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魔力が強いやつがモテる世界に生まれ変わったのでモテる為にがんばります  作者: 伊右衛門


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第五十話 迷宮の森


 石造りの建物の奥で、迷宮の入口は静かに口を開けていた。


 外から見た時には、ただの大きな管理施設の一部に見えた。兵が立ち、壁は分厚く、床には何度も人と荷が行き来した跡が残っている。だが、その奥へ進むと空気が変わった。地上の光が背中側へ遠ざかり、石壁に反響する足音が少し低くなる。


 ギルは一歩踏み込んだところで、思わず天井を見上げた。


 石の建物の中から、下へ向かう道が続いている。


 階段ではない。


 緩やかな坂だ。


 壁は途中から人の手で整えられた石ではなく、自然な洞窟の肌へ変わっていた。岩肌は濡れているわけではないが、冷たく、薄暗い。足元は思ったより歩きやすかった。何度も人が通っているのだろう。土と石が踏み固められ、ところどころに馬車の轍のような浅い跡まである。


「……もっと足場が悪いと思ってたな」


 ギルが呟くと、前を歩くセバスチャンが少しだけ振り返った。


「入口近くは整ってやすぜ。荷を出し入れする場所ですからな」


「なるほど」


 迷宮と聞くと、どうしても前世の感覚で、いきなり罠だらけの石造りの通路や、不自然な地下遺跡のようなものを想像してしまう。だが、目の前にあるのはもっと生々しいものだった。洞窟。道。何度も踏まれた足元。冷たい空気。暗がりの奥へ続くゆるい傾斜。


 前世でゲームをしていた頃なら、ここで少し興奮していただろう。


 いや、今もしているかもしれない。


 ギルはそれを顔に出さないようにしながら、周囲へ視線を走らせた。


 セバスチャンが先頭に近い位置を歩き、その少し後ろにギル。オルド、クレイン、トール、もう一人の直属騎士が周囲を固めている。全員、無駄口は少ない。警戒しているのだろうが、今のところ切迫した気配はない。


 壁の向こうから風が来た。


 地下のはずなのに、風だ。


 土と葉の匂いが混ざっていた。


 ギルは眉を動かした。


「外の匂いがするな」


「この先を見りゃ分かりやすいですぜ」


 セバスチャンはそう言って、口元を少し歪めた。


 道はまだ緩やかに下っていく。


 歩くほどに、前方がわずかに明るくなってきた。最初は目の錯覚かと思ったが、違う。洞窟の奥から、ぼんやりとした光が漏れている。太陽の光ではない。少なくとも、ギルが知る朝や昼の光とは少し質が違う。だが、暗闇ではない。


 足元の岩肌が消え、土が増える。


 冷たい洞窟の空気に、湿った草の匂いが混ざる。


 そして、道の先が開けた。


「……おお」


 ギルは思わず声を漏らした。


 地下のはずだった。


 石造りの管理建物から下り、洞窟の道を進んできた。それなのに、目の前には森が広がっていた。


 高い天井があるのか、それとも天井と呼ぶべきものがどこか遠くへ溶けているのか、すぐには分からない。上の方は薄く明るく、そこから淡い光が森全体へ降りている。空ではない。だが、完全な岩の蓋でもないように見える。枝葉がその光を受け、地面には細かな影が落ちていた。


 木々は密集しすぎていない。


 けれど、マバール領の森とは雰囲気が違う。


 幹の色が少し淡く、枝の張り方もどこか低い。葉は厚めで、ところどころ青黒く見える。下草は湿っていて、踏むと柔らかく沈みそうだった。空気は重いが、腐った匂いはしない。むしろ冷えた草木の匂いが強い。


 北方の森っぽい。


 ギルはそう思った。


 いや、よく分からんけど。


 前世でも植物に詳しかったわけではないし、この世界の植生を体系的に知っているわけでもない。ただ、城の書庫で見た地誌の挿絵や、マバール領内の森と比べると、どこか寒い土地の森のような気配があった。


 地下なのに、北方の森っぽい。


 意味が分からない。


 だが、迷宮だ。


 そういうものなのだろう。


 ギルは喉の奥で小さく笑った。


 驚きはある。


 感動もある。


 けれど、完全に呆然とするほどではなかった。


 迷宮については、城の書庫でそれなりに調べている。地下に空間が広がること、内部環境が地上と異なること、森や水場を持つ迷宮が存在すること。文字としては読んでいた。


 やっぱり調べるだろう。


 迷宮だぞ。


 前世のゲームや物語で散々見た言葉が、今は本当に目の前にある。貴族として必要だから調べた、というのももちろんある。だが、それだけではない。単純に興味があった。


 地下に森。


 魔物。


 素材。


 魔石。


 これで興味を持つなという方が難しい。


「若様」


 セバスチャンの声で、ギルは視線を戻した。


「見惚れるのはいいですが、足元も見てくだせえ」


「分かってる」


「本当ですかい」


「たぶんな」


「そこは言い切ってほしいもんですな」


 セバスチャンが呆れたように笑う。


 ギルは一歩踏み出した。


 土は柔らかすぎない。入口近くはやはり踏み固められている。探索者や荷運びが日常的に通るためだろう。森の入り口でありながら、人の道があった。


 少し進むと、木を叩く音が聞こえた。


 乾いた音。


 斧が幹へ食い込む音だ。


 ギルがそちらを見ると、数人の男が木を切っていた。服装はばらばらで、鎧らしいものを着ている者もいれば、厚手の上着だけの者もいる。迷宮にいるのだから彼らも探索者なのだろう。体に汚れはあるが、ひどく消耗している様子はない。


 木のそばには、すでに切り出された枝や幹が積まれていた。


「迷宮の中で木こりの真似か?」


 ギルが言うと、セバスチャンが頷いた。


「あれは薪の木ですな」


「薪の木」


「見るのは初めてですかい」


「ああ。話には聞いてたが、実物は初めてだ」


 ギルは切られている木を見る。


 ぱっと見ただけでは、普通の木と大きく違うようには見えない。幹は太すぎず、枝もそれなりに伸びている。だが、切り口が妙に瑞々しい。斧で打たれるたびに、薄い香りが空気へ広がった。


「薪の木って一種類の木じゃないんだったか」


「そうですな。似た性質の木をまとめてそう呼んでやす」


「朝切っても夕方には伸びてる、ってやつか」


「ええ。まあ、全部が全部同じ速さじゃありやせんが、外の木とは比べもんにならねえほど早い」


 セバスチャンの声を聞きながら、ギルは切られた木の根元を見た。


 古い切り株がある。


 その横から若い幹が伸びている。


 さらに別の根元には、切られた跡がいくつも重なっていた。一本の木というより、何度も刈られ、また伸びた跡だ。


 なるほど。


 これは確かに薪の木だ。


「切って持ち出せば最低限の金にはなるんでさ」


「いい素材や魔石を見つけられなくても、探索者として食えるってことか」


「まあ、食うだけなら、ですな。大儲けとはいきやせん」


「それでも十分だろ」


 ギルは切り出された木の束を見た。


 地上で燃料にする木を取り続ければ、森は傷む。もちろん、マバール家の領地管理がある以上、好き勝手に伐採させるわけではないだろう。だが、迷宮内から再生の早い木を持ち出せるなら、地上の森への負担は減る。


 迷宮は危険なだけではない。


 資源だ。


 しかも、思ったより生活に近い資源だった。


 魔石や珍しい素材ばかりではない。薪。肉。皮。骨。そういうものが、迷宮の周囲に人を集め、店を作らせ、管理施設を置かせる。


 ギルが見ていると、木を切っていた男の一人がこちらに気づいた。


 最初は警戒した顔だった。


 だが、セバスチャンとギルの装備、それに周囲の直属騎士たちを見て、すぐに顔色が変わる。相手が身分の高い者だと察したのだろう。斧を持つ手を下げ、慌てて頭を下げた。


「邪魔したか?」


 ギルが声をかけると、男はさらに背を丸めた。


「い、いえ、とんでもございません」


「薪の木を切っているんだろ」


「はい。今日は入口近くで済ませるつもりで」


 男の後ろにいた若い探索者たちも、作業を止めてこちらを見ていた。目が落ち着かない。貴族と話す機会など、そう多くはないのだろう。


 ギルは彼らを見て、少しだけ声を軽くした。


「この辺りは安全なのか?」


「入口近くは、まあ。魔物が出るのは、だいたいこの先の小川を越えた辺りからです」


「小川?」


「はい。森の中を流れてます。そこを越えると、フォレストディアやホーンラビットが出やすくなります」


 フォレストディア。


 ホーンラビット。


 なるほど、分かりやすい名前だ。


 ディアと鹿を区別しやすいし、ラビットも普通のウサギではないとすぐ分かる。こういう命名はありがたい。


「奥に行くと?」


 ギルが尋ねると、男は少し困った顔をした。


「俺たちはそこまで深くは行きません。聞いた話だと、さらに進めばサーベルタイガーが出るとか」


「聞いた話か」


「はい。俺たちは薪の木と、たまに小物を狙うくらいで」


 新人寄りなのだろう。


 それを恥じているようにも見えたが、悪い判断ではない。自分たちの力量を超えて奥へ行き、戻ってこないよりずっといい。


 ギルは頷いた。


「助かった。邪魔したな」


「い、いえ」


 男たちはもう一度頭を下げた。


 ギルたちが離れると、背後で斧の音が再開する。少しだけ硬く、さっきより力が入っているように聞こえた。


 セバスチャンが横で笑う。


「緊張させちまいましたな」


「俺のせいか?」


「若様のせいですな」


「何でだよ」


「どう見ても貴族ですからな」


「隠してないしな」


 ギルは肩をすくめた。


 薪の木を切る探索者たち。


 小川の向こうから出る魔物。


 奥にはより危険な肉食の魔物。


 書庫の文字で知る迷宮と、実際に見て聞く迷宮はかなり違う。


 地下に森があり、そこに木が伸び、探索者がそれを切り、魔物が棲み、人間が資源を持ち出す。


 前世のゲームで言うダンジョンより、ずっと生臭い。


 それがよかった。


 ギルは少しだけ胸が高鳴るのを感じながら、森の奥へ視線を向けた。


 進むほど、人の気配は薄くなっていく。


 入口近くの踏み固められた道はまだ続いているが、周囲の下草は深くなり、木々の間隔も少し詰まってきた。頭上の淡い光は変わらない。風もある。だが、地上の森とは違い、鳥の声が少なかった。


 代わりに、葉擦れの音が大きく聞こえる。


 遠くで水音がした。


「小川か」


「でしょうな」


 セバスチャンは歩きながら答えた。


「若様、迷宮内では派手に攻撃魔法を使わねえ方がいい場面もありやす」


「素材が傷むからか」


「ええ。素材集めを目的とする場合、攻撃魔法はそれほど使いやせん。皮も肉も骨もツノも、売るなら形が残ってる方がいい」


 ギルは自分の攻撃魔法を思い浮かべた。


 焼く。


 貫く。


 薙ぐ。


 叩き潰す。


 どれも魔物を倒すには向いているが、素材を残すには向かない場合がある。特にギルの魔力強度で雑に使えば、魔物の体ごと駄目にしかねない。


「倒せばいいってものでもないわけか」


「そういうこってす」


 セバスチャンは森の奥へ視線を向けたまま続ける。


「迷宮内では攻撃魔法より、肉体強化魔法や防御魔法、感知魔法の方が大事ですな」


「攻撃より?」


「ええ。まず見つける。避ける。受ける。動く。迷宮じゃそっちが生死を分けやすい」


 ギルは少し黙った。


 確かに、迷宮は広い戦場ではない。


 木があり、草があり、視界が遮られる。今いる場所はまだ開けている方だが、奥へ行けばもっと狭くなるだろう。そこで攻撃魔法を派手に使えば、素材が傷むだけではなく、余計なものを巻き込む可能性もある。


 魔物を探すなら感知魔法。


 接近や回避なら肉体強化魔法。


 不意の攻撃を防ぐなら防御魔法。


 攻撃魔法は最後の手段、あるいは素材を気にしない場面の手段。


 そう考えると、迷宮はギルが得意な火力だけで押す場所ではない。


「魔力持ちじゃない探索者もいるのは、その辺りも理由か」


「そうですな。魔力がなくても、腕が良けりゃ素材を傷めず仕留められやすい。もちろん、魔物相手ですから危険は危険ですがね」


「なるほど」


 ギルは前方の木々を見た。


 普通の森のように見える。


 だが、ここは迷宮だ。


 地上の鹿やウサギとは違う魔物がいる。


 しかも、名前だけなら草食獣に近そうなフォレストディアやホーンラビットまで、人を襲う。


 セバスチャンが言った。


「フォレストディアもホーンラビットも、見た目に騙されねえ方がいいですぜ。あいつらは人間を見ると襲ってくることがある」


「鹿やウサギっぽくても?」


「ここじゃ人間の方が異物ですからな。草を食ってるように見えても、肉を食う魔物は珍しくありやせん」


「嫌な森だな」


「迷宮ですからな」


 セバスチャンは当たり前のように言った。


 ギルは小さく息を吐く。


 この世界では、魔物は現実だ。


 名前が可愛いから危険ではない、などということはない。ホーンラビットなど、前世感覚なら低級モンスターの代表みたいな名前だが、この世界では普通に人を殺すのだろう。


「魔物は魔力があるから、感知魔法で分かるんだよな」


「基本はそうですな」


「基本は?」


「弱い魔物は魔力も弱い。慣れてねえと見落とすことがありやす。草や木に紛れて動かねえ奴もいる。まあ、この程度の迷宮なら大丈夫ですが、油断は禁物ですな」


「油断してないぞ」


「さっき森を見て目ぇ輝かせてた人が言っても説得力が薄いですぜ」


「うるさい」


 ギルは顔をしかめた。


 だが、セバスチャンの言うことは正しい。


 感知魔法は魔力を拾う。


 物理的な姿が見えるわけではない。


 弱い反応を見落とせば、草むらから飛び出された時には遅いかもしれない。まして素材を傷めないよう攻撃魔法を控えるなら、近づかれる前に気づくことが重要になる。


 ギルは感知魔法を広げた。


 魔力を薄く伸ばし、自分を中心に周囲へ広げる。


 地上の森と違い、迷宮の中には独特のざわめきがあった。木々そのものからも、ごく薄い反応が散っているように感じる。強くはない。だが、何もない空間とは違う。そこへ、自分たちの魔力反応がはっきり浮かぶ。セバスチャン、オルド、クレイン、トール、もう一人の直属騎士。それぞれの強さや揺れ方が違う。


 遠くに、小さな点があった。


 微弱。


 動きは遅い。


 魔物か、別の何かか。


 ギルは眉を寄せた。


「小さい反応がある」


 セバスチャンの足が止まる。


「方角は?」


「前方左。少し奥。弱い」


「なら近づきすぎねえように見てみましょう」


 全員の動きが変わった。


 大声は出さない。


 足音も少し抑えられる。


 ギルは感知魔法を維持したまま、視線を前方左へ向けた。草の揺れ。木の影。枝の間。目で見てもすぐには分からない。


 だが、反応はある。


 ゆっくり動いている。


 やがて、下草の奥で何かが跳ねた。


 小さい。


 ウサギに似ている。


 ただし、額から短い角が生えていた。


 ホーンラビットだろう。


 名前通りで助かる。


 ギルがそう思った瞬間、その小さな魔物がこちらへ顔を向けた。


 丸い目。


 揺れる耳。


 前世の感覚なら可愛いと思うかもしれない。


 だが、その目は怯えていなかった。


 逃げない。


 むしろ、後ろ脚に力が入った。


「来ますぜ」


 セバスチャンの声が低くなる。


 ホーンラビットが跳んだ。


 速い。


 普通のウサギの跳ね方ではない。地面を蹴った瞬間、身体が矢のように伸びる。角が先端になり、まっすぐギルの腹へ向かってきた。


 ギルは反射的に攻撃魔法を使いかけた。


 だが、すぐに止める。


 素材が傷む。


 いや、ホーンラビット一匹の素材がどれほどの価値かは分からないが、練習だ。迷宮では攻撃魔法以外が大事だと言われたばかりだ。


 横からセバスチャンが動いた。


 肉体強化魔法で踏み込んだのだろう。動きが鋭い。剣ではなく、短く持った刃で角の軌道を逸らし、そのまま首筋を切った。


 ホーンラビットは地面を転がり、数度跳ねるように痙攣して止まった。


 血の匂いが草の湿りに混ざる。


「……速いな」


「油断すると腹に穴が空きますぜ」


「ウサギなのに」


「ホーンラビットですからな」


 セバスチャンが当然のように言う。


 ギルは倒れた魔物を見た。


 小さい。


 だが、角は硬そうで、身体の筋肉も地上のウサギとは違って見える。跳ねるための後ろ脚が太い。可愛い動物ではない。小型の突撃する魔物だ。


「これも食えるのか?」


「食えますが、今日の目当てはもう少し大きい方がいいですな」


「フォレストディアか」


「ええ。肉も取れますし、皮も使えます」


 セバスチャンはそう言って、ホーンラビットを手早く処理するようオルドへ目配せした。オルドは無言で頷き、魔物を拾う。動きに迷いはないが、雑ではない。素材を傷めないようにしているのが見て分かった。


 さらに進む。


 小川の音が近くなった。


 森の中を細い水が流れている。水は澄んでいて、底の石が見えた。地下にある森の中の小川。意味だけ考えるとかなり奇妙だが、目の前の水は普通に冷たそうだった。


 ギルは小川の手前で立ち止まった。


 向こう側の森は、少しだけ暗い。


 木の間隔は大きく変わらないのに、下草が濃く、視界が悪い。探索者が言っていた通り、この辺りから魔物が出やすくなるのだろう。


「ここからが本番か」


「入口近くよりは、ですな」


「ここはまだ浅いんだろ」


「ええ。古い迷宮なら、こんなもんじゃ済みやせん」


 セバスチャンは小川の向こうを見たまま続ける。


「ここはまだそれほど古い迷宮じゃありやせん。内部もそこまで広がってねえし、魔物も手に負えねえほどじゃない」


「古い迷宮は違うのか」


「中が成長しますからな。広くなり、深くなり、魔物も強くなる。そういう場所は、もっと厳しく管理されやす」


「迷宮が成長する、か」


 ギルは森の奥を見た。


 確かに、ただの地下空間ではない。


 木が生え、薪の木が再生し、魔物が湧く。そこに成長という言葉が使われても、あまり不自然ではなかった。


 生き物みたいだな。


 そう思ったが、口には出さない。


 迷宮が本当に生き物かどうかなど、今のギルには分からない。書庫で読んだ知識にも断定はなかった。分からないことを、分かったように言う必要はない。


 小川を越える。


 水音が背後へ回ると、森の空気がさらに湿った。


 ギルは感知魔法を維持した。


 薄く広げた魔力の中に、弱い反応がいくつか浮かぶ。遠いもの。動かないもの。ゆっくり移動するもの。全てが魔物とは限らない。だが、先ほどのホーンラビットより大きい反応が、前方右手にあった。


「前方右。さっきより大きい」


 ギルが言うと、セバスチャンが頷いた。


「姿を見ましょう」


 一行は少し速度を落とした。


 下草の間を進む。


 やがて、木々の向こうに茶色い背が見えた。


 鹿に似ている。


 だが、地上の鹿より肩が厚く、首が太い。角は枝分かれしているが、先端が妙に鋭い。口元に草を咥えているのに、目はこちらを見ていた。逃げる気配はない。


 フォレストディア。


 たぶんそうだ。


 名前の通り、森のディア。


 普通の鹿ではなく、迷宮の魔物。


「一頭か」


「見える範囲では」


 セバスチャンが低く答える。


 ギルは感知魔法を少し広げた。


 近くに似た反応はない。


 少なくとも、すぐ近くに群れはいない。


 フォレストディアが頭を上げた。


 口元の草が落ちる。


 前脚が地面を掻いた。


 逃げない。


 来る。


 ギルがそう思った瞬間、フォレストディアは突進してきた。


 地上の鹿が逃げる時の軽さではない。


 重い。


 角を低く構え、首の筋肉を膨らませるようにして、まっすぐこちらへ走る。下草が裂け、湿った土が跳ねた。


 セバスチャンが横へずれた。


 トールが肉体強化魔法で前に出る。


 真正面から受けるのではなく、角の軌道をずらすように盾を入れた。防御魔法も薄く張ったのか、ぶつかった瞬間に鈍い音が響き、トールの足が少し土へ沈む。


 フォレストディアの体勢が崩れた。


 そこへオルドが横から入る。


 剣が首筋へ走った。


 一撃で完全には倒れない。


 フォレストディアが暴れ、角を振る。クレインが後ろ脚の動きを止めるように斬り、セバスチャンが最後に急所へ刃を入れた。


 大きな身体が地面へ倒れる。


 草が潰れ、土が跳ね、血の匂いが広がった。


 ギルはその一連の動きを見ていた。


 攻撃魔法なら、一瞬だったかもしれない。


 焼き払うように撃てば倒せる。


 貫くように撃っても倒せる。


 だが、それでは肉も皮も傷む。今のように動きをずらし、脚を止め、急所へ刃を入れる方が、素材は残る。


 迷宮での戦い方。


 ギルは少しだけ理解した気がした。


「若様、今のくらいなら攻撃魔法は要りやせん」


「分かる。見てるとよく分かる」


「危なくなったら別ですぜ。素材より命ですからな」


「そこは分かってる」


 ギルは倒れたフォレストディアへ近づいた。


 近くで見ると、やはり鹿とは違う。


 目つきが鋭い。


 歯も草食獣のそれだけではないように見えた。口元には硬そうな歯があり、顎も強い。角はただの飾りではなく、武器だった。


「こいつ、人を食うのか?」


「腹が減ってりゃ食うでしょうな」


「鹿っぽいのに」


「フォレストディアですからな」


 またそれか。


 ギルは少し笑った。


 だが、納得もしている。


 地上の鹿ではない。


 名前が似ていても、魔物だ。


 オルドたちが解体の準備を始める。


 ギルは邪魔にならない位置へ下がり、手際を観察した。血を抜き、皮を傷めないよう刃を入れ、肉を分けていく。森の中でやるには慣れが必要な作業だ。匂いも出る。時間をかけすぎれば、他の魔物を寄せるかもしれない。


 セバスチャンは周囲を見ていた。


 ギルも感知魔法を広げたままにする。


 血の匂いが漂う中、小さな反応が遠くで動くのを感じた。


 近づいては来ない。


 いや、迷っているのかもしれない。


 魔物の考えなど分からない。


「血の匂いで寄るか?」


「寄る奴もいますぜ」


「面倒だな」


「迷宮ですからな」


「便利な言葉だな、それ」


 ギルが言うと、セバスチャンは笑った。


 フォレストディアの処理が終わる頃には、ギルの腹も少し減っていた。


 迷宮内の森は、時間の感覚が少し狂う。上から降る光は変わりにくく、外の太陽の傾きが分からない。地上なら影の長さでなんとなく分かることも、ここでは曖昧だった。


 それでも身体は時間を覚えている。


 朝から歩き、緊張し、魔物を見て、感知魔法を使い続けている。貴族の身体が頑丈とはいえ、腹は減る。


 少し開けた場所で休むことになった。


 周囲の反応を確認し、セバスチャンが場所を選ぶ。木々の間がやや広く、小川からも遠すぎない。視界はそこそこ通り、背後を完全に取られにくい。


 火を起こす。


 フォレストディアの肉が切られ、串に刺された。


 脂が落ちる。


 じゅっと音がして、匂いが広がった。


 ギルは思わず喉を鳴らした。


「美味そうだな」


「実際、悪くありやせんぜ」


「迷宮の魔物なのに」


「食えるやつは食えますからな」


 セバスチャンが肉を返す。


 焼けた表面が濃い色になり、脂が光った。塩が振られ、香ばしい匂いがさらに強くなる。保存食の硬い干し肉とは全然違う。


 ギルは渡された肉を受け取った。


 熱い。


 指先で少し持ち替え、かぶりつく。


 肉汁が口の中へ広がった。


「……美味いな」


 思ったより、ずっと美味い。


 脂が乗っている。


 臭みは少しあるが、嫌なほどではない。むしろ野性味としてちょうどいい。噛むと弾力があり、肉の味が濃かった。地上の鹿肉と比べられるほど鹿を食べ慣れているわけではないが、これは普通にごちそうだ。


「これなら人気出るだろ」


「だから素材になるんでさ。肉も皮も角も売れる。魔石が取れりゃなお良し」


「なるほどなぁ」


 ギルはもう一口食べた。


 迷宮は危険だ。


 ホーンラビットですら腹に穴を空けにくる。フォレストディアも鹿の顔をして人へ突っ込む。奥にはサーベルタイガーのような肉食の魔物がいるらしい。古い迷宮ならもっと広く、強力な魔物もいる。


 だが、ここには資源がある。


 薪の木。


 肉。


 皮。


 角。


 骨。


 魔石。


 探索者が集まり、商人が集まり、兵が管理する理由が、少しだけ腹に落ちた気がした。


 ギルは串の肉を噛みながら、森の奥を見た。


 淡い光が葉の上で揺れている。


 地下の森。


 迷宮。


 危ない。


 面倒。


 だが、面白い。


 前世の記憶にあるどんなゲームよりも、ずっと生々しく、ずっと現実的で、そして今の自分の家に関わる場所だった。


「若様」


 セバスチャンが声をかける。


「何だ」


「楽しくなってきた顔してやすぜ」


「そうか?」


「ええ」


「まあ、少しな」


 ギルは肉を飲み込んだ。


「迷宮、思ったより面白い」


「油断は禁物ですぜ」


「分かってる」


「本当ですかい」


「たぶんな」


「そこは言い切ってほしいもんですな」


 セバスチャンが呆れたように笑う。


 ギルも少し笑った。


 手の中のフォレストディアの肉は、まだ温かい。


 森の奥には、まだ見ていない魔物がいる。


 ギルはもう一度、感知魔法を薄く広げた。


 自分たちの周囲に、淡い反応がいくつか浮かぶ。


 近くは静かだ。


 遠くで、小さな魔力が動いている。


 迷宮の森は、何も言わずにそこに広がっていた。

たくさんの方に読んでいただきありがとうございます。

今後も引き続きよろしくお願いします。

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