第三十話 城下の山賊
アバルディア城の城下町は、思っていたよりも静かだった。
いや、静かという言葉は少し違うのかもしれない。通りには人がいる。荷を積んだ荷車は軋みながら石畳を進み、商人らしい男は店先で布を広げ、女たちは水瓶や籠を抱えて路地を行き交っている。鍛冶場の方からは鉄を叩く音が響き、どこかの屋台では肉を焼く匂いが立ちのぼっていた。子どもが走り、犬が吠え、兵らしい平民が槍を抱えて門のそばに立っている。
だが、賑わいの下に薄い膜のような不安がある。
声が大きくなりきらない。笑い声が長く続かない。城へ向かう大通りを見上げる者の目に、誇りだけではないものが混じっている。商人は客と値を交わしながらも、ときどき周囲の話に耳を澄ませているし、井戸端の女たちは話題が特定の家名に触れそうになると声を落とす。目立つ騒乱はない。だが、町全体が何かの前に身構えているようだった。
その町の外れに近い一角に、ギルたちは宿を借り上げていた。
借り上げた、と言えば聞こえはいい。
実際には、セバスチャンが宿の主人と少し話をし、金を置き、余計な客を外へ出させただけだ。主人は最初こそ顔を引きつらせていたが、金額を見て、こちらの人数と雰囲気を見て、最後には深く頭を下げた。断るという選択肢があったかどうかは分からない。少なくとも、主人自身は無かったものとして扱うことにしたのだろう。
宿は豪華ではない。
だが、悪くもなかった。
城下町の中心からは少し外れているが、裏口から細い路地へ出られ、厩もあり、二階の窓からは通りの一部が見える。城へ向かう大通りまでは距離があるが、完全に孤立しているわけでもない。逃げるにも、潜むにも、街の空気を拾うにも悪くない場所だった。
もちろん、まともな貴族男子が泊まる宿ではない。
だが、今の俺たちはまともな貴族の一行ではない。
遠乗りの途中でアバルディア家の使者に偶然出会い、勝手に帝国へ入り込み、赤布で顔を隠した上品な山賊もどきである。そんな連中が貴族用の屋敷や城内の客間に入る方がおかしい。そもそも、エレオノーラ殿たちとは城下町に入る前に別れていた。
彼女たちはアバルディア城へ入った。
俺たちは入っていない。
その境目は大きい。
エレオノーラ殿は、アバルディア家の者として帰還した。俺たちはただの山賊として城下町に紛れ込んだ。直接連れてきたのではない。案内したのではない。道中たまたま同じ方向へ進み、大河では人質めいた形で船に乗り、城下町の手前で別れた。それだけだ。
実に苦しい。
だが、面倒でも貴族は形を整えなければならないのだ。
今は貴族じゃなく山賊だけど。
ギルは二階の部屋の窓辺に立ち、木枠の隙間から通りを見下ろしていた。赤布は外している。部屋の中まで顔を隠す必要はない。外から見えないように窓の位置へだけ気をつければいい。代わりに、いつでも巻けるよう布は手元に置いてある。
通りを行く平民たちは、俺の存在には気づいていない。
気づいていないはずだ。
薄く感知魔法を広げているが、周囲に強い魔力反応はない。宿の中にいる俺たちの騎士たちと、少し離れた通りを歩く下級騎士らしい反応がある程度だ。感知魔法は魔力をさぐるには便利だが万能ではない。だから目で見る必要がある。耳で聞く必要がある。
思ったより楽だったな。
ギルはそう考えた。
もちろん、ここまでまったく誰にも気づかれずに来たわけではない。道中で接触はあった。排除した者もいる。警戒も続けた。エレオノーラ殿たちとの距離を保ちながら、アバルディア家の影響がある場所では無用な衝突を避け、そうでない場所では相手を処理しながら進んだ。
だが、最悪ではなかった。
それは俺たちの力だけではない。
エレオノーラ殿と護衛たちが選んだ道がかなり正しかったからだ。街道の選び方、旗を出す場所、出さない場所、宿営の位置、避けるべき村や巡回路。彼女たちは自領へ戻るための道を知っていたし、アバルディア家の影響がどこまで届き、どこから先が危険なのかを理解していた。
さすがだ。
あれがなければ、もっと面倒なことになっていただろう。
ギルは窓から離れ、部屋の中央に置かれた粗末な机へ向かった。机の上には、この宿で出された薄い茶と、固いパンの皿が置かれている。茶は香りが弱く、パンは城で食べるものとは比べものにならないほど粗い。だが、食べられないほどではない。旅に出てから、こういうものにも少し慣れた。
レティシアがいれば、眉をひそめながらも食べやすいよう何か工夫してくれただろうな。
そう思ってしまい、少しだけ胸の奥が重くなる。
連れて来なかった。
連れて来たくなかった。
離れたくはない。私生活的にはずっと隣にいてほしい。寝台でも食事でも、朝の支度でも、何もかもレティシアがいてくれた方がいい。だが、ここは敵地だ。これから戦場になるかもしれない場所だ。戦場で戦う訓練を受けていないレティシアを連れて来たいとは思わない。
寂しいのと、危険に晒したくないのは別だ。
ギルは固いパンを少しちぎり、口に入れた。
噛む。
硬い。
やはりレティシアが恋しい。
いや、今はそれどころではない。
セバスチャンたちは街へ出ている。
腐銀、メガレス家、ザザント家、アバルディア家。城下町で拾える噂を拾うためだ。貴族の公式な情報ではない。平民の井戸端話、兵の愚痴、商人の不安、宿場の噂、酒場で口が軽くなる男たちの言葉。そういうものは正確ではないが、街の空気を知るには役に立つ。
セバスチャンはこういう時、妙に頼りになる。
見た目は完全に凶悪な老人だが、兵や平民との距離が近い。戦で得た財や褒賞を、戦死した兵の家族へ渡しているような男でもある。だから平民側の噂にも触れるし、騎士や貴族が馬鹿にして聞かない話を覚えている。腐銀の噂も、そのつながりがあったから出てきたのだろう。
ギルは椅子へ座り、指先で机を叩きかけてやめた。
音を立てる必要はない。
アバルディア家はどう出るだろうか。
エレオノーラ殿個人は信用できると思う。
あの女は頭がいいし、胆力もある。マバール城へ来た時点で覚悟はあった。道中でも、こちらの曖昧な立場を理解しながら、過度に頼らず、必要な示唆だけを置いた。腐銀の話で動揺した時も、隠していた情報が漏れたのは彼女にとって痛手だったはずだが、その後に取り乱して崩れることはなかった。
だが、エレオノーラ殿が信用できることと、アバルディア家全体を信用できることは別だ。
彼女が家の意向に逆らえるかどうかも分からない。
アバルディア家には当主がいる。重臣がいる。騎士たちがいる。皇位を狙う家としての事情がある。エレオノーラ殿個人がギルバート・マバールを信用したいと思っていても、家としては別の判断をする可能性がある。
俺たちをただの山賊として始末する。
それは十分あり得る。
城下町近くに入り込んだ怪しい山賊を討伐した。後でその中にマバール家の三男がいたとしても、アバルディア家は知らなかったと言える。いや、苦しい。かなり苦しい。だが、王国の辺境伯家の三男を始末できれば、状況次第では一定の利益がある。マバール家への交渉材料にもなるかもしれないし、メガレス家や他家へ何かを示す材料にもなるかもしれない。
無関係を貫くことも考えられる。
城下町に山賊がいるらしいが、知らない。勝手に動くなら勝手に動けばいい。こちらは関与しない。そういう態度だ。最も安全だが、最も得るものも少ない。アバルディア家が本気で追い詰められているなら、そこまで消極的ではいられない気もする。
あるいは、俺たちを利用する。
これが一番現実的だと思う。
ただの山賊である俺たちが、メガレス領やザザント領を荒らす。街道を荒らし、倉を潰し、穀倉地帯を焼き払う、都市の外縁に打撃を与える。アバルディア家は関係ない。むしろ被害者かもしれない。そういう形を取れれば、アバルディア家としては痛くも痒くもないどころか、敵対勢力が削られて利益になる。
もちろん、俺たちが本当にただの山賊なら、だ。
実際にはマバール家の三男である俺がいる。
だが、そこは言わなければいい。
俺たちも言わない。
アバルディア家も知らないふりをする。
面倒だが、そういう面倒な形こそ貴族社会では使いやすい時がある。
ただし、アバルディア家が俺たちを裏切って殺そうとするなら話は別だ。
ギルは窓の外に見える城壁の一部へ視線を向けた。
アバルディア城は、城下町の奥に大きく構えている。マバール城とは造りが違う。こちらの城は、どこか縦に伸びるような印象があった。塔が多く、壁の線が細かい。戦のための城であることに変わりはないが、国境を睨むマバール城の重い石の塊とは、少し性質が違うのかもしれない。
もし俺たちを殺す気なら。
この街も城も焼き払う。
ギルは静かにそう考えた。
怒りに任せるわけではない。
脅しとして心の中で吠えるわけでもない。
ただ、必要ならそうするというだけだ。
アバルディア家が敵になるなら、情を残す必要はない。エレオノーラ殿個人をどう思うかとは別に、家として敵に回るなら敵だ。こちらを山賊として始末するつもりなら、こちらも山賊として街を焼く。俺はそれができる。攻撃魔法で焼き払い、貫き、崩すことができる。セバスチャンたちもいる。
味方には甘い。
身内には甘い。
レティシアには特に甘い。
だが、敵の命を重く見る気はない。
必要ならどこまでも冷酷に徹する。
この世界で生きる以上、ギルはその線だけは、曖昧にしなかった。
その時、階下から足音がした。
重い足音。
セバスチャンだ。
他の騎士たちの気配もある。ギルは感知魔法を薄く触れさせ、宿へ戻ってきた反応を確認した。強い魔力ではない。普通の騎士たちの反応だ。その中で、セバスチャンの魔力は相変わらず独特だった。規格外ではないが、長年実戦で使い込まれた刃物のような気配がある。
扉が開く。
セバスチャンが入ってきた。
赤布を外し、粗末な外套を肩に掛け、顔にはいつもの凶悪な笑みを浮かべている。オルドとジノも後ろに続いた。二人とも少し疲れた様子だが、目はしっかりしている。街の中を歩いていただけとはいえ、敵地の城下町で噂を拾るのは気を使うだろう。
「戻ったか」
「へい」
セバスチャンは椅子へ勝手に座った。
まったく遠慮がない。
ギルはもう突っ込まなかった。
「どうだった」
「腐銀については、ほとんど分からんですな。知っている者も、ただの噂しか知りませんわ」
「実物を見た者は?」
「少なくとも、あっしらが当たった範囲じゃいやせん。銀を腐らせるだの、魔力を乱すだの、平民でも騎士や貴族を殺せるだの、話だけは出ますがね。どいつもこいつも、誰かから聞いたって話ばかりで」
「まあ、仕方ないな」
ギルは予想通りだと思った。
腐銀が簡単に見つかるなら、もっと広まっている。噂はあるが実物はない。少なくとも城下町の平民が簡単に手に入れられるものではないのだろう。あるいは、使った者は口を閉ざし、知る者は消されるのかもしれない。そこまで考えるときりがない。
「メガレス家やザザント家の噂はどうだった?」
ギルが尋ねると、セバスチャンは少しだけ口元を歪めた。
「街の人間は、アバルディアが不利なのを感じて不安がっとります」
「ふむ」
「次こそはアバルディアから皇帝が出ると思ってた連中が多かったようですな。ところが、男子がほとんど全滅だ。表向きは事故だの病だの行方知れずだのと言われてるようですが、さすがに続きすぎて皆気味悪がってやす」
「ほとんど?」
ギルはその言葉に反応した。
「生き残りもいるのか?」
「一人だけいるらしいですぜ」
「ほう」
「ただ、生き残りといっても、まだ毛も生えとらんような小僧らしいですがね」
ギルは少し苦笑した。
「言い方」
「事実でしょう」
「いくつぐらいなんだ」
「若様より五つは若いですぜ」
「それは若いな」
ギルは椅子の背に体を預けた。
俺より五歳若い。
それなら皇帝に即位しても、ほとんど傀儡だろう。政治を動かすのは祖母である当主か、重臣か、周囲の騎士や文官たちになる。いや、何も分からない子どもが思いつきで政治を行うよりはましか。幼い皇帝を立て、その周囲が支える形は珍しくないのかもしれない。
だが、帝国の皇位争いでそれが通るかは別だ。
メガレス家が黙っているはずがない。
ザザント家も、フリージア家も、機会を伺うだろう。
幼い少年を皇帝にするには、アバルディア家の力だけでは足りない。だからエレオノーラ殿はマバール家に来た。外から圧をかけ、帝国を安定させないための材料を求めた。そう考えると、彼女の焦りにも納得がいく。
「メガレス家の皇帝候補は分かるか?」
ギルが尋ねると、セバスチャンは顎を撫でた。
「いや、それがメガレス家の中に数人候補がおるそうでして」
「数人?」
「ええ。誰が一番強いかまでは街の噂じゃ分かりやせんが、お互いに牽制し合って、まだ一本化できておらんようです」
「なるほど」
ギルは机の上の茶へ手を伸ばした。
冷めている。
だが、喉を湿らせるには十分だった。
どうやら新しい皇帝が未だに決まっていないのは、その影響もありそうだ。メガレス家は他家に対して有利だが、家の中で候補が割れている。外に対しては強い。だが、内側では争っている。そういう状態なら、揺さぶる余地はある。
ザザント家はどうなのか。
フリージア家はどこまで動けるのか。
アバルディア家の幼い男子を立てる現実味はどれほどあるのか。
まだ分からないことは多い。
「街の空気は?」
「アバルディアの城下だけあって、表立って悪く言うやつは少ねえですな。ただ、不安はかなりありやす。商人はメガレスが皇帝を出したら税が変わるんじゃねえかと気にしてる。兵どもは戦になるかどうかを気にしてる。平民は、まあ、誰が皇帝でも食えりゃいいって顔をしながら、戦が来るのを怖がってやす」
「当然だな」
平民にとって重要なのは、誰が皇帝かではなく、税を誰に納め、明日食えるかどうかだ。戦が起きれば徴発され、徴兵され、畑を荒らされる。貴族や騎士の争いは、平民にとっては災害に近い。
その不安は使える。
だが、簡単に使えば街が荒れる。
今はまだ、そこまでやる段階ではない。
「ザザント家への評判は?」
「抜け目ねえ家って言われてやすな。直接悪い噂は少ねえですが、皆、あそこが黙ってるのを気味悪がってやす」
「黙っているから怖い、か」
「そんなところで」
「フリージアは?」
「遠い話ですな。この辺りの平民にとっちゃ、名前は知ってるが実感は薄いって感じで」
「ふむ」
ギルは指を組んだ。
断片的だ。
だが、断片的だからこそ街の空気が分かる。アバルディア家の城下町は不安を抱えている。男子が失われたことで、皇帝を出せるという期待が揺らいでいる。メガレス家は強いが、内部候補が割れている。ザザント家は黙っていて気味悪がられている。フリージア家は遠い。
そして腐銀は噂のまま。
「若様」
オルドが控えめに口を開いた。
「酒場では、アバルディア家がこのまま黙っているはずがない、という声もありました」
「誰の声だ」
「商人と、兵崩れのような男たちです。具体的なことは何も知りません。ただ、城内で何か動きがあるのではないかと」
「期待混じりか」
「はい。不安もあるようでしたが、アバルディア家に何かしてほしいという空気はありました」
「なるほど」
城下町は家の影だ。
アバルディア家が弱れば城下も不安になる。逆に、家が動くと信じたい者もいる。幼い男子が残っているなら、なおさらだろう。彼を立て、家を立て直す。そういう物語は平民にも分かりやすい。
だが、現実はもっと厳しい。
幼い少年を皇帝にするなら、周囲の邪魔者を排除する必要がある。
それに俺たちが使えるかどうか。
アバルディア家はそれを考えているはずだ。
ギルはしばらく黙った。
セバスチャンたちも黙る。
宿の外では、荷車の車輪が石畳を擦る音がした。誰かが階下で笑い、すぐに声を落とす。宿の主人だろうか。厨房の方から薄い煙と煮物の匂いが上がってくる。城下町の日常は続いている。だが、その日常はいつ崩れてもおかしくない薄い板の上に載っている。
「ここまで来た以上、帝都は見たい」
ギルは静かに言った。
セバスチャンの目がこちらを見る。
「見物ですかい?」
「見物もある」
「も、で?」
「ついでに荒らす」
セバスチャンは笑わなかった。
オルドとジノも顔を引き締める。
「占領はできない。十人で城や街を取り続けることは不可能だ。兵を連れて来なかったのも、そのためだ。不案内な土地で魔力を持たない平民兵をぞろぞろ連れて歩けば危険なだけだし、今回は偵察と破壊が主目的だ」
「へい」
「だから、荒らす」
ギルは机の上に指を置いた。
地図はない。
だが、頭の中には道がある。
エレオノーラ殿が示した山、河、街道、帝都への道筋。道中で見た村や宿場、船着き場、荷の流れ。完全ではないが、少しずつ帝国の内側の形が見えてきている。
「この世界の戦争は、敵を殺す、土地を奪う、物資を奪う、女を奪う、そういう発想が強い」
ギルは口に出してから、少し言葉を選び直した。
前世の知識という言葉は絶対に出さない。
今のはちょっと不思議な感じになったような気がする。
「だが、街や道そのものの価値を落とすことを狙えば、相手は長く苦しむ。都市を焼けば再建には時間と金がかかる。倉を潰せば兵糧が減る。穀倉地帯を荒らせば食料が足りなくなる。主要街道が危険になれば商人は迂回する。商人が動かなくなれば税も物資も減る」
セバスチャンの目が少し細くなる。
ギルは続けた。
「うまくいけば、街道そのものが廃れる。都市の価値が落ちる。交易路が変わる。すぐに勝敗が決まらなくても、相手の力を削れる」
「若様」
セバスチャンが低く言った。
「そいつは、かなり嫌なやり方ですな」
「ああ」
「騎士を相手にして斬るより、街を焼いて腹を減らすってわけで」
「そうだ」
「敵は嫌がるでしょうな」
「嫌がることをするんだ。敵だからな」
ギルの声は自分でも驚くほど平らだった。
これは戦場での華々しい武功ではない。
騎士を打ち倒し、旗を奪い、領主を捕えるような分かりやすい戦果ではない。
もっと嫌なものだ。
焼けた街。動かない商人。腐る穀物。食えない兵。税を払えない民。守るべきものが崩れることで、貴族の力を削る。敵の継戦能力を落とす。俺はそういうことを考えている。
前世で得た知識の中には、そういう考え方があった。
経済。
物流。
補給。
インフラ。
言葉をそのまま使う気はない。使っても伝わらないだろうしな。だが、考え方は使える。敵の騎士だけを殺しても、次の騎士が出てくる。敵の都市や街道、倉や畑を壊せば、次の騎士を動かす力そのものが弱る。
「若様は、本気でやるつもりですな」
セバスチャンが言った。
「ここまで来たからな」
「アバルディア家がどう出ても?」
「ああ。会っても会わなくても、やることは変わらない」
ギルは窓の外の城壁をもう一度見た。
「アバルディア家が本気なら利用する。裏切るなら敵として扱う。無関係を貫くなら、俺たちは勝手に動く。どの場合でも、帝国がこのまま一つに固まるのを黙って見ている理由はない」
「マバール家の三男が山賊として帝国を荒らすわけですかい」
「山賊だからな」
「上品な山賊でしたな」
「そうだ」
セバスチャンが少し笑った。
だが、目は笑っていない。
この男は分かっている。
俺が冗談で言っているのではないことを。
味方には優しくする。身内には甘くなる。レティシアのことを考えればすぐに気が緩むし、兄たちや父上に対してももちろん情はある。セバスチャンのことも、口ではクソじじいと言いながらまあ、頼りにはしている。言わんけど。
だが、敵なら別だ。
敵の街も、倉も、道も、必要なら焼く。
その中に平民がいても、敵国の平民だ。もちろん無意味に殺したいわけではない。だが、敵の力を削るために必要なら、そこに躊躇を残しすぎる気はない。この世界に生きる貴族として、俺はもうそういう線を越えつつある。
自覚はある。
だからこそ、目を逸らさない。
残念ながら俺は世の為人の為に生きている訳じゃ無い。
あくまでも俺は俺の為に生きている。
数日が過ぎた。
その間、ギルたちは宿を拠点に街の空気を探り続けた。セバスチャンやオルド、ジノが交代で外へ出る。時には別の騎士を連れ、時には一人で動き、酒場、馬市、鍛冶場、荷運びの溜まり場、井戸端の噂を拾って戻る。ギル自身は目立つため外へ出る機会を絞ったが、窓から街を見て、感知魔法で近くの騎士の動きを探り、宿の主人や給仕の態度から空気を読む。
腐銀については、やはり噂以上のものは出てこない。
魔力を乱す。
銀を腐らせる。
平民でも騎士や貴族を殺せる。
治癒魔法が効かない。
話は少しずつ変わるが、どれも実物には届かない。中には明らかに尾ひれのついた話もあった。腐銀を飲ませれば貴族が犬のように死ぬとか、銀貨を腐らせた水を飲ませるだけでも効果があるとか、聞くだけで怪しいものもある。
だが、完全な作り話とも切り捨てられなかった。
核があるから噂が広がるのか。
噂があるから誰かが利用したのか。
それは分からない。
メガレス家の噂は増えた。
複数の候補がいる。
そのうち一人は武に優れ、一人は血統を誇り、一人は重臣に支持されているらしい。どこまで本当かは分からない。街の平民が知るメガレス家の内情など、噂に噂を重ねたものだろう。だが、候補が一本化されていないという点は繰り返し出てくる。
ザザント家は相変わらず静かだと言われていた。
その静けさが不気味だと。
アバルディア家の城下町では、幼い男子の名を直接口にする者は少なかった。だが、まだ血は残っている、という言い方をする者はいた。そこには祈りのような響きがあった。アバルディア家が終わっていないと信じたいのだろう。
そして数日後。
宿に使いが来た。
昼過ぎだった。
通りの人の流れが少し緩み、宿の下で煮込みの匂いが濃くなり始めた頃、感知魔法に騎士の反応が触れた。強くはない。だが、平民ではない。宿の前で止まり、しばらくして階下から主人の緊張した声が聞こえた。
セバスチャンが扉のそばへ立つ。
オルドとジノも自然に位置を取る。
ギルは椅子に座ったまま待った。
扉が叩かれる。
「入れ」
ギルが言うと、宿の主人に案内されて男が入ってきた。アバルディア家の騎士だろう。旅装ではなく、城下で動きやすい控えめな装いだが、立ち方で分かる。男はギルの顔を見て一瞬だけ目を伏せ、すぐに礼をした。
「エレオノーラ様より、お言葉を預かっております」
「聞こう」
「城下町ではなく、郊外にてお会いしたいとのことです。場所と時刻はこちらに」
男は折り畳まれた紙を差し出した。
セバスチャンが先に受け取り、封や紙の様子を確認してからギルへ渡す。ギルは中を開いた。文字は整っている。エレオノーラ殿の手かどうかは分からないが、内容は短い。城下から少し離れた郊外、古い祠の近く、夕刻前。
城ではない。
城下でもない。
郊外。
分かりやすく怪しい。
「返事は」
使いの騎士が尋ねる。
ギルは少し考えるふりをした。
「伝わった、とだけ」
「承知いたしました」
男は深く礼をし、すぐに退出した。
足音が階下へ消える。
宿の外へ出る。
感知魔法の反応が離れていくのを確認してから、セバスチャンが口を開いた。
「罠ですかな?」
当然の疑いだった。
ギルは責めなかった。
むしろ、そう言わないセバスチャンなら困る。
「罠かもしれないな」
「城下じゃなく郊外ってのがまた分かりやすく怪しい」
「城で会えば、アバルディア家が俺たちを招いたことになる。城下でも目が多い。郊外なら、何があっても山賊同士の揉め事にしやすい」
「始末するにも、話すにも便利で」
「そうだ」
ギルは紙を机に置いた。
場所をもう一度見る。
逃げ道はあるか。
周囲に伏兵を置きやすいか。
こちらが逆に奇襲するならどう動くか。
頭の中でざっと組み立てる。実際の地形は見なければ分からないが、城下からの距離と道の伸び方から、完全に袋小路ではなさそうだ。ただし、アバルディア家の土地だ。向こうの方が地形に詳しい。油断はできない。
「会うぞ」
ギルは言った。
セバスチャンは驚かなかった。
「でしょうな」
「会っても会わなくても、やることは変わらない」
「罠なら?」
「潰す」
「アバルディア家が敵に回るなら?」
「敵として扱う」
ギルは紙から目を離し、セバスチャンを見た。
「だが、本気なら利用する。アバルディア家がどこまで腹を括っているかを見ないまま動くより、一度会った方がいい」
「エレオノーラ殿を信用してるんで?」
「個人としてはな」
「家は?」
「別だ」
「へい」
セバスチャンは満足したように頷いた。
そこを混ぜないならいい、という顔だった。
ギルは立ち上がった。
赤布を手に取り、口元へ巻く。
鏡などないが、もう手慣れたものだ。布の端を指で押し込み、緩まないよう調整する。顔が隠れると、少しだけ意識も切り替わった。マバール家の三男ではない。ただの山賊。上品で、強大で、面倒くさい山賊だ。
セバスチャンも布を巻く。
オルドとジノが装備を確認する。
他の騎士たちも呼ばれ、短く指示が出される。宿の主人には外へ出るとだけ伝え、余計なことは言わない。彼は頭を下げ、何も聞かない顔をした。賢い主人だ。こういう時、余計な好奇心は命を縮める。
宿を出ると、城下町の空気が肌に触れた。
昼の熱を含んだ石畳。
煮込みと焼いた肉の匂い。
荷車の音。
遠くの城壁。
平民たちの視線が、赤布を巻いた十人の一団へ一瞬だけ向き、すぐに逸らされる。見てはいけないものを見る時の目だ。ここでは俺たちは貴族ではない。だが、ただの山賊として扱うには、あまりにも危険な気配をまとっている。
ギルは歩きながら、薄く感知魔法を使った。
前方と左右、そして背後に浅く広げる。
魔力反応を拾う。城下町の中には騎士の反応が点在している。アバルディア家の城下だから当然だ。そのうちいくつかは動いているが、こちらへ集中している様子はない。いや、完全には分からない。感知魔法は魔力を拾うだけで、意図までは分からない。だから目も耳も使う。
通りを抜け、門を出る。
郊外へ向かう道は、城下の喧騒から離れるほど静かになった。畑が広がり、低い石垣が続き、ところどころに灌木が生えている。遠くに古い祠らしい小さな建物が見えた。陽は少し傾き始めている。夕刻前の光が地面を斜めに照らし、騎士たちの影を長く伸ばしていた。
罠か。
会談か。
試しか。
どれでもいい。
ギルは歩きながら、腹の奥が冷たく整っていくのを感じた。
ここまで来た。
帝都を見たい。
帝国を荒らすつもりもある。
アバルディア家が味方になるなら使う。ならないなら、関係なく進む。敵になるなら焼く。選ぶのは向こうだ。俺はその結果に応じて動くだけだ。
必要なら、いくらでも冷酷に徹する。
それができなければ、こんな場所まで来るべきではない。
ギルは赤布の下で小さく息を吐いた。
祠の周辺には、まだ人影は見えない。
だが、感知魔法の端に、いくつかの魔力反応が触れた。
騎士。
複数。
隠れているつもりなのだろう。
ギルは歩みを止めなかった。
セバスチャンが隣で低く笑う。
「若様」
「分かってる」
「どうしやす」
「まずは会う」
「へい」
敵なら潰す。
味方なら話す。
曖昧なら、こちらに都合よく使う。
アバルディア家の本気を確かめるため、ギルは約束の場所へ進んだ。




