肆 the crimson moon 後
注意!PG-12!
*このお話には一部暴力描写、生々しい死体の描写がありますので自己責任の下でお読みください。読んでからの苦情は一切受け付けられませんのでご了承くださいませ。
雪見月の四日。
今日の月はまだ未完成の小望月だ。
星は漆黒の空に宝石のようにきらめいて、見上げる人々の目を楽しませる。
昨日から銀の蜘蛛を持つ者たちは長期の仕事に出かけており、残る者は少ない。
いつもより静かで暗い夜だ。薄闇の中、鎮守の森の入り口に立っている人影は華奢だ。黒の仕事着を身に纏い、銀の刺繍が施されたマントを羽織っているその人物の名はイリア・エメルフィード。今年で十七を数える少女だ。
足元の葉を踏んで森の中へ進み、ちょうど十一年前、育ての親と出会った場所で足を止める。
榊岩の周りには楓の大木。そのうちの一本にそっと触れ、温もりを感じるように幹を抱きしめる。湿った皮に頬を寄せて目を瞑ると本当に木の鼓動が聞こえてくるようだ。
そのまま動かぬこと数分。ゆっくりと双眸を開き、形の良い唇でイリアは呟いた。
「ごめんね」
離れると同時に太い幹から炎が上がった。
足元に落ちていたまだ葉の残る枝を拾い上げて火を移し、それを反対側の木へ放る。
少しずつ炎が木から木へと移っていくのを確認して、イリアは元来た道を闇に紛れて走り出した。
目指すのは司令塔だ。
総長、副総長、そして金の蜘蛛を持つ者は司令塔に住まうのが掟となっている。イリアの標的とする者も必ずそこにいる。その人物のことを考えると知らず握るこぶしに力が入った。それが怒りからなのか、悔しさからなのかはイリアには分からない。
誰にも気付かれずにたどり着くと、イリアは一気に上へと駆け上がる。足音は鳴らない。
ところどころに切り取られた窓からは輝く月と、きらきらしい星の光。
このまま目的の部屋まで突き進む予定が、二階と三階の間で見覚えのある影に阻まれてしまった。
厳つい体つきの、金の蜘蛛を持つ者。コルドバだ。
「おや?イリアではないか。こんな時間に何用かね」
コツ、何食わぬ顔で階段を一歩下りる。イリアは視線を逸らさずにマントの下の短剣へ手を伸ばした。
「…夜分遅くに大変申し訳ございません。副総長に早急にお話があるのです」
「そうか…。しかし副総長はもうお休みだ。私が言伝よう」
「いいえ。直接お話しなければならないことなのです」
また一歩、足音を立ててコルドバが近付く。
「イリア、時と場合は考えねばならぬぞ」
「承知致しております。けれど緊急なのです」
そして、また一歩、距離は縮まる。
イリアは引かない。引けない。静かに、太ももに括った短剣を握り締める。
「さあイリア、帰って休みなさい」
瞬間、コルドバの背後から銀の切っ先が飛んでくるのをイリアは見逃さなかった。一瞬で短剣を抜き、目前で刃を受け止める。
ガキィィィン…
甲高い音を上げて細やかな光が散った。互いに後退し、間合いを取る。
「さすがは副総長だ。そうは思わんか?イリア」
「お話の意味が分かりかねます」
けれどおおよその察しはつく。読まれていたのだ。
銀の右翼を構えるイリアに、コルドバは鼻で笑った。
「副総長はお前が今日奇襲に来ると分かっておられたのだよ」
話す口調は優しげだが、声音は冷ややか。口元に実に楽しげな笑みを浮かべたまま、コルドバは続ける。
「有り難く思いなさい。副総長はお前が拾われた日を覚えてくださっていたのだ。お前は、そんなお方を殺そうとでも言うのか?」
「…お話の意味が分かりかねます」
再度同じ言葉を返したと同時にイリアはコルドバに向かって銀の左翼を抜き翳した。防ぎきれなかった厳つい肩から血が噴出し、コルドバはよろける。
戦線を離脱した幹部など、最早イリアの敵ではなかった。
果敢にも立ち上がって大刀を構え直したコルドバに、今度はイリアが嗤う番だった。
「私を甘く見てもらっては困ります」
コルドバが刀を振り翳す。しかしそれより一瞬速くイリアの短剣が急所を貫いた。
「ぐ…があぁ!」
倒れてくるコルドバを軽い身のこなしで避けると、彼は抵抗する力もなく階段を落ちていった。
浴びたコルドバの返り血を拭うことなく、イリアは再び上を目指す。
拾われたばかりの頃はここで父と共に暮らしていた。暇を持て余していた幼い頃のイリアは司令塔のあちこちを探検したため、迷うことはない。どの廊下がどこへ繋がり、どの扉が何の部屋のものなのか。イリアは誰よりも熟知している。ここは言わばイリアの実家だ。
そうして辿り着いた三階。その一番奥が副総長の部屋だ。
隠れることなく堂々と扉を開けると、冷たい荘厳な空気の中、窓際に副総長が立っていた。その右手には愛用のサーベル。
副総長はゆったりとした動作で振り返り、まるで全てを見ていたかのように薄い唇を歪ませた。
「全く其方は可愛い同胞だよ、イリア」
突如、背筋を悪寒が走って、カルサは飛び起きた。
夕刻のイリアの表情が何度もフラッシュバックして、その度に足元がおぼつかない様な不安に襲われる。
イリアがあんな風に優しい笑顔を見せる事は初めてだった。
だからこそ、余計に不安になる。
水を飲もうと瓶に手を伸ばすと、もう空だった。面倒臭いが、目も覚めてしまったので井戸から直接飲むことにする。気だるげに立ち上がり、扉をこじ開けてカルサは驚いた。
真夜中だと言うのに空が明るいのだ。
目を凝らしてよく見ると、遠くで火事が起こっているようだ。あの方角にはラスラがある。
「…っイリア!」
気がついたら駆け出していた。嫌な予感がする。
鍛え上げられた駿足を生かし、風にも似た速さで森の中を駆け抜けていった。
気配に気付いたときにはもう遅かった。一瞬にして自由を奪われる。両手を捻りあげられ、鈍い音を立てて短剣は床へ落ちた。
「金の蜘蛛を持つのは一人ではないんだよ、イリア」
「デアドル…殿…っ」
耳元で声がして、嫌な鳥肌が立った。
油断していたわけではない。標的とする副総長を目の前にして気が回らなかったのだ。
「やはりカルサを殺してはいなかったか」
副総長がゆるりとした足取りでイリアの方へと向かって来る。イリアは殺気をこめた目で睨みつけた。
「聞いたんだろう、すべてを。カルサをどこへやった?」
問う表情は至極穏やか。けれどそれは冷酷な顔を隠す仮面だとイリアは知っている。
「知っているのだろう?答えれば其方の命は助けてやらんでもないぞ」
イリアは是とも否とも言わずに手を伸ばせば触れるところまで来た副総長を蹴った。
刹那、副総長はサーベルを抜き翳し、イリアを拘束するデアドル共々切り付けた。
戦闘能力に長けたイリアは反射的に身をずらし致命傷を逃れたが、イリアで死角になって動きが見えなかったデアドルはまともに磨き上げられた刃を喰らう。
それによって生じた隙をイリアは見逃さなかった。
デアドルが崩れるのと同時に己の短剣を拾い、副総長に斬りかかる。
甲高い金属音を響かせて薄闇の中で銀が散った。
音もなく床に降り立って間合いを取り、イリアは再び副総長に向かって煌く両翼を振り翳す。すばやい動作で副総長はそれを弾いた。
その直後、イリアは腹部に鋭い痛みを感じる。小さくうめいてそこに手をやると、生暖かいモノが掌を濡らした。弾いた直後に斬り付けられたのだ。まさに目にも止まらぬ早業。
一瞬ふらりとよろめくが、何とか持ち堪えた。出血はそんなに酷くはない。
イリアは床を蹴り上げ、その一歩で副総長の頭上へ移動する。右の短剣を真っ直ぐに付き立て、落ちてくるイリアを副総長は大きく薙ぐ。
弾かれるほんの一瞬でイリアは左の短剣を副総長の心臓に向けて投げた。
しかし、ラスラの歴史に名を残すほどの武将と謳われる実力は本物だったようだ。刃は副総長の肩を削るだけで床に突き刺さった。
「総長の弔い、という訳か?」
片翼だけを構えたイリアに不敵に嗤ってサーベルを振りかざした。イリアは短剣で受けるが、重力の法則と大の男の力には敵わない。
己の剣が鼻先まで距離を縮め、副総長がさらに体重をかける一瞬前、腕の力を緩めてするりと床と副総長の間から抜け出した。
追うように振り返った副総長の鼻先に鋭い切っ先を衝きつける。
一気に形勢が逆転した。
「…やはり、父を殺したのは貴方だったと言う事ですね」
暗い灰の右目と、深い藍の左目のそれぞれには憎しみと哀しみとがが滲んでいる。
その殺気で一瞬怯んだ副総長の隙をついてイリアはその手からサーベルを払った。
「答えぬ事は、是と取りますがよろしいですか」
大窓からは小望月の輝かしい光。それを浴びて佇むイリアの黒髪はまるで黒曜石のようだ。
紅い唇は艶やかに煌き、滑やかな白い肌を彩る返り血も月光を反射する。
雪雲色の右目と、雨夜色の左目は仇を捉えて離さない。
長い睫毛に銀の粒子が纏い、僅かに揺れたと同時にイリアは副総長を貫いた。
声も出せぬまま副総長はその場に転がる。イリアはサーベルを拾い上げ、とどめと言わんばかりにそれを眉間に突き刺した。ずぶ、と音がして緋が溢れる。
こんな状態になってもまだ生きようとするのは人間の本能か。
その身体はピクピクと指先が動き、幾度か足が上がっては床に叩き落ち、やがてそれは止んだ。
イリアはふらりとした動作で床に刺さった短剣を拾う。顔をあげたその時、突然目の前が真っ暗になった。よろめいて壁に手をつく。
動いたせいで腹部の傷口が広がり、出血が酷い。それを意識した途端、最初に受けた傷が叫び声をあげた。思わず手をやると、そこからも生温かい雫が滴る。
全身の力が抜けたいリアは纏う衣が壁とこすれる音を立ててその場に横になった。
二つの剣は床に転がり、月の光を反射して鈍い輝きを放つ。
絨毯が敷かれた床に両の掌を押し当てて、イリアは呟く。
「カルサ…」
ボッと音を立てて大きな炎がイリアを包んだ。
同時に、司令塔のあちらこちらから炎が上がる。
鎮守の森はもう既に火の海だった。
けれどもカルサは立ち止まらない。炎の移っていないところを掻い潜ってこの先に見える司令塔を目指す。
ひたすら駆けて里へ出ると、炎は森から平屋へと移っていた。 慌てて逃げ惑う人々は死んだはずのカルサがいることに気付かない。
人ごみを掻き分け、やっとのことで司令塔に辿り着いたカルサは愕然とした。
めらめらと燃えさかる炎が司令塔の至るところに広がり、その全体を包み込もうとしていたのだ。
カルサは根拠はないが、確信する。イリアは司令塔の中だ。
「イリア!」
叫ぶ声と共に司令塔へ駆けたカルサの腕を浅黒い肌の大男が強い力で引っ張った。
「もうダメだ、入んな!」
「離せっ!まだ中にイリアがいるんだ!」
振り返り、腕を払おうとするカルサの顔を見て大男は目を剥く。
「カルサじゃねぇか!生きてたのか!どこ行ってた」
「そんな事はどうだっていいだろ!離せ!」
「それはできねぇ。どの道あれじゃあもう助からねぇさ」
ボンッと大きく爆ぜる音がして、二階の窓から火達磨が落ちてきた。そして三階の窓からは炎が飛び出し、四階へと移って行く。
それを見た大男はああ…、と落胆の声を上げる。
「諦めなカルサ。イリアはもう死んでる」
カルサはうなだれ、地に拳を叩きつける。鋭い石が刺さって血が流れた。
「…ふざけんな…」
肩が震え、涙が出る。
「俺は、信じねぇそ。信じて…なんか、やるもんか!…っ、ふざけんな!」
人々の叫び声も、炎が近付く音も、カルサの耳には届かない。
「イリア!」
声は、煙で暗く曇った空に吸い込まれていった。




