カサカサ
朝、学校へ行こうというとき、テレビで夕方から雨が降ると言っていたのでビニール傘を手にとって家を出た。
「はあ……」
思わず溜め息が出た。
私は雨が嫌いだ。
今は青く澄み渡っていて、この上なく快晴なこの空も、今日雨が降るのだと思うと恨めしい。
中学二年生の時、そのころにとっては三千円という大金をはたいて傘を買った。綺麗な水色に水玉模様の可愛い傘だった。私も一応女の子なので身につける物、持ち歩くものには拘っていた。
その傘を買った直後は雨が降るのが待ち遠しくて堪らなかった。そしていざ雨が降るとその傘を得意げにさして上機嫌で学校に向かったものだった。
だけどその傘は購入して一月もしないうちに失われた。盗まれたのだ。
雨の日学校にその傘をさしていって帰るときには傘立てになかった。事を荒だてなくなかった私は先生に葉言わなかったが自分なりに必死で探した。全ての学年の傘立てを隈なく探しまわった。次の雨の日もその次の雨の日もそれを繰り返したが結局見つからなかった。
そのことがあってから使う傘は飾り下のないビニール傘になり、雨の日は大嫌いになり、少し人間不信になった。
そんなわけで、私は雨が嫌いだ。
ぽつぽつと、雨音が聞こえた。
私は周りに気付かれぬようにそっと溜め息をついた。
私は今学校の会議室にいる。委員会の話し合いで招集されたのだ。会議は思ったより長引いており時刻はもう五時を過ぎていた。
程なくしてやっと解放された。
会議室を出て、窓から外を眺めると雨は本降りになっていた。これでは私じゃなくても溜め息が出るだろう。
教室に荷物を取りに戻り、早々と玄関へと向かった。学校内はシンと静まり返っている。
「……くそっ」
反射的に舌打ちと汚い言葉を口から出た。
私の傘が無くなっていた。
「女の子がそんな言葉使っちゃだめだよー」
いきなり後ろから発せられた声に私はびくりと身体を震わせた。
そこには一人の男子生徒が立っていた。
「………」
「あ、驚かせてごめん。木川さん」
「誰? どうして私のこと知ってるの?」
いらだっていた私はつい強い口調になった。
「え? 覚えてない? ていうかさっきまで一緒にいたんだけど」
「……同じ委員会?」
「そう酷いなあ。今まで二、三回は顔合わせているのに」
元々じゃんけんで負けて仕方なく入った委員会だった。だから毎回真剣に話など聞いていなかった。メンバーも同じクラスのもう一人の人しか記憶にない。
「ごめん……」
「いやいや、じゃあ改めて、笠原晴明です。ところでどうしたの? そんな悪態ついて」
「傘が無くなった」
「ああ、盗られたんだね。平気で盗ってくやつ多いからね」
「まったく……」
本当にまったく。平気で人の物を取るなんてどんな教育を受けてきたんだろうか。そんな奴らは雨のせいでハンドル操作を誤ったトラックに撥ねられろ!
なんて残酷なことを考えるほど今の私は荒れていた。
「あっ……」
「どうしたの?」
笹原がいきなり声を上げた。
「俺の置き傘もやられたわ」
「……ご愁傷様」
「本当に、まったくだな」
雨足は弱まることなく降り続いている。私達二人は途方もなく玄関でただ突っ立っていた。
「ねえ、やられたらやり返そうって思わない?」
笹原はそう言って傘立てに残っている数本の傘を指さした。
「一緒になりたくない」
そんな発想をする笹原に私は軽蔑を込めてそう言った。
「冗談だよ」
笹原は慌てふためくことなくそう言った。本当に冗談だったのかもしれない。
「家は遠いの?」
笹原がそう話を振った。
「歩いて二十分ぐらい、そっちは?」
「いつもはバスだけど、今日はもう最終便行っちゃったからもう電車しかない」
暇からか、沈黙の気まずさからか、両方か、私たちはぽつぽつと会話を始めた。
「ああ、不便だよね」
「ほんとに、一日二回しか止まらないなんて」
学校のすぐ前にあるバス停は一日に二回――生徒が登校する時と下校するときにしかこない。だから部活などをしていて帰りが不定期な生徒は電車を利用するしかない。
「雨って好き?」
「嫌い」
私は即答した。
「どうして?」
「……別に、濡れるから」
「いや、その否定のしかたからしてもっと他にわけがあるでしょ?」
見透かされたのは癪だったが、取り立て隠す事でもないし、それに誰かに愚痴りたい気分でもあった。
「中学校のころ……」
そうして私は中学校時代にあった嫌な思い出を滔々と話し始めた。
「なるほど、それは雨の日は嫌な気分になるね」
「そう、だから私は雨が嫌い」
確かめるように私は言った。
「俺は結構好きだけどな、雨」
鉛色の空を見上げて笹原は言った。
「どうして?」
「俺は運動とかあまり得意じゃないから、運動会とか、マラソン大会の日はずっと雨降らないかなって思ってた。それになんだか許された気がする」
「……ん?」
最後の言葉の意味が分からず私は聞き返した。
「なんていうか『此処にいてもいい』って……、うーん、どういえばいいのか分からないけど、そう例えば、休みの日。俺は専ら家で本を読んだり映画のDVDを見たり、外に出ることがほとんどないんだけど、そんな日に青い快晴の空だと、こんな良い天気なのに部屋にいていいのか? 外に出ろって責められてる気がする。だけど雨だと『ああ、此処にいてもいいんだって』……そんな出不精の考えです」
最後の方は段々と語尾が弱くなっていった。自分でもよくわからないことを言っているのが分かったのか、笹原は恥ずかしそうに少し俯いた。
「此処にいてもいい、か」
その気持ちが分からないわけでもなかった。
雨だから仕方ない、そんな風に雨を言い訳に使うことはあっても『許されている』なんてそんな風に考えたことはなかった。
「あ、それに」
「……それに」
「こうやって木川さんと話ができた。雨のおかげで」
空模様とは正反対の笑顔で笹原は言った。
あまりの不意打ちに私の頬は熱を帯びて赤く染まった。それを隠そうと私はそっぽを向いて俯いた。
雨は依然として降り続いている。
少し肌寒くなり、私は徐に両腕を抱いた。
「寒い?」
それを見た笹原は心配そうにそういった。
「少しね」
照れを押し隠すようにぶっきら棒に私は言った。
「……、あ、そ、そういえば鞄に折りたたみ傘あったや」
「……」
その言動は余りにも不自然で、演技ということがまるわかりだった。それゆえにどう反応していいものか私は分かりかねた。
「はい、貸してあげる」
「えっ」
笹原は自分の鞄から取り出した黒い折りたたみ傘を強引に私に手渡し、
「じゃっ」
そう言って雨の中を駆けだした。
「ちょっとっ」
そう叫ぶが彼は止まらず、校門を抜けてすぐに見えなくなった。
残された私は呆然と立ち尽くす。手に残る無骨な黒い傘を見つめる。
彼が過ぎ去って数分、まだ私は立ち尽くしていたが、此処にいても仕方ないと思い、黒い傘を差して私は家路についた。
雨、といえば、傘、その連想は余りにも簡単だろう。雨が降っていたら自分の鞄の中に折りたたみ傘があることぐらいきっとすぐ気付くことだろう。だからきっと彼は気付いていたはずだ。それなのに暫く私と一緒に雨宿りをしていて、最後には私に貸して走って帰って行った。どうして?
『こうやって木川さんと話ができた。雨のおかげで』
あの台詞が頭の中で反芻された。
私と話をするために、わざわざ下手な芝居を打った?
「……うぅ」
そう思うとまたしても顔が赤くなった。
その日の夜は中々寝付けなかった。
笹原から借り受けた黒い折りたたみ傘は現在、私の鞄のなかにおさまっている。
昨日、家に着くなり私は傘の手入れを始めた。まず濡れたままにしない。濡れたままにしているとサビ汚れの原因にもなるし、バクテリアの繁殖で異臭がしてくることもある。だからすぐにタオルで水分を拭き取った。次になるべく短時間で乾燥させる。
ここまでやる必要はないと思いながらも、借りたからにはちゃんとした状態で返さないと私の気が済まなかった。
傘の手入れの方法をよく覚えていたなと思った。ほんの一カ月ぐらいの間だったけれど、あの傘を使った日は手入れを書かすことがなかった。もし泥などで汚れたら薄くした中性洗剤をスポンジに含ませ表面を拭き、次に水で拭く。そして干すときは直射日光をさけて陰星をする、なんてことも覚えていた。
この知識を再び使うことになろうとは思わなかった。
借りた傘は今や新品同様にピカピカになっていて、カサカサと私の鞄の中で次の出番を待ちわびている。
さて、この傘をどうやって返そうか。
直接笹原の教室に返しに行くのが一番手っ取り早いとは思ったが、できればそれは控えたい。違う教室の生徒が教室に訪れるというのは目立つものだ。いらぬ噂が立つのは私にとっても、笹原にとっても不本意なことだろう。
結局この日は傘を返す事が出来なかった。笹原の教室の前を行ったり来たりしてみるものの、彼とは出会うことなく休み時間は終わり、ならば放課後と教室を少し覗いてみたが既に返っていた模様だった。
それから、何度か笹原と廊下でニアミスすることがあったが、私は無愛想に会釈することしかできなかった。しかし私のそれは他人から見たら会釈ではなかったらしい。
「ねえ、悠」
共に次の移動教室へと向かっている友人が訊いた。悠とは私の事だ。
「何?」
「あの人と知り合い? さっき手上げて挨拶してきた人」
「ああ、同じ委員会」
「そんなに嫌いなの?」
「……ん? 別に」
なぜそんな事を訊くのか私は理解できなかった。
「じゃあ、なんであんな露骨に顔背けてたの?」
「え……、そんな風に見えた?」
「うん」
「普通に会釈したつもりだったんだけど……」
そうか、他人から見ると私の会釈はそんな風に見えるものだったのか。もしかしたら笹原にも彼女と同じ様に変な誤解を与えたかもしれない。
そんなの、直接話をすればいいだけの話なのだが、それが中々難しかった。笹原の前でうまく喋れる自信がなかった。ただ傘を返すだけなのに。
そうして地団太を踏んでいるうちに数日が過ぎた。
鞄の中で笹原の傘がカサカサと音を立てる。まるで早く主人の元へ返せと言っているように。
もう少し待っていて、きっとチャンスがくるから。そう宥めるように鞄の上から傘を撫でた。
その日チャンスはやってきた。
今日は降水確率0パーセント、一日快晴の空が続くでしょう、なんてお天気キャスターは言っていたが昼過ぎから雲行きが怪しくなり、午後の授業中の最中にとうとうぽつぽつと雨が降り始めた。
一日晴天を確信していた皆は、あーあ、と小さく溜め息を漏らした。私はその中ひときわ大きな溜め息をついた。
やがて授業が終わり放課後、雨はなお降り続いている。
運よく傘を持っていてすぐ帰って行くもの、親の迎えを待つもの、取り敢えず教室でだべっているもの、そして私の様に玄関で立ちつくしているものが数名。
今日は置き傘がなかったのでどうしようかと途方に暮れていた。
走って帰れば十数分で着くので別にそれでもよかった。親を呼ぼうにも共働きなのでまだ仕事中だ。では親の仕事が終わる二時間後まで此処で立ちつくすよりは濡れても走って帰った方がいい。
しかし、私が此処に突っ立っている理由は他にあった。彼――笹原を待っていたのだ。
私は放課後になってすぐ此処に立っている。その間彼はまだ現れない。
まだか、まだか、と終始緊張しながら私は立っていた。
しかし、まだ笹原は現れない。
そろそろ足が痛くなってきた。立ち始めてから優に三十分は経過しただろう。始め、私と共に玄関に立っていた生徒はもう既に迎えが来て返ってしまった。
今、此処には私一人しかいない。
心なしか、雨が弱まってきたように思う。
もしかして私が来るより先に帰ってしまったのだろうか。雨も弱まってきた事だし今日はもうあきらめて帰ってしまおうか。
「あれ、木川さん?」
諦めかけていたとき、不意に後ろから声を掛けられた。
確かめるまでもなく声の主は待ちわびた笹原だった。
「あ……」
「どうしたの? あ、もしかしてまた傘ないの?」
「えっと、それもあるけど。……君を待ってたの」
「え、俺? 何かあった?」
私は急いで鞄の中から借りていた折りたたみ傘を取り出した。
「これ、返そうと思って。ごめん遅くなって」
「ああ。そういえば貸してたね。最近天気よかったからすっかり忘れてた」
笹原は無邪気に笑ってそう言った。
「はい、……ありがとう」
「どういたしまして。あ、でも木川さん、今日傘ないんじゃないの?」
「あ、うん。ないけど……」
雨はもうほとんど小雨になっていたし、私は走って家まで帰るつもりでいた。
「じゃあ、もう一回これ使って」
笹原は一度受け取った傘をもう一度私に手渡した。
「え……、じゃあ君はどうするの?」
さすがにもう一度向こうに濡れてもらうのは気が引けた。
「俺は……、ほら来た」
そういって校門の方を指さした。
ちょうど学校前のバス停にバスが到着した。
「そういうわけだから、もう一回使ってやって」
そう言うと笹原はバス停へと駆けて行った。
いつの間にかいままで無人だった玄関には人が溢れていて笹原に続いて吸いこまれるようにバス停へと走って行った。
そうか、皆バスを来るのを待っていたのか。
バスが行ってしまうと玄関には再び静寂が訪れた。
結局、私は彼の傘に二度もお世話になった。
そんなわけで今も私の鞄の中には笹原の折りたたみ傘が入っている。
ああ、今度はいつ笹原と会えるのだろう。
否、会うのは簡単だ。笹原の教室にいけばいつでもかれはそこにいる。でもだめなんだ。何か理由がないと面と向かって会えない。何せ遠くからみつけるだけで鼓動が跳ねあがるのだから……。
今日の天気は快晴。
清々しい青空が一面に広がっていて、まばらに浮かぶ雲がゆっくりと風に流されていく。
いつもなら口角が上がる良い天気。しかし今の私は違った。
正直に認めよう。
私は雨を待ちわびている。
いつかの自分と同じ様に。
懐かしい感覚。
だけど昔とは少し違う。昔は純粋に雨を待ちわびていたけど今の私は雨の向こうにある違うものを求めている。
どんな形にせよ、もう一度私が雨を求めるとは思わなかった。
しかし、どんなに求めても傘を再度借りたあの日以来、晴れの日が続いている。
一日、一日と晴れの日が続くにつれて焦燥感が募ってくる。そんなに日があいたら余計会い辛いこと甚だしい。
カサカサと鞄の中で微かな音が鳴る。
その音を聞く度になんだか急かされているような気になる。もうすこし待って。
朝、真っ先にすることは新聞の天気予報を見る事。
「……おっ!」
晴れマークが並ぶ中で一日だけ、曇りのち雨の日がある。それは明日だった。その後はずっと晴れ、すなわちチャンスは明日しかないわけだ。
「よし」
意味もなく鞄からあの傘を取り出し、開いてみた。
「明日、ちゃんと返してあげる」
ただ、傘を返す、それだけ度の事にここまで決意を表す意味が自分でもわからなかった。
そして明日になった。
空には薄く雲がかかっている。
私は薄くほくそ笑んだ。
授業中もずっと空を見上げていた。
「どうしたの、今日はずっと上の空だね」
なんて友達に言われるほどだった。
別に上の空ってわけではない。ただ、まだかまだかと空を凝視していただけだ。天気が気になって授業など聞いていられなかった。……これを上の空というのではないか?
「もしかして恋?」
「――違うっ」
私は即座に否定した。
「はは、怪し」
友達はそういってからかったが、深く追求されなかったのでありがたかった。
恋、かどうかはまだ分からない。いや、分かろうとしていなだけかもしれない。
浮ついた気持ちは一旦押し込めて、ただ放課後を待った。
最後の授業が終わるという頃、ぽつぽつと雨が降り始めた。
一番にそれを見つけた私は「やった」と小さな歓喜の声を上げた。
そして授業が終わり放課後、私はまたも待ち伏せ作戦を敢行しようと素早く身支度を済ませ玄関へと向かおうとしたところ「木川」と先生に呼び止められた。
なんですかと聞き返すと、今日これから委員会があるとのこと。私の表情はとたんに空と同じ模様になった。
「そんないやそうな顔をするな。確かにいきなりで悪いが先生だってついさっき知らされたんだ」
「……わかりました」
申し訳なさそうに言い訳する先生に私は素直にそういった。
いや、しかし待てよ。私は思った。
委員会ということは当然笹原もその場にいるはず。変える時間はおのずと一緒。そしておそらく委員会が終わるころにはバスはもう行ってしまっているので以前のようなことにはならにはず。
これはチャンスだ! 私は足取り軽やかに委員会へと向かった。
会議室には各学年各クラスの代表二名が募っている。前の委員会のときには気づかなかったが笹原は私の斜め後ろに座っている。
そわそわして落ち着かない。前では委員長が来週行われる美化活動がどうとか熱心に話しているがまったく耳にはいってこない。意識は全て見えない斜め後ろに向かっていた。
彼に見られていると思うと座り方さえ忘れたように思えて体がぎちぎちになった。
まるで拷問のような時間だった。早く終われと思うと同時に終わってからどうするという思いが交差した。
それでも時間は過ぎて委員会は終わった。
私は逸早く会議室を出た。そして結局、当初の作戦通りに行動した。
誰もいない玄関に立ち尽くす。
やがて同じ委員会の面々が表れ、それぞれ三々五々に傘を差して帰っていった。
そして待ち人が来た。
「委員会、お疲れ様」
後ろから笹原がそう声を掛けた。
「お、おつかれさま……」
思わず声が上ずってしまった。
「ああ、雨だねー」
「うん。今日、傘あるの?」
「降るとはわかってたけど、どうせバスだしいいかなあと思って持ってこなかった。まさかいきなり委員会に駆りだされるとは思わなかったしね」
笹原は恨めしげにそういった。
「本当に、いきなりだったね……。傘ないんでしょ? はい、これ」
私は借りていた傘をとうとう手渡した。
「ああ、貸してたね、そういえば。はは、ナイスタイミングのいいときに返してくれたね」
「うん。ありがとう」
「木川さん、傘は?」
「……あっ」
雨が降ることは私も分かっていた。しかし鞄の中に傘がある――笹原に返すはずの傘があると思って、自分の傘をすっかり忘れていた。
「まさか、また盗られたの?」
「ううん。純粋に忘れてきた」
「……今返してもらってなんだけど、使う?」
笹原はそう言ってまたも返した傘を差し出してきた。
「そんな、二回もお世話になったのに……それに、君はどうするの?」
「二度あることは三度ある、俺は走って帰ればいいよ」
「そんな……」
駄目だ。これじゃまた同じことの繰り返しだ。なんとかしなければ。私は自分にそう言い聞かせた。
……そういえば、彼が向かおうとしている駅は帰り道の途中にあるではないか。今さらながらそんなことを思い出し、そして一つの案が浮かんだ。
それを提案するにはかなり勇気が必要だったが、私は意を決して口を開いた。
「ねえ、今から駅に行くんでしょ?」
「そうだね。もうバスはいっちゃったし」
「じゃあ、その……私の家も駅の方角だから、一緒に、帰らない?」
そう、私が提案したのは一つの傘を二人の男女で使うアレである。言葉に出すのも恥ずかしいアレである。よく黒板などに落書きされるアレである。
「あ、じゃあそうしようか。家、駅のほうだったんだ」
そういうと笹原は傘を開き「行こうか」と言って歩き出した。
私も慌てて傘の中におさまった。
「……」
「……」
歩き始めて暫くは二人とも無言だった。
私と一緒に歩いて笹原は恥ずかしくないだろうか。私は此処にいても良いのだろうか。そんなことを考えていると彼の言葉が頭をよぎった。
『此処にいてもいい』
そう、此処にいてもいいんだ。隣をあるいていいのだ。だって雨だから。うん、きっと許してくれる。誰が? それは、分からない。だけど彼の言葉の意味は少し判った気がした。
私は一人で納得して、頷き、にやにやした。
「もしかして、好きになった?」
笹原はいきなり直球でそう訊いてきた。
え? 何? 本当になんでいきなり……。どうしよ、どうしよ、黙ったままじゃ変に思われる。何か、何か言わないと。ええと、ああ、どうしよ。
そして気づくと、
「……うん」
観念して首を90度近く下に傾けて小さくそう呟いていた。
「よかった、雨の素晴らしさを分かってもらえて。雨嫌いって言ってた割にはなんか笑顔だし、もしかしたらって思って」
予期していた返答とは違った台詞が耳に入り、私は疑問符を浮かべた。
「……ん?」
「雨って言葉も好きだな。五月雨、時雨、秋雨、いろんな雨があってなんか面白いと思わない?」
「…………」
好きになった……、何を? もしかして、雨を好きになった? …………。
私は勘違いに顔を赤らめ、そして紛らわしい言い回しをした笹原を睨みつけた。
「な、何?」
「……なんでもない」
大きくため息をついて前に向き直った。
まあ、いいか。今はまだ。
「うん。好きだよ」――雨も。
そろそろ別れの駅が見えてきた。ここまできて気づいたが、駅で彼は電車に乗って帰る、私は家までさらに歩く、ということは私はまだ傘が必要ということだ。きっと彼のことだから要らないといっても貸してあげるというだろう。嗚呼、またこの傘にお世話になるのか。また返しそびれたな。
でも、今度は雨じゃなくても会いに行こう。
最後まで読んでいただきありがとうございます
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