第1話 水槽からの脱走
「波の音が聞こえる」
長老は、熱にうなされながら、そう言った。
看病していたカニのタロウが耳を近づける。
「長老、大丈夫?」
青木家の玄関に置かれた60センチの水槽の中、石の壁に体を寄せて、カニの長老は横になっていた。
具合が悪い。しばらく前から長老の熱は下がらないままだ。
タロウは、周りを見回してみる。
夕暮れの薄明かりにほんのりと照らされた水槽の中はいつもと変わらず、聞こえる音といえば、軽快に水を汲み上げるポンプのモーター音だけだった。
長老の世話をタロウひとりに任せ、ほかの住人たちはすでに寝ているのだ。
確かに、長老が言うようにここは海から近い。福浦の浜までは直線で50メートル。風向きによっては、波の音も聞こえてくることがある。
でも、今は、タロウが耳を澄ませても波音は聞こえなかった。
「長老、大丈夫?」
再び問いかけたけれど、返事はなかった。
タロウが長老と出会ったのは、この水槽の中だった。
タロウは小さい時にこの水槽に連れて来られたから、その頃のことは良く覚えていない。
ある夏の日、いつものように磯で遊んでいたら、青木家の末娘のハコちゃんがやってきてタロウを捕まえたのだ。
青いプラスチックのバケツの水に揺られ、着いた先がこの水槽だった。
水槽の中には、イソスジエビやダボハゼたち、磯で一緒に遊んだことのある仲間がいた。
カニの長老は、水槽の中で一番の古株だったから、誰からも長老と呼ばれている。
長老は人間のことを鬼だ、野蛮でひどい奴らだと言っていた。
人間は、面白半分に仲間の手足をもぎ取って笑っている。磯には、大ケガをしたままの仲間がたくさんいた。
それに、人間は仲間を食べる。しかも、美味そうに食べる。
この水槽の中で自分たちを飼っているのも、そのうち食べるためだと長老は言っていた。
いつかゴンズイが弱ったときは、この家の人間の大人が、嫌がるゴンズイを網ですくって連れ去ったきり、そのまま戻ってこなかったのだ。
水槽の隅っこに、皆でゴンズイのお墓を作った。
タロウは長老に育てられた。
まだ小さかったタロウが、仲間のカニに脅されて餌をとれなかったときは、長老が代わりに餌をとってタロウにくれた。
長老の両腕のハサミはとても大きくて、仲間のカニも一目置いていたのだ。
その長老も年をとった。
タロウは、その分大きくなった。小さかったハサミも、今は立派な大人のハサミに近づいていた。
タロウは、長老の額に手をあててみた。まだ熱がある。
「大丈夫じゃ。そのうち、熱は下がる」
うっすらと目を開け、長老は静かに言った。
「どうして?」
「今日は大潮で、もうすぐ、満潮じゃ。満潮になって、そして引き潮が始まれば、わしの熱も少し下がる。もう、しばらくじゃ」
タロウは、指折り数えてみた。確かに今日は大潮だ。
満潮の間、長老は苦しそうにうめいていた。
狭い水槽の中で長い年月を過ごし、磯の景色も忘れてしまった長老だったけれど、満月の大潮のときは、決まって熱が出た。
潮の満ち引きがない水槽の中にいても、長老の体にははっきりと潮時がわかるようだった。
壁に掛かった時計を見ると、夜も10時を回り、ようやく潮が引き始めたらしい。長老のうめき声も静かになり、熱はまだあったけれど、落ちついて横になっていられるようだった。
長老の言葉どおりなら、引き潮につれて熱は下がる。そうなれば、大丈夫だ。
タロウは、かねてから考えていたことを、今夜決行しようと決めていた。
脱走だ。
水槽は玄関の下駄箱の棚の上に置かれていて、天井の半分は循環器になっている。そして、もう半分には、ガラス板が隙間ができないように嵌め込まれていた。
ただ、水槽の水を汲み上げるための循環ポンプの管を通すため、ガラス板の端に少しだけ隙間があった。タロウの今の体なら、その隙間を通ることができる。しばらくして、次の脱皮を過ぎると、きっと通らなくなる。
ハサミも大きくなり、今ならこの水槽を出た後に人間の大人に見つかったとしても、闘ってやっつける自信があった。
水槽を出たら、懐かしい故郷の磯に帰る。お父さん、お母さんや弟、妹たちが、まだ元気でいるはずだった。
熱のある長老が少し気がかりだったけれど、長老の言葉を信じた。
水槽の中には大きな石の上に中ぐらいの石が重ねてあり、水の上でカニが甲羅干しできるようになっていた。
タロウは、その石の頂上から飛び込むと、両腕のハサミを魚のヒレのように動かして水の中を器用に泳いだ。
目指すは、水を汲み上げているポンプの管だ。そこに掴まることができれば、そのまま這いあがり、隙間から外へ出ることができる。
タロウは力の限り泳いだ。休めば、水槽の底に落ちる。
ひらひらと落ちそうになる体をハサミの力で引き上げながら、ようやく管の下の吸い込み口にたどり着く頃には、すっかり力つきていた。
しばらく管につかまって休んだ後、呼吸を整えると一気にガラスの隙間まで駆け上がった。
肩がガラスの角にぶつかって少し痛かったけれど、見事に外へ出ることができた。
タロウは、ポンプのモーターの脇で、大きく息をついた。
「外だ」と、心の中で叫んだ。少し身震いがする。寒い。
長老に声を掛けたかったけれど、大きな声を出すと人間に気づかれるような気がして、黙ってガラスの壁に沿って水槽の下まで降りる。
下駄箱から降りながら考えた。
今は、ドアに鍵がかかっている。出るには、朝になって人間が出かけるときに、そっと一緒に出るしかない。それまでは、どこかで見つからないように隠れていないといけない。
さて、どこがいいかと迷っていると、ドアの外で人間の靴音がした。
鍵穴に鍵を入れて回そうとしている。
タロウは、急いで玄関と反対側にある茶の間へ走った。
そこには、炬燵があった。水槽の中から、炬燵に人が入っているのを見たことがある。
タロウは、迫る足音にせき立てられるように炬燵の中に隠れた。
真っ暗な闇の中、じっと息をひそめる。
どれくらい時間がたったのだろう。炬燵の中が暖かかったせいか、タロウはいつの間にか寝入ってしまっていた。
突然体が大きく揺れ、何かにどんと突き飛ばされた。
反射的にハサミを開き、攻撃してきたものを思い切り挟んだ。
「うわぁ」
この家の世帯主のタカシの声だ。
何がなんだか暗闇の中ではわからず、タロウもただ無我夢中で体を固くしていた。
タカシが炬燵の布団から足を引きだしてみると、靴下の爪先にタロウがぶら下がっている。
タロウは、タカシの目を睨みつけた。
「なんだ、こいつはぁ?」
タカシもびっくりしていたけれど、タロウもびっくりした。
タロウは、何も抵抗できないまま両肩を背中から掴まれると、小言を言われながらぶらぶら揺すられて、水槽の中へ放り入れられてしまった。
水槽の底へゆらゆらと降りていく間、タカシとまた目が合った。
タカシが、笑っている。
タロウは胸のドキドキが治まらないまま、長老の言葉を思い出していたけれど、この家の人間は長老が言うほどひどい奴じゃないかもしれないと思った。
このタロウの武勇伝は、しばらく水槽の中の語り草になった。
タロウを長老の後釜に推薦する者も出たが、タロウは堅く辞退した。
その後、タロウの体は大きくなり、ポンプの管の脇から出られなくなってしまったけれど、今度は、強くなったハサミの力でガラスの蓋を持ち上げて出てやろうと考えていた。(終わり)




