第88話:『1+1』の証明
入学から一ヶ月。
私のスマホに、学校から着信があった。
「九条さん(私は仕事では旧姓だが、学校では一ノ瀬だ)……いえ、一ノ瀬さんのお電話でしょうか? 担任の佐々木です」
嫌な予感がした。
エマが男の子を泣かせたか? それともドラムのスティックで机を叩いたか?
「実は、授業中にエマさんが……『授業の進行を妨げる発言』を繰り返しておりまして」
「妨げる発言、ですか?」
「はい。算数の授業で『1+1はなぜ2になるのですか?』と」
私は天を仰いだ。
やっぱり。
帰宅後、私はエマと向き合った。
彼女はふてくされた顔で、パープルのランドセルを放り投げていた。
「エマ。先生を困らせたんだって?」
「だって、せんせいがウソつくんだもん」
エマは抗議した。
「『リンゴが1つ、みかんが1つ、あわせて2つ』って言うの。でも、リンゴとみかんはチガウものでしょ? 単位が違うのに、なんで単純に足せるの? それは『果物が2つ』という抽象化を行わないと成立しないでしょ?」
……末恐ろしい一年生だ。
彼女の言っていることは、論理学的には正しい。しかし、それを小学校一年生の教室でやるのは、空気(同調圧力)を乱す行為だ。
帰宅した蓮に相談すると、彼はニヤリと笑った。
「なるほど。エマは『概念』の話をしているのに、先生は『計算』の話をしている。レイヤーが噛み合っていないんだ」
蓮はエマの隣に座り、こう説いた。
「エマ。君の疑問は正しい。1+1の証明は、偉い数学者でも何百ページもかけて行う難問だ」
「でしょ!」
「でもね、小学校は『学問』をする場所であると同時に、『共通言語』を学ぶ場所なんだ」
「プロトコル?」
「そう。みんなと通信するために、『とりあえず今はこういうルールにしましょう』というお約束だ。君が深いコードを書けるのは知っているけど、学校ではまずHTMLの基礎タグを覚えなきゃいけない。……わかるかな?」
エマは少し考えて、頷いた。
「わかった。じゃあ、こころの中では『証明終了(Q.E.D.)』ってとなえて、口では『2です!』っていうね」
「賢い選択だ。それが『社会性』というハッキング技術だよ」
……夫の教育方針が独特すぎて不安だが、とりあえず翌日から授業妨害は止まったらしい。
先生からは「エマさん、とても素直になりました」と連絡が来た。
素直になったんじゃない。大人の扱い方を覚えただけだ。




