逸走未遂。終わった。
その日の夕方、私は机に向かっていた。
机の上には“様式”が積まれている。
紙は軽い。なのに、机がたわんで見える。たぶん私の心がたわんでいる。
様式は生きている。
放っておくと増える。
しかも増え方が雑草みたいに早い。
『飼養施設点検票』
→点検する項目が増える。
『防災・避難計画書』
→避難するルートが足りない。
『近隣説明資料(ひな形)』
→説明する相手が増える。
『苦情対応記録票』
→苦情が来る前に“来る前提”で欄が埋まっている。
『逸走時対応計画書』
→まだ走ってないのに、対応だけ先に走っている。
私は思った。
役所は未来に厳しい。
現場は現在に雑。
そして私は過去に弱い。
なぜなら過去の自分が「IT担当だから何でもできる」と言ってしまったせいで、全部が私に戻ってくる。
そこへ社長が来た。
来るとき、だいたい音がしない。
社長は現実を愛しているのに、足音だけは現実味がない。
「どうや、様式」
様式を、友達みたいに呼ぶな。
私は言った。
「様式が多すぎて、翼竜より凶暴です」
社長は笑った。
笑ってから、いつものやつを言う。
「大丈夫や。空を押さえた」
空を押さえた万能感。
そのうち社長は、空を押さえたら確定申告も終わると思い始める。
社長は机の上の紙束をひょいと持ち上げた。
持ち上げられるんだ。
私は毎回、紙束を“責任”として持ち上げていたから、重かっただけらしい。
「ほらな、軽いやろ」
私は思った。
責任は、持つ人によって重量が変わる。
社長が続けた。
「で、近隣説明会や」
私はペンを止めた。
“説明会”という単語は、耳に入った瞬間に胃酸を出させる機能がある。
「行政が言うたんですか」
「言うてへん」
言うてへんのか。
じゃあやめろ。
やめろという言葉は、社長に届かない。社長の耳は上場しか受信しない。
「でも、テレビ出たやろ。近所、気になるやろ」
気になる。
気になるのは近所だけじゃない。
消防も気になる。役所も気になる。私の母も気になる。
そして一番気になるのは、翼竜が“気になったとき”にどう動くかだ。
社長はホワイトボードを出した。
持ち歩くな。ホワイトボードは武器だ。
社長はサラサラと書いた。
『空を押さえた説明会(※弊社)』
私は目を閉じた。
閉じても文字が見える。
悪夢は視力に依存しない。
「タイトル、強いやろ」
社長が言った。
強い。
強いが、その強さは敵にも効く。行政にも、住民にも。
そのとき、倉庫の方からドン、と鈍い音がした。
音の種類が悪い。
“事故が起きる前の音”だ。
鬼塚さんが飛び込んできた。
「赤テープ、また負けました!」
報告がゲームの実況みたいになっている。
現場は強い。だが、敵が空から来ると話が違う。
「二重が切られました。三重も危ないです」
危ないのはテープじゃない。
“危ない”が様式に変わる速度だ。
行政の人が、なぜかまだそこにいた。
帰っていない。
行政は“状況確認”に来ると、状況が落ち着くまで帰れない習性がある。
いや、帰れるが帰りにくい。
帰りにくいものは、だいたい現場に残る。残った分だけ、欄が増える。
行政の人は静かに言った。
「……逸走の可能性がありますね」
逸走。
その単語が空気に落ちた瞬間、紙束が増えた気がした。
社長が言った。
「逸走やない。飛翔や」
語彙で誤魔化すな。
行政の人は言った。
「様式上は逸走です」
様式上。
現実より強い概念が来た。様式上。
鬼塚さんが言った。
「とりあえず、シャッター閉めます?」
いい提案だ。
現場はたまに正解を出す。
ただし遅い。
私は言った。
「閉めましょう。今すぐ」
社長が言った。
「いや、説明会の“絵”が」
絵。
絵を優先するな。命を優先しろ。私の睡眠も優先しろ。
行政の人が、さらに静かに言った。
「……本日付で、“安全確保”をお願いします」
本日付、二回目。
本日付は重ね掛けすると、効力が増す。呪いみたいに。
私は立ち上がった。
机の上の紙束が崩れ、ひな形が床に散った。
紙が舞う。
粉よりきれいに舞うのが腹立つ。紙は粉より上品に現場を壊す。
倉庫へ走った。
走るとき、私はいつも“IT担当”ではなく“何でも屋”になる。
何でも屋は、走る。
走っても、根本解決はしない。だが、走らないと悪化する。
倉庫の前で、翼竜(仮)がこちらを見ていた。
目が合った気がした。
違う。目が合うというのは対等なときに使う言葉だ。
私は獲物側だ。
キィ……キィ……
鳴き声が、今日はやけに機嫌がいい。
翼竜(仮)は赤テープの結界を、まるで遊ぶみたいにくちばしでつついていた。
プツン。
三重目が切れた。
鬼塚さんが叫んだ。
「出るぞ!」
行政の人が叫んだ。
「逸走です!」
社長が叫んだ。
「飛翔や!!」
私は叫んだ。
「どっちでもいいから止めて!!」
次の瞬間、翼竜(仮)が翼を広げた。
倉庫の“広くなった空”が、さらに広くなる。
梁がきしむ。
蛍光灯の残骸が落ちる。
粉が舞う。
そして、風圧で貼ってあった『立入制限』の紙が、ふわりと舞い上がった。
立入制限。
紙が舞う。
制限が解除される。
縁起でもない。
その紙が、翼竜(仮)の顔に貼り付いた。
――ぺた。
翼竜(仮)は一瞬固まった。
“立入制限”の文字が、顔に貼り付いたまま。
まるで、危険区域の妖怪みたいだった。
私はその瞬間、世界で初めて行政に感謝した。
様式は呪いの札だ。
そして呪いは、たまに効く。
翼竜(仮)は顔をぶんぶん振った。
紙が取れない。
翼竜(仮)はイラついた。
イラついて、くちばしで紙を破った。
破った紙が、粉と一緒に舞う。
舞いながら、文字がちぎれて見えた。
『立入』
『制限』
『本日付』
“本日付”だけ、最後まで残っていた。
本日付は強い。
行政の呪いはしぶとい。
翼竜(仮)は、イラつきついでに大きく羽ばたいた。
風が来た。
人の髪も、書類も、社長のネクタイも、全部なびいた。
社長のネクタイがなびくのは、だいたい悪い兆候だ。
その羽ばたきで、倉庫の隙間から外の空気が入り、外の空気が“中”を知った。
外はすぐ知る。
知った外はすぐ来る。
来た外はすぐ言う。
「何してんのあそこ」
どこからか、近所の声がした。
私は背筋が凍った。
説明会をやる前に、説明が始まってしまった。
行政の人が言った。
「……近隣説明、必要ですね」
社長が言った。
「ほらな!」
私は思った。
違う。ほらな、じゃない。
“必要”が決定するプロセスが、最悪だっただけだ。
そして私は、紙束の山に戻る未来を見た。
『近隣説明実施報告書(本日付)』
『逸走未遂報告書(本日付)』
『赤テープ破断記録票(本日付)』
本日付で、世界が増える。
キィ……キィ……
翼竜(仮)は、顔に貼り付いた紙の切れ端をまだ引きずりながら、倉庫の奥へ戻っていった。
戻った、というより、戻らざるを得なかった。
たぶん、呪いが効いた。
“本日付”が効いた。
私は息を吐いた。
社長が言った。
「ええ絵やったな」
私は言った。
「絵じゃなくて、事故です」
行政の人が言った。
「様式上は、逸走未遂です」
様式上。
世界は様式上でできている。
私は、様式上で殺される。
その日の夜、私はパソコンの前に座った。
新しいフォルダを作った。
フォルダ名はこうだ。
『翼竜_行政対応_本日付』
本日付で、私の人生がフォルダ分けされた。




