参 shoot the moon 前
注意!PG-12!
*このお話には一部暴力描写、生々しい死体の描写がありますので自己責任の下でお読みください。読んでからの苦情は一切受け付けられませんのでご了承くださいませ。
ドンドンドンドンドンッ
漆塗りの扉が大きな音を立てて震えた。
ベッドの上で東大陸のものだという書を読んでいたイリアは驚いて身を震わせる。
「イリア!」
聞こえた呼び声は己の最も近し者のもの。常ならば無視することも多々あるが、今日の声は何やら緊迫した響きを持っている。イリアは書をその場に置いたまま、足早に扉へと向かった。
「イリア!イーリーアー!」
いつものようにのんびりと聞き流されているのだろうか。中々出てこないイリアに、不安と焦りとが募る。
両の足はもう震えてなどいないが、まだ震えているような感覚に襲われて、カルサは再度名を呼ぼうと口を開いた。
が、それを驚きと共に飲み込んでしまった。
右の肩に人の手の感覚と、後ろから聞こえた声。
「おやカルサ。そんなに慌てて何かあったのか?」
振り返れば、そこには薄髪の金の蜘蛛を持つ男。その右手が伸びてきて、カルサは思わず身構えた。
やばい。そう思った直後、その手はカルサの横を通り過ぎ、漆塗りの扉を叩いた。
「え?」
顔を上げたカルサに向かって男は静かに笑みをつくる。
「すまんな。私もイリアに用があるのだ」
拍子抜けしたカルサを他所に開かれた扉からイリアが顔を出した。
「カルサ、どうし…」
言いかけて、カルサの横にいる人物に気がつく。
「コルドバ殿」
「副総長がお呼びだ。すぐに司令塔に来なさい」
急な召集命令に少々戸惑いつつもイリアは頷いた。
「承知しました。カルサ、中で待ってて」
そしてカルサの反応も見ずにコルドバの後をついて歩きだす。
「まっ待て、イリア!」
とっさに掴んだ腕は細くて白い。
「何?」
明らかに訝しげな表情で向けられる双眸は灰と藍。
行ってはダメだ。このまま行ってしまったら殺されてしまうかもしれない。けれどこのまま引き止めるのもまた、リスクを伴う。もし引き止めたら、この場でふたり共に殺されてしまうのだろうか。
コルドバは確かにあの場に居た。けれど全てを聞いてしまった自分ではなく、イリアに用があると言う。
その理由がカルサにはわからない。口封じをしなくて良いのだろうか。自分が聞いていたという事はばれてはいないのだろうか。
「カルサ。何でもないなら離して」
声につられて緩んだ手。その細い腕を振ってイリアはカルサの手を離し、再びコルドバの後をついて歩きだした。
窓の外は既に月が薄闇に紛れて顔を出し、その白い触手を四方に散らしている。風に吹かれる度に木々の葉が空に舞って、音もなく土に落ちる。その上を茶と白のまだら模様の猫が通り、葉はカサと音を立てて割れた。
その光景を映し出すのは、高くて白い塔から漏れる灯り。
大会議室のいつもの場所に座るのは副総長と二人の金の蜘蛛を持つ者だ。そして向かい合って立つのは短い黒髪の、細身の少女。
普段とは違い、たった四人しかいない大会議室はあまりにも広く、声は隅々にまで響き渡る。年老いて濁った副総長の声も、また然り。
「イリア。其方に緊急の命を下す」
「…は」
誰も微動だにせず、衣擦れの音さえ聞こえない。
深と静まり返った部屋。
「其方の補佐役…カルサを暗殺せよ」
イリアは、自分の耳を疑った。
大きな双眸は驚きのあまりさらに見開かれ、副総長から離れない。急に耳鳴りがしてふらついた。けれど背筋を伸ばして持ちこたえる。
今、副総長が言った言葉が信じられなかった。
そうだ、きっと聞き間違えだ。だって同胞を殺すなど、ラスラの方針ではない。総長がそう決めたのだ。だからきっと、今自分は他の誰かと聞き間違えたのだ。
「…もう一度、お願いします」
紡いだ声はかすれていた。けれどそんな声でさえ、この広い部屋には響く。
そうして再度下された命も、うるさいほどに響いた。
「カルサを暗殺せよ」
息の仕方を忘れてしまったようだ。
嘘でしょう?と、紡いだつもりが、声になっていなかった。赤い唇だけが不安定に動く。
命は絶対だ。逆らう事があればそれは死に値する。そしてそれは己だけではなく、己の家族をも巻き込んでの罰となる。
けれどカルサは、イリアの最も近しい者だ。
三年前、彼が自分の補佐についてからずっと共に行動してきた。命を張った仕事も、いくつかこなした。
だが、いつしか彼を危険な仕事に連れて行かなくなった。カルサの命を護るために。
イリアにとって、カルサは兄のようであり、弟のようでもある存在になっていたのだ。家族と変わらぬ存在の者を、自分は殺さねばならないのか。
そんなことできるはずがない。したくない。
しかし、命に背けば自分の命が危ない。いや、自分だけではない。たった一人の家族である父の命だって保障はできない。たとえ総長であろうと、掟は絶対だ。
イリアは拳を握り締め、ゆっくりと床に片膝をつく。
「…御意」
声は、やはりかすれていた。
日は過ぎて、節はすでに神無月。
あとひと月もすれば鎮守の森で楓の葉が旋回を始める時期になる、秋の深まり。
晴れた昼の空は澄み渡り、雲の欠片も見つからない。風に舞う葉の数は次第に減って土を隠す量は増える。
己の庭に植えられた一本の大木にはまばらに葉が残り、風が吹くたびに揺られて落ちる。
カルサはそんな大木に登り、その太い枝に腰掛けて呆としていた。
副総長たちの会話を聞いてしまった日から、もう大分日が過ぎた。けれど自分の身には未だ何の危険も起きてはいない。むしろ不安を抱くほどに平穏だ。
未だ無事だという事は、自分が聞いていた事実は誰にも知られては居ないのだろうか。しかし報告書は落としたまま放って来てしまった。ばれていない筈がない。
あれから、イリアと自分は行動を共にしなくなった。
何度もあのことをイリアに話そうとしたがその度に誰かに見られているような気がしてそれもできず、イリアは仕事が立て続けにあるからとあまり顔を合わせる事もなく何日もが過ぎてしまった。あの日以来、頭の中を支配するのは副総長たちの会話ばかりだ。
戦国乱世のこの世の中では、いかに領を拡大するかが重要だということはカルサだってわかっている。そのために自分も度々戦にかり出された。手柄を上げようと息む敵武者の攻撃をかいくぐり、里のために命をかけた。
内陸の南に位置するラスラの勢力は北へ北へと拡大し、西の海岸をも征服した。いまやそれは西大陸のほぼ半分の広さだ。副総長は、幹部たちは、それでもまだ足らぬというのか。
西大陸全域を支配するには、東側を支配するグディアを倒さねばならない。その鍵となるのがアイリスカだ。
西大陸の二大勢力といわれるラスラとグディアのちょうど間に挟まれてしまったアイリスカが、カルサは可哀相でならない。けれど同時にこの戦国乱の世では仕方がないことだとも思う。
アイリスカの中でグディア側を推す者はもう居ない。だからラスラが西大陸全域を支配するのも、もう時間の問題だろう。
しかし、西大陸全域を支配したところで一体何になるというのか。東大陸や、北大陸、南大陸とも戦をするつもりなのだろうか。
里は所詮、国に属する兵でしかないというのに。国にとって里は、戦に勝つための道具でしかないというのに。
いつしか冷たくなっていた風に、ようやくカルサは気付いた。短い金髪をなでるその強さも増していたので、まるで猫のような身軽さで木から飛び降り、難なく着地する。
普段あまり使わない頭を使ったせいか否か、こめかみに鈍い痛みを感じる。
重い気分のまま見上げた空は、恨めしいほどに晴れ渡っていた。
その日は、朝から雨が降っていた。
夕方になり、晴れた日であれば太陽が濃い金色の光を放って姿を隠す時刻になってもそれは止まず、どんよりとした雨雲が今も空を覆っている。傘を差して、茶髪の金の蜘蛛を持つ男の後をイリアは付いて歩く。
司令塔に呼ばれた理由はわかっていた。
「今回は随分と仕事が遅いようだな、イリア」
しわの刻まれた両の手を組みながら紡がれる声が痛い。
同時に感じる威圧感に押しつぶされそうだ。
「…申し訳ございません」
声は、震えてはいたがかすれることなく確かに響いた。
情けない声。そう思うと自然と自嘲の笑みがこぼれた。それと同時にフッと身体が軽くなるのを感じる。指の震えは止まり、呼吸が楽になる。
「命に背いた者への掟は分かっておるな?」
見据える副総長の左目は白く濁り、落ち窪んだ瞼は年齢を感じさせる。
「はい」
声は、もう震えてなどいなかった。
「では、速やかに命を遂行せよ」
しかし、その声に再び威圧感に苛まれた。
落ち着こうとし、瞼をゆっくり伏せて呼吸をくり返す。開けた双眸に一瞬映ったのは、細かく震える己の睫毛。
「承知」
声は、冷たく激しい雨の音と共に響いて消えた。
それからさらに数日が過ぎてしまった。暦は神無月の十日。よく晴れた小春日和の一日はもうじき終わろうとしている。窓の外を見ればもう太陽は山あいに頂がちらりと見えるだけだ。僅かに雲が流れる空をぼんやりと見つめ、その明るいオレンジを消すようにイリアは戸布を閉めた。部屋が一気に暗くなる。
暖炉に薪をくべ、しばらくするとそれを火が覆ってパチパチと爆ぜだす。
カルサ暗殺の命を下されてから数週。
未だにそれを遂行できてはいない。
これは、常に緻密で綿密な計画のもと、迅速に仕事をこなしているイリアでは考えられないほど遅いことだ。
最も無駄がなく、かつすばやく暗殺できる方法が思い浮かばない。
この数週、カルサを殺すチャンスはいくらでもあった。
何度か会うこともあったし、彼の家は自分の家の裏手にある。寝込みを襲う事だってできた。
だのに殺せなかった。
自分の父のことを思えば、何を躊躇うことがあろうか。
父は、血の繋がりのない自分を拾い、育ててくれた大切な人だ。左右で違う瞳の色を厭わず、暗殺者になることを決して許そうとはしなかった父。
左手に蜘蛛を彫るのを最後まで反対したのは父だし、戦に参加するのだって毎回大反対されながら無理矢理ついて行った。
もともと身体能力には優れていたため、暗殺術は父が訓練するのを横で見ながら真似をして覚えた。
その全ては、父に恩を返したかったが故。
だから誰よりも仕事をこなし、着々と位を上げ、力をつけ、そうしている内に気がつけば銀の蜘蛛を手にするほどにまでなっていた。
きっと父は喜んでくれると思って仕事を続けていた。けれど紫の蜘蛛を受けたときも、青の蜘蛛を受けたときも、父は笑顔を見せてはくれなかった。
そうして三年前、銀の蜘蛛を受ける三月ほど前。
父が病で倒れたと副総長に聞かされた。何十年も戦の最前線で戦っていた疲れが出たのだろう、と。そして言われた。父は、イリアが力をつけて行くのを本当は喜んでいたのだ、と。それを顔に出さなかっただけだ、と。
だからこれからも里のために頑張りなさい、副総長はそうイリアに告げた。そのときの事は今でもはっきりと覚えている。
父を喜ばせる為だったらどんな仕事だって片付けられる。それが父の病を治す最良の手だと信じているから。
だったら、カルサを暗殺する事だって簡単ではないか。
命に背いた者には、死。家族も共に。
父を喪うわけにはいかない。父は、自分の命の恩人だ。生きる総てだ。
意を決して、イリアは暖炉の火を消した。




