第83話:英語という名の壁
エマが通うスクールは、原則として英語のみ(English Only)の環境だ。
三歳児の適応能力は凄まじい。
通い始めて三ヶ月もしないうちに、エマの口から自然な英語が飛び出すようになった。
ある休日の朝。
蓮がコーヒーを飲んでいると、エマが近寄ってきた。
「Daddy, can I have some water?」
蓮の手が止まった。
あまりにも流暢な発音。
「ウォーター」ではない。「ワーラァ」に近い、完璧なアメリカンアクセントだ。
「え? あ、ああ。ウォーターね。イエス、オフコース」
蓮が慌てて水を渡す。
しかし、エマは不満げだ。
「No, Daddy. Not just water. I want water with ice, please.」
「……あ、アイス? アイスクリーム?」
「No! Ice! Cold ice!」
蓮が助けを求める目で私を見た。
私は苦笑しながら通訳に入る。
「氷を入れてほしいって言ってるのよ。『With ice』が聞き取れなかったの?」
「……速すぎるんだよ! リエゾン(単語の連結)がかかりすぎてて、TOEIC八〇〇点の僕の耳でも拾えない!」
蓮はショックを受けていた。
自分の娘と会話が成立しない恐怖。
父親の威厳に関わる大問題だ。
その日の夜から、蓮の書斎からブツブツと怪しい声が聞こえるようになった。
「Water... Wa-ter... No, flap T sound... Wader...」
彼はオンライン英会話に入会し、夜な夜な発音矯正の特訓を始めたのだ。
画面の向こうのフィリピン人講師に「More emotion!(もっと感情を込めて!)」と指導されている夫の姿を見て、私は思った。
エマのおかげで、パパもまた成長させられている、と。
最強の遺伝子は、親のスペックさえも引き上げていくのだ。




