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雨・涙・涙雨(Ⅰ)

久しぶりに


 雨という天気がやってきて「気分がよくなる」「テンションがあがる」という人種はどう考えても少数派に属する気がする。

 雲に覆われて、日の光が薄い日中に気分が盛り上がるというのは、やはり、おかしいし、肌にまとわりつくようなじめじめとした風に吹かれて(あまつさえ、横から雨にでもうたれでもしたら)テンションが下がるどころか、天上の気まぐれに軽い怒りさえ覚えることだろう。

 しかし、自分は、そんな人気がなくパッとしない無愛想な天気が好きだった。そして、一年の中で一番梅雨という季節が大好きだった。

 そのせいか、梅雨になれば不自然に上機嫌になり、一時の気分の盛り上がりによって様々な事件を起こしてきた。かつて、小学校ではクラスで一番可愛かったナナちゃんに無謀にも突撃し盛大に泣かれたり、中学ではなにをとちったのか、間違えて妹の制服を着用して登校したりと、基本的に梅雨明けから自分の気分は一般的な梅雨に突入する。

 周囲が夏休みの到来に浮かれる中で一人だけどんよりとする。

 局地的大雨でもここまで狭い区画をねらうこともないだろう。

 故に、梅雨の足音が近づいてくるこの時期。

 芥川流は今年こそ自重しようと心に決めた。




 07:51




 テレビの中のアナウンサーは笑顔で言った。

「ついに、今年も梅雨入りとなりました」

 流は朝ご飯のアジの干物をつつきながら、アナウンサーの笑顔に戦慄する。流にとってその発言は宣戦布告に等しく、笑みをたたえて宣誓をしたアナウンサーは彼にとって笑いながら人を殺す快楽殺人者以外の何者でもない。

 無論、つついたアジの骨を丁寧に櫓組に並べていく内に、戦慄はどこかに消えて、これこそ、彼の悩みの種である梅雨時のハイテンションの兆候であることには本人自体は気づかない。

 向かい側で梅雨入り宣言と、兄のめまぐるしい表情の変化を目撃していた妹だけが「今年も来たか」と心の中でつぶやいた。

 大小様々の小骨による建築が終えた頃に、流はふと我に返り、正面の妹と目をあわせた。

「梅雨だって」

「お兄ちゃん、今年も梅雨だね」

 今年も何かしでかすんでしょ?

 妹の言葉の裏に含まれた意味に思わず流は、組み立てた櫓を崩し、いつも通りを装うことにする。

「ところで、一葉」流は視線をリビングの天窓に向けた。「今日はいい天気だね」

 普段と変わらない、平凡すぎるがよくある天気の話だ。これから、歩いて登校する妹と流にとっては至極普通の話題である。

 しかし、妹は天窓に視線を移したあと、一つ大きなため息をついて流を一瞥した。

 流はもちろんそのあからさまな態度を不服に思い、不機嫌さを隠さずに妹に箸の先端を向ける。

「なにさ、ため息なんかついて?」

 しかし、それに答えたのは妹ではなく、流に戦慄を与えたテレビのアナウンサーであった。

「今日は朝からのどんより曇り空、時々激しい雨に降られるでしょう」

 流はすぐに再び天窓を確認すると、そこには案の定、白く輝く曇り空が広がっていた。

「……駄目だな」

「うん」

 前途多難さを確認すると、二人は無言で朝食の続きを再開した。




 雨(rain) 10:22




 二時間目の授業時間中、確か科目は国語だったはずなのに、流は廊下に立って雨が降っている中庭の様子を眺めていた。

 確かもなにも、流の後ろではいつも通りの国語の授業風景が展開しており、いつも通りでないのは結局、流だけである。

「廊下に立ってろ」

 そう言い渡された自分は間違いなく、場違いなく死刑を言い渡された容疑者のような顔をしていたはずで。

「笑うんじゃない」

 その後の言葉はきっと、メガネのピントがあっていなかった先生の所為だと思う。たぶん。

 追い出された理由は、別にテンションがあがって授業中に騒いでいたわけではない、むしろ、その逆で流はいつになく集中し、且つ、先生の一挙一動を見逃すまいとして授業に没頭していた。

 結果として、先生のつまらないギャグにまさしく当意即妙のツッコミを返し、教室をわかせ、教室から追い出された。国語の教師が冗談が通じない堅物であることは前々から分かっていたことであるのに。

「あー、早速やっちまった」

 ため息混じりに流は床に向かって呟いた。

 しかし、浮き沈みの激しい雨期である流は、すぐにそのことを忘れてほかのことに没頭し始める。

 最近読んだ本のこと、後二週間に迫った模試のこと、今日塾で行われる進路希望書のことなど。

 無意味な事を考えながら正確に敷き詰められたタイルの十字路を視線で追っていた流だったが、次第に、聴覚が拾う雨音に意識は傾き始めると、瞳は無機質に、無感情に線をたどり、逆に聴覚はリズムよく一度きりの交響曲に集中してゆく。

 廊下という場所の意識は希薄になっていき、流はふと、自分がどこにいるのか思い出せなくなっていく。

 そんななか、「雨音」のタクトが振られる。

 一楽章目は荒々しく雨粒が地面に砕け物語の始まりを盛大に知らせ、二楽章目は勢いを軽減しシトシトと緩やかなソナタに、三楽章目はゆっくりとした三拍子サラバント、木や屋根から落ちる水滴がシトシト降る雨音にあわせてワルツを奏でる。そして、四楽章目は勢いよくフィナーレに進む。

 小さい雨音、ぴちょん。大きな雨音、ぼとん。

 テンポは速まり、様々な音が自分の存在を強く主張していき、だが、どの音も決して強すぎずに、むしろ、それがお互いの存在を強めるように。

 そして、最後に締めのシンバルを大きくならす寸前。

「雨は音楽……か」

 流は自身のつぶやきによって、意識を現実に戻した。

 それも、直前までのことが夢のようにはっきりと。

 いや、間違いなく直前のことは彼にとって夢であった。

「……ふぅ」

 流はまた、さっきとはまた別の種類のため息をつくと、無機質に今度は雨を見つめた。




 12:43




「ゴロロロロロロ――」

 空の上で誰かがうなったのか、それとも猫が大きくのどをならしたのか、そんな見当違いのことを考えているのは無論、流だけで、彼をのぞく教室に小さな波紋が広がった。

「雷か」

 彼の正面で弁当を広げている友人が外の雲の様子を見て呟いた。流は思わず漏れたつぶやきを拾うつもりもなかったが、同じく、窓の外を見ながら呟いた。

「梅雨入りした直後からこれだと、今年の梅雨の後半戦はどうなるんだろうな」

「確かに、梅雨入り初日から教室を追い出されるとは、後半戦どうなっちまうんだろうな」

「うるせぇ」

 正面でしてやったりの笑みを浮かべる友人に、流は悪態をつくと再び弁当の側面についたご飯粒を回収し始める。

 しかし、相手のうまい返しに流は内心感心していると、目の前の彼は口を開いた。

「それにしても、今年は絶好調だな」炭酸飲料のふたを開ける。シュッ――。「さすがに、初日から何かやらかすなんて、今まで一度もなかっただろう?」

「あぁー、どうなんだろう、俺はよく覚えてないんだが」

 目の前に座る友人は流にとって幼なじみにあたり、小中高と現在進行形で同じ学校に通っている。また、この幼なじみは記憶力が非常に高く、何かと昔の話を持ち出してくるのが大好きで、偶に煩わしいが、大半の場合思い出に浸ってしまう自分がいるのでとやかくは言えない。

 どちらかというと、「腐れ縁」という奴なのかもしれない。

「お前の伝説にランクをつけるとしたらその一位と二位のときでも、初日はまだ落ち着いてたぞ」

「ランクづけなんてするほど、伝説を残した記憶はない」

「ナナちゃんにふられたり、妹の制服を着てきたり?」

「よく覚えてんな」

「お前こそ覚えてたんじゃないか」

「別にこれといって大したこともないものこそ、人間は意外と覚えてるもんなんだよ」

「去年、『人間はどうでもいいことはさっさとわすれちまうもんだ』とか言ってたよな」

「よく覚えてんな」

「お前もな」

 本当に適当だよなお前。

 腐れ縁はそう言いながら、食べ終えた弁当箱を風呂敷に包み出す。気づけば、流は無意識の内に風呂敷で筆箱を包んでおり、正面の腐れ縁に見つからない内に縛りをほどいた。

 「そういうお前こそ、俺に似てきて適当になってきたと前に言っていただろう」と、言おうかどうか心の中で迷ったが、それでは自分が適当だと認めてしまうようでやめにした。

 なんせ、こいつは記憶力がいいのだ。

 流は今度こそ弁当箱を風呂敷で包みながら腐れ縁に言った。

「にしても、もう高校二年生だ」

「にしてもの接続の仕方しってるか?」

「言葉なんて所詮ツールだぜ? それに縛られるなんて愚の骨頂だね」

「ツールってのは使い方があって、それに従うもんだろ」

「そんなの誰だってできるだろ? そこから抜け出せない限り進歩は生まれないね」

「前々から思ってたんだが、よくもまぁ、ぽんぽんと自己流哲学がでてくるな」

「んなもん、簡単なことだぞ」

「で?」

「思ったことを口にすればいい」

「さいですか」

 流と腐れ縁はそれぞれ飲み物を口に含み小休止。先に復帰した腐れ縁が流に尋ねる。

「それで、どうして今、高校二年生の話がでてくるんだ?」

 流は視線を一度窓に投げると、うちつけられる水滴を眺める。

「いや、こんなバカみたいな梅雨をもう何度も経験したんだなと」

「お前らしくないな」

 ふと、腐れ縁は流の含みのある様子を察知して一度流に一瞥を送ると、彼と同じように窓の外に視線を送った。

「人間が昔を思い出すのは未来が不安か、現状に満足していないかららしいぞ」

 ズバリと、自分が思っていたことを腐れ縁に言われて一瞬ギクリと表情に出しかけるが、すぐに、言葉の最後の違和感に気づき、流は話を逸らすついでにそこにつっこんだ。

「らしい?」

「あぁ、そうだ、昔お前が語ってた」

 ちょうど、この季節にな。

 腐れ縁の視線が窓から流の方に戻る。流も視線を窓から離した。

「そう言われてみれば、お前が変わったのはその年の梅雨ぐらいだった気がするな」

「なにが?」

「このシーズンになったらテンションが高くなることだよ」

「そんなの生まれてからずっとだろ?」

 腐れ縁には珍しく、目を見開いて驚いたように流を見た。

「何言ってんだ、昔は雨の日なんて大嫌いだとか言ってただろ」

「いつの記憶だ」

「その前の年だ」

 どうやら腐れ縁が自分の事をからかっているわけではないようだと分かると、流は必死に過去の事を思い出そうとする。

 しかし、いくら考えても梅雨のシーズンにテンションがあがるのは昔からなような気がして、腐れ縁の言葉に疑問を禁じ得ない。

「記憶にないな」

「そんなのいつものことだろうに」

 腐れ縁は弁当の風呂敷を持って立ち上がると笑いながら言った。

 流は一瞬葛藤した後、結局、尋ねた。

「じゃあ、何があったんだよ?」

「それは、確か――――――」

 腐れ縁の口から言葉が漏れる。

 そして、それと同時に、雷が落ちた。

 近くに落ちたのか、窓がビリビリと響き、流の足下にも軽い振動が走る。

 腐れ縁の言葉は惜しくも流には届かず、流は腐れ縁に続きを求めようとしたが、腐れ縁の注目は流の様子よりスピーカーから聞こえた「ブツン」という鈍く気味の悪い音に向けられた。

「停電か」

 腐れ縁の呟きが口火を切ったように、教室――否、学校中が喧噪に包まれる。

「うるさいな」

 流の注意も停電という珍しい事態に向けられ、彼も周囲を一瞥しながら言った。

 それを見ていた腐れ縁は流の独白に答えた。

「人間は暗闇を恐れてるんじゃない、自分が抱えている暗闇をまざまざと見せつけられているのが嫌なんだ」

 腐れ縁の突然の発言に驚きながらも流は鼻で笑った。

「キザっぽいし、くさい」

「そりゃそうだ」腐れ縁は流を見下ろして言った。「昔お前が言ったことだからな」

 本当にこいつは記憶力がいい。

 腐れ縁の顔に本日二度目のしてやったりの笑みが浮かんだ。




 16:54




 学校というダムが決壊し、傘をさした人が昇降口からあふれ出す。流もその流れにあわせて昇降口から出た。

 しかし、傘で埋め尽くされた校門への道のりに新たに傘をさすのも億劫で、流はその傘の中を渡り歩いて校門の外に出た。

「さてと……」

 これからどうするか。

 普段なら相方の腐れ縁と適当に帰るのだが、腐れ縁は生徒会の手伝い。流は流で、この後クラスの仲間たちと予定があるので帰るわけにもいかずどこかで集合までの時間をつぶそうと思っていた。

 散り散りになり始めた人混みの中で流は取り残されたように歩みを止める。

 尻ポケットから携帯を取り出して時間を確認すると、時刻は16:50。

 どこか、遠くに行きすぎるとそれはそれで集合時間に間に合わなくなる。

 かといって暇ではあるし。

 傘越しに空模様を伺うと、どこか屋内で時間をつぶすのが適当かと近くの本屋に踵を向けようとする。

 しかし。

「雨が降ってるから中でいーよね?」

「カラオケいくー?」

 人混みから聞こえてくる声に、流は思わず向かう先を本屋から近くの公園に変えた。

 天の邪鬼ならぬ雨の邪鬼。

 流はさしている傘をくるくると回した。




 17:05




 廃園になった遊園地というものを実際見たことがないが、人が全くいない上に雨に降られている公園はその言葉を彷彿とさせた。

 気づけば、自分が居るこの公園は自分がよく知る公園と全く別の公園なのではないか、それどころか、自分は世の理である時間からはずれてしまったのではないか。

 そんな不安に駆られるほどその光景はどこか、日常離れしているような気がした。

 無論、近くを走る車の音や、公園の外を歩く人の話声が彼をすぐに幻想から引き出す。

 雨粒を通して錯覚でも起こしたのかもしれない。

 流は屋根つきのベンチに座り、植え込みに生えているアジサイを眺めた。

 赤いアジサイだった。

 アジサイというのはその土地がアルカリ性か酸性かによって色を変えるとどこかで聞いたことがあるような気がして、じゃあ、ここの土地は何性なのかと自問自答する。

 しかし、結局どっちが何性なのかわからない流は思考を断念して、何を考えるでもなくアジサイを眺める。

「俺は青が好きかな……」

 赤より青、流は自然と出てきた思考に何故、青の方がすきなんだろうと考えを巡らせてみる。

 そして、浮かんできたアジサイに流は「あぁ」と独白を漏らした。

 病院に咲いていたからか。

 そうして、その関連の記憶が呼び覚まされはじめた時。


 流の瞳にクルクルと回転する怪獣が写り込んだ。


 もちろん、怪獣がアクロバティックな運動を繰り広げている訳ではなく、怪獣の絵がプリントされた傘がクルクルと回っていただけだが。

 その傘の持ち主である小学生の少年は何か品定めするように、アジサイが植えられている花壇を物色している。

 なぜ、小学生だとわかったかというとその少年が被っている帽子が流の母校である小学校の帽子であり、流の視線は懐かしむようにその少年の挙動を追う。

 勿論、止まっている公園の中で唯一、時間が流れている存在に興味を引かれていたりもする。

 しばらく、流は彼の動きに注目していると少年は流の視線に気づいていないのか、「あっ」と声を漏らすとおもむろにアジサイの花に手を伸ばした。

 容易にその先が想像できた流は声をあげた。

「少年。勝手に花の命を奪ってはいけないよ」

 ベンチから立ち上がり傘をさし、少年の方に歩み寄る。

 少年は見も知らぬ高校生が近づいてくるにも関わらずに、臆することなく不服そうな顔をして流を睨んだ。

「なんだよ、お兄さんってここの公園の人なわけ?」

「いや、違うけど」子供に常識を語っても仕方ないだろう。よし。「お花の神様だよ」

 腐れ縁が居れば、それはないわと漏らしただろうが、ツッコミ役不在のまま話は続く。

「嘘だ、お姉ちゃんが自分のことを神様だっていうのは危ない人だって言ってたよ」

「あぁ、そうだ。君のお姉さんが言ってることは非常に正しい。良いお姉さんじゃないか」

「そうだよ、優しくて本当のお姉ちゃんみたいなんだ」

 「本当の」というと何かわけがあるのか。

 うっすらと流の脳裏に様々な思考がよぎったが、深く考えずに話を戻した。

「それは良かった。ところで、少年はどうして花を伐ろうとしたんだい?」

 怪獣の少年は話を逸らされていることに気づかずに、誇らしげに流に語った。

「お姉ちゃん、いつも、この時期になると元気がなくなるんだ」

「うん」

「だから、お姉ちゃんが好きだって言うアジサイを持ってこうとしたんだ」

「なるほど」

「それもね、普段青いアジサイは見てるから、赤いやつを持っていくととっても喜ぶと思うんだ!」

「いやはや、それは名案だ」

 流は少年の話を聞いていくうちに彼には命を摘み取るだけの理由があることを知ると、流は自分の無粋を恥じた。

 同時に、梅雨に元気がなくなるなんて自分とはまるで逆じゃないかと、少し奇妙な巡り合わせも感じていた。

「それにね」少年は様子を一転すると、足下の水たまりを見つめる。「そのお姉ちゃん、そろそろ、ここから離れて行っちゃうんだ」

 流は少年の表情を、地面の水たまりを通して見る。

 そこには、雨粒が波紋を広げ少年の顔を歪めていたが、理由はそれだけではないような気がした。

「よし、それならこの公園の人が許さなくとも、お花の神様がゆるしてあげよう」

「別に、許さなくてももってくよ」

 少年は目の前の高校生の言動のおかしさに笑みを取り戻すと、茎の部分からブチッ――とアジサイをもぎ取った。

「ただし」流は少年がアジサイをもぎ取ったのを確認すると付け加えた。「アジサイにありがとうとごめんなさいを言うこと、じゃないと、枕元に化けてでるかも」

 すると、少年はその言葉に今度こそ我慢ができなかったのか声を出して笑った。

「お兄さん、変な人だね。アジサイなんか化けてでても怖くないじゃん」

 しかし、少年は言葉とは裏腹に手元のアジサイをしばし見つめると「ありがとう、ごめんなさい」と口にした。

 流は満足げに少年の様子を見ると、自分が唯一彼にできる激励としてバッグを漁りながら言った。

「それと、神様からささやかなプレゼントだ」

 流は昼時に飲みきった空のペットボトルを取り出すと、それを近くの水道で軽く洗い、水を貯めると少年に渡した。

「お姉さんがアジサイをみた時、しおしおだともったいないから水につけて持っていくと良い」

 少年は簡易花瓶を素直に受け取ると、アジサイをその中に差し込んだ。

 すると、少年は初めて流に向けて笑みを見せると。

「ありがとう!」

 小学生らしく元気な大声でそう言った。

「それじゃあ、ついでに、お姉さんに神様は居るんだぞと伝えておいてくれ」

「うん! わかった!」

 少年は最初の時とは打って変って、流の言葉に素直に答えると、さっさと自分から遠ざかっていった。

 流はその後ろ姿を見つめ、なかなか目が離せなくなっていることに気づいた。

 少年の姿が角を曲がり見えなくなったとき、流が彼に向けて抱いていた感情は羨望だと気づき自嘲気味にため息をつく。

 しかし、すぐに流は、きっと、雨粒が見せた幻想だと思い直し彼もまた公園から去った。

 雨がやむ気配は、まだ、ない。




 20:06




 自由席の塾の教室。

 流は腐れ縁と席を並べて「進路調査表」につらつらとペンを走らせていた。

 自分の隣でうなっている腐れ縁を後目に、いくつかの大学名を書き終えたあと、最後の欄に「医者」と付け加えると記入用紙を裏返して暇を持て余し始めた。

 周りを見渡すと流のようにさっさと書き終えた人はまれで、自由席のためか少なくない人数が隣に座った友人と雑談に興じている。

 流は携帯を取り出していじり始めるのもどうかと思ったため、結局、となりで用紙とにらめっこしている腐れ縁に口出しをする事にした。

「なんで、小さい頃はあんなに将来の夢なんてもんをぺらぺらと語れたもんなのかね」

「そんなもん、将来なんてもんがよく分かってないからだろ」

 腐れ縁はイライラしたように流の言葉に応えると、気味の悪い生き物をにらみつけるように用紙を見つめる。対して、流は流し目で用紙を一瞥する。

「間違いないな、じゃあ、今はなんでそんなに難しく考えるんだろうな」

「知るか」

 ぶっきらぼうに腐れ縁は流に応えた。

 流は話しかけるのをやめない。

「きっとさ、未来ってゴールが、すぐそこに有ることに気づき始めたからだとおもうんだよ」

「マラソンランナーはゴールが近づいてきても焦らないだろ?」

「それは、そこが本当のゴールだからだろ」

 流はふと、思考を止めると、先ほど出会った少年のことを思い出した。

 無垢で幼い子供たちの無謀な勇気と尽きることのないエネルギー。自分にもそんな愚かだが、力強さを持っていた時代があったのだろうかと。

 目の前の腐れ縁に聞けば一から十と言わず、百ぐらいまで教えてくれそうだが、どうも気に食わないのでやめにする。

 帰ったら調べてみるのもいいかもしれない。

「むしろ、感じ的には出口がたくさんある迷路なんじゃないかと思うんだ」

「出口がたくさんあるなら焦ったりも、迷ったりもしないんじゃないか?」

 流の要領を得ない問答にイライラしてきたのか、腐れ縁は右足で小刻みに単調なリズムで韻を踏み始める。

「いや、だから迷うんだよ」

「出口に出ればそれでおわりだろ」

「迷路が終わった後に、ふと、思うんだよ」

 そのとき、流の脳裏に様々なイメージが浮かび消えていった。

 青いアジサイ、雨音が刻むメロディー、怪獣の少年、そして、病院。

 しかし、それはやはり肝心の何かが抜け落ちており、流のイメージはどれもセピアに色あせていた。

「出口までの道のりと、出口の先の展望――そして何より、選ばなかった出口に自分は後悔してないのかと」

 自分は後悔しているのだろうか。

 いや、もう、考え直してもどうしようもない事だ。

 窓の外から稲光が教室の中に差し込み、その光が流の視界にささった。

「おかしいよな、後悔も、喜びも、何もかも選ばないと生まれないのに」

 気づけば、隣の軽快な右足のステップは止んでいて、そのかわり、さらさらと紙の上にペンが走る音が聞こえた。

 終わりの合図に遅れてやってきた落雷の音が唸る。




 22:47




 普段の適当な性格からは想像しがたいが、流は几帳面な一面があり、その代表例として、満足に文字がかけるようになってからずっと続けている日記があり、今日という今日も例外ではなく、課題を終えた流は日記を机の上に広げていた。

 しかし、今日は少し趣が異なる。

 広げている日記は一番新しいナンバー21ではなく、過去の日記であり、それも、だいぶ初期のものである一桁台のものばかりであった。

 そして、流はそれを流し読みではあるが、振り返って「あの日」の日付を探している。

 本当に今年はうんざりだと思った。

 まだ、梅雨の初日なのに、どうしてこうも立て続けに自分の過去を刺激しにくるのか。

 流は天に悪態を尽きながらも、心の底では自業自得だとため息をつく自分が居るのも自覚していた。

 まだ、引きずっているお前も悪いだろと。

 そうして、ぺらぺらと日記をめくっているとついに流の瞳に「あの日」が飛び込んでくる。

「……あった」

 そして、流はそのノートを熟読しようと持ち上げる。

 すると、そのとき、ノートから一通の便せんがこぼれ落ちた。

 それは、アジサイの絵が描写されたきれいな未開封の手紙。

 床にカツン――と便せんが落ちた音とともに、流は胸の中からカチッ――と歯車が噛み合った時のような音を聞いた。

 止まっていた雨の風景が動きだす。

 そして、記憶が稲妻のようにフラッシュバックし次々とあふれてくる。



「アジサイの神様、雨は涙、雨音は音楽、そして、どこまでも白く輝く雲」

 素直な怪獣はアジサイの花壇の向かい側を見る。

「傷つかない選択、悲しい結末、最善の解答」

 次第に怪獣は雨に流されていき、そこには水たまりだけが残る。

 水たまりは波紋を広げ、次第に映し出していたものを崩していく。

 気づけば、その水たまりは自分の心そのもので。


 誰かが、雨の中で泣き叫んだ。



 ――――カチッ。

 再び、流の胸の中から何かが噛み合うような音が聞こえた。

 今度はゆっくりと、靄から晴れるように自意識を覚醒させる。

 そして、遅れて、自分が床に手をついて倒れていることに気づいた。

 ちょうど目の前の床にはアジサイの便せんが、そして、すぐ近くには件のページが開かれた日記が。

 流は手をついたままつぶやいた。

「今更……どうしろってんだ」

 それに応えるように、「あの日」の流がノートから話しかけてきた。


『かみさまをきらいな、アジサイのおんなのこにあった』


 気がつけば、アジサイの絵がぼやけて見えた。

 雨が、降り始めた。




 エンディングロール(インターバル)




 コンコン。

 短くドアをたたく音。それも、大人がたたいた強い音ではなく、か細い音。

 それだけで、誰が来たのか把握した彼女は「どうぞ」と明るい声で応えた。

「お姉ちゃん、元気?」

 ドアをあけて第一声、少年は彼女にそう尋ねた。

 少年は最近、といっても、数ヶ月前に受付で出会い、それから、仲良くなった男の子だった。

 彼女はベッドから上半身を起こした姿勢のまま応えた。

「うん、大丈夫、雨の日は私元気だから」

 病室の窓から見える中庭の青いアジサイを一瞥すると、彼女は少年に向き直る。

 そう言われてみれば、彼と初めてあったのはちょうど、この男の子ぐらいの年齢だった気がする。彼女は記憶を呼び覚まそうとして、しかし、経験上良いように終わらないのを知っていたので思考を止めた。

 少年は背後に握った何かを隠すようにドアの前にたったままで、それに気づきながらもあえて触れないように少年に話しかけた。

「今日はどうしたの? お話でもする?」

 彼女は自分でそう言ってから、まるでお婆ちゃんのような文句にすこし恥ずかしさを覚えた。

 しかし、少年は隠しているものの事で手一杯なのか、彼女の様子には気づかない。

「えーと、今日はね、転院のまえのねプレゼントがあるの」少年は一瞬言うかどうか迷ったが結局、言った。「僕と花の神様から」

 花の神様!

 意地悪するつもりなどなく、少年の言葉に彼女は思わず声を大きくして応えた。

「すごい! どんなプレゼント?」

 すると、少年は彼女の食いつきように急いで否定を始めた。

「あ、あのね、神様ってのは絶対嘘で、高校生ぐらいのお兄さんだったんだけど、その人が優しくてペットボトルをくれたんだ」

「ペットボトル?」

「あっ」

 しまった、と言わんばかりに少年は固まると、すぐに、照れくさそうに背の後ろに隠していた赤いアジサイを彼女に見せる。

「えっと、ここの病院って青いアジサイしか咲いてないでしょ、だから、赤いアジサイを取りにいったら、公園に居たお兄さんがしおしおにならないようにって、ペットボトルをくれたんだ」

 少年はそういいながら、ドアの前からテトテトと彼女が横たわるベッドに近づいてきた。

 彼女は近づいてくる赤いアジサイを心底うれしそうに眺めると、神様を名乗る男の人がくれたペットボトルにも視線をやった。

 気の利いたおもしろい人が居るんだね。

 その人に私も会いたかったな。

 口には出さずに心の中で呟くと転院前の小さな巡り合わせに感謝する。

「きっと、それは本当の神様なのかも」

 思わず口をついて出た言葉に、少年は何かを思い出したように「あ」と声をあげた。

「そうだった、それでその人から伝言を預かってたんだった」

 そして、伝言と聞いて疑問符を浮かべる彼女に少年は言った。


「神様って居るんだぞ」


 瞬間、彼女の思考が止まった。

 その、言葉は。

 ふと、彼女の視界で少年と彼とがダブって見えた。

 しかし、彼女はすぐに我に返って何事もなかったかのように言った。

「本当にその人、神様なのかもね」

 少年は「うそだー」と言って笑った。

 彼女も笑った。

 しかし、どうしても、その赤いアジサイが彼女に語りかけてきた。


「涙っていうのは、人が降らす雨なんだ」


 彼女――「アジサイのおんなのこ」は笑いながら、降りそうになる雨を堪えた。




 続く




3日でこれは死ぬ


追記:6・28修正

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