第63話:産後クライシスの予兆
生後三週間。
我が家に「産後クライシス」の魔物が忍び寄っていた。
原因は、私の「乳首」だ。
頻回授乳により、両方の乳頭は切れて血が滲み、カサブタができている。
エマが吸いつくたびに、カッターで切られるような激痛が走る。
それでも、吸わせないと乳腺炎になって高熱が出る。逃げ場のない拷問だ。
夜二二時。
蓮が仕事のメールチェックをしている背中を見て、私の中でどす黒い感情が湧き上がった。
(……いいわよね、男は)
理不尽だとわかっている。彼は育休を取って家事を頑張ってくれている。
でも、彼の乳首は無傷だ。
彼の下半身は会陰切開の傷で痛んだりしない。
彼は「痛くない」のだ。
「……っ、痛い……!」
授乳中、思わず声が漏れる。
蓮が振り返った。
「美玲、大丈夫? また切れちゃった?」
「……見ればわかるでしょ」
声が冷たくなる。自分でも止められない。
「薬塗った? ラップパックしようか?」
「そんなことしたって、一時間後にはまた吸われるのよ! 根本的な解決にならないの!」
私はクッションを投げつけたくなった。
蓮は困ったような顔で近づいてくる。
「ごめん。代わってあげたいけど、こればかりは……」
「そうね。あなたは痛くないもんね。睡眠不足でも、身体のどこも痛くないもんね」
「美玲、それは……」
「私ばっかりボロボロになって! 私の身体を返してよ! 昔の綺麗な私を返してよ!」
叫んだ瞬間、エマが驚いて泣き出した。
やってしまった。
八つ当たりだ。最低だ。
部屋に響く赤ちゃんの泣き声と、私の荒い呼吸音。
蓮は静かにエマを抱き上げ、私に背を向けてあやし始めた。
「……ごめん。少し、頭冷やしてくる。エマは僕が見てるから、美玲はシャワー浴びておいで」
彼は一度も振り返らず、リビングを出て行った。
残された私は、自己嫌悪で押しつぶされそうになりながら、自分の膝を抱えた。
ホルモンバランスの乱れ? ガルガル期?
そんな言葉で片付けないで。
私は今、人生で一番、孤独で、惨めで、そして夫を傷つけてしまいたくなる自分自身が怖い。
バスルームの鏡に映る、疲れ切って老婆のような顔をした自分を見て、私は声を殺して泣いた。
このままじゃ、夫婦が終わってしまう。
最強の遺伝子を育てる前に、私たちの関係が壊れてしまう。
(続く)




