弐 in a dark moon 前
注意!PG-12!
*このお話には一部暴力描写、生々しい死体の描写がありますので自己責任の下でお読みください。読んでからの苦情は一切受け付けられませんのでご了承くださいませ。
ようやく深い眠りについた頃。
イリアは夢を見た。
己の家から少し先へ行ったところ、まだ暗い鎮守の森の奥で楓の葉がひらりひらりと旋回して地に落ちる。一枚、また一枚。葉はゆっくり、けれど途切れることなく落ちてゆく。
冬に差し掛かる、秋の終わりの風景だ。
そんな中。ある一つの楓の木の下に六歳ほどの童がうずくまっていた。映像は、その姿を捉えるとすぐさまクローズアップする。
腰元まで伸びた長い黒髪を持つ女童だ。
泣いているのだろうか。それとも、眠っているのだろうか。抱えた膝頭に額をつけて、女童は座っている。
カサ、音がして、映像に大人の大きさの脚が入った。深いグレーのコートを着た中年の男だ。彼は女童の前に立つと、そこにしゃがみこんだ。
「どうしたんだい?」
問う声音は穏やか。
ちょうどさらりと風が吹く。それに乱された白髪混じりの灰髪を男は片手で撫で付けて直す。
「こんな所にいたら風邪をひくよ。家へ帰りなさい」
男の声に、女童はゆっくりと首を左右に振った。
「……帰りなさい」
再度言うが、女童は左右に首を振る。男は困ったように、呆れたように大きく息を吐いた。
「帰りたくないのかい?」
やはり女童は首を左右に振る。
「帰れないのかい?」
聞いて、ハッとした。違う。そうではない。
「……家が、ないのかい……?」
女童はゆっくりと首を縦に振った。その髪に旋回した楓の葉が落ちてすべる。
まだ日は落ちていないというのに暗い森はどことなく不気味だ。この女童は、ずっとこんな所にいたのだろうか。
「……。顔を上げなさい」
その声に誘われるように女童は顔を上げた。それを見て男は言葉を失った。思わずその顔を凝視する。
女童は、左右で色の違う瞳を持っていた。
雪雲色の暗い灰の右目と、雨夜色の深い藍の左目。
男は息を呑んだ。虚ろで光の射していないその双眸は、あまりにも幻妙なオッドアイで、美しいコントラストを持っていた。わずかに震える唇で呟くように問う。
「…名は…?」
女童の乾いた唇が動く。
「―――…」
急に意識が引っ張られるように覚醒した。
耳を澄ますともうすぐそこまで秋声が聞こえる。
夢と現の狭間を切り裂くように研ぎ澄まされた意識は、いつの間にか降っていた大粒の雨が窓を叩きつける音によって現へと引き出される。
雨のせいで急に下がった気温が寝起きで火照った身体を襲い、寒さに思わず身震える。
身を起こし、窓を覆う布を開けて見上げればそこには己の左目と同じ空。
「…嫌な色」
呟いてイリアは枕元の棚に手を伸ばし、薄闇の中、鞠炉に手をかざす。すると、ボッと小さな音がして火が灯った。
同時に時知らせの鐘の音。それが三つ聞こえて、今が寅の刻だと知る。
ぼんやりと炉を見つめる。まだ眠いが、何だか眠れる気がしない。
先程まで見ていた夢の内容が妙にはっきりと頭に浮かぶ。あの女童は自分だ。嫌な夢を見てしまった。ずっと追憶の彼方に去ってしまっていた記憶だ。
寝癖の一つもついていない髪をかき上げてイリアは大きく息を吐く。
「…気持ち悪い」
外では、せわしなく降る雨の音。
キラリ、と光を放って雫が落ちる。
オレンジ色の太陽が空を美しいグラデーションに染め上げて、地平線の彼方に落ちようとし始める。
ぬかるんだ足元。転ばぬようにと一歩一歩確かめながらイリアは歩く。向かうのは鎮守の森だ。
楓の木が所狭しと根を張るその森の入り口でイリアはピタリと足を止めた。見上げる楓の葉はまだ木にしがみ付いており、無数の雨粒がオレンジ色の光を受けていくつものプリズムとなっている。
夕日色に染まった楓の葉が旋回するのはまだもう少し先のこと。
夢は、一日が終わろうとしている今もまだ鮮明に脳裏によみがえる。
ずっと、忘れていたのに。
唇の動かぬまま呟いて、イリアは一歩、森へ入った。
葉が付いた木々が屋根の代わりとなってか、森の土は通ってきた道ほどぬかるんではいなかった。ただ、湿った匂いが充満している。
太陽光を遮る森は薄暗いが、闇の中で活動することに慣れてしまっているイリアにとってはさほど問題ではない。
鳥もいない、動物もいない、ひっそりとした鎮守の森。足元に生えるのは草花ではなくキノコやコケで、生きる物は虫や微生物だ。
しばらく歩くと夢の映像と似た場所に出た。ここは、まるで何かに取り除かれたかのように円形に空間ができている処だ。
中央には榊岩と呼ばれるこの森の神を祀った岩があり、この周りの木だけ他のものより幹が太くて背が高い。
ここにはあれ以来きていない。あの時と何も変わらぬ映像。けれど懐かしさも何も感じない。
何故だか他人事のように感じて、イリアは自嘲気味に嗤った。
「何を求めてきたんだか」
それはイリアにも分からない。十年前のことを思い出し、その思い出に浸る気でもいたのだろうか。
「…馬鹿みたい」
呟いて、イリアは踵を返し、元来た道を歩きだした。
オレンジのグラデーションが次第に空を覆い始め、太陽はいっそう赤味を増す。その光を背中に浴びながら歩く横顔には何の表情もなかった。
空はすっかり夜の色に変わり、昨夜とは打って変わって星がまばらに煌いている。浮かんだ月は望月の過ぎた十六夜だ。
灯りのない家の中で月明かりを頼りにイリアは身支度を整える。
黒の上下に銀の蜘蛛の刺繍が入ったマントを着て、沓も仕事用の黒の足袋に替える。
マントの下の、黒い布で覆われた両の太腿には短剣を括り、胸元にはいくつかのナイフをしまった。
全ての準備を整え、居間へ足を運んだちょうどその時、漆塗りの扉が小さく叩かれた。
開けば、そこには仕事着に身を包んだカルサ。
「準備はもう良いの?」
「おう」
「昼間散々練習した成果を出せるようにね」
「なっ…!」
見られたくなかったところを見られてしまったカルサが思わず声を上げるのを横目に、くすり、と笑ってイリアは外に出る。
雲のない空、風のない空気、明かりのない視界。
「行こう」
音もなく、二人は走り出した。




