第75話:夫婦喧嘩と、家出
しかし、理屈で割り切れないのが感情だ。
ある雨の日の日曜日。
些細なことがきっかけで、我が家に激震が走った。
原因は、蓮の**「うっかり」**だ。
私が一週間かけて作り置きし、冷凍保存しておいた「無添加ハンバーグ(エマ用)」を、蓮が自分の夜食として食べてしまったのだ。
「……食べた?」
「ご、ごめん! 冷凍庫開けたら美味しそうだったから、つい……」
「『つい』ですって!?」
私の怒りの導火線に火がついた。
ハンバーグだけの話じゃない。日々の積み重ねだ。
脱ぎっぱなしの靴下。洗われていない弁当箱。エマの爪切りを私任せにすること。
「あのね、あのハンバーグを作るのにどれだけ手間がかかってると思ってるの!? 玉ねぎをみじん切りにして、豆腐でカサ増しして、エマが食べるように工夫して……それを、あなたは一口で!?」
「たかがハンバーグでそんなに怒らなくても……また作ればいいじゃないか」
「『たかが』!?」
ブチッ。
私の中で何かが切れた。
「……そう。『たかが』家事だと思ってるのね。なら、あなたが全部やればいいわ」
私は立ち上がり、寝室のクローゼットからボストンバッグを取り出した。
「美玲? 何してるの?」
「ストライキよ。今日は帰りません」
「えっ、ちょ、待って! エマはどうするんだ!」
「あなたがパパなんでしょ? 一人で完璧にこなしてみせなさいよ!」
私は財布とスマホだけを掴み、泣き叫ぶエマと、呆然とする蓮を残して玄関を飛び出した。
雨の中、タクシーを拾う。
行き先は、駅前のビジネスホテル。
チェックインを済ませ、狭いシングルの部屋に入る。
静かだ。
エマの泣き声も、Eテレの音も、洗濯機の音もしない。
私はコンビニで買ったビールと、ジャンクな唐揚げを広げた。
誰にも邪魔されず、好きなものを食べる。
最高の自由。独身時代に戻ったみたい。
「……ふん。ざまあみろ」
ビールを煽る。
美味しい。……はずなのに。
なぜか、味がしない。
唐揚げも、脂っこいだけで美味しくない。
スマホを見る。
蓮からのLINE通知が三〇件以上溜まっている。
『本当にごめん』
『エマが泣き止まない』
『お風呂どうすればいい?』
『ご飯食べない』
既読スルーを決め込むつもりだった。
でも、送られてきた一枚の写真――涙でぐしゃぐしゃになりながら、玄関でママを待っているエマの写真を見た瞬間。
「……バカ。卑怯よ、それは」
涙が溢れてきた。
自由なんていらない。
あの騒がしくて、手がかかって、愛おしい日常が恋しい。
私はビールを流しに捨て、バッグを掴んだ。
やっぱり、私の帰る場所はあそこしかない。
一時間後。
ずぶ濡れで帰宅した私を、蓮は玄関で抱きしめた。
エマも足にしがみついてくる。
「ごめん、美玲。僕が悪かった。君がいなきゃ、この家は回らない」
「……私も、言いすぎたわ」
私たちは三人で抱き合って泣いた。
ハンバーグ一つで家出するなんて、私たちもまだまだ未熟だ。
でも、壊れては直し、また強くなる。家族って、そうやって作っていくものなのかもしれない。
(続く)




