バイクと少女と風の行方
「ありがとうございました!」
元気のいい店員の声を背中に受けつつ、あたしはコンビニの自動ドアを抜ける。
手にはよく冷えた紅茶。
冷房の効いた店内から外に出ると夏らしい、ほぼ真上からくる強い日差しにうんざりする。ただ、休憩がてらに寄ったこのコンビニは山の上にあるため風は冷たい。
木陰の駐車場に止めた愛車SV400に戻りタンデムシートに積んだバックから地図を取り出し、紅茶で喉を潤しながら地図を見て現在位置を確認する。
目的の旅館まであと数キロだった。
大学二年の夏、夏休みを利用してあたしはバイクで一人旅をしていた。
地元から離れ、この地にはあたしを知る人は一人もいない。それでもバイクに乗っているせいか、休憩で止まるたびにちょくちょく色んな人から話しかけられる。
同じようにバイクで旅をする男性、地元の住民と思われる老人。夏休みならば県外ナンバーなんて珍しくないだろうに思えるが、皆一様に好奇の目を向けてくる。
そして世間話でわずかな時間を共にし、また離れる。
それはバイク乗りならではの光景だとあたしは思う。
地図をバックに戻し、空になった紅茶の缶をゴミ箱に押し込む。
そしてミラーにかけておいたヘルメットとグローブを身につけると、汗で少し湿っているのが感じられた。ちょっと気持ち悪いが我慢するしかない。
バイクに跨り、キーを差し込み、セルを回す。
一瞬だけセルが回るとすぐにエンジンが始動し、V型エンジンならではの心地よい、鼓動にも似た振動が体全体に伝わる。
「さ、あと少しだし、一気に行っちゃおうかな」
ヘルメットのシールドを降ろし、気分を切り替える。
ギアを一速に入れアクセルをゆっくりと開き、道路に出るとギアを二速にいれ一気に加速する。しかし加速すると同時に反対車線の向こう側の空き地に獲物を待ち構え、鋭い眼差しを送ってくる白バイが目に入り慌てて減速した。
やっぱり今の時期は警察も多いのね……。
緩めの峠道を駆け下り、目的地の温泉街へと到着する。観光地らしく大通りの両方にホテルと旅館が乱立していたが、幸いにも目的の旅館は直ぐに見つかった。
旅館の駐車場にバイクを止め、荷物を担いでロビーに入ると正面に見える受付の方がなにやら騒がしく、周りにいた人も何事かと遠目で見ていた。
あたしはチェックインを済ませるべく受付に向かい、従業員に名前を告げ確認を取ってもらう。できるだけさりげなく隣を横目でちらりと伺う。
受付の従業員相手に食ってかかっている女性は白いワンピースを纏い、そこから伸びる手足はまるで白磁のようだが、それに反して腰まで伸ばした黒髪は烏の濡れ羽のような美しさで互を一層引き立てあっていた。そして長いまつ毛に整った顔立ちで街で見かけたら間違いなく二度見してしまいそうな程に可愛い女の子だった。
しかし見た目とは大違いで、凄い剣幕で従業員を問い詰めている。どうやら旅館側の手違いで、部屋がブッキングしてしまっている様子だった。
そしてあたしの目の前にいる中年の男性従業員を見るとなんとも言えないような、少々目を伏せて気不味そうな顔をしている。従業員はあたしに「少々お待ちください」と告げると隣で少女の猛攻を受けていた同僚に耳打ちをする。
なんとなく、嫌な予感がした。
そして、それはすぐさま現実のものになった。
「申し訳ありません。東雲様。こちら側の手違いで、お部屋の予約が重複してしまいまして……」
「……もしかして、お相手は隣の女の子かな?」
「はい……」
なんとも申し訳なさそうに頭を深々と下げ釈明する従業員。
隣から突き刺さるような視線を感じるが、ひとまず無視して女将を呼んでもらうことにした。
三十分後、部屋に入ったあたしの横には先程まで受付で従業員に食ってかかっていた女の子がいる。結局あの後、女将を交えて話し合ったのだが繁盛期で満室なため別室を用意できないので、宿代&食事をサービスするということであたしと女の子は相部屋を了承した。
まぁ、あたしとしてはこういう旅の出会いも悪くないと思う。どうせ一泊するだけだし、貴重品は受付に預けてあるから心配もない。
「さて、どたばたしちゃったけど自己紹介ぐらいしておこうか。あたしは東雲凪沙凪沙て呼んでくれていいよ」
「秋山花澄よ。花澄でいいわ。凪沙はなかなかいい駆け引きをするのね」
「んー今から他の宿を探すのも面倒だったし、どうせ一泊なんだから、こういうのもたまには悪くないかなと。料理も一番高いのを用意してくれるみたいだし」
「現金ね。悪くないわ」
「それにしても暑いね……」
クーラーのコントローラーを手に取りスイッチを入れる。ややして冷たい風が部屋の中に流れ込む。
「夏なんだから当然でしょう。第一、そんなにごつい上着を着ているから暑いのよ。私のようにワンピースを着れば涼しいわよ」
そういって彼女はその場でくるりと一回転してみせる。クーラーからの風をはらんだワンピースの裾がまるで満開の花の花弁のようにふわりと広がる。
「まーそうなんだけどね。とはいえ、バイク乗るときはプロテクター入りのやつじゃないと危ないしね」
ジャケットを脱ぎ、背骨を保護するパッドを見ると汗でびっしょりと濡れていた。
「バイク乗るんだ?」
「見ての通り、ライダーだよ」
愛用のフルフェイスヘルメットを持ちあげ、彼女に見せる。
「ふぅん……」
そう言ったきり花澄はそっぽを向いてしまった。
……はずしちゃったかな?
「さて、汗かいてるしちょっとお風呂入ってくるね」
バックの中から着替えとタオルを取り出し、隣接する家族風呂に向かう。
洗面台の前に腰掛け、すっかり汗臭くなってしまった髪を洗う。そして洗面器いっぱいの湯を勢いよく頭からかぶると同時に扉の開く音が聞こえる。横目で見ると胸元をタオルで軽く隠した花澄が入ってくるのが見えた。
大きめのタオルで隠しているがその胸のふくらみはあきらかにあたしより大きかった。
いいさ、くやしくなんかない。バイクに乗るときは胸が大きいと風圧に押されてうっとうしいだけだと必死に自分に言い聞かせ無理やり納得する。
「お風呂、時間ずらさなくてよかったの?」
花澄の方に向き直り尋ねる。
「わ、私もちょっと汗かいちゃったから……」
言いつつあたしの横に腰掛ける。
「そか……髪、洗ってあげようか? それだけ長いと大変でしょ?」
「いいの?」
「もちろん」
笑顔で答える。一晩だけとはいえ、良好な関係を築いておくに越したことはない。
というのは建前で、正直なところあの美しい黒髪を手にとって触ってみたい。こちらが本音だ。
「ありがとう。お願いするわ」
「それじゃちょっと失礼して」
花澄の後ろに回り込み、シャンプーを泡立て濡れた髪を手に取りゆっくりと髪を洗う。
「柔らかくて綺麗な髪ね~うらやましい」
「凪沙は、髪は伸ばさないの?」
「あたしはくせ毛だから、伸ばしても綺麗なストレートにはならないのよ。わかめみたいになっちゃう。それに、髪が長いとヘルメットをかぶる時に邪魔になりやすいしね」
「ふふ、それは残念ね。ねぇ、凪沙は社会人なの? 見たところ旅慣れているみたいだけど」
「いや、大学生だよ。夏休みを一人旅で満喫中。花澄は?」
「私は……普通の女子高生よ。凪沙と同じで夏休みを満喫中」
あたしの問いかけに花澄は声のトーンを下げ、少しだけ俯いた。あたしは地雷を踏んだかと思い慌てて話題を変える。
「そっか……よし、お湯かけるから目をつぶっておいてね」
「うん」
正面の鏡越しに目を閉じるのが見えたのでゆっくりとシャワーで泡とシャンプーを洗い流していく。すっかり泡が流れ落ちた黒髪は光を反射し、あたしを魅了する。
「それじゃ、お風呂入ろうか」
「そうね」
本来四~五人で入ることを想定して作られた家族風呂なだけあって二人で入るには十分すぎるほどに広かった。かけ湯をし湯船に入ると、バイクの運転で凝り固まった全身の筋肉が解きほぐされていくのがわかる。思わず頬が緩む。隣ではあたしと同じように花澄の頬も緩みっぱなしになっていた。
「やっぱり女の子は怒っている顔より笑顔のほうがいいね」
あたしが悪戯っぽく笑うと彼女はちょっと照れたような笑みを浮かべる。
「あ、あれは従業員の手はずがあまりに悪かったから……。自分の手に余るならさっさと上司を呼べばいいのに」
「たしかに、それは言えるわね」
「そうでしょう? それなのにあの従業員たら、わけのわからない説明を延々として……怒鳴りたくもなるわよ」
「でもまぁ、こうして新しい出会いがあったのはちょっとだけ感謝だね」
「ま、まぁね……」
照れているのか、それとも温泉で温まったせいか花澄の顔は真っ赤になっていたが、どちらの理由かまではあたしには判断できなかった。
しかし怒ったときの言葉遣いはかなり荒っぽいけど、彼女の立ち居振る舞いはどう見ても良家のお嬢様のものだ。夏休みとはいえそんな人間が一人旅なんてちょっと考え難い。先ほどのあたしの問いに対する態度といい、きっとなにかしらの訳ありなんだろう。
とはいえ、彼女とは共に過ごすのは長くても明日の昼までがいいとこなのであまり込み入った話を聞いても仕方がない。それよりも今この時間をいかに楽しく過ごすことのほうがよっぽど重要だ。
「はいそこに座って、ドライヤーかけるよ」
お風呂からがるとあたしは花澄に髪を乾かしてあげるというと彼女は喜んで受け入れてくれた。
「それにしても普段は髪の手入れはどうしてるの? この長さだと梳くのもかなり大変でしょう?」
髪が痛まないようにゆっくり、優しくドライヤーの風を当てていく。
「普段は、同室の子が手伝ってくれるわ。実家に帰ったときはお手伝いさんもいるし、そう困ったことはないわね」
「同室? もしかして学校では寮に入ってるのかな?」
「ええ、そうよ」
なるほど、それで相部屋に関してもそれほど抵抗がないわけだ。
「おまけに実家にはお手伝いさんまでいるとは……実は結構なお嬢様とみた」
「たいしたことないわよ、親がちょっと事業してて、忙しさにかまかけて家事をしたくないから雇ってるだけよ。私が寮にはいってるのも手間がかからないように押し込められたようなもの。そのくせ、何事かというと無茶を言ってくるのよね……」
そう言うと彼女はちょっとだけ悲しそうな顔をする。それにしてもやっぱりお嬢様だったのね。ということはこの旅行は親と喧嘩して軽く家出中……というのはいくらなんでも考え過ぎかな。
でもせっかくの旅行なんだし、楽しまなきゃ損だよね。
「ねぇ、旅と、この出会いの記念に、なにかお揃いのものでも買ってみない?」
お風呂から上がったあたし達は夕飯までの時間を利用して、旅館の近所をぶらぶらと散歩していた。そしてそのうちによくある土産物店を見つけ、冷やかし半分で店内を歩き回っていた。
「悪くないわね、といっても私はあまりアクセサリーとかはわからないから、凪沙に任せるわ」
「……それじゃこのピアスなんてどうかな? 花をかたどってて可愛いし」
手に持った白い花模したピアスを彼女の耳に合わせてみる。……うん、予想通り最高に可愛い。きっと彼女も気に入ってくれるはずだ。
「残念だけど、ピアスは無理ね。つけたこともないし、穴も開けてないもの。 仮にピアスの穴を開けたのがシスターにばれたら間違いなくお説教&反省文コースだわ」
「あう……残念。というか花澄の通ってる学校て相当に厳しいのね」
言われてみれば彼女は高校生な上にお嬢様だ。学校も相応のところに通ってるのが自然だろう。そう考えればピアスの穴を開けてるのが学校にバレたらいろいろと不味いのは納得できる。せっかくいいものが見つかったと思ったが仕方がない。
あたしは棚にピアスを戻し、他に良さそうなものはないかと棚をあちこち見て回る。
「凪沙、ちょっとこっちにきて」
店の奥のほうからあたしを呼ぶ声が聞こえる。店内には大して客は入っていなかったので声ははっきりと聞こえた。声の主はもちろん花澄。
呼ばれるがままに店の奥に足をすすめると、そこは入口付近と違いショーケースに入ったアクセサリーが展示販売されていた。どうやらこちらのほうはジュエルショップが入ってるようだった。
「凪沙、これなんてどうかな?」
彼女の手にはシンプルながらも美しいデザインのペアリングが乗っていた。若い女性店員によると片方は太陽を模したデザインでもう一方は月をイメージしたものらしい。
「お、凄い綺麗だね。これにする?」
「ええ、私はこれがいいわ」
しかし、ペアリングとはなかなか彼女も大胆なものを選ぶ。なんにせよ、いいものが見つかってよかった。さて残る心配はお値段だけなんだけど、辺りをさっと見渡しただけでもショーケースに入ったいかにも高そうなアクセサリーが展示されていた。これは数万円コースかなと心配するあたし。
「こちらの指輪はセットで一万円になります」
店員の言葉に安堵を覚える。花澄が財布を取り出そうとするのを「いいよ」と止めてあたしは自分の財布を取り出し、さっと会計を済ませる。お金持ちのお嬢様でも一応あたしの方が年上なんだし、これぐらいはね。
「さて、折角だし早速つけてみようか。……と、花澄はどっちのデザインがいい?」
「そうね……それじゃ月のデザインの方をもらってもいいかしら?」
「それじゃ、はい」
指輪を渡すと彼女は迷わず左手の薬指にはめる。お嬢様がそこに付けるのはどうかと思うが、当の本人は指輪に夢中になっているらしくうっとりとした表情で自分の指と鈍い輝きを放つ指輪を見つめていた。
不意に彼女はあたしの方へと向き直る。
「凪沙、ありがとう」
目を細め、笑顔とともに心からの謝意。
く、こうして見ると反則的に可愛い……。
「ふーお腹いっぱい」
「本当、よく食べるわね……」
あたしの前に山積みにされた空のお皿を見て花澄が驚嘆する。
「そりゃーひとり暮らしだとどうしても食事は質素になるからね。旅先ぐらいは美味しいものをお腹いっぱい食べたいじゃない。花澄は……寮暮しなら食事の心配はないか」
「そうね、食事は基本的に困ることはないわね」
「もしかして、、寮の食事て結構いいものが出てたりする?」
「そうでもないわ、普通よ」
彼女は普通と言ってはいるが、なにせ花澄はお嬢様でこちらは一般人。
彼女の言う『普通』がどこまで一般人の『普通』と合致するかはひどく怪しい。
夕食を終えたあたしたちはすることもなく、部屋で紅茶を飲みつつおしゃべりに興じていた。お互いの学生生活にファッションや好みのスィーツなど話題は尽きない。
「凪沙は、どんなきっかけでバイクに乗るようになったの?」
「んーそうだね、きっかけは高校の時の先輩かな。当時のあたしは極度の人見知りな上に引きこもり寸前でさ、見かねた先輩が気晴らしにと後ろに乗せてくれたのよ。……いや、無理矢理に乗せられたといったほうが正しいかな」
「……なかなか無茶をする先輩だったのね」
「でも、そのおかげでバイクの楽しさを知ることができたよ。きっかけさえあれば、人はいくらでも変われるんだよね。今じゃ初対面の人とでもこうして普通に話もできるし」
「そう……凪沙は、いい先輩を持ったのね。……羨ましいわ」
「それからすぐにあたしもバイクの免許を取ってバイクを買ったんだ。お金は、まぁ、親に泣きついたんだけど。それで紅葉で有名なところをあえて新芽の芽吹く春に走ったりね」
「わざわざシーズンオフに走るの? それは、どんな意味があるの?」
「紅葉が綺麗ということは、当然樹が多いよね」
あたしの話しに聞き入り、素直に頷く花澄は一言一句聞き逃さまいとあたしを見つめる。
視線が交わり、ちょっと照れてしまう。
「なので、春から夏かけて行くと物凄く新緑が綺麗なのよ。おまけに人も少ないしヘルメットから入る風は気持ちいいしときていいことづくし。ああ、虫が多いのが難点かな」
『虫』という単語を聞いて、花澄は眉をしかめる。
「虫はダメね……どうにも苦手だわ」
「あらら、なにか嫌な思いででも?」
「理由なんてないわ。生理的に無理なのよ。見ているだけ、いえ、想像するだけでも鳥肌が立つわ」
花澄は両手を胸の前で合わせて身震いをする。そんな仕草さえちょっとした絵になってしまう。
高校生と話すのは久しぶりだったし、なによりあたしは出会ったばかりのこの少女にあきらかに惹かれていた。これが一目惚れというやつなんだろうか?
部屋の壁にかけられた、ちょっと時代を感じさせる古ぼけた時計を見ると午後十時を指していた。疲れているとは言え、眠るにはまだちょっと早い。
しかし窓際の座椅子に座り文字通り深窓の令嬢と化していた花澄は違っていた。あたしの声を必死で聞き取ろうとするものの、眠気の方が優っているらしく船を漕ぎ始めていた。
「花澄、眠いなら、そろそろ寝ようか?」
「う、うん……で、も……」
返事は帰ってくるものの、目の焦点は定まってなく、今にも完全に眠ってしまいそうだった。
「ほらほら、そんなところで眠ったら風邪引いちゃうし、明日には全身筋肉痛になっちゃうよ? お布団に入ろ?」
手を差し出すと彼女はあたしの手を取り、どうにかこうにか立ち上がる。しかし意識はギリギリらしく、足元がおぼつかない。それでもどうにか布団まで連れて行くとその場で完全に睡魔に負けたらしく膝から崩れ落ちる。そしてあたしもその巻き添えになり、二人して布団の上に転がる。
崩れ落ちた時に乱れたのか、目の前の花澄は浴衣がはだけ、フランス人形のように白い素肌が顕になっていた。透き通るような白い肌を目前に思わず生唾を飲み込み、心拍数が跳ね上がる。
裸なんてつい数時間前にお風呂で見たばかりなのに、場所がちょっと違うだけでこんなにも……。
思わず花澄の顔を見ると、潤んだような、それでいて、儚げな、まるでなにかを訴えるような目をあたしに向けていた。
そして桃のように可愛らしい唇に心を奪われる。
「えーと……ごめん、花澄、もう……無理」
「え?」
あたしは花澄の頬に左手を添えると、そのまま口づけをした。
花澄の体が一瞬震え力が入るのが感じ取れたあたしは、間髪いれずに右手を彼女の後頭部に回し逃げられないようにした。
「凪沙……」
形だけのわずかな抵抗の後、花澄はあたしに身を委ねてくれた。
携帯の目覚ましが鳴り目が覚める。いつもの癖で布団から手だけ出して枕元に置いてあるはずの携帯を探すが、どうにも見つからない。仕方なく直接探そうと目を開けると、隣であたしを見つめる目と視線が交差する。
そういえば、昨夜は花澄のあまりの可愛さに我慢できなくなって押し倒したというか、襲っちゃったんだっけか……。
今更ながら自分のしたことの大きさに焦り始める。もし訴えられでもしたら間違いなくあたしの人生は終わる……よね。大学も退学になってフリーター街道まっしぐら!?
それどころか娘を襲ったなんてことが彼女の両親に知られたりしたら怖いおじさんたちに……。
自分でもとんでもない想像が一気に頭の中で広がりパニックを起こしそうになる。
「起きた?」
「お、おはよう、花澄」
声の様子は昨夜と変わらない。もしかしてこれなら怒ってないかな?
「え、えーと、昨夜は急にあんなことしちゃって、ごめん。 ……お、怒ってるよね?」
「凪沙、貴女、今日の予定は?」
花澄はあたしの質問には答えず、感情のない声で別の質問を投げかけてくる。うん、どう見てもこれ、絶対怒ってる。
「えと、チェックアウトしたらとりあえずアパートに帰る予定、です」
「……そう。ところで、凪沙はどの辺に住んでいるの?」
「横浜の左端の方だけど……」
「そんなに遠くないわね。なら、丁度いいわ。今から凪沙のアパートに行って、それから私の実家に行くわよ」
「そ、その前にひとつだけ確認させて、昨夜のことは怒ってない?」
「私をキズモノにしたんだから、きちんと責任とってもらうわよ。……貴女を、私の恋人として両親に紹介するわ」
後半は消えりそうな声で聞き取りづらかったけど、確かに恋人として両親に紹介するて言ってたよね。どうやら怒ってはないようだけど、これはこれで逃げ場なし?
「いきなり両親に紹介だなんて、ちょっと早すぎるような……」
「出会って一日もしないで押し倒した人の言うこと?」
「……ごめんなさい」
問答無用で封殺された。
「……私ね、お見合いをしないといけないの」
「え……」
「形だけのお見合いをして、その数日後には婚約して、夏休みが開けると同時に退学して政略結婚の出来上がりと。それが私に突きつけられた現実。……だからせめて、一度だけでいいから自由に旅をさせて欲しいと親に願い、この旅館に来たの」
「そんな……」
ここに来てやっとあたしは彼女が時折見せていた、悲しそうな表情の意味を知った。
寮付きの学校に入れたのも、結婚まで他の男に惑わされないようにするためだろうか?
自分の娘でも構わず政略結婚に使う。あたしの生きてきた世界とはまるで違う、同じ世界のはずなのにかけ離れた世界。そんな中で彼女は生きていた。
「話自体は何年も前から聞いていたのよ。ずっと仕方ないと諦めてた。けど、凪沙と出会って……肌を合わせて……やっぱり、自分の人生だもの、自分で道を選ばなきゃダメだと思ったわ」
親の意向で決められた人生に反旗を翻すのは別に悪いとは思わない。けど、彼女はまだ学生で、なんだかんだ言っても未成年で親の庇護の下にいることに変わりはない。学費だって当然出してもらっているはずだ。
「で、でも、そんな簡単に親に逆らえるものなの?」
「昨晩話してくれたわよね『人はきっかけさえあれば、良くも悪くもいくらでも変わることができる』と。凪沙だって引きこもり寸前だったのが、先輩のおかげでバイクで走る喜びを、風を切る楽しさを知ったからこれだけ変われたんでしょう? 私は、凪沙との出会いが……私のきっかけと信じるわ」
そういえば昨夜のおしゃべりの中で、そんなことも話したっけかと今更ながら思い出す。
昨夜は布団の中での花澄が可愛いすぎて、すっかり、忘れてしまっていた。
アノ時の花澄は最高に愛らしかったんだもんな……。
「というわけで、いいわね? といっても、凪沙に拒否権はないけど」
甘い記憶の反芻から現実に戻される。
「はい……」
素直にうなずき同意を伝える。
事実は事実で正直、何を言われてもあたしは反論はできない。むしろ警察に突き出されないだけでも御の字というものだ。いや、自業自得なんだけどさ……。
「……えーと、本当にあたしなんかでいいの?」
言ってからすぐに馬鹿なことを聞いたと軽く後悔した。
「と、当然でしょ! 凪沙は私のモノで、わ、私は凪沙のモノなんだから……ほら、なにぼうっとしてるの、さっさと起きて服を着なさい! いつまで裸でいる気なの」
自分も裸じゃないかと思ったが、声に押され、慌てて飛び起きようとする。
「ああ、その前に」
……不意打ちだった。いや、正確にはお返しとでも言わんばかりに、今度はあたしが花澄に口づけられた。昨夜と同じ甘く、優しい香りにまた襲いたくなるのをぐっと堪える。
ゆっくりと唇が離れると、花澄は一瞬で頬を紅に染めて、あたしに背を向けてしまった。
そして背中越しに震える声で一言だけ。
「お、おはよう、凪沙」
だめだやっぱり可愛すぎる。
どうやらあたしも花澄に首ったけになってしまったようだ。