第四十二話 帰り道の獲物
帝国領を抜ける道は、思っていたよりも静かだった。
もちろん、安全という意味ではない。街道の脇には背の低い草が風に揺れ、ところどころに踏み固められた土の轍が残っている。遠くには畑が広がり、そこへ点々と平民の姿も見える。荷車は少なく、騎士の姿も見えない。だが、その静けさは穏やかというより、誰もが余計なものに触れないよう息を潜めている類のものだった。
帝国は広い。
行きも面倒だったが、帰りも楽ではない。
ギルは馬上で、前方を進む案内人の背を眺めていた。新しくついた男は平民だが、かなり旅慣れている。道の曲がり方、宿場の避け方、村へ近づく時の速度、どれも悪くない。アバルディア家が寄越しただけはあるのだろう。余計なことは喋らず、必要な時だけ短く進路を示すところも気に入った。
その少し後ろに、ダリアがいる。
褐色の肌に灰色の髪。背筋は相変わらず伸びていて、馬の上でも揺れが少ない。無理に逃げようとする様子はない。こちらを恨んでいない、というほど都合よくは見えないが、少なくとも今すぐ大河へ飛び込むような女ではなかった。
賢い。
そこが実にいい。
逃げたところで危険しかない。アバルディア家へ戻れば、以前と同じようには扱われない。ギルの正体も、帝都への攻撃も、貴族屋敷を焼いたことも、腐銀の話も知りすぎている。そんな女を、家が自由に歩かせるわけがない。
それをダリア自身も分かっているはずだった。
だからこそ、彼女は大人しくついてくる。
そして時折、こちらを見る。
ちらり。
また前を見る。
少しして、またこちらを見る。
ギルは気づいていたが、気づかないふりをしていた。視線に怒りはある。警戒もある。だが、それだけではない気がした。大河の岸で無理やり抱え上げられた女にしては、目の奥が複雑すぎる。
たぶん、少しは感謝しているのかもしれない。
もちろん本人が自覚しているかは分からない。ダリアが何を考えているかなど、ギルには分からない。だが、もし彼女が自分の今後を正確に予想していたなら、ギルに奪われた形でマバール家へ連れて行かれることが、最悪ではないと気づいていてもおかしくない。
最悪ではない。
良いか悪いかではなく、最悪ではない。
貴族社会では、それだけでかなりましな結果になることがある。
ギルは手綱を緩め、馬の首筋を軽く撫でた。
現状では、これ以上帝国を混乱させるのは下策だ。
赤布は使っていない。
山賊行為もしない。
道中で怪しい騎士や兵が近づいてきても、先に避けられるなら避ける。こちらから屋敷を焼きに行く理由もない。メガレス家を煽り、ザザント家を追い詰め、アバルディア家との共闘まで後押しした。そこから先は帝国の者たちの仕事だ。
上品な山賊がいつまでも暴れれば、せっかく作った形まで崩れる。
だから大人しく進む。
大人しく。
実に大人しく。
そのせいで、別の問題が頭の中を占領していた。
レティシアに、どう説明しよう。
ギルは馬上で目を細めた。
帝国の貴族屋敷を焼いたことではない。帝都に攻撃魔法を撃ち込んだことでもない。腐銀の話でも、アバルディア家とザザント家の共闘でもない。
ダリアだ。
レティシアは怒らないだろうか。
いや、怒らないはずだ。
レティシアは賢い。状況を説明すれば分かる。ダリアをアバルディア家へ戻せば危険だった。知りすぎている。有能でもある。マバール家に連れて帰る価値はある。建前としては山賊が気に入った女を奪っただけだが、実際には情報保全と人材確保の意味がある。
だから怒らない。
たぶん。
いや、でも。
ギルは眉を寄せた。
レティシアは表立って声を荒らげる女ではない。怒ったとしても、静かに見る。きっと静かに見る。あの柔らかい声で、なるほど、と言うかもしれない。そう言われる方が怖い。
いや、俺は無実だ。
今は間違いなく無実だ。
ダリアにはまだ手を出していない。
今後はともかく。
今は、だ。
今後はともかく。
ギルは小さく咳払いした。
そこは大事な線だ。今は無実。誰に何を言われても、今は無実。帝国から女を一人抱えて船に乗せたのは事実だが、それは建前と保護と人材確保と、まあ、少しだけ気に入ったからであって、まだ何もしていない。
今後はともかく。
また同じ言葉が頭に浮かび、ギルは少しだけ空を見た。
曇りがちな帝国の空は、王国側と変わらないはずなのに、妙に遠く感じる。早く帰りたい。帰って柔らかい寝台で寝たい。レティシアの淹れた茶を飲みたい。豆調味料を見せたい。茶葉も渡したい。そしてダリアの説明は、できれば誰かが代わりにしてほしい。
隣で、セバスチャンがにやにやしていた。
ギルは横目で見た。
「何だ」
「いえいえ」
「その顔は何か言いたい顔だろ」
「若様が珍しく大人しいもんで」
「大人しくしていて悪いか」
「悪くはありやせんがね」
セバスチャンは馬上で肩を揺らした。
「若様、レティシア嬢への言い訳ばかり考えてる顔ですぜ」
「うるさい」
「おや、当たりですかい」
「やかましい」
セバスチャンの笑みが深くなる。
腹立たしい。
このクソじじいは、長年戦場を歩いてきただけあって、人の顔色を読むのが妙に上手い。いや、顔色というより、ギルの行動の隙間を見ているのだろう。大人しくしている時ほどろくでもないことを考えている、とでも思っているに違いない。
「若様、お館様への言い訳も要りますぜ」
「やかましい!」
思わず声が少し大きくなった。
前を行くダリアが振り返る。
案内人も一瞬だけ肩を揺らした。
ギルは咳払いした。
「父上なら分かってくださる」
「そうですかねえ」
「分かってくださる」
ギルは強く言った。
「俺は父上の助言に従っただけだ」
「助言で?」
「そうだ」
父上は言っていた。
胸だけではなく尻も大事だと。
ダリアは胸こそ控えめだが、尻の形は悪くない。むしろ良い。旅装越しでも分かる。馬に乗っている姿勢がいいから余計に目立つ。父上の言葉に従ったなら、これは間違いではない。
俺は悪くない。
父上が悪い。
いや、父上は悪くない。
つまり、誰も悪くない。
そうだ。
ダリアは尻美人だ。
俺は正しい。
絶対に言わないけどな。
「若様」
セバスチャンが半眼でこちらを見ていた。
「何だ」
「今、またろくでもねえことを考えてやせんか」
「考えてない」
「本当ですかい」
「少しだけだ」
「やっぱり考えてるじゃねえですか」
ギルは答えず、前を向いた。
ダリアがまだこちらを見ている。
目が合うと、彼女はすぐに前へ戻った。
その背中は、どこか戸惑っているようにも見えた。
ダリアからすれば、ギルという男は理解しにくいのかもしれない。
敵対者には冷酷だった。帝都へ攻撃魔法を落とし、屋敷を焼き、貴族を殺し、必要なら子どもすら処理した。襲撃の時、ギルは迷わなかった。ザザント家系の屋敷を襲う時も、証言者を残すために火の回り方まで調整した。そういう男だと、彼女は知っている。
だが、その同じ男が今はレティシアへの言い訳で胃を痛めている。
自分を奪っておきながら、手を出していないことを内心で無実だと主張している。
……まあ、戸惑うだろうな。
ギルは自分でも少し思った。
しかし、それは仕方ない。
敵と身内は違う。
守るべきものと、焼くべきものは違う。
レティシアは明らかに前者だ。
そして、ダリアをどちらへ置くかは、まだ決めきれていない。
少なくとも敵ではない。
逃げられたら困る。
手元に置きたい。
側室にするかもしれない。
だが、今はまだ説明が先だ。
レティシアへの説明。
父上への説明。
ダル兄さんやアル兄さんにどう聞かれるか。
文官連中の顔。
うんざりしてくる。
ギルは馬上で軽く首を回した。
街道は緩やかに下っていた。遠くに小さな村が見えるが、案内人はその手前で右へ折れる道を選んだ。村を避けるのだろう。なかなか判断が早い。道は少し細くなり、両脇の草が馬の脚に触れる。踏み固められてはいるが、荷車が多く通る道ではない。
案内人が振り返り、短く言った。
「この先、森沿いを抜けます。半刻ほど進めば、古い宿場道へ戻れます」
「分かった」
ギルが返すと、男はすぐに前を向いた。
余計なことは言わない。
やはり優秀だ。
アバルディア家は、出す人材を間違えていない。ダリアほどではないが、この男も十分使える。もっとも、彼は事情をどこまで知っているか分からない。知らない方が幸せだろう。
ダリアはその後ろで、相変わらず大人しく馬を進めていた。
彼女は本当に逃げない。
ギルはそれを確認しながら、少しだけ不思議な気分になった。大河の船上ではかなり怒っていた。今も怒っていないわけではないだろう。それでも彼女は、取り乱さず、状況を読み、必要なら会話にも応じる。
そういう女だからこそ、欲しくなったのだ。
欲しい、という言葉が頭に浮かび、ギルは少しだけ目を逸らした。
まあ、欲しいのだろう。
有能だし。
知りすぎているし。
尻もいいし。
だから仕方ない。
森沿いの道に入ると、空気が少し湿った。枝葉の影が地面へ落ち、馬の蹄が柔らかい土を踏む音に変わる。日差しは薄く、鳥の声が遠くで響いていた。時折、木々の間から村の畑が見える。平民たちはこちらに気づいていないのか、遠くで腰を曲げて作業を続けている。
平民。
ダリアも、身分としてはそこに近い。
だが、彼女は普通の平民とは違う。魔力はない。貴族でも騎士でもない。けれど、帝国の家関係を知り、密使の線を使い、襲撃先を選べる。平民としては、かなり特殊な位置にいる。
それでも、貴族から見れば平民だ。
ギルは前世の感覚で、そこに少し引っかかる。
しかし、この世界では違う。
魔力を持つ者と持たない者の差は、単なる身分制度ではなく、実際の力の差として存在する。低い魔力でも、平民から見れば圧倒的な強者だ。魔力持ちの子を産めば、人生そのものが変わる可能性すらある。
帝国でも、平民の女が貴族に手をつけられることはあるのだろう。
それは乱暴な話で、前世の感覚では嫌悪すべきものだ。
だが、この世界では少し違う。
実は襲われることにメリットがあるのも事実なのだ。貴族や騎士が平民の女を抱けば、大抵の場合は金が払われる。それは平民からすればかなりの大金になる。さらに、確率は低くても魔力持ちの子を産めれば、その子はただの平民ではなくなる。弱い魔力でも、平民社会では強者だ。騎士に取り立てられることもあるし、取り立てられなくても食うに困ることは少ない。
もちろん、すべての女が望むわけではない。
恐怖もある。
嫌悪もある。
泣く者もいるだろう。
けれど、ある程度は期待している者もいる。
この世界の現実として、それもまた事実だった。
ダリアはどうなのだろうか。
ギルはまた前方を見る。
彼女は自分から望んでいるようには見えない。
だが、完全に絶望しているようにも見えない。
ギルが手を出さないことに戸惑っている可能性すらある。
帝国では、大貴族の一族が平民女を奪えば、その日のうちに寝所へ引き込んでもおかしくないのかもしれない。ギルはまだ何もしていない。怒らせ、呆れさせ、獲物だと言い、側室候補だと告げ、尻の話をしてさらに怒らせただけだ。
……だけ、と言っていいのかは微妙だな。
ギルは内心で少し反省した。
森沿いを抜ける頃、陽は少し傾いていた。案内人の言った通り、古い宿場道へ戻る。道幅が広がり、荷車の轍も増えた。遠くに、今夜使うらしい小さな宿場が見える。煙が上がり、馬を繋ぐ柵もあった。
宿場へ入る前に、ギルは隊列を少し整えた。
赤布は巻かない。
山賊に見える必要はない。
むしろ今は、少し荒っぽい旅の一団くらいに見える方がいい。全員が騎士だと分かるほど堂々とするのも避ける。魔力は抑え、装いは粗く、だが無用に貧しくは見せない。金を払える旅人。近づくと危険そうな武装集団。そのくらいがちょうどいい。
宿は普通だった。
木造の二階建てで、壁は古く、窓枠は少し歪んでいる。厩は狭いが、馬を入れるには足りる。主人はギルたちを見て一瞬警戒したが、セバスチャンが銀貨を見せると表情を整えた。帝国の宿屋の主人たちは、本当に金への反応が早い。
部屋を取る。
馬を休ませる。
夕食の準備をさせる。
その間、ダリアは入口近くで待っていた。自分がどこへ行けばいいのか測っているように見える。以前なら案内役として動いただろうが、今は立場が違う。アバルディア家の者でもなく、完全にマバール家の者になったわけでもない。
中途半端だ。
だからこそ、ギルははっきり言った。
「ダリア、お前は俺の近くにいろ」
ダリアがこちらを見る。
「監視ですか」
「半分はな」
「もう半分は?」
「逃げられると困る」
「同じ意味では?」
「似ているな」
ダリアは小さく息を吐いた。
「承知しました」
素直だ。
怒っているが、必要な指示には従う。
やはり使いやすい。
ギルは部屋へ入り、外套を椅子にかけた。宿の部屋は狭い。寝台は硬そうで、机も小さい。だが、屋根があるだけで十分だ。旅が長くなると、そういう感覚になってくる。
セバスチャンは当然のように部屋へ入ってきて、椅子に座った。
「お前の部屋ではないぞ」
「護衛ですぜ」
「なら座るな」
「立ってても疲れるだけで」
「じじいめ」
「へいへい」
セバスチャンはまったく気にしない。
ダリアは入口近くで立っていた。
「座れ」
ギルが言うと、彼女は少しだけ迷ってから椅子の端へ腰を下ろした。すぐ立てる座り方だ。そういうところは変わらない。
宿の女が茶を運んできた。
薄い茶だ。
香りは弱い。
ギルは一口飲み、少し顔をしかめた。
レティシアの茶が恋しい。
そして、またレティシアのことを考えてしまった。
どう説明する。
まず帰ったら、父上へ報告する。帝国の情勢。アバルディアとザザントの共闘。メガレス家の内部分裂。フリージア家と腐銀。帝都への攻撃は……どこまで詳細に言うべきか。言わないわけにはいかない。父上はおそらく笑う。いや、笑いながら頭を抱えるかもしれない。
その後、ダリアだ。
いや、ダリアは最初から見えている。隠せない。
父上なら分かってくださる。
たぶん。
問題はレティシアだ。
ギルは茶器を置いた。
ダリアがこちらを見ていた。
「何だ」
「いえ」
「言いたいことがあるなら言え」
「ギル様は、先ほどから落ち着かないように見えます」
セバスチャンが噴き出しかけた。
ギルは睨む。
「落ち着いている」
「そうは見えません」
「旅疲れだ」
「そうですか」
ダリアはあまり信じていない顔だった。
実に厄介だ。
この女、表情は薄いのに人の様子はよく見ている。
「レティシア様のことでしょうか」
ギルは茶器を持つ手を止めた。
セバスチャンが笑いを堪えきれず、肩を震わせた。
「おい」
「何でもありやせん」
「クソじじい」
ダリアは静かに続けた。
「船の上でも気にしておられましたので」
「気にしていない」
「そうですか」
「少しだけだ」
「そうですか」
同じ言葉なのに、今度は明らかに信じていない響きだった。
ギルは眉を寄せる。
「レティシアは怒らない」
「そうなのですか」
「たぶん」
「たぶん」
「いや、怒らない。彼女は賢いからな。事情を説明すれば分かる」
「では問題ないのでは」
「うむ」
ギルは頷いた。
問題ない。
問題ないはずだ。
だが、胸の奥はまったく軽くならなかった。
ダリアは少しだけ首を傾げた。
「ギル様は、大貴族の一族なのでしょう」
「そうだな」
「平民の女を一人連れ帰ることが、それほど問題になりますか」
「相手による」
「レティシア様は、そこまで大事な方なのですね」
「ああ」
ギルは迷わず答えた。
ダリアの目が少し動いた。
「なら、なおさら正直にお話しした方がよろしいかと」
「そう思うか」
「はい」
「獲物として奪ったと言うのは?」
「絶対にやめてください」
即答だった。
セバスチャンがまた笑った。
「若様、ダリアの方がよほど女心を分かってやすぜ」
「うるさい」
「いやあ、これは頼もしい新入りで」
「まだ新入りにするとは決めていない」
「連れて帰るんでしょう?」
「それはそうだが」
「なら新入りでさぁ」
ギルは反論しようとして、やめた。
実際そうだった。
部屋の空気が少しだけ緩んだ時、ダリアが自分の手を見下ろした。褐色の指先。旅で少し荒れているが、動きは綺麗だ。彼女は何かを考えるように、手袋の端を軽く触った。
「あの、ギル様」
「何だ」
「私の肌の色は、王国では目立つのではないでしょうか」
「ん?」
ギルは思わず彼女を見た。
褐色の肌。
灰色の髪。
確かにマバール城では見た覚えがあまりない。領都なら旅人や商人の中に似た者がいたかもしれないが、城内では珍しいだろう。
しかし、目立つかどうかと言われると、そこまで気にしていなかった。
「そうなのか?」
ギルが尋ねると、ダリアはわずかに眉を寄せた。
「私に聞かれても困ります」
「城内では見たことないなぁ」
ギルが呟くと、セバスチャンが茶を飲みながら口を挟んだ。
「多少は目立ちますが、いない訳じゃありやせん」
「そうなのか」
「南方の血が入った商人や傭兵もいますし、王国にもまったくいないわけじゃありやせん。ただ、マバール城の中だと珍しいでしょうな」
「ふむ」
ギルはダリアを見た。
褐色の肌は確かに目を引く。
灰色の髪も珍しい。
中性的な顔立ちも含め、城内に置けばそれなりに見られるだろう。
だが、この世界では肌の色で差別という話はあまり聞かない。少なくともギルの周囲では、肌の色より魔力と身分と家が圧倒的に大きい。力こそパワーなのだ。肌の色がどうこうより、魔力を持っているか、どの家の者か、誰に仕えているかの方がずっと重要になる。
ダリアは平民だ。
目立つ理由があるとすれば、肌よりもギルが連れ帰った女であることの方だろう。
「いっそのこと、もっと目立つ服に変えるか」
ギルはふと思いついた。
ダリアの顔が固まった。
「いえ、けっこうです」
「赤かな、やっぱり」
「いえ、けっこうなんです。遠慮します」
「遠慮など水くさいぞ、ダリア」
「遠慮ではなく、拒否です」
強い口調だった。
だが、ギルはすでに頭の中で考え始めていた。
褐色の肌に赤。
悪くない。
灰色の髪にも映える。あまり派手すぎると南方の踊り子みたいになるかもしれないが、細身の衣なら似合うかもしれない。胸は控えめだが、腰の線を出せば十分見栄えがする。尻がいいから、後ろ姿も映えるだろう。
いや、尻の話はしない。
学習した。
「赤に金糸を少し入れるか」
「聞いてください」
「黒も合うかもしれん」
「ギル様」
「いや、黒だと少し暗いか。なら深い赤に黒帯」
「ギル様!」
ダリアの声が大きくなった。
ギルはようやく彼女を見る。
「何だ」
「目立たないようにしたいという話をしております」
「だが、目立つのならいっそ整えた方がいいだろう」
「なぜですか」
「中途半端に目立つより、堂々と目立つ方がいい」
ダリアが言葉を失った。
セバスチャンが感心したように頷く。
「若様らしい理屈ですな」
「だろう」
「褒めてやせん」
「む」
ダリアは額に指を当てた。
「私は、あまり目立つとご迷惑かと思いまして」
その言葉で、ギルは少し黙った。
迷惑。
ダリアは自分が目立つことを恐れているというより、ギルの周囲に余計な注目を集めることを気にしているらしい。肌の色だけではない。帝国から連れてきた女。アバルディア家の影。知りすぎている平民。それらが重なると、確かに目立つ。
だが、セバスチャンがあっさり言った。
「大丈夫でしょうな。若様より目立ちゃしませんぜ」
「やかましいぞ! クソじじい!」
ギルは即座に怒鳴った。
ダリアが瞬きをした。
次の瞬間、ほんの少しだけ口元が動いた。
笑ったのかもしれない。
すぐに戻ってしまったが、ギルにはそう見えた。
セバスチャンはにやにやしている。
「実際そうでしょう。マバール家の若様で、規格外の魔力持ちで、帝国から帰ってきたと思ったら褐色肌の女を連れている。目立つ要素は若様の方に山ほどありやす」
「お前は本当に遠慮がないな」
「事実で」
「だから腹立つんだ」
ギルは茶を飲んだ。
薄い。
不味い。
だが、少しだけ気分は軽くなった。
ダリアの肌の色は、たぶん問題の中心にはならない。少なくとも、ギル自身は気にしない。周囲が多少見るとしても、それは彼女の肌だけが理由ではないだろう。むしろ、ギルがどう扱うかの方が大きい。
なら、堂々としていればいい。
「ダリア」
「はい」
「肌の色は気にしなくていい」
ダリアが顔を上げる。
「そうでしょうか」
「ああ。この世界では力と身分の方がよほど大事だ。お前は俺が連れて帰る。なら、肌より俺の機嫌を気にした方がいい」
「それは安心してよい言葉なのでしょうか」
「たぶん」
「たぶん」
「少なくとも俺は気にしない」
ダリアはしばらくギルを見ていた。
何かを測るような目だった。
やがて、少しだけ視線を下げる。
「承知しました」
「それと、服は考えておく」
「そこは忘れてください」
「赤は似合うと思う」
「忘れてください」
「深い赤なら」
「忘れてください」
セバスチャンが声を殺して笑っている。
ギルは少し不満だった。
似合うと思うのだが。
その夜、宿場の外では風が強くなった。
窓枠が小さく鳴り、厩の方から馬の声が聞こえる。食事は硬いパンと煮込みだった。味は悪くないが、城の食事には程遠い。ギルは豆調味料を使いたい衝動を抑えた。貴重な小壺を、こんな宿の煮込みへ適当に入れるわけにはいかない。あれは帰ってからレティシアに見せる。
レティシア。
またそこへ戻る。
ギルは寝台の端に腰を下ろし、荷の中にしまった茶葉と小壺を確認した。
無事だ。
割れていない。
匂いも漏れていない。
これは大事だ。
帝国で得た最大の成果……ではないが、かなり大きな成果である。
セバスチャンが入口近くで見張りの交代を指示している。ダリアは部屋の端で静かに座っていた。逃げる様子はない。だが、完全に寛いでいるわけでもない。いつでも立てる姿勢。いつでも動ける目。彼女の癖なのだろう。
ギルはその姿を見て、ふと口を開いた。
「ダリア」
「はい」
「帰ったら、お前の扱いを決めるまでは俺の近くに置く」
「承知しております」
「不満か?」
「不満がないと言えば嘘になります」
「正直だな」
「ギル様が正直に話せとおっしゃいましたので」
「そうだったな」
ギルは少し笑った。
ダリアは笑わない。
だが、以前よりも少しだけ会話が柔らかくなった気がした。
「側室の話は、今すぐ決めることではない」
「はい」
「ただ、可能性はある」
「……はい」
「嫌なら嫌と言え」
「言えば聞いてくださるのですか」
「内容による」
「正直ですね」
「嘘をつくよりいいだろ」
ダリアは小さく息を吐いた。
「ギル様は、ひどい方ですね」
「よく言われる」
「褒めていません」
「知ってる」
少しだけ沈黙があった。
外の風が窓を叩く。
遠くで誰かが笑い、すぐに静かになった。
「ですが」
ダリアが静かに言った。
「アバルディア家へ戻るより、ましなのかもしれません」
ギルは彼女を見た。
ダリアは視線を床へ落としていた。
顔は静かだ。
だが、言葉は軽くなかった。
「そうか」
ギルはそれだけ言った。
余計な慰めはしない。
助けたつもりだとも言わない。
彼女を奪った理由は一つではない。有能だから。知りすぎているから。気に入ったから。側に置きたいから。戻れば危ないから。どれも本当で、どれか一つだけではない。
だから、ここで綺麗な言葉を使うのは違う。
「マバール家が、お前にとって悪くない場所になるようにはする」
ダリアが顔を上げた。
「約束ですか」
「努力目標だ」
「そこは約束ではないのですか」
「できない約束はしない」
ダリアはまた少しだけ目を細めた。
呆れたのかもしれない。
けれど、今度は怒っているようには見えなかった。
「承知しました」
その返事は、以前より少しだけ柔らかかった。
翌朝、一行は早く宿場を出た。
空は薄曇り。
風は冷たく、地面には夜露が残っている。案内人は相変わらず優秀で、朝の人通りが増える前に宿場を抜け、南西へ伸びる道へ一行を導いた。マバール領へ近づくには、まだ距離がある。だが、確実に帝国の奥から離れている。
ギルは馬上で、少しだけ体を伸ばした。
帰れる。
まだ油断はできない。
腐銀の情報も持ち帰らなければならない。
ダリアの説明もある。
レティシア問題もある。
父上への報告もある。
それでも、帰路に入っているというだけで、腹の奥の重さは少し違った。
隣でセバスチャンが言う。
「若様」
「何だ」
「レティシア嬢への説明、考えはまとまりやしたか?」
「今からだ」
「遅くありやせんか」
「うるさい」
「お館様への言い訳も」
「父上は分かってくださる」
「その自信、どこから来るんですかね」
「父上だからだ」
「なるほど、分かるような分からんような」
ギルは前を向いた。
ダリアがこちらをちらりと見る。
目が合う。
今度は、すぐに逸らさなかった。
少しだけ見て、それから前を向いた。
ギルは赤布を使わないまま、静かな帝国の街道を進んだ。
上品な山賊の仕事は終わった。
あとは帰るだけだ。
ただし、帰った後の方が本当に面倒かもしれない。
そう思うと、ギルは少しだけ胃の辺りが重くなった。
だが、背後でセバスチャンがにやにやしている気配がしたので、ギルは振り返らずに言った。
「笑うなよ、クソじじい」
「まだ笑ってやせんぜ」
「これから笑う顔だった」
「さすが若様、よく分かってらっしゃる」
「やかましい」
ダリアが前方で、ほんのわずかに肩を揺らした気がした。
笑ったのかどうかは分からない。
けれど、ギルはそれを悪くないと思った。




