空を押さえろ
弊社は中小企業である。
中小企業である、という事実は、梅雨時の段ボール箱のごとく、触れた瞬間にぐにゃりと自尊心を歪める。だが同時に、優れた柔軟性も示す。要するに、弊社はぐにゃぐにゃしている。弊社は『だいたい何でもやる』ことで生き延びてきた会社で、社内のIT担当といえば私だ。なお、私はIT担当であると同時に、総務であり、営業であり、紙詰まりの直し係でもある。
具体的に言うと、朝イチで工場から「パソコンがログインできん」と呼ばれて、行くとCapsLockが押されている。昼には総務から「Web会議の音が出ない」と呼ばれて、行くとミュートになっている。夕方には営業から「客先に今すぐ出す見積のPDFが開かない」と泣きつかれて、なぜか私が電話しながら印刷機の紙詰まりを直している。そういう会社だ。
そんな弊社が東証一部(※呼称がどうであれ、我々の心象風景では“東証一部”が最も眩しい)に上場することになるなど、誰が信じようか。いや、信じない。
だが、世の中には信じた者だけが拾える宝がある。宝とはつまり、プテラノドンである。
ことの発端は、会議室のホワイトボードに書かれた社長の一行であった。
「空を押さえろ」
私は何か比喩だろうと解釈した。物流を押さえるとか、クラウドを押さえるとか。
しかし社長は比喩を憎んでいる。彼は現実しか愛さない。現実を愛しすぎて、時々現実が破れる。
「空を押さえる。つまり翼や。翼を握った会社が勝つ」
そう言って社長は、机の引き出しから古びた図鑑を取り出した。恐竜図鑑である。表紙には、翼竜が夕焼けの空を飛んでいる。
「プテラノドンや」
社長の目が光っている。蛍光灯の反射ではない。
私はこの時点で、嫌な予感がした。弊社はこれまでにも、フリーズドライ納豆を宇宙食に売り込んで“新市場”を作ろうとしたり、給湯室のコーヒーかすを「循環型オフィス肥料」として事業化しようとしたりしている。ノウハウなんてないのに、企画書の表紙だけは妙に強い。
「社長、プテラノドンは絶滅してますよ」
私は勇気を出して言った。
社長は鼻で笑った。
「絶滅はな、供給が止まってるだけや」
供給が止まっているだけ。これほど無邪気で、これほど恐ろしい発言があるだろうか。
人類史はだいたい、このタイプの無邪気さによって進んできたし、滅びかけてもきた。
翌週、弊社は「プテラノドン養殖プロジェクト」を立ち上げた。
プロジェクトと言えば聞こえがいいが、実態は社長が勝手に始めた“部活動”である。部員は私と、経理の山本さんと、工場の班長である鬼塚さんの三名。鬼塚さんは人間だが名前が鬼塚なので、すでに物語の質感がおかしい。
「養殖って、何をどうやって…」
「まず卵や」
社長はきっぱり言った。
卵。そりゃそうだ。翼竜が卵生かどうか、私は知らない。でも卵は希望を感じさせる。卵には未来が入っている。冷蔵庫に入れたら、賞味期限も入っている。
しかし卵はどこにあるのか。
社長は、さらにきっぱり言った。
「買う」
買えるのか。
この時点で私は、現実が破れ始める音を聞いた。ピリピリと、ラップが裂けるような音である。
ところが世の中には、買えるものがある。
それはインターネットという巨大な闇市のおかげである。私は検索した。「pteranodon egg for sale」。
すると出てくる出てくる、出てくる。出てくるが、どれも怪しい。怪しいが、社長は怪しさを「伸びしろ」と呼ぶ。
結局、弊社は「太古生物復元研究所(仮)」という名前のサイトから、卵らしきものを三つ買った。
届いた箱は、妙に軽い。中身は、乾燥させた石のようだった。
社長は言った。
「ほら卵や」
私が言った。
「石じゃないですか」
社長は言った。
「卵いうのはな、石みたいなもんや。硬い意思や」
会話が比喩になった。社長が比喩を使った。危険信号である。
卵(石)を孵すため、弊社は倉庫の片隅にインキュベーターを作った。
インキュベーターというと格好がつくが、実態は中古の業務用冷蔵庫に、温度調整器をつけただけである。冷蔵庫なのに温める。これが弊社のやり方だ。矛盾を抱きしめて前へ進む。
温度管理は私が担当した。IT担当だからである。
IT担当とは、要するに「よくわからんが機械を触れる人」であり、機械の責任を負う人である。冷蔵庫の責任も負う。
三日目、冷蔵庫が鳴いた。
ピッ、ピッ、ピッ。
異常温度アラームである。
私が駆けつけると、冷蔵庫の扉がわずかに膨らんでいた。
私は息を呑んだ。
山本さんは、さらに息を呑んだ。
鬼塚さんは、息を呑む代わりに扉を蹴った。
「開かんぞ!」
開かない。内側から押されているのか。
中で何かが動いている。
いや、動いているというより、羽ばたいている。
社長がやってきた。スーツのまま。ネクタイを締めたまま。
社長は扉に耳を当てて、にやりとした。
「鳴いてる」
確かに、かすかな鳴き声がする。
キィ……キィ……と、金属が擦れるような。
いや、金属が擦れるのは冷蔵庫の方かもしれない。
しかし社長は確信していた。確信とは、科学より速い。
鬼塚さんが再び蹴る。
山本さんが経理的に止める。
「壊したら減価償却が…」
その瞬間、扉が内側から突き破られた。
白い粉と、温かい蒸気が吹き出す。
そして、何かが飛び出した。
それは、翼だった。
翼は、段ボールと配線と、弊社の希望を薙ぎ倒しながら広がった。
倉庫の天井にぶつかり、蛍光灯を割り、粉を舞い上げた。
その姿は――プテラノドン、である。たぶん。少なくとも、鳥ではない。コウモリでもない。鶏肉の未来でもない。
社長は叫んだ。
「上場や!!」
私は叫んだ。
「まず安全管理してください!!」
だが社長の耳には、上場しか入らない。
プテラノドン(仮)は倉庫を旋回し、会社のロゴが入った垂れ幕をくちばしで引き裂いた。
会社のロゴは、弊社が数年前に作った「無限大に成長する矢印」だったが、現実に引き裂かれて二本のただの線になった。
翌日、噂は広がった。
「中小企業が翼竜を飼っている」
噂はだいたい誇張されるが、今回は誇張が追いつかない。
テレビ局が来た。YouTuberが来た。行政が来た。
そしてなぜか、ベンチャーキャピタルが来た。
ベンチャーキャピタルの男は、弊社の倉庫を見て言った。
「これ、ストーリー強いですね」
社長は誇らしげに頷いた。
「空を押さえた」
私はその瞬間、悟った。
市場とは合理性だけで動かない。市場とは物語で動く。
物語を信じる者が、資金を呼ぶ。資金が、さらに物語を肥大させる。
そして物語が、現実を引きずり回す。




