第3話 真っ直ぐ歩くカニ
「ただいまぁ!」
春の陽気になった土曜日の昼前、近所の豊浦公園に遊びに行っていたハコちゃんが、青いプラスチックのバケツを下げて意気揚々と帰ってきた。
「お帰り」
台所からタオルで手を拭きながらやってきたコズエさんに、靴を履いたままバケツの中を見せた。
「豊浦に行ったら引潮だったから、トシくんたちと干潟で遊んできた。そしたら、カニがいっぱいいてさ。
このカニ、面白いんだ。前に歩くんだよ」
「へー」
コズエさんが中を見ると、まん丸い背中をした小さなカニが一匹、水の中で縮こまっていた。
「歩くの遅いから、ハコちゃんでも捕まえられた。たくさんいたけど、記念にひとりだけ連れてきたの。
お父さん、怒らないかな?」
笑い出すコズエさん。
「一匹でしょ? 大丈夫。大した違いはないから」
コズエさんの血液型はO型だ。
「そうね!」
実はハコちゃんもO型だ。
ハコちゃんはにっこりすると、靴を脱いで、バケツの中身を水ごと水槽に入れた。
ザバー。
「おめえ、オカシイだろ。運動会の行進練習じゃねぇんだからさ。
真っ直ぐ前に歩いたら、そりゃカニじゃねぇぜ」
ダボハゼのヨッシーが貼り付いている水槽のガラス壁から見下ろしながら言った。絵に描いたような上から目線だ。
「すみません。横に歩けないんです」
小さな体がさらに縮こまる。
「そんなんじゃ、満員電車に乗ったときに、駅で降りれなくなるぜ」
カニの長老が岩陰からよろよろと出てきて、助け舟を出した。
「まあまあ、そう言わんと。電車は乗らんし。
おぬし、マメコブシガニじゃな?
名は何と申す?」
「マメコです」
腕を組んで深くうなずく長老。
「分かりやすい」
「あたし、歌うの得意です」
顔を上げてそう言ったかと思うと、誰もリクエストしてないのに、いきなりアカペラで歌いだした。
「ア、ア、ア、あんああんあん、おんなのぉ~ぉ~、しあわせぇ~」
見事なコブシ演歌に聴き惚れる一同。いつの間にか全員集合だ。
「今年の忘年会のトリは、マメコさんに決まりですね!」
嬉しそうにカニのタロウが言ったけれど、今年も忘年会があるかどうかは、飼い主のタカシ次第だ。
大晦日の夜、白黒歌合戦を見ながらお酒を飲んだタカシが、酔った拍子に「年越しソバ!」と叫びながらオキアミを水槽にばら撒くのを、一同は忘年会と呼んでいたのだった。
「ソバじゃねーし」
「あー、あたし、もうダメ!」
開けた月曜日の夕方、玄関に入るなり、ハコちゃんが泣きながら叫んだ。
驚いて水槽のガラス壁に身を寄せる一同。台所から包丁を持ったままかけてくるコズエさん。
「どうしたの?」
水槽の前に包丁を置くと、一同の目が点。生唾を飲むヨッシー。
「加山先生が言うみたいに、指が回らないの」
泣き続けるハコちゃん。
加山先生というのは、ハコちゃんが行っている学童クラブがある深井こども園の向かいにある音楽教室の先生だ。
学童さんが終わった後、ハコちゃんは先生からピアノを習っていた。
「先生の指が、2匹のタランチュラみたいに鍵盤の上を走り回るんだけど、あたしにはできないの」
そう言って、また泣く。
「タランチュラがピアノを弾くのか?」
長老が、ヨッシーに向かってハサミを立てて「シー」と言った。
「まあ、そうだったの」
「あたし、手が小さいの」
ハコちゃんが差し出す右の手のひらをコズエさんが自分の手に重ねると、自分の指の第1関節に届かない。
ため息をつくコズエさん。
「今は、ね。
でも、ハコちゃんは、お母さんが同い年だった頃よりも、少し背が高いわよ。きっと手も大きく、指も長くなる。大丈夫。
加山先生はお母さんより少し背が低いから、大人になれば、あなたの方がきっと指が長くなる」
「ほんと? 指の間、切らなくてもいい? やったー!」
笑顔でガッツポーズ。
その拳がそのまま水槽のガラスを叩いたから、さあ大変。
中は雷鳴の嵐になった。
目を回す長老、走り回るヨッシー、耳を塞ぐマメコたち。(おわり)




