参 shoot the moon 後
注意!PG-12!
*このお話には一部暴力描写、生々しい死体の描写がありますので自己責任の下でお読みください。読んでからの苦情は一切受け付けられませんのでご了承くださいませ。
月は、生まれ変わる前の最後の姿。下弦の月。
薄く細く伸びる白い光は、地には届かず影を作ることはない。自分が今どこにいるのかさえ解からなくなるほど強い衝動に揺らぐ子の刻(午前零時過ぎ)。イリアはひらりとマントを翻して家を出た。家と家とを仕切る低い柵を越え、音を立てずにカルサの家に忍び入る。
真っ暗で、灯りの一つもない家の中。目が慣れるまでそこから一歩も動かず、慣れてようやく寝室を目指す。
音もなく部屋へ踏み入ると、標的となる人物は布団をかぶって夢路に向かっていた。規則正しく聞こえる寝息は深い眠りに落ちている証拠だ。
すらりとイリアは右の太腿から短剣を抜いた。研ぎ澄まされた切っ先は微かな光をも反射させて闇に散らす。
いくら昼は小春日和だったといってもやはり夜は冷え込む。足袋の爪先が氷のように冷たくなり、既にその感覚がなくなっている。短剣を握る指先もまた、冷え切って雪のようだ。
一度、大きく呼吸をすると吐いた息が白くなって消えた。
もう一度それを繰り返し、白い息が消えると同時。タンッと小さな音を立ててイリアは床を蹴り上げた。
僅か一歩で標的の真上へ。重力の法則によって落ちる身体は、音もなくその上に着地した。短剣の切っ先が勢いよく喉元を狙う。
が、それはその直前でピタリと止まった。
その格好のまま、イリアは微動たりともできない。ひそめる息はいつしか虫のように細く小さくなっていた。
あとほんの少し押し込めば、命は無事成功し、父の命は助かるというのに。
そうこうしている内に標的がうすらと目を開けた。直後、彼の意識は覚醒する。
嫌でも視線は絡み合い、瞳の色まで分かってしまう。
イリアは目を瞑り、開くと同時に短剣を大きく振り翳した。カルサは思わず身体を強張らせる。ぎゅっと目を瞑り、覚悟した。刹那、頬に当たる冷たい風の感触。
ドス、という鈍い音がした。
けれど来るはずの痛みを感じない。不思議に思って恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景があった。
「イリア!?」
カルサは慌ててその細い肩を両手で掴む。
「…できない…」
呟く少女の、雪雲色の右目と、雨夜色の左目からはらはらと零れるのはきらびやかな雫。
イリアが涙を流すのは初めてだった。
どうすれば良いのか分からず、動転した頭でカルサは必死に考える。
とりあえず、名を呼んでみた。
「イリア」
直ぐに返った声は常のものより弱くて小さい。
「ごめん…カルサ」
止まらぬ涙を必死で止めようとするイリアを、カルサは強い力で自分の腕に抱え込む。しばらく背をさすってやっていると、イリアは落ち着いたようだ。ゆっくりと身体を離し、床に落ちた短剣を鞘におさめる。
紅い唇から再び紡がれる言の葉。
「ごめん」
カルサは安心させるように笑顔でくしゃりとイリアの髪を撫で、次には真剣な面持ちで向き直った。
「イリア、何で…」
けれど最後まで言い終わらぬうちにその先が読めてしまったイリアはびくりと身を震わせる。
「…副総長から、命を授かったから」
答えた細い声を聞いて、カルサは息を吐いた。やっぱりそうか、と心中で呟く。
「ごめん、カルサ。あたし、命に背くことができないんだ」
「え?」
「命に背いた者は、死。家族共に。その掟は絶対だから、あたしは命に背くことができない」
カルサが何かを言う間も与えず、イリアは続ける。
「だからカルサ、逃げて」
見つめてくるのは雪が降った日の朝のように冷たい、不思議な双眸。
そして訪れた沈黙を、カルサは破る。
「それは、なんで?」
その答えを、本当は知っている。けれども問うのは、イリアの口から聞きたいからだ。
イリアの視線が思案するように泳ぎ、紅い唇が音を成さずに動く。何度目かで零れ落ちた声。
「…父さんを、喪う訳にはいかないんだ」
言葉と共に瞳は伏し目がちになり、長い睫毛が僅かに揺れる。
今度はカルサが視線を泳がせる番だった。
イリアに真実を話してしまって良いのだろうか。
自分が聞いてしまった全てを話すつもりでいたのに、声が詰まってしまってできない。
迷って、考える。そうしてようやく顔を上げた。
「イリ…」
「お願い。カルサ、逃げて」
遮って紡がれた声には緊迫さが感じられて、カルサは思わず声を飲み込んでしまった。
灰と藍の瞳。左右で違う、澄んだ双眸。
それと真っ直ぐに視線を合わせ、ゆっくりとカルサは口を開く。
「イリア。落ち着いて聞いてくれ」
再び手を置いた肩は、少しの衝撃でさえ折れてしまうのではないかというほどに細い。
重大な事実を告げる緊張から、心臓が大きく脈打つ。自らを落ち着かせるように大きく息を吸い込んだ。
「総長はもう、死んでしまったんだ」
イリアは一瞬、全ての音がなくなってしまったような感覚がした。
「う、そ…だ」
長い睫毛が大きく揺れ、小さく開かれた唇が微かに震える。
「嘘じゃない」
「嘘だ!」
「嘘じゃないんだ。だから俺は副総長に命を狙われてる」
「…」
カルサは静かに、自分が聞いた話を語りだした。
悲しそうに、辛そうに、時折身を震わせながらイリアは黙って聞いていた。いつしか布団についた両手は、指の先が青白くなるほどにそれを握り締めていた。
そして全てを話し終えたカルサが一息ついたと同時。ゆっくりとイリアが口を開いた。
「…副総長は西大陸を支配したいが為に父さんを殺したって言うの…?」
「俺には副総長の真意まではわからないけど、多分」
「じゃあ…あたしはどうすればいいの?また独りになっちゃうの?父さんがいないなら、あたしには生きる理由がない!」
布団に大きな染みが一つでき、続いて二つ三つとそれは増える。
「一族を追放されて、寒くて暗い森の中でずっと独りだったあたしを拾って育ててくれた。父さんは、あたしの命の恩人なんだ!その恩を返すためだけに今まで生きてきたんだよ!父さんがいないなら、あたしはどうやって生きていけばいいって言うの!」
一気にそう言うと、イリアは声を殺して泣き始めた。カルサはしばらく背をさすりながらイリアが泣きやむのを待っていたが、ふとイリアの言葉を思い返して気がついた。
「イリア、一族を追放されたって…?」
今の言葉は、カルサにはイリアは総長の本当の娘ではないという響きに聞こえた。
黒のマントで涙を拭って止め、止まらない嗚咽を消すように大きく息を吸ってイリアは告げる。
「あたしは、全てが終わる島の出身だから」
全てが終わる島。それは、西大陸の東海岸にある島の通称だ。その名はイグナル。そしてそこは東海岸で最も大きな国、アベンシアの領土だ。そこには、ある一族が数百年にも渡って生活している。
その一族の名は、
「エメルフィード…?」
西大陸でその一族を知らぬ者は誰一人としていない。
それは、最も有名な魔法使い一族の名であるから。
「そう。あたしはエメルフィード出身。だけど、追放された」
先程とは打って変わって、抑揚のない声だ。
それはいつものイリアの声音。
「なんで…?」
問うカルサに、イリアはどこか悲しげに笑った。
「分からない?」
揺れる痛みのない黒髪。
「目の色が左右で違うから」
笑みを作る口元が何だか儚げだ。その双眸の強い光に目が離せなくなる。
イリアは黒のコートを脱ぎ、服の左袖を引き千切った。
そこに現れたのは、肩から手首の先にまで広がる赤い痣。よくみればそれは首元まで続いているようだ。
「これは、死の呪。背中の全体にまで広がってる」
「死の呪?」
「これを刻まれた者は本当なら即座に命が尽きる呪いの名前だよ」
言って、再びコートに腕を通す。
「でもあたしは死ななかった」
フ、と自嘲気味に嗤う。
「助けられたんだ。ある人に」
夜風が窓をカタカタと鳴らす音が妙に響く。
泣いて腫れぼったくなった瞼を一度下ろして、イリアは続けた。
「生きなさい。この呪いが、体全てを蝕むその日まで。そう言ってあの人があたしを鎮守の森まで飛ばした」
未だ耳に残る、あの優しい声。
温和な顔立ちに、柔和な笑みで言ってくれた言葉は、イリアの心深くに刻まれている。
「アーリファエル・エメルフィード」
イリアがそう口にした一瞬、ビリ、と空気が震えた。それはその者の魔力がひどく大きいという証だ。名を言霊にするだけで空気が震えるほどの魔力を持つ者はそう多くはいない。
「それが、その人の名前。エメルフィードの中で最も強くて、優しい人」
外では、木々を荒く撫で去る風の音。
イリアは話しながらだんだんと俯いていった。だからカルサはその表情を見ることができない。
「イリ…」
「カルサ、お願いがあるんだ」
呼びかけるカルサの声を遮り、イリアは顔を上げた。
カルサの茶の双眸と、イリアの灰と藍の双眸が絡み合う。
「…何…?」
かすれた声は微かに震えていた。
「どこかに、逃げて」
やっぱり。心内で呟いてカルサはゆっくりと息を吐いた。
「逃げて、隠れて。東海岸へ行くといい」
「嫌だ」
「それかイグナル島。アーリファエル様に手紙を書くから持って行って。きっとかくまってくれる」
「行かない」
「今夜、もうすでにあんたは死んでる事になってるから。…ううん、違う。カルサ・ヘルデはもう、どこにもいない事にするから」
カルサの拒否の言葉を聞かず、イリアは息もつかずに言った。そして、真っ直ぐにカルサを見つめる。
けれどカルサは目を強く瞑ってしまう。決してその真剣な眼差しに耐えられなかったからではない。イリアに対して爆発しそうな怒りを押さえる為だ。
「絶対に嫌だ。俺は逃げたりなんかしない」
「でも!カルサはもう死んでるんだよ!」
「俺は生きてる!死んだかどうかはお前しか分からないだろ!」
風の音が強い。残り少ない葉も、今夜の強風でほとんど散ってしまうだろう。
哀しげに叫ぶイリアと怒りが頂点に達したカルサは互いに睨みあったまま動かない。
しばらくして、イリアがゆっくりと口を開いた。
「…だからこそだよ。」
「え?」
「あたしは、カルサ暗殺の命を受けてからずっと監視されてる」
それを聞いてカルサは視線を揺るがせた。動揺を隠すことができない。
「多分、あたしがカルサを殺せるのかどうか試してるんだと思う」
「…あ…」
だから。だから、イリアは自分を避けていたのだろうか。
会うことがなければ、言い逃れができるから。
監視の視線に気付いていたイリアと、気付いていなかった自分。
カルサは改めて、イリアとの能力の差を思い知らされた。
「…イリアは」
自分が思ったよりも発した声は小さかった。
「イリアは、どうするつもりなんだ」
けれどイリアに届くには充分だったようだ。
薄闇の中で、一度とて見たことのないイリアの柔らかな笑みをカルサは見た。
「逃げるよ」




