第61話:夜泣きの方程式
退院から三日目。
深夜二時。
我が家のリビングは、この世の終わりのような空気に包まれていた。
「……オギャァァァァァ!!」
最強の遺伝子ことエマ(生後六日)の泣き声が、鼓膜を突き破る勢いで響き渡っている。
私はソファーに座り、半目で虚空を見つめていた。
髪はボサボサ、パジャマは母乳と吐き戻しでカピカピ。かつての「美容番長」の面影は、もはやない。
「……計算が、合わない」
私はうわ言のように呟いた。
「授乳は一五分前に完了した。オムツの吸水ポリマーは未使用。室温二三度、湿度五〇%。衣類のタグによる不快指数もゼロ……。なのに、なぜ泣くの?」
私の脳内CPUはオーバーヒート寸前だった。
育児書には「三時間おきの授乳」と書いてあった。
だが、現実は違った。
授乳に三〇分。ゲップ出しに一〇分。オムツ替えに五分。寝かしつけに三〇分。
やっと寝たと思って布団に置くと、背中にスイッチがあるかのように「ギャァァ!」と再起動する(通称:背中スイッチ)。
これを繰り返していると、次の授乳時間まで残り一〇分しかない。
つまり、「睡眠時間」という変数が、私の方程式から消失しているのだ。
「美玲、代わるよ。少し寝て」
隣で仮眠を取っていた蓮が起きてきた。彼もまた、目の下にクマを作っている。
彼はエマを抱き上げ、慣れない手つきで縦抱きにしてスクワットを始めた。
「よしよし、エマちゃん。パパだよ〜。ここは安全だよ〜」
一定のリズムでの上下運動。
三〇分後。ようやく泣き声が止まり、エマがウトウトし始めた。
「……よし、寝た。今のうちに美玲も……」
蓮が勝利の表情で、エマをベビーベッドに降ろそうとした、その瞬間。
ブリブリブリッ!!
盛大な排泄音が響き渡った。
そして、驚いたエマが再び「オギャァァァ!」と絶叫する。
「……嘘だろ」
蓮が絶望の表情で天井を仰いだ。
私は乾いた笑い声を漏らした。
PDCAサイクル? 効率化?
そんなビジネス用語は、この「ウンチ製造機」の前では無力だ。私たちはただ、本能の奴隷として奉仕するしかないのだ。




