第64話:深夜の「ミルク」会議
シャワーを浴びて少し頭が冷えた私は、リビングに戻った。
キッチンでは、蓮がノートPCを開き、何かを真剣に入力していた。ベビーベッドではエマがすやすやと眠っている。
「……蓮、さっきはごめんなさい。私、ひどいことを言った」
私が消え入りそうな声で謝ると、蓮は顔を上げ、優しく微笑んだ。
「いいんだ。美玲が限界なのはわかっていたから。……それより、座ってくれる? 緊急会議だ」
彼は画面を私に向けた。
タイトルは**『プロジェクト・エマにおける栄養供給ラインの再構築案』**。
「現状、完全母乳(完母)へのこだわりが、母体である美玲のメンタルとフィジカルを著しく損耗させている。これはプロジェクト全体のリスクだ」
彼は淡々と、しかし力強く説明を始めた。
「美玲は『母乳こそが最高の免疫』と考えているね。確かに科学的には正しい。でも、母親のストレスホルモン(コルチゾール)が母乳を通じて赤ちゃんに移行するリスクや、睡眠不足による育児ミスのリスクを天秤にかけたらどうだろう?」
「……それは……」
「提案がある。『混合栄養(ミルク併用)』への移行だ」
私は反射的に反論しようとした。
「でも、ミルクなんて人工物……」
「美玲、今の粉ミルクを甘く見ちゃいけない。各メーカーが何十年も母乳を研究し尽くして作った、科学の結晶だ。DHAもラクトフェリンも入っている。何より、ミルクなら僕でも授乳できる」
蓮は私の手を握り、真剣な眼差しで言った。
「君の乳首が切れて血が出るほど痛い思いをして、泣きながら授乳するのと、僕がミルクをあげて、君が笑顔でエマを抱っこするの。……エマにとって幸せなのはどっちだと思う?」
その言葉は、頑なだった私の心に深く刺さった。
私は「完璧な母親」になろうとして、一番大切な「笑顔」を失っていたのだ。
「……ミルク、試してみてもいいかな」
「もちろん。最高級のオーガニック・粉ミルクを取り寄せてあるよ」
蓮の準備の良さに、私は久しぶりに心の底から力が抜けた。
ああ、この人は本当に、私の最強のパートナーだ。




