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魔力が強いやつがモテる世界に生まれ変わったのでモテる為にがんばります  作者: 伊右衛門


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第四十二話 帰り道の獲物


 帝国領を抜ける道は、思っていたよりも静かだった。


 もちろん、安全という意味ではない。街道の脇には背の低い草が風に揺れ、ところどころに踏み固められた土の轍が残っている。遠くには畑が広がり、そこへ点々と平民の姿も見える。荷車は少なく、騎士の姿も見えない。だが、その静けさは穏やかというより、誰もが余計なものに触れないよう息を潜めている類のものだった。


 帝国は広い。


 行きも面倒だったが、帰りも楽ではない。


 ギルは馬上で、前方を進む案内人の背を眺めていた。新しくついた男は平民だが、かなり旅慣れている。道の曲がり方、宿場の避け方、村へ近づく時の速度、どれも悪くない。アバルディア家が寄越しただけはあるのだろう。余計なことは喋らず、必要な時だけ短く進路を示すところも気に入った。


 その少し後ろに、ダリアがいる。


 褐色の肌に灰色の髪。背筋は相変わらず伸びていて、馬の上でも揺れが少ない。無理に逃げようとする様子はない。こちらを恨んでいない、というほど都合よくは見えないが、少なくとも今すぐ大河へ飛び込むような女ではなかった。


 賢い。


 そこが実にいい。


 逃げたところで危険しかない。アバルディア家へ戻れば、以前と同じようには扱われない。ギルの正体も、帝都への攻撃も、貴族屋敷を焼いたことも、腐銀の話も知りすぎている。そんな女を、家が自由に歩かせるわけがない。


 それをダリア自身も分かっているはずだった。


 だからこそ、彼女は大人しくついてくる。


 そして時折、こちらを見る。


 ちらり。


 また前を見る。


 少しして、またこちらを見る。


 ギルは気づいていたが、気づかないふりをしていた。視線に怒りはある。警戒もある。だが、それだけではない気がした。大河の岸で無理やり抱え上げられた女にしては、目の奥が複雑すぎる。


 たぶん、少しは感謝しているのかもしれない。


 もちろん本人が自覚しているかは分からない。ダリアが何を考えているかなど、ギルには分からない。だが、もし彼女が自分の今後を正確に予想していたなら、ギルに奪われた形でマバール家へ連れて行かれることが、最悪ではないと気づいていてもおかしくない。


 最悪ではない。


 良いか悪いかではなく、最悪ではない。


 貴族社会では、それだけでかなりましな結果になることがある。


 ギルは手綱を緩め、馬の首筋を軽く撫でた。


 現状では、これ以上帝国を混乱させるのは下策だ。


 赤布は使っていない。


 山賊行為もしない。


 道中で怪しい騎士や兵が近づいてきても、先に避けられるなら避ける。こちらから屋敷を焼きに行く理由もない。メガレス家を煽り、ザザント家を追い詰め、アバルディア家との共闘まで後押しした。そこから先は帝国の者たちの仕事だ。


 上品な山賊がいつまでも暴れれば、せっかく作った形まで崩れる。


 だから大人しく進む。


 大人しく。


 実に大人しく。


 そのせいで、別の問題が頭の中を占領していた。


 レティシアに、どう説明しよう。


 ギルは馬上で目を細めた。


 帝国の貴族屋敷を焼いたことではない。帝都に攻撃魔法を撃ち込んだことでもない。腐銀の話でも、アバルディア家とザザント家の共闘でもない。


 ダリアだ。


 レティシアは怒らないだろうか。


 いや、怒らないはずだ。


 レティシアは賢い。状況を説明すれば分かる。ダリアをアバルディア家へ戻せば危険だった。知りすぎている。有能でもある。マバール家に連れて帰る価値はある。建前としては山賊が気に入った女を奪っただけだが、実際には情報保全と人材確保の意味がある。


 だから怒らない。


 たぶん。


 いや、でも。


 ギルは眉を寄せた。


 レティシアは表立って声を荒らげる女ではない。怒ったとしても、静かに見る。きっと静かに見る。あの柔らかい声で、なるほど、と言うかもしれない。そう言われる方が怖い。


 いや、俺は無実だ。


 今は間違いなく無実だ。


 ダリアにはまだ手を出していない。


 今後はともかく。


 今は、だ。


 今後はともかく。


 ギルは小さく咳払いした。


 そこは大事な線だ。今は無実。誰に何を言われても、今は無実。帝国から女を一人抱えて船に乗せたのは事実だが、それは建前と保護と人材確保と、まあ、少しだけ気に入ったからであって、まだ何もしていない。


 今後はともかく。


 また同じ言葉が頭に浮かび、ギルは少しだけ空を見た。


 曇りがちな帝国の空は、王国側と変わらないはずなのに、妙に遠く感じる。早く帰りたい。帰って柔らかい寝台で寝たい。レティシアの淹れた茶を飲みたい。豆調味料を見せたい。茶葉も渡したい。そしてダリアの説明は、できれば誰かが代わりにしてほしい。


 隣で、セバスチャンがにやにやしていた。


 ギルは横目で見た。


「何だ」


「いえいえ」


「その顔は何か言いたい顔だろ」


「若様が珍しく大人しいもんで」


「大人しくしていて悪いか」


「悪くはありやせんがね」


 セバスチャンは馬上で肩を揺らした。


「若様、レティシア嬢への言い訳ばかり考えてる顔ですぜ」


「うるさい」


「おや、当たりですかい」


「やかましい」


 セバスチャンの笑みが深くなる。


 腹立たしい。


 このクソじじいは、長年戦場を歩いてきただけあって、人の顔色を読むのが妙に上手い。いや、顔色というより、ギルの行動の隙間を見ているのだろう。大人しくしている時ほどろくでもないことを考えている、とでも思っているに違いない。


「若様、お館様への言い訳も要りますぜ」


「やかましい!」


 思わず声が少し大きくなった。


 前を行くダリアが振り返る。


 案内人も一瞬だけ肩を揺らした。


 ギルは咳払いした。


「父上なら分かってくださる」


「そうですかねえ」


「分かってくださる」


 ギルは強く言った。


「俺は父上の助言に従っただけだ」


「助言で?」


「そうだ」


 父上は言っていた。


 胸だけではなく尻も大事だと。


 ダリアは胸こそ控えめだが、尻の形は悪くない。むしろ良い。旅装越しでも分かる。馬に乗っている姿勢がいいから余計に目立つ。父上の言葉に従ったなら、これは間違いではない。


 俺は悪くない。


 父上が悪い。


 いや、父上は悪くない。


 つまり、誰も悪くない。


 そうだ。


 ダリアは尻美人だ。


 俺は正しい。


 絶対に言わないけどな。


「若様」


 セバスチャンが半眼でこちらを見ていた。


「何だ」


「今、またろくでもねえことを考えてやせんか」


「考えてない」


「本当ですかい」


「少しだけだ」


「やっぱり考えてるじゃねえですか」


 ギルは答えず、前を向いた。


 ダリアがまだこちらを見ている。


 目が合うと、彼女はすぐに前へ戻った。


 その背中は、どこか戸惑っているようにも見えた。


 ダリアからすれば、ギルという男は理解しにくいのかもしれない。


 敵対者には冷酷だった。帝都へ攻撃魔法を落とし、屋敷を焼き、貴族を殺し、必要なら子どもすら処理した。襲撃の時、ギルは迷わなかった。ザザント家系の屋敷を襲う時も、証言者を残すために火の回り方まで調整した。そういう男だと、彼女は知っている。


 だが、その同じ男が今はレティシアへの言い訳で胃を痛めている。


 自分を奪っておきながら、手を出していないことを内心で無実だと主張している。


 ……まあ、戸惑うだろうな。


 ギルは自分でも少し思った。


 しかし、それは仕方ない。


 敵と身内は違う。


 守るべきものと、焼くべきものは違う。


 レティシアは明らかに前者だ。


 そして、ダリアをどちらへ置くかは、まだ決めきれていない。


 少なくとも敵ではない。


 逃げられたら困る。


 手元に置きたい。


 側室にするかもしれない。


 だが、今はまだ説明が先だ。


 レティシアへの説明。


 父上への説明。


 ダル兄さんやアル兄さんにどう聞かれるか。


 文官連中の顔。


 うんざりしてくる。


 ギルは馬上で軽く首を回した。


 街道は緩やかに下っていた。遠くに小さな村が見えるが、案内人はその手前で右へ折れる道を選んだ。村を避けるのだろう。なかなか判断が早い。道は少し細くなり、両脇の草が馬の脚に触れる。踏み固められてはいるが、荷車が多く通る道ではない。


 案内人が振り返り、短く言った。


「この先、森沿いを抜けます。半刻ほど進めば、古い宿場道へ戻れます」


「分かった」


 ギルが返すと、男はすぐに前を向いた。


 余計なことは言わない。


 やはり優秀だ。


 アバルディア家は、出す人材を間違えていない。ダリアほどではないが、この男も十分使える。もっとも、彼は事情をどこまで知っているか分からない。知らない方が幸せだろう。


 ダリアはその後ろで、相変わらず大人しく馬を進めていた。


 彼女は本当に逃げない。


 ギルはそれを確認しながら、少しだけ不思議な気分になった。大河の船上ではかなり怒っていた。今も怒っていないわけではないだろう。それでも彼女は、取り乱さず、状況を読み、必要なら会話にも応じる。


 そういう女だからこそ、欲しくなったのだ。


 欲しい、という言葉が頭に浮かび、ギルは少しだけ目を逸らした。


 まあ、欲しいのだろう。


 有能だし。


 知りすぎているし。


 尻もいいし。


 だから仕方ない。


 森沿いの道に入ると、空気が少し湿った。枝葉の影が地面へ落ち、馬の蹄が柔らかい土を踏む音に変わる。日差しは薄く、鳥の声が遠くで響いていた。時折、木々の間から村の畑が見える。平民たちはこちらに気づいていないのか、遠くで腰を曲げて作業を続けている。


 平民。


 ダリアも、身分としてはそこに近い。


 だが、彼女は普通の平民とは違う。魔力はない。貴族でも騎士でもない。けれど、帝国の家関係を知り、密使の線を使い、襲撃先を選べる。平民としては、かなり特殊な位置にいる。


 それでも、貴族から見れば平民だ。


 ギルは前世の感覚で、そこに少し引っかかる。


 しかし、この世界では違う。


 魔力を持つ者と持たない者の差は、単なる身分制度ではなく、実際の力の差として存在する。低い魔力でも、平民から見れば圧倒的な強者だ。魔力持ちの子を産めば、人生そのものが変わる可能性すらある。


 帝国でも、平民の女が貴族に手をつけられることはあるのだろう。


 それは乱暴な話で、前世の感覚では嫌悪すべきものだ。


 だが、この世界では少し違う。


 実は襲われることにメリットがあるのも事実なのだ。貴族や騎士が平民の女を抱けば、大抵の場合は金が払われる。それは平民からすればかなりの大金になる。さらに、確率は低くても魔力持ちの子を産めれば、その子はただの平民ではなくなる。弱い魔力でも、平民社会では強者だ。騎士に取り立てられることもあるし、取り立てられなくても食うに困ることは少ない。


 もちろん、すべての女が望むわけではない。


 恐怖もある。


 嫌悪もある。


 泣く者もいるだろう。


 けれど、ある程度は期待している者もいる。


 この世界の現実として、それもまた事実だった。


 ダリアはどうなのだろうか。


 ギルはまた前方を見る。


 彼女は自分から望んでいるようには見えない。


 だが、完全に絶望しているようにも見えない。


 ギルが手を出さないことに戸惑っている可能性すらある。


 帝国では、大貴族の一族が平民女を奪えば、その日のうちに寝所へ引き込んでもおかしくないのかもしれない。ギルはまだ何もしていない。怒らせ、呆れさせ、獲物だと言い、側室候補だと告げ、尻の話をしてさらに怒らせただけだ。


 ……だけ、と言っていいのかは微妙だな。


 ギルは内心で少し反省した。


 森沿いを抜ける頃、陽は少し傾いていた。案内人の言った通り、古い宿場道へ戻る。道幅が広がり、荷車の轍も増えた。遠くに、今夜使うらしい小さな宿場が見える。煙が上がり、馬を繋ぐ柵もあった。


 宿場へ入る前に、ギルは隊列を少し整えた。


 赤布は巻かない。


 山賊に見える必要はない。


 むしろ今は、少し荒っぽい旅の一団くらいに見える方がいい。全員が騎士だと分かるほど堂々とするのも避ける。魔力は抑え、装いは粗く、だが無用に貧しくは見せない。金を払える旅人。近づくと危険そうな武装集団。そのくらいがちょうどいい。


 宿は普通だった。


 木造の二階建てで、壁は古く、窓枠は少し歪んでいる。厩は狭いが、馬を入れるには足りる。主人はギルたちを見て一瞬警戒したが、セバスチャンが銀貨を見せると表情を整えた。帝国の宿屋の主人たちは、本当に金への反応が早い。


 部屋を取る。


 馬を休ませる。


 夕食の準備をさせる。


 その間、ダリアは入口近くで待っていた。自分がどこへ行けばいいのか測っているように見える。以前なら案内役として動いただろうが、今は立場が違う。アバルディア家の者でもなく、完全にマバール家の者になったわけでもない。


 中途半端だ。


 だからこそ、ギルははっきり言った。


「ダリア、お前は俺の近くにいろ」


 ダリアがこちらを見る。


「監視ですか」


「半分はな」


「もう半分は?」


「逃げられると困る」


「同じ意味では?」


「似ているな」


 ダリアは小さく息を吐いた。


「承知しました」


 素直だ。


 怒っているが、必要な指示には従う。


 やはり使いやすい。


 ギルは部屋へ入り、外套を椅子にかけた。宿の部屋は狭い。寝台は硬そうで、机も小さい。だが、屋根があるだけで十分だ。旅が長くなると、そういう感覚になってくる。


 セバスチャンは当然のように部屋へ入ってきて、椅子に座った。


「お前の部屋ではないぞ」


「護衛ですぜ」


「なら座るな」


「立ってても疲れるだけで」


「じじいめ」


「へいへい」


 セバスチャンはまったく気にしない。


 ダリアは入口近くで立っていた。


「座れ」


 ギルが言うと、彼女は少しだけ迷ってから椅子の端へ腰を下ろした。すぐ立てる座り方だ。そういうところは変わらない。


 宿の女が茶を運んできた。


 薄い茶だ。


 香りは弱い。


 ギルは一口飲み、少し顔をしかめた。


 レティシアの茶が恋しい。


 そして、またレティシアのことを考えてしまった。


 どう説明する。


 まず帰ったら、父上へ報告する。帝国の情勢。アバルディアとザザントの共闘。メガレス家の内部分裂。フリージア家と腐銀。帝都への攻撃は……どこまで詳細に言うべきか。言わないわけにはいかない。父上はおそらく笑う。いや、笑いながら頭を抱えるかもしれない。


 その後、ダリアだ。


 いや、ダリアは最初から見えている。隠せない。


 父上なら分かってくださる。


 たぶん。


 問題はレティシアだ。


 ギルは茶器を置いた。


 ダリアがこちらを見ていた。


「何だ」


「いえ」


「言いたいことがあるなら言え」


「ギル様は、先ほどから落ち着かないように見えます」


 セバスチャンが噴き出しかけた。


 ギルは睨む。


「落ち着いている」


「そうは見えません」


「旅疲れだ」


「そうですか」


 ダリアはあまり信じていない顔だった。


 実に厄介だ。


 この女、表情は薄いのに人の様子はよく見ている。


「レティシア様のことでしょうか」


 ギルは茶器を持つ手を止めた。


 セバスチャンが笑いを堪えきれず、肩を震わせた。


「おい」


「何でもありやせん」


「クソじじい」


 ダリアは静かに続けた。


「船の上でも気にしておられましたので」


「気にしていない」


「そうですか」


「少しだけだ」


「そうですか」


 同じ言葉なのに、今度は明らかに信じていない響きだった。


 ギルは眉を寄せる。


「レティシアは怒らない」


「そうなのですか」


「たぶん」


「たぶん」


「いや、怒らない。彼女は賢いからな。事情を説明すれば分かる」


「では問題ないのでは」


「うむ」


 ギルは頷いた。


 問題ない。


 問題ないはずだ。


 だが、胸の奥はまったく軽くならなかった。


 ダリアは少しだけ首を傾げた。


「ギル様は、大貴族の一族なのでしょう」


「そうだな」


「平民の女を一人連れ帰ることが、それほど問題になりますか」


「相手による」


「レティシア様は、そこまで大事な方なのですね」


「ああ」


 ギルは迷わず答えた。


 ダリアの目が少し動いた。


「なら、なおさら正直にお話しした方がよろしいかと」


「そう思うか」


「はい」


「獲物として奪ったと言うのは?」


「絶対にやめてください」


 即答だった。


 セバスチャンがまた笑った。


「若様、ダリアの方がよほど女心を分かってやすぜ」


「うるさい」


「いやあ、これは頼もしい新入りで」


「まだ新入りにするとは決めていない」


「連れて帰るんでしょう?」


「それはそうだが」


「なら新入りでさぁ」


 ギルは反論しようとして、やめた。


 実際そうだった。


 部屋の空気が少しだけ緩んだ時、ダリアが自分の手を見下ろした。褐色の指先。旅で少し荒れているが、動きは綺麗だ。彼女は何かを考えるように、手袋の端を軽く触った。


「あの、ギル様」


「何だ」


「私の肌の色は、王国では目立つのではないでしょうか」


「ん?」


 ギルは思わず彼女を見た。


 褐色の肌。


 灰色の髪。


 確かにマバール城では見た覚えがあまりない。領都なら旅人や商人の中に似た者がいたかもしれないが、城内では珍しいだろう。


 しかし、目立つかどうかと言われると、そこまで気にしていなかった。


「そうなのか?」


 ギルが尋ねると、ダリアはわずかに眉を寄せた。


「私に聞かれても困ります」


「城内では見たことないなぁ」


 ギルが呟くと、セバスチャンが茶を飲みながら口を挟んだ。


「多少は目立ちますが、いない訳じゃありやせん」


「そうなのか」


「南方の血が入った商人や傭兵もいますし、王国にもまったくいないわけじゃありやせん。ただ、マバール城の中だと珍しいでしょうな」


「ふむ」


 ギルはダリアを見た。


 褐色の肌は確かに目を引く。


 灰色の髪も珍しい。


 中性的な顔立ちも含め、城内に置けばそれなりに見られるだろう。


 だが、この世界では肌の色で差別という話はあまり聞かない。少なくともギルの周囲では、肌の色より魔力と身分と家が圧倒的に大きい。力こそパワーなのだ。肌の色がどうこうより、魔力を持っているか、どの家の者か、誰に仕えているかの方がずっと重要になる。


 ダリアは平民だ。


 目立つ理由があるとすれば、肌よりもギルが連れ帰った女であることの方だろう。


「いっそのこと、もっと目立つ服に変えるか」


 ギルはふと思いついた。


 ダリアの顔が固まった。


「いえ、けっこうです」


「赤かな、やっぱり」


「いえ、けっこうなんです。遠慮します」


「遠慮など水くさいぞ、ダリア」


「遠慮ではなく、拒否です」


 強い口調だった。


 だが、ギルはすでに頭の中で考え始めていた。


 褐色の肌に赤。


 悪くない。


 灰色の髪にも映える。あまり派手すぎると南方の踊り子みたいになるかもしれないが、細身の衣なら似合うかもしれない。胸は控えめだが、腰の線を出せば十分見栄えがする。尻がいいから、後ろ姿も映えるだろう。


 いや、尻の話はしない。


 学習した。


「赤に金糸を少し入れるか」


「聞いてください」


「黒も合うかもしれん」


「ギル様」


「いや、黒だと少し暗いか。なら深い赤に黒帯」


「ギル様!」


 ダリアの声が大きくなった。


 ギルはようやく彼女を見る。


「何だ」


「目立たないようにしたいという話をしております」


「だが、目立つのならいっそ整えた方がいいだろう」


「なぜですか」


「中途半端に目立つより、堂々と目立つ方がいい」


 ダリアが言葉を失った。


 セバスチャンが感心したように頷く。


「若様らしい理屈ですな」


「だろう」


「褒めてやせん」


「む」


 ダリアは額に指を当てた。


「私は、あまり目立つとご迷惑かと思いまして」


 その言葉で、ギルは少し黙った。


 迷惑。


 ダリアは自分が目立つことを恐れているというより、ギルの周囲に余計な注目を集めることを気にしているらしい。肌の色だけではない。帝国から連れてきた女。アバルディア家の影。知りすぎている平民。それらが重なると、確かに目立つ。


 だが、セバスチャンがあっさり言った。


「大丈夫でしょうな。若様より目立ちゃしませんぜ」


「やかましいぞ! クソじじい!」


 ギルは即座に怒鳴った。


 ダリアが瞬きをした。


 次の瞬間、ほんの少しだけ口元が動いた。


 笑ったのかもしれない。


 すぐに戻ってしまったが、ギルにはそう見えた。


 セバスチャンはにやにやしている。


「実際そうでしょう。マバール家の若様で、規格外の魔力持ちで、帝国から帰ってきたと思ったら褐色肌の女を連れている。目立つ要素は若様の方に山ほどありやす」


「お前は本当に遠慮がないな」


「事実で」


「だから腹立つんだ」


 ギルは茶を飲んだ。


 薄い。


 不味い。


 だが、少しだけ気分は軽くなった。


 ダリアの肌の色は、たぶん問題の中心にはならない。少なくとも、ギル自身は気にしない。周囲が多少見るとしても、それは彼女の肌だけが理由ではないだろう。むしろ、ギルがどう扱うかの方が大きい。


 なら、堂々としていればいい。


「ダリア」


「はい」


「肌の色は気にしなくていい」


 ダリアが顔を上げる。


「そうでしょうか」


「ああ。この世界では力と身分の方がよほど大事だ。お前は俺が連れて帰る。なら、肌より俺の機嫌を気にした方がいい」


「それは安心してよい言葉なのでしょうか」


「たぶん」


「たぶん」


「少なくとも俺は気にしない」


 ダリアはしばらくギルを見ていた。


 何かを測るような目だった。


 やがて、少しだけ視線を下げる。


「承知しました」


「それと、服は考えておく」


「そこは忘れてください」


「赤は似合うと思う」


「忘れてください」


「深い赤なら」


「忘れてください」


 セバスチャンが声を殺して笑っている。


 ギルは少し不満だった。


 似合うと思うのだが。


 その夜、宿場の外では風が強くなった。


 窓枠が小さく鳴り、厩の方から馬の声が聞こえる。食事は硬いパンと煮込みだった。味は悪くないが、城の食事には程遠い。ギルは豆調味料を使いたい衝動を抑えた。貴重な小壺を、こんな宿の煮込みへ適当に入れるわけにはいかない。あれは帰ってからレティシアに見せる。


 レティシア。


 またそこへ戻る。


 ギルは寝台の端に腰を下ろし、荷の中にしまった茶葉と小壺を確認した。


 無事だ。


 割れていない。


 匂いも漏れていない。


 これは大事だ。


 帝国で得た最大の成果……ではないが、かなり大きな成果である。


 セバスチャンが入口近くで見張りの交代を指示している。ダリアは部屋の端で静かに座っていた。逃げる様子はない。だが、完全に寛いでいるわけでもない。いつでも立てる姿勢。いつでも動ける目。彼女の癖なのだろう。


 ギルはその姿を見て、ふと口を開いた。


「ダリア」


「はい」


「帰ったら、お前の扱いを決めるまでは俺の近くに置く」


「承知しております」


「不満か?」


「不満がないと言えば嘘になります」


「正直だな」


「ギル様が正直に話せとおっしゃいましたので」


「そうだったな」


 ギルは少し笑った。


 ダリアは笑わない。


 だが、以前よりも少しだけ会話が柔らかくなった気がした。


「側室の話は、今すぐ決めることではない」


「はい」


「ただ、可能性はある」


「……はい」


「嫌なら嫌と言え」


「言えば聞いてくださるのですか」


「内容による」


「正直ですね」


「嘘をつくよりいいだろ」


 ダリアは小さく息を吐いた。


「ギル様は、ひどい方ですね」


「よく言われる」


「褒めていません」


「知ってる」


 少しだけ沈黙があった。


 外の風が窓を叩く。


 遠くで誰かが笑い、すぐに静かになった。


「ですが」


 ダリアが静かに言った。


「アバルディア家へ戻るより、ましなのかもしれません」


 ギルは彼女を見た。


 ダリアは視線を床へ落としていた。


 顔は静かだ。


 だが、言葉は軽くなかった。


「そうか」


 ギルはそれだけ言った。


 余計な慰めはしない。


 助けたつもりだとも言わない。


 彼女を奪った理由は一つではない。有能だから。知りすぎているから。気に入ったから。側に置きたいから。戻れば危ないから。どれも本当で、どれか一つだけではない。


 だから、ここで綺麗な言葉を使うのは違う。


「マバール家が、お前にとって悪くない場所になるようにはする」


 ダリアが顔を上げた。


「約束ですか」


「努力目標だ」


「そこは約束ではないのですか」


「できない約束はしない」


 ダリアはまた少しだけ目を細めた。


 呆れたのかもしれない。


 けれど、今度は怒っているようには見えなかった。


「承知しました」


 その返事は、以前より少しだけ柔らかかった。


 翌朝、一行は早く宿場を出た。


 空は薄曇り。


 風は冷たく、地面には夜露が残っている。案内人は相変わらず優秀で、朝の人通りが増える前に宿場を抜け、南西へ伸びる道へ一行を導いた。マバール領へ近づくには、まだ距離がある。だが、確実に帝国の奥から離れている。


 ギルは馬上で、少しだけ体を伸ばした。


 帰れる。


 まだ油断はできない。


 腐銀の情報も持ち帰らなければならない。


 ダリアの説明もある。


 レティシア問題もある。


 父上への報告もある。


 それでも、帰路に入っているというだけで、腹の奥の重さは少し違った。


 隣でセバスチャンが言う。


「若様」


「何だ」


「レティシア嬢への説明、考えはまとまりやしたか?」


「今からだ」


「遅くありやせんか」


「うるさい」


「お館様への言い訳も」


「父上は分かってくださる」


「その自信、どこから来るんですかね」


「父上だからだ」


「なるほど、分かるような分からんような」


 ギルは前を向いた。


 ダリアがこちらをちらりと見る。


 目が合う。


 今度は、すぐに逸らさなかった。


 少しだけ見て、それから前を向いた。


 ギルは赤布を使わないまま、静かな帝国の街道を進んだ。


 上品な山賊の仕事は終わった。


 あとは帰るだけだ。


 ただし、帰った後の方が本当に面倒かもしれない。


 そう思うと、ギルは少しだけ胃の辺りが重くなった。


 だが、背後でセバスチャンがにやにやしている気配がしたので、ギルは振り返らずに言った。


「笑うなよ、クソじじい」


「まだ笑ってやせんぜ」


「これから笑う顔だった」


「さすが若様、よく分かってらっしゃる」


「やかましい」


 ダリアが前方で、ほんのわずかに肩を揺らした気がした。


 笑ったのかどうかは分からない。


 けれど、ギルはそれを悪くないと思った。

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