彼女が奪ってくれたから
『二度目はどうぞお好きなように』のエレノアとレオンの話ですが、こちら単独でも読めます。
エレノアは男運が悪い。
エレノアが15歳の時に亡くなった母もそうだった。優しそうで誠実そうな男と結婚したつもりだったが、実際は優柔不断で言い訳上手なだけだった。
父は口では優しいことを言うけれど仕事は休んでばかりで、母はずいぶん苦労してエレノアを育てた。
母が亡くなった後、父はふらりと出かけていったまま戻らなかった。荷物も金も持ち出した様子はなかったので、行き先も、生きているのかも分からなかった。
そんな父親だったので、エレノアは結婚するならただ優しいだけの男は絶対にやめようと思っていた。志を高く持ち仕事に前向きに取り組む男性がエレノアの理想だった。
エレノアの幼なじみにレオンという同い年の男の子がいた。レオンは小さい頃は小柄で目立たない子だった。けれどよく見ると目鼻立ちが整っていて可愛いので、男の子たちはついちょっかいをかけて揶揄っていた。
レオンがその度にエレノアの方に逃げてくるので、エレノアは仕方なしに庇ってあげた。といっても腕力では敵わないので、レオンの手を引いてレオンの家に逃げ帰った。
家に行くと、レオンの父親がバイオリンの練習をしていることがあった。彼は教会の楽団に所属していて、その演奏する姿は子供心にも凛々しく格好良く見えた。
「僕も大きくなったら、父さんみたいに教会でバイオリンを弾くんだ」
レオンはそんな夢を語った。夢を語るだけでなく、父親からバイオリンを習い始めた。そしていつかは隣国の宮廷楽団に入団するんだ、と意気込んでいた。
エレノアは、そんなレオンを心から応援していた。
ある時、レオンはバイオリンからヴィオラに転向した。レオン曰く、
「主旋律を華麗に響かせるバイオリンも良いけど、中音域で音楽全体を調和させるヴィオラに僕は惹かれるんだ」
ということだった。
「もちろんバイオリンも弾けるから、そちらをやることもあるけどね」
要は器用だからどちらも上手にこなせるということらしい。
レオンは幼さが抜けると、美しい青年に育った。教会でヴィオラを構える彼の姿は、女の子たちの注目を浴びた。
「敢えてヴィオラを選ぶところが素敵よね」
「あの華奢な身体でヴィオラを担いでいるところが危なっかしくて支えてあげたくなるの」
「いったいどんな人と結婚するのかしら」
「あ、そういえば、付き合ってる人がいるって噂があるけど、知ってる?」
「え? 誰よ、誰?」
「まさか、エレノア?」
「エリーは違うわよ、ただの幼なじみだってエリー自身から聞いたわ」
「じゃあ、誰?」
エレノアは教会のミサから帰る途中、レオンに憧れる女の子たちの会話を偶然耳にした。
この時エレノアは、レオンから交際を申し込まれて付き合っていたが、まだ音楽だけで独り立ちできないから、交際も結婚も自分が宮廷楽団に入団できるまで皆には内緒にしてくれと言われていた。
教会の楽団はミサや結婚式など特別なイベントの時しか演奏の機会がなく、それだけで生活することはできなかった。だから皆、他に仕事を持っていた。
レオンの場合は、手先の器用さを活かし仕立て屋で働いていた。
音楽一本で食べていくには、隣国の宮廷楽団員になるか、大きな劇場の専属になるか、あるいは各地を回る移動劇団に所属するしかなかった。
エレノアは、少しでもレオンが夢に向かって頑張れるよう、休みの日にはレオンの家に行ってできることを手伝った。それは本来レオンがやるべき写譜だったり、楽器の手入れだったり、あるいは手入れ用品や上等な衣装を買うために金銭的な援助もした。
「エリー、いつもありがとう。宮廷音楽士になれたら、結婚して隣国について来てくれるよね」
エレノアはその言葉を信じて、レオンのために尽くした。
交際は皆に内緒にしていたが、ヴィヴィアンという子にはバレてしまった。レオンの家の前で話していたのを聞かれてしまったのだ。けれどその後何も言ってこなかったので、見逃してくれたのだろうとエレノアは思っていた。
ある日エレノアは、雑貨店に来ていた客同士の会話から、レオンが宮廷楽団の試験に合格したことを知った。
エレノアは店を閉める作業ももどかしく、帰りがけに花屋で小さな花束を買ってレオンの家を訪ねた。
「レオン! 合格おめでとう!」
ドアを開けたレオンに、エレノアは花束を差し出した。
「あ、エリーか」
レオンはそう言ったきり、気まずそうに視線を後ろに流した。
「なあに? あら、エリーじゃない。レオンのお祝いに来てくれたの? それともあたしたちの婚約を祝いに?」
レオンの後ろから顔を出したのはヴィヴィアンだった。
「え?」
エレノアは、花束を差し出した状態のまま固まった。
「・・・なんて?」
「あたしたち婚約したのよ。レオンたら、宮廷音楽士になるんですって。人知れず努力してきてすごいわよね。隣国に一人で行ったら何かと不便でしょうから一緒についていこうかって言ったら、すぐにプロポーズしてくれたの。前からあたしのことを好きだったんですって。それからね・・・」
ヴィヴィアンの屈託のないおしゃべりが続いたが、エレノアの頭には何も入ってこなかった。
「レオン?」
レオンを見上げたが、彼は目を逸らして何も答えなかった。それが答えということか。
エレノアはレオンの胸に花束を押し付け、黙って踵を返した。
信じられない、信じたくない。私との約束は何だったのか。ヴィヴィアンは確かに綺麗だし、明るいし、魅力的だ。おしゃれな洋服店でマヌカンをやっていてファンも多いと聞く。雑貨店で地味に働くエレノアとは違う。だけど、そんな簡単に私との結婚の話をなかったことにされるなんて。
エレノアは一晩中泣いた。翌日、店は無断で休んだ。
夕方、レオンの父親がエレノアを訪ねてきた。
「レオンが済まなかった。謝って済むことではないけれど、本当に申し訳ない。エリーさんにはあんなに尽くしてもらったのに」
「もう、いいです、おじさん。今さらどうにもならないし。私が応援していたレオンは、もうどこにもいないんだって思うことにします」
「エリーさんがレオンの分の写譜をしてくれていたんだろう? 楽器の手入れだって自分でやるように散々言ったのに、俺が留守の間にエリーさんにやらせてたよね。たぶんレオンは向こうに行ったら困ると思う。これまでと勝手が違って思うように練習もできないかもしれない。どうなることやら」
「でも、宮廷楽団に入団するという夢が叶って、これから素敵な人生を歩むんでしょうね。私ではなくてヴィヴィと」
エレノアはまた泣けてきた。
「それはどうだろうな。実を言うとね、レオンにはそれほど才能があるわけじゃないんだ」
レオンの父親が意外なことを言いだした。
「どういうことですか」
「ヴィオラに転向したのは、自分の腕前が他の人より劣っていることに気付いたからだ。音楽の調和を司るとかそれらしいことを言っていたけど、ただの負け惜しみだよ。バイオリンから外されてヴィオラに指名されるくらいなら、自分から言い出した方が格好がつくと考えたのだろう。ヴィオラってね、まだ世間的にはそういう評価なんだ」
「そんな」
「ただ、最近になって隣国の有名な作曲家たちがヴィオラを重用する曲を発表して人気を博しているから、これからはヴィオラの重要性も増すと思う。レオンはそれに飛びついたんだ。目端が利くと言えばそうだな。昔からあいつは要領が良い。そして自分勝手だ。ヴィヴィアンを選んだのも、きっと軽薄な理由だよ。我が息子ながら、こんな素敵なエリーさんを逃してしまうなんて、本当に見る目がないよ」
「おじさん」
小さな頃から知っているレオンの父親の言葉が優しい。
「それで、これは今までレオンがエリーさんにやってもらっていた写譜と楽器の手入れの代金だ。それとお金も工面してくれていただろう? いずれ結婚するからと思って黙って見守ってきたけど、こうなった以上、返すのが筋だ。おおよその額を計算してレオンから取り立ててきたから受け取って」
「そんな、もらえません。私から言い出したことでもあるし、その時は楽しさを分かち合っていたから良いんです」
「それはいけないよ。そこまでレオンを甘やかしてはダメだ。きっちりけじめをつけさせた方が良い」
そう言ってレオンの父親が渡してきた金は、かなりの額だった。
エレノアはこれからの人生を立て直すために、レオンの父親からそれを受け取ることにした。
それからしばらくして、レオンとヴィヴィアンは結婚式を挙げ、皆に祝福されてそのまま隣国に旅立っていった。
エレノアはとうとう『おめでとう』の言葉を言えないまま二人を見送った。
◇ ◇
エレノアは、レオンたちが旅立ってしばらくして引っ越した。町の中のどこにいてもレオンとの思い出が甦って辛かったからだ。
引っ越すと言っても、身寄りのない若い女性がいきなり初めての土地で仕事や住まいを探すのは難しい。それで、小さな頃からお世話になっていたレオンの父親に相談すると、身元保証人になって紹介状も書いてくれた。今は教会の楽団長を務めていて、それなりに信用はあるからと。
「頼ってくれて嬉しいよ。困ったことがあったらいつでも連絡するんだよ」
温かい言葉で見送られて、エレノアは二つ隣の町に住まいを移した。行き先はレオンの父親にしか言わなかった。もうレオンやヴィヴィアンが里帰りしても顔を合わせたくなかったからだ。
今度の町でも雑貨店で雇ってもらうことができた。紹介状があったことと、華やかさより実直で穏やかな対応ができる人という条件に合ったため、すぐに採用された。
気分一新して仕事も順調だった。
ところが、季節が一巡りして新しい環境にも慣れた頃、エレノアの働く雑貨店に一人の男が頻繁に訪れるようになった。ヒューゴという若き実業家だった。
堂々とした体躯の男が一人で来て、小さな品を一つ二つ買っていく。存在と行動がミスマッチで浮いていた。居合わせた女性たちがその男をチラチラと目で追っている。なるほどモテそうな外見をしていた。
エレノアは特に興味を引かれなかったが大切なお客様の一人なので、ごく普通の丁寧な接客を心がけた。
すると媚びない態度が逆に新鮮だったのか、エレノアを食事に誘ったり、観劇のチケットを渡してきたりと、しつこく声をかけてくるようになった。
押しの強さに根負けして一度食事に応じると、次々と誘いがエスカレートしてきた。終いにはエレノアの外見を変えようとアドバイスしたり、装飾品を押し付けてきたり、帰りの時間に合わせて待ち伏せされるようになった。
「エリー、君はもっと自分に自信を持っていい。磨けば光る原石なんだ。俺の言う通りにしていれば、誰もが振り返るレディになれるよ。女性は愛されることで綺麗になるんだ。俺にすべて委ねてごらん」
店の会計時にこんなことを言われても困る。他の客の視線も痛い。エレノアは仕方なしに食事に応じてその場を凌いだ。店長が居合わせると穏やかに断ってくれるのだが、いつもいてくれるわけではない。
周りからは、愛されて幸せねとか、つれない態度でいると愛想を尽かされるわよ、などとお節介なアドバイスもされた。
エレノアとしては、勝手に磨かれるくらいなら原石じゃなくて石炭でもいいと言い返したいくらいだった。誘いを断ると尊大な態度で説教された。もう嫌だと大声で叫んで逃げ出したくなる。そんなことをしたら何をされるか分からないので結局は黙って耐えた。
こうなったらヒューゴの目の前から消えるしかない。思いつめたエレノアが店長に相談すると、彼も事態は深刻だと考えていて、遠くの町に引っ越すことを勧めてくれた。
「ここに来てまだ一年半だ。ようやく慣れたのに可哀そうだけれど、背に腹は代えられないと思う。ヤツに気付かれないように逃げた方が良い。行き先は俺が責任を持って整えておく。とにかくタイミングを見計らって移動しよう。本当はヤツの気持ちが他に移るのが一番なんだが、そんな不確定なことは期待できないからな」
ところが何の因果か、その不確定要素が降って湧いたのだ。
どうやってエレノアの居場所を知ったのか、ある日店にヴィヴィアンが訪ねてきた。
彼女は悪びれもせずに、思っていたのと違ったからレオンと離婚したい。代りがいないとレオンが納得しないからエレノアがよりを戻したらどうかと、身勝手極まりない提案をしてきた。
宮廷音楽士と言ったって所詮は使用人に過ぎないし、華やかな生活はできなかった。働いてレオンを支える気にもならないから別れたいというのだ。
場所を変えて話を聞いたが、長いばかりで埒が明かない。いい加減我慢ができなくなってその場を去ろうとした時、ヒューゴが現われてエレノアをカフェから連れ出してくれた。その時交した短い会話と視線で、ヴィヴィアンがヒューゴに狙いを定めたのがエレノアには分かった。
それから先は、エレノアや店長が策を弄する必要もなかった。
ヴィヴィアンがどうやってヒューゴを射止めたのかは分からないが、持ち前の嗅覚でヒューゴの望む通りの女性を演じることに成功したらしい。あるいは演じなくてもヒューゴの要求に百パーセント応えていればそれで良かったのかもしれない。とにかくヴィヴィアンの手練手管と魅力にヒューゴが落ちた。
ヒューゴとヴィヴィアンは出会ってからひと月後にエレノアの働く店に来て、結婚することになったと告げた。ヴィヴィアンはまたしても勝ち誇ったような笑顔を浮かべ、ヒューゴの方は俺のことは忘れてくれ、君が俺に振り向いてくれるのを待てなかったと真摯に詫びた。
あー、はいはい。
予想外の早さで事態が進んだことに驚いてエレノアが呆然としている間に、二人は幸せそうに寄り添って店を出て行った。
こうしてはいられない。エレノアは即座に店長に知らせ、その日のうちに乗合馬車で町を離れた。
あらかじめ荷物はまとめてあったし、落ち着く先も店長が知り合いの店を紹介してくれていたので、エレノアは安心して新天地に向かった。
何カ月にも及ぶヒューゴからの見えない束縛の糸が、馬車が進むにつれてエレノアの身体から解かれていくようだった。
◇ ◇
エレノアが、執着の激しいヒューゴから無事逃げ切って、新しい町で暮らし始めて二年が過ぎようとしていた。
前のような店舗勤務では、いつどんな人間が来るかも分からないので、エレノアは雑貨店に卸すアクセサリーや小物を作る工房で働いていた。
その雑貨店のオーナーは、ここに連絡を取って逃してくれた店長から事情は聞いていたらしく、エレノアが希望を述べるとそのように手配してくれたのだ。
工房には様々な年代の人間がいて、それぞれ自分の得意とするものを作らせてもらえたので、皆楽しそうに働いていた。エレノアもすぐに馴染んで今では若い女性向けの髪飾りを作っていた。
髪飾りを作るには土台となる金属部分が必要となるのだが、それを最初に担当してくれたのはオーエンという二つ年上の職人だった。年は二つ違うだけだが腕前は大したもので、特に細かい作業には定評があった。
エレノアは雑貨店に勤めていたので、これまで髪飾りを相当数見てきた。だから作りたい商品のイメージがはっきりしていて、オーエンにもそれを正確に伝えることができた。
エレノアとオーエンが組んで作る髪飾りは、レースを使ったり刺繍した布をリボンにしたり、細かい縫い仕事で花を作ったりという工夫を凝らしたことで人気が出た。デザインが可愛いだけでなく、オーエンの作る金属部分がとても髪に留めやすいのも人気の理由の一つだった。
店から髪飾りの売れ行きの報告がある度、エレノアとオーエンはお互いを労うために食事に出かけるようになった。
それから一年の交際を経て、エレノアとオーエンは結婚した。気のいい工房の仲間たちも皆祝福してくれた。
オーエンとはいつも対等に話ができ、信頼できる関係だった。レオンやヒューゴといる時には決して得られなかった穏やかな幸せを、エレノアはやっと手に入れたのだった。
そんなある日。
隣国から評判の移動劇団が来ているというので、エレノアとオーエンは見に行くことにした。
「あの何事にも評価の厳しい工房長も褒めていたんだ。なんでも隣国の劇場で今一番人気の演目らしいよ」
「お隣は音楽の都と言われているくらいだから、洗練されたものなんでしょうね」
エレノアは隣国という言葉にかすかな引っ掛かりを覚えたが、宮廷楽団とはまるで関係のない話だし、レオンのことはすっかり過去のこととして自分の中で片付いていたので、純粋に歌劇というものを楽しもうと思った。
町の中央広場に着く前から、トランペットや太鼓の音が聞こえてきた。
「もう始まっているのかしら」
「いや、あれは呼び込みだね。これから楽しいことが始まるぞって知らせているんだ」
なるほど、音に合わせて足取りが軽くなる。エレノアはオーエンと腕を組んで広場に急いだ。
移動劇団は貴族の屋敷での上演を終えた後、一般大衆向けにこちらで数日上演することになっていた。
簡易な仮設舞台だが、煌びやかな衣装の俳優たちが現われ、教会の楽団より数段揃っていて迫力のある演奏が始まると、見物客たちはたちまち劇に引き込まれた。
おどけた笑いあり、シリアスな涙もあり、歌ったり踊ったり、次から次へと退屈させないように場面が切り替わった。音楽もそれにぴったり合っていて感情を思いのままに揺さぶられた。
想い合う二人がある貴族のせいで別れなくてはならない場面になると、くぐもって哀愁を帯びた音色が響いた。そのメロディと女優の切々とした歌声にあちこちで鼻をすする音がした。
エレノアも忘れたはずのかつての切ない別れが胸にせり上がって来て、思わずオーエンの腕に縋った。オーエンはエレノアの後ろに回り、背中からすっぽりとエレノアを抱え込んだ。何も言わずぎゅうっと抱きしめ、エレノアの手の甲を優しく撫でた。エレノアは背中の温かさに、オーエンといる幸せを噛みしめた。
劇の最後は別れた恋人が紆余曲折を経て再び出会い、大団円を迎えた。観客は大満足で拍手喝采を送り、口笛が賑やかに吹き鳴らされた。
「あー、面白かった。楽しかった。途中腹が立ったし、リリアが可哀そうで泣いちゃったわ」
エレノアは晴れ晴れとした顔で感想を述べた。
「ははは、感情が忙しかったね」
「ええ、久しぶりに気持ちが大忙しだったわ」
「移動劇団ていうからもっとお粗末な物を想像していたけど、中身は本格的だったね」
「ええ、貴族様もご覧になるのだから、それなりの出来映えでないといけないんでしょうね。音楽もすごく良かった。特に別れの場面で主旋律がヴィオラに替わった辺りから、もう涙が止まらなくて困ったわ」
「うん、あそこはヴィオラが活きていたね」
「ええ、すごく合っていた。ヴィオラの音って普段は目立たないけど、素敵ね」
エレノアとオーエンは楽しそうに語らいながら中央広場を後にした。
「おーい、レオン。片づけだぞー」
上演が終わった後、レオンは急いで派手な制服の上着を脱いで、観客たちの方に向かった。
上演中、客の中にエレノアの姿を見つけたのだ。
何年かぶりのエレノアは、すっかり大人の女性になっていた。上品で落ち着いた佇まいに、思わず見惚れてしまった。その後も演奏しながら時々エレノアの様子を窺うと、彼女はコミカルな場面では思い切り笑い、レオンの奏でる別れの場面では涙を隠しもせずに泣いていた。そしてそれを隣の男が後ろから抱え込んで慰めていた。その時の安心したエレノアの顔が、レオンの心を抉った。
数年前、レオンは宮廷楽団に入ったが、思うような活躍はできなかった。ヴィオラはバイオリンよりも給料が安いし、結婚して連れてきたヴィヴィアンは不平を言うばかりで役に立たなかった。
これからはヴィオラの存在が大きくなるだろうという見込みは当たったが、そうなるとレオン以上に腕のあるやつがバイオリンから転向してきてレオンの上に立った。レオンの序列は常に下の方だった。
おまけにヴィヴィアンが離婚を迫ってきたので、代わりにエレノアを連れてこいと言ったら、国に帰ったまま戻って来なかった。それどころか向こうで知り合った男と結婚するという連絡がきた。こんな女を引き止めても仕方がない。レオンは諦めて離婚に応じることにした。
しかし、妻帯者でなければ若い貴族のご令嬢が出席する夜会には呼ばれない。特にレオンは外見が良いので、間違いを起こさないように出られる機会はかなり減らされた。当然給料も下がる一方だ。
こんなことならエレノアと結婚すれば良かった。何度そう思ったか分からない。だが、今さら無理だろうということは分っていた。レオンは後悔だけを抱え、それでも練習だけは真面目にこなした。
やがて宮廷楽団にレオンの居場所はなくなった。宮廷楽団に在籍していたという矜持から、大きな劇団の専属になろうとしたが、ヴィオラは十分間に合っていると言われ、最終的に移動劇団に拾ってもらうことになった。
最初は気持ちも乗らなかったが、歌や演技と息を合わせることで舞台がどんどん熱を帯びていく経験をしていくうちに、レオンは歌劇の奥深さに目覚めた。
移動劇団なので、各楽器は最少人数だ。陰に埋もれがちのヴィオラの音も客席に届く。どの楽器が偉いということもなく、歌だけが、演技だけが人を感動させるわけではないことを、レオンは身体じゅうで理解した。皆で一つのものを作り上げること、皆で観客を沸かせること、そんなことが快感になってきた。
そんな日々だったが、心のどこかでエレノアのことが引っ掛かっていた。彼女はどうしているだろう。俺のことなど忘れて幸せになってくれただろうか。恨まれるのは仕方がないが、悲しみが残っているなら申し訳ない。
だが、エレノアの今の居場所はヴィヴィアンも分からないという。父親なら知っているかもしれないが教えてくれないだろう。
レオンは移動劇団で新しい町に着く度、エレノアの姿を捜した。
そうしてやっと見つけたエレノアは、レオンの知らない男と幸せそうに寄り添っていた。
上演の後、思わず追いかけたが、言うべきことなど何もないことに気付いた。レオンはこれでもう何の心残りもない。邪念を捨てて演奏に打ち込もうと決心した。
オーエンと家に帰ったエレノアは、お茶のカップを持ったままぼんやりしていた。
実はエレノアは、劇団でヴィオラの演奏をしていたのがレオンだと気付いていた。哀愁のある響きがあの日の別れを彷彿とさせた。しかしそれも一瞬だった。すぐに主役の恋人たちの別れに心を持っていかれた。あの時の涙は決してレオンとの思い出のために流したのではなく、舞台の二人のために流したのだ。
レオンの弾くヴィオラは美しかった。相当練習も積んだのだろう。何よりも歌劇全体の中に上手く溶け込んでいた。エレノアはそこに幼馴染のレオンの成長を認めて嬉しくなった。今後は決して交わることのない人生だけど、レオンも幸せを掴んでほしいと思った。エレノアは自分が幸せになったことで、初めてレオンを許す気になれたのだった。
そういえばヴィヴィアンはどうしただろう。そんなことを思っていたら、前の雑貨店の店長が出張でこの町に来て、エレノアのいる工房にも顔を出してくれた。そしてその後を教えてくれた。
「ヒューゴとヴィヴィアンな、あいつら一年と持たなかったぞ。往来で派手に喧嘩して人だかりができてたな」
「どうしてまた」
「あの『俺様が正義!』みたいなヒューゴと、自己中の権化みたいなヴィヴィアンがいつまでも仲良くいられるわけがないのさ。ヴィヴィアンが、着たい服くらい自分で決めると喚いたら、俺の選んだ服が気に入らないならここで脱いでいけと怒鳴って、その日のうちに別れたらしい」
あの二人らしいとエレノアは思った。
「だがな、今は二人それぞれに新しい相手と付き合っていて、今度はどのくらい持つだろうか賭けの対象になってるらしい。それでもめげないんだから逞しいというかなんというか」
「要するにヴィヴィアンは相変わらず元気なのね」
「ああ、幸せかどうかは別にしてな」
エレノアはヴィヴィアンの近況を聞いて、恨むという気持ちも忘れてしまった。
「ヴィヴィアンらしいね」
そんな言葉一つで片付けることにした。
読んでいただき、ありがとうございました。




