳を閉じた由佳の横顔が流の瞳に映り、そのあまりにも穏やかな様子に流はしばし見惚れてしまう。

 しかし、すぐに我を取り戻すと、流も由佳と同じく雨の音楽会へと潜り込む。

 始めこそ雨の音はただの雑音でしかなかった。「ザザァ

」という流を憂鬱にさせる音。

 だが、ゆっくりと、雑音が分解されていろんな音を生み出し始める。

 水たまりの水が跳ねる音、窓に雨粒が当たる音、葉っぱに集まった滴が垂れる音、屋根に雨がうちつける音、誰かの傘で水滴が踊る音――。

 一度、分かれた音がまた一つになり、ただの雑音でしかなかった音にメロディーが、リズムが生まれる。

 流は自分がどれだけ目を閉じていたか、今までなにをしていたか、そもそもどうして雨の音を聞いているのか、それらの事を忘れてしまう不思議な感覚に包まれた。

 そんな、存在の浮遊感が心地よく思わず流はつぶやいた。

「すごい」

 口から声を出す、耳に聞こえる、意味が分かる、自分を思い出す。

 流は自分のつぶやきにより、雨の中から抜け出してくる。

「ね、雨は音楽でしょ?」

 気づけば、流より先に目をあけていた彼女は得意げにこちらをのぞき込んだ。

 流はその視線と没頭してしまった自分に恥ずかしさを感じ、照れのあまり由佳から視線を逸らして言った。

「雨……好きになったかも」

「よかった!」

 なぜ、由佳がそこまで喜ぶのか分からなかったが、気づけば、流も一緒に笑っていた。

 そんな二人を見守るように、雨が降っていた。



 6年前



 それから、何度かのアジサイの季節が過ぎた。

 高学年にあがった流の周囲の環境がすこしずつ変化していった中で、由佳との関係だけが、まるで、そこだけ切り取られた世界のように変わらないままでいた。

 勿論、流はその関係を好ましく思っていたし、それどころか、流は少しづつだがその先の関係を望む自分がいるのも自覚し始めていた。

 だが、たかが、小学生の男子が自分から行動を起こせるはずもなく、いつも通りの毎日を過ごしていたある日の事。

 雨が降りそうで降っていない、風の強い曇りの日だった。

 今日は何の話をしようか、どうやって遊ぼうか。期待に胸を膨らませながら病室のドアをあけた流だったが、その期待は一瞬で胸から消え去った。

 流が開けた部屋はもぬけの殻。

 人が住んでいたという形跡がまったくなかった。

 花瓶も、お見舞いのフルーツも、由佳が好きな本も、簡単な遊び道具も、なにもかもが消え去っていた。

 初めは部屋を間違えてしまったのだろうと思った。しかし、窓から見える景色が由佳の部屋である事を流に強く主張してくる。

 では、なぜ、彼女は荷物ごとここからいなくなったのか?

 流の脳裏に最悪の考えがよぎって、すぐに、流は外に飛び出した。

 そして、近くにいた看護士にとびついた。

「あ、あの!」流の呼吸はマラソンを走り終えた後のように乱れていた。「由佳ちゃんが、どこに、行ったのか、知りませんか!?」

 由佳ちゃんはどうしたんですか?

 そう聞かなかったのは、もし、看護士さんの口から告げられる言葉が最悪の場合、自分が堪えられない事を無意識に理解していたのかもしれない。

「え、あぁ、君か」

 看護士のおばさん(といっても、年齢は母とそう変わらない気がしたが)は流がよく来ているのを知っていたのだろう。流の顔を見ると合点がいったのか丁寧に教えてくれた。

「由佳はね、具合が少し悪くなっちゃってね、今は、別の部屋で治療を受けてるんだよ」

 看護士さんは、流を不安にさせまいと言葉を選んでくれていたのか、穏やかな口調で具体的な事を省いて彼に語りかけた。

 流は由佳がまだこの病院にいることを知ると、すぐに、大声で「どこにいるか教えてください!」と叫んでいた。

 大声をしかるのでもなく、ただ、流の様子を見て笑みを浮かべた看護士さんは快く「じゃあ、ついてきて」と流を促した。

 ビュービューと、窓をふるわせていた暴風は収まり、静けさを取り戻した病棟には流と看護士さんの足音が響いていた。気づけば、流の乱れていた呼吸も元の調子を取り戻し始め、周りを見回す余裕すら生まれ始めた。

 まず、流は先ほどまでいた病棟とは別の棟に移ったことに気づいた。それは内装の色の違いからも明らかであったが、流が理解した直接的な要因は雰囲気であった。

 由佳の病室の棟はまだ人が生きているような気配があった。話し声、足音、そしてなにより、笑い声。しかし、この棟は間違いなく場違いなく「寂しかった」。聞こえてくるのは忙しそうな足音、機会音、なにかの計測期の信号音。

 途端に流は不安で押しつぶされそうになる。

 そんな様子を察知していたわけではないだろうが、流の前を歩いていた看護士さんがふいに足を止めて一つのガラス窓の前で止まった。

「ほら」

 流は看護士さんの声につられて中を覗いた。

「あっ」

 少年少女がベッドに寝かされて並ばされている中、奥から二番目のベッドに彼女はいた。

 チューブを口に、両腕にはいくつかの点滴がさされ、見ているだけでも痛々しいにもかかわらず、由佳自身は穏やかな表情を浮かべ眠っていた。

 流はガラスの向こう側で眠っている由佳が、とても、遠くにいるのではないかと、ふと、思った。

 流が由佳の隣に居たのではなく、由佳が流の隣に近づいてきてくれただけでないかと。

 そして、同時に流の胸に苦い感情が溢れ出す。

 「これだけ元気なら、いつか、由佳は病院を出れるのではないか、自分と同じように学校にも通えるのではないか」そんな勘違いをしていた自分が恥ずかしく、憤りを覚える。

「どうして、こんなにひどくなっちゃったんですか?」

 流は看護士さんに視線を移す。

 看護士さんは一度流を一瞥したのち、由佳の方を見つめると小さなため息をついた。

「遊び過ぎね」

 グラッ――と、頭が揺れた。

 流は自身の最大の懸念が現実になってしまったことを悟った。

 大してひどくない、これぐらい大丈夫。自分が遊んでいたいがだけに、由佳の事を考えていなかったのだと。

「けど、彼女も遊んでいたかったのよ」しかし、看護士さんは流を責めようとはしなかった。「それにここ何年かは本当に具合が良くて由佳自身もよく笑えていたの」

 ふと、その時、流は看護士さんの名札に書かれている名前が由佳と同じ名字であることに初めて気づいた。

 流は逃げるように視線を由佳からも、看護士さんからも逸らした。

「だから、また遊んであげてね」

 そういう看護士さんの口調は太陽のように穏やかで優しかったが、流の心の雲は晴れない。

「……はい」

 流がようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。




 学校が終わる頃には朝昼の快晴が嘘だったかのように、雲が立ちこめていた。

 空を眺めて、傘を持ってこなかった事を後悔しながら、これなら、せめて妹でも待っていれば良かったと悪態をつく。

 しかし、すぐに流は誰と帰ってもこの雲が晴れる事がないのを悟ると、それ以上何かを考えるのをやめようと思った。

 勿論、そんなことで晴れるものであるなら、今日一日、流の気分がここまで沈む事もなかったに違いない。

「くそ」

 結局、流は天に唾をはいて、天に唾をはかれた。



 3年前



 流が医者を目指そうと思ったのはそれからのことだった。

 理由は言うまでもなく由佳のことであり、同時に自分のプライドの問題でもあった。

 流はすぐに医者になりたいと両親に言って、両親はそれに反対も賛成もせずただ「やってみろ」と言った。

 周りからは少し遅れていたが塾に入り、名門中高一貫校を目指した。

 勿論、塾に通い始めれば自然と由佳と会う機会は減っていった。

 会う度に「勉強がんばって」と言ってくれる由佳の笑顔を見て、何故か罪悪感にさいなまれる自分が居た。

 結果として受験には成功して、志望通りの中学に通えるようになった。

 無論、中学に入って時間が以前よりも勉強にとられ始め、流は部活にも入りより一層忙しくなり始めた。

 それでも、由佳に会いに行けば彼女は流にほほえみかけてくれた。

 流は順調に夢に向かって進んでいた。

 だが、反対に由佳の様態は少しづつ悪化していった。

 寝込む回数は年が経つにつれて増えていき、流が会いに行ってもベッドから起きあがれない日もあった。

 そして、なにより由佳の病気の悪化が目に見えたのは、薬の副作用で由佳の髪の毛がすべてぬけ落ちてしまった時だった。

 由佳はひどくその事を気にして流に会うのを最初拒んだが、流はそれでも由佳に会いにいった。

 由佳は泣いて喜んでくれた。

 しかし、流は何故か、その涙を直視できなかった。

 そうして、月日はゆっくり流れていき、頻度は格段に減ったが流はこれからもこういう関係が続くと思っていた。


 そして、その根拠のない願いが打ち砕かれたのが、中二の梅雨だった。


 その日はとても激しい雨だったのを覚えている。

 確か、警報こそでていないものの流の町には注意報ぐらいでていたはずである。

 二週間ぶりの通院に、流は軽くない足取りで由佳の部屋に向かっていった。

 外はまだまだ日が昇っている時間であるのにも関わらず暗くて、そればかりか、激しい雨と風が窓にうちつけ嵐の夜のようだと流は思った。

 そうして風景に気を取られているうちに流は、気づけば、由佳の病室に辿りついていた。

 そして、そこで廊下に出て外を眺めている由佳の姿を見つけた。

「由佳」流は外の音にかき消されないよう大きな声で言った。「今日は寝てなくていいんだ?」

 由佳は窓の外の景色を見たまま「うん」と答えると、そのまま押し黙ってしまう。

 流はいつもの様子と違った由佳に軽い戸惑いを覚えたものの、なにも言うことも、する事もなかったので彼女の隣に並ぶだけだった。

 二人で窓の外をを眺めることはあったが、こんなに景色も心も乱れているのは初めてだと思う。

 しばし、由佳は流の事を気にもとめない様子でいると、思わずと言ったように言葉を漏らした。

「雨って言うのは神様の涙なんだよ」

 ふいに流は、由佳がどこか遠くに行ってしまったような錯覚を受けた。すぐに、視線を隣の由佳に移すが、勿論彼女はそこに居たままだった。

「じゃあ、涙は人が降らす雨なんだね」

「そうだね」

 流の答えに由佳はすぐに返答をした。

 ついに、彼女は視線を窓から流に移すと何も言わないまま一通の便せんを流に差し出した。

 流はそれを受け取りながら口を開いた。

「ラブレターってわけじゃなさそうだね」

 いつも通りの軽口のつもりだった。しかし、由佳はその言葉を聞いて表情を悲痛に歪めると、すぐに、流から視線をそらし、背を向けた。

「流君、もう、来なくていいから」

 そして、何かを言った。

「え?」

 流はその言葉の意味が分からずに、奇妙な声を漏らすと「あぁ、きっと外の風の音がうるさくて何か聞き間違えたんだろう」と思った。

 しかし、今度も言葉の意味は変わらなかった。

「もう、私の所に来なくていいから」由佳は流の方を振り返ると笑顔で言った。「今まで、ありがとう、流君」

「……どうして?」

 雨や風が激しく窓をうちつける。ザザァという音を流の耳は拾っていたが、しかし、いつものような音楽ではなく、その音は雑音であった。

 そんな、雑音に混じって彼女は言った。

「私、流君と一緒にいるととてもつらいの、私は長く生きられない、そう分かっていたのに流君と居ると楽しいの、楽しいから」

 由佳は一度そこで言葉を切る。

 その少しの沈黙が、流には恐ろしく長く感じた。

 そして、由佳は言った。

「生きたくなっちゃうの」

 流は「それでもいいじゃないか」とは言えなかった。

 結局、彼には自信がなかったのだ。そんな無責任な事を言って彼女をよけいに傷付けてしまうなら、自分は彼女から離れるべきだと思った。

 これ以上、お互いの距離が縮まる前に。

「だからもう」

 由佳の声は冷たく、流の視界は霞んでいた。

 彼女の言うとおり、この関係から逃げてしまえばいい。早く逃げておかないときっと、もっと、辛くなる。

「おしまい」

 流はやけに外の雑音が耳に入ってくるのを感じた。

 しかし、段々と頭が現実を理解し状況を整理し始めると、やけに落ち着いている自分がいる事に気づいた。

 すると、ソイツは思わず漏らした。

(あぁ、やっとだ)

 それは、何かから許されたような、何かから解放されたような、そのことに安堵する言葉だった。

 流は何かに納得がいったように答えた。

「あぁ、わかった」

 そして、その言葉を言った途端――流はもう、二度と埋まらない、何か大きな穴がぽっかりと空いてしまったような気がした。

 彼女は流の言葉を聞くと病室に去っていき、流は手紙を握りしめたまま踵を返す。

 病院から出れば、出口から見えるアジサイが、風と雨に煽られ茎から折れそうになっているのが見えた。

 流はそれを見て見ぬフリをして通り過ぎた。



 17:31



 高校に入ってから部活を止めた流は、部活に勤しむ妹より早く家についた。

 結局、降りそうだった雨は流が帰宅している最中には降らず、流は小さな幸運を素直に喜んだ。

「ただいま」

 家にいるであろう母に向けて帰宅の挨拶をするが、定型句の返事はなく、ベランダに出て洗濯物でも取り込んでいるのだろうと推測をたてて流は階段をあがった。

 一階にはリビング、洗面所、その他生活に必要な部屋があり、二階には父の書斎、寝室含む家族のプライベートルームが存在する。

 流の部屋も例に漏れず二階に存在し、彼はまず荷物を片づけた後に手洗いうがいその他を済まそうと思っていた。

 しかし、流の足は階段をあがりきろうかというところで止まった。

「おかえりなさい」

「……ただいま」

 というのも、広くはない二階の廊下の途中に母が仁王立ちして立っていたからだ。

 しかも、母が立っている場所はちょうど流の部屋のまえであり、何も言わずとも母が自分に用があることがよく分かった。

 母は、流が「何か用?」と聞くより前に口を開く。

「今日、流の部屋を片づけてたら、見つけちゃったんだけど」

 母は少しバツが悪そうだったが、結局、表情を険しくして続けた。

「手紙、読んでないやつ」

 思わず、流は立っていた階段から滑り落ちそうになった。しまった、出したまま学校に行ってしまったかと、後の祭りの焦燥と後悔に駆られる。

 母は流の様子を見て呆れたようにため息を一つつくと、件の手紙を流の方に差し出してくる。

「読んだ方がいいと思うよ」

「ッ……」流は階段を蹴りあがるとひったくるように手紙を奪い取る。「別に……いいじゃん」

 流は母から視線を逸らすと、何か言われる前に脇を無理矢理通ろうとする。

 しかし、そんな流を見かねたのか、母は流の胸倉を掴むと廊下の壁に叩きつける。

「――ッ」

 流は痛みや衝撃よりも、母の思ってもみない力の強さに言葉を詰まらせた。恐る恐る母の顔を見ると、意外にもその表情は怒りではなく、ただ、無表情だった。

「別にお母さん、流の事が心配じゃないのよ」

 母はすぐに流の胸倉から手をはなすと、掴んでいた手を振って「痛ーい」とはにかんだ。

「ただね、流のその行為は手紙を書いた人への侮辱よ」

 どういう形であれ、あなたは受け取ったのだから。

 母はただそう言い残すと、何事もなかったように「あ、夕食は豚のしょうが焼きだから」と言って階段を降りていく。

 取り残された流はまさしく狐に化かされたような気分で、しばらく、階段の下を見つめた。

 そして、ふと、手に握っている手紙の存在に気づくと白昼夢でも幻覚出もないことに気づきその手紙を裏返す。

『芥川流君へ』

 そこには、由佳の字で自分の名前がかかれていた。

 読んでしまえば本当に終わりだと思っていた。

 なら、読んでしまえば終わるのだろうか。

「読むか」

 ストン――と、すこしだけ、胸に空いていた穴が埋まった気がした。




 3年ぶりに外の空気を吸った手紙は、どこか嬉しそうに流の目に映った。

 書かれている内容がどうであれ、少なくとも流の心はこれ以上ないほど晴れ渡っていた。

 中に入っていた便せんは二枚。

 流は一度深呼吸した後に目を通し始めた。

 そして、読んでいくうちに気づけば、自分の瞳には涙がたまってきた。

 それは、由佳が便せん二枚に綴っていた事が、流への非難、彼女の悲しみなどではなく流への感謝でいっぱいであったからだ。

 由佳は本当に優しい子で穏やかなすばらしい子だったと誇りに思った。

 あの時、すぐ読んでいれば自分は彼女に何かを返せたのではないかと。

 ――そんな風に、彼女の事を良い思い出にして、また、逃げようとしている。

 もう、これは思い出にしてしまおう。雨の日になると思い出す良い思い出に。由佳のおかげで雨が好きになれた、目指すものもできたのだと。

 そう、くだらない理由をつけて読んでいる。

 分かっている。

 分かっているさ。

 流はそう独白を漏らしながら、ついに、手紙の最後の一文にたどり着く。

 終わらせたくない、受け止めたくない、逃げ出したい。

 自分の中の幼い自分がわんわんと泣きわめいた。

 だが、流はそれを押し殺す。

 せめて、これだけからは逃げ出したくないと。

 これが、自分が今、由佳に報いる事ができる最大の行為であり好意であると。

 そして、彼は最後の一文に目を通した。


 そこには「さよな」という四文字の定型句が並んでいたが。


 『ら』の文字は涙の跡で歪んで読めなかった。


 涙。

 涙、涙、涙、涙、涙、涙、涙、涙、涙、涙、涙、涙、涙、涙、涙、涙、涙、涙、涙、涙、涙、涙、涙、涙、涙の跡で。

 誰の涙だ? 誰が泣いたんだ? 何で悲しかったんだ? 誰が逃げたんだ?

 流は手紙を取り落とし、目の前が真っ白になった。

 雷がいくつも落ちる。雨は土砂降りになる。怪獣は泣く。アジサイは折れる。神様は憤る。

「俺の糞!」拳を思いっきり床に叩きつける。「なんで気づけなかった、どうして、目を逸らしたんだ!」

 流は過去から今までの自分を強く、否定した。

 この涙は由佳の涙だ。由佳は自分が辛くて俺と別れた訳じゃない。由佳は流との別れを悲しんでいた。

 彼女は傷つく覚悟が出来ていたのだ。

 しかし、由佳は流がその覚悟が出来ていないのを知った。残されたくないと思っていた流が居ることを察したのだろう。

 そして、優しい由佳は自ら身を引いたのだ。

 お互いはお互いをこれ以上傷つけないように別れた訳じゃない。

 由佳は流を傷つけないように、流は自分がこれ以上傷つかないように別れたのだ。

 ただ、一人、由佳だけがすべての痛みを引き受けたのだと。

 頭を抱えて流は、涙を流した。

 自分には何が出来た? 由佳の為に何をした? いや、何もしていない。何も出来ていない。悲しませたのは誰だ? 自分だ。自分の所為だ。

 由佳は戦ったんだ。流よりもよっぽど弱いと思っていた由佳の方が強かった。それどころか、自分をぼろぼろにして、流に逃げる道をつくった。

「……ぅあ」

 流は溢れだした思いを言葉にならない声に漏らす。声はは空中に溶けていき、残響が響いた。

 しかし、流は残響に混じる音楽があることに気づいた。それは、雨粒の奏でる音楽であった。

 窓に視線を移せば、ゆっくりと、穏やかな雨が降り出していた。

『今までの道のりは正しかったのか?』

 ふと、流の脳裏には、昨日、腐れ縁に言った言葉が蘇った。

 この道であってるのか?

 流は外から響く雨の応援歌に後押しされて答えた。

 答えはもちろん、Noだ。

 また、由佳が悲しんでいるのなら、自分は彼女に神様の存在を教えに行かなければいけないと。

 道は一つしかない。

 彼女が泣くのを止めるなら、俺の涙などくれてやる。

 気づけば、流はまた、涙を流していた。

 だが、その雨は涙雨(お天気雨)のように美しかった。



 続く


月曜日までに続きが……あがりたい(切実


追記:7月10日

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