第9話:実験体へのオファー
「一ノ瀬さん」
私は決意を固め、彼に向き直った。
声をワントーン落とし、交渉モードに入る。
「は、はい」
私はテーブルの上に、常備しているプロテインのボトルと、サプリメントケースをドン、と置いた。
そして、スマホのカレンダーアプリを開いて見せる。
「私と契約しましょう」
「……えっ?」
「私は美容と健康の専門家。あなたは過労死寸前の社畜。利害は一致してるわ」
「えっと、どういう……?」
「私があなたの健康管理をする。食事、睡眠、そしてスキンケア。すべて私の指示に従ってもらうわ。あなたの身体という『システム』の管理者権限を、私に預けなさい」
一ノ瀬は目を丸くしている。
狂気じみた提案だと思っているだろう。当然だ。隣人からの突然の申し出。普通なら警察を呼ばれる案件だ。
だが、私は畳み掛ける。
「その代わり、あなたは一ヶ月後、見違えるような健康体と美貌を手に入れる。朝はスッキリ起きられるし、日中の集中力も上がる。デスマーチも余裕で乗り切れるようになるわ」
「……本当、ですか?」
「私の肌を見なさい。これがエビデンスよ」
私は自分の頬を指差した。
深夜二時半でも一点の曇りもない、発光するような陶器肌。
説得力としては十分すぎるはずだ。
「悪い話じゃないでしょう? あなたはただ、私が用意した『エサ』を食べ、私が指示した時間に寝ればいいだけ。考える必要はないわ」
「考える必要がない……」
その言葉が、疲弊しきった彼の心に深く刺さったのが分かった。
今の彼にとって、最大の苦痛は「決断」することだ。
何を食べるか、いつ寝るか、どうやって健康になるか。それを考える気力すらない。
そこに現れた、絶対的な自信を持つ管理者。
それは、地獄に垂らされた蜘蛛の糸。




